実験第1日目
2016/11/30(Wed)
 11月29日(月)晴れ
 朝10時前、和子さんとけい子さんがきて、けい子さんの車で、目的地へ・・・。
 私たち3人は、和子さんの提案で、けい子さんの資金提供で空き家になって久しいけい子さんの実家を蘇らせる活動を続けてきました。敷地にある、工場だった建物のなかの機械類は処分することができていませんが、活動日には必ずそこも鍵を開けて、風をとおし、片付けの用に使います。二つのプレハブの物置も風を通します。
 この活動が、3年目を迎えようとしている矢先、けい子さんの妹が仙台の生活を閉じて、嫁ぎ先の実家に夫婦で帰ってこられました。蘇った御自分の実家を見て感激し感謝して下さいましたが、私たちも、3人で楽しませていただいたことを感謝しました。
 私たちは、活動のあと私の家で夫の料理を食べるのがいつのまにか恒例になっていましたが、その晩餐に妹さんも加わって下さり、妹さんの主人が、難聴のため会社を辞め、現在、東京大学の講座を受けるため東京に行っておられることを話して下さいました。
 私も32歳のとき広島大学で講習を受けたことがありました。最初は東京だけで行われていたこの講習が、各地方の国立大学1校ずつで行われることになり、中国地方では広島大学が100人限定で実施していたころでした。今では私立でも在学中に受けられるようになっているようです。そんなことを思い出していました。
 そして私が九州に行く直前、御主人も東京から帰ってこられ、3人でその講座について伺いました。もうひとり、福岡からも聞きにきておられました。(話を聞きたい人があれば、東京大学からも出前講義にきて下さるということでした。)
 5人で話し合った結果、2つのことを計画しました。ひとつはご主人がすでに綿密に実行し始められていて、そのことの説明も詳しく聞きました。そうしてもうひとつのことは私が提案しました。
 九州旅行と、帰ってからの忙しい日々に、すっかりそんなことは忘れておりましたが、それを実行に移す計画第一日目がきて、このたび目的地の妹さんの家に行きました。
 ご主人は東京に行っておられたのですが、私たちのために、大きな機械でやる仕事は済ませてくださっていました。あとの仕事の手順を話し合い、いろいろな仕事を昼食を挟んで4人で協力してやりました。和子さんの仕事の要領のよさにはいつも感心させられます。また、妹さんは、この4人のメンバーの中にいることがとても幸せそうで安心しました。一人ではとても疲れてやる気にはなれないことでも、みんなでやれば楽しくできることの輪にいることの幸せをかみしめる一日でした。
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九州旅行・開聞岳登頂
2016/11/29(Tue)
  11月13日朝7時40分早朝から、開聞岳に登りました。
 このたびの九州旅行では、登山用具を調えて出かけておりましたので、準備万端整え登りはじめました。
 登山口では80歳の男性に出会い挨拶をして同時に登りはじめました。夫は昨年の5月にマダニに噛まれて、2度も入院をしたりして健康にすっかり自信をなくしてしまっていましたが、この登山計画を夫から言いだしました。私は夫が挑戦する気になれたことがうれしく、撤退する勇気を持ちながらも、どんなに時間をけても登頂できたらと願っていました。時間がかかることを想定して、飲み物も充分準備しました。
 4合目くらいで、広島で寒かったときに準備した服装では厚すぎて、汗をふんだんに吸って重くなっていまった服を脱ぎました。そんなことをしている間にも数人の人が追い越してゆきます。5合目くらいまで登ったとき、御来光を仰いだという長野県から来た若い男性が下山されてきました。しばらくして、登山口で出会った80歳の男性も下山してこられ、追い越していく人下山してくる人に出会いながらの登山になりました。
 旅行に行くことを告げていなかった、いつも登山で世話になっている水野さんに「今、夫と開聞岳悪戦苦闘の登山中です。」とメールを送りました。「開聞岳は数年前に家内と登りました。麓から頂上までずっと登りでしんどかったです。快晴(今日も快晴?)で、すばらしい展望でした。頑張れ」と返してくださいます。途中の励ましのメールは夫に読んで聞かせ、ゆっくりゆっくり一歩一歩登ってゆきます。途中開門小学校の5年生くらいの子どもたちがクラス全員で保護者同伴登山ということで、二班に分かれて時間をずらして登ってきます。みんな元気がよくて楽しそうです。夫は子どもが大好きで声を掛け合って、先に上らせます。登山用でないリュックを背負っている女の子が、垂れ下がったリュックの重心の移動にふり回されて下に落ちたとき4・5人の前にいた先生がさっと飛び降りて子どもを拾い上げられました。保護者同伴とはいえ、この岩場の登山では先生が大変だろうと思われます。
 そんな子どもたちも頂上でお弁当をすませ、降りてきます。私たちは12時20分に到着しました。水野さんは、「僕らが頂上に上がった途端に桜島が祝砲(噴火)をあげてくれました。」とメールで知らせて下さいました。私たちには祝砲はありませんでしたが、海の遠くに浮かぶ島々を望み、夫は登頂できた喜びに、頼まれては人の写真を撮ってあげています。頂上は狭い岩場なのに大勢の人でにぎわっていました。
 九州に出発する2日くらい前に、西城の猫山に登ったときには紅葉がすばらしかったのですが、開聞岳は常緑樹がほとんどすべての山でした。
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九州旅行・椎葉村を訪ねて
2016/11/27(Sun)
 11月11日早朝から、椎葉村を訪ねました。
 椎葉村の中心部、国道265号線わきに車を止め、坂を上がりながら、椎葉民俗芸能博物館、椎葉厳島神社、鶴富屋敷(那須家住宅)を散策して、両脇にお店の並ぶ鶴富どおりを歩いてゆきますと、この日はちょうど、恒例の平家祭りが行われる日ということで、大きなテントが二張り張られて椅子や、拡声器など視聴覚機材なども準備されています。
 椎葉村の中心部といっても、地形が耳川を挟む谷ですから、平地というものがほとんどなく、見下ろせば川、見上げれば、これらの建物が、山肌にしがみついているといった感じです。今日の行事に参加される人は、耳川の河川敷に駐車場が広く準備されているといった具合です。
 しばらくすると、役場に勤めている人や主催者の方々があちこちから少しずつ出てこられ、いろいろ話しかけてきて下さいます。今に続いている焼畑では、昔から栽培されていたソバの種がここにしかないもので、それを継承していく仲間を作る努力をしていることや、椎葉村の財政は国が全面的に担ってくれているとか、私たちも、だんだん椎葉村の内情が伝わり、椎葉の人々の仲間になってきました。そうこうするうち、椎葉民俗芸能博物館、鶴富屋敷に勤務する人も出そろって、開館になります。両方で1枚の入場券になっています。
 椎葉民俗芸能博物館では、館長さんが、柳田國男氏のおかげで、民俗学の発祥の地になったことをとても感謝してうれしそうに話され、また吉川英治の新平家物語の最終巻「吉野雛の巻」では、那須大八郎が平家追討の命で椎葉に来た様子を書いていることに寄せて、鶴富屋敷の庭に「ひえつき節」の碑があることも説明して下さいます。椎葉は広大な面積を要しています。それぞれの地域によってもいろいろな祭りがあり、その地域ごとの祭りの紹介もあります。御幣の切り方がそれぞれちがっていて、それにはとても興味を惹かれました。この奥深い地に壇ノ浦で敗れた平家の落人たちが雅やかだった暮らしや文化を携えながらも、落ち延びて、この厳しい自然のなかでひっそりと暮してきた数百年の記録を読んでいくと涙が出ます。ここでは、「椎葉の歌と民謡」のCDを買い求めました。帰って、やっと今日27日の夜にこのCDを聞いてみました。「ひえつき節」は歌い手を変えて4通りあります。「椎葉駄賃付けうた」・「奥山節」は歌詞が親しめます。 現代の曲で、作詞・作曲・唄とも西村賢三の「焼畑の唄」はとても椎葉の叙情を歌っているように思えます。
 鶴富屋敷(縦8、662m.・横24、952m)では、鶴富姫と、那須大八郎の悲恋物語が放送されています。
 那須大八郎は那須与一の弟です。私たちの住む広島市のすぐ奥にある安芸太田町戸河内に与一が最晩年を送った村があり、与一の里として受け継がれていることを話させていただき、さらに話がもり上がりました。
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『恩讐の彼方に』
2016/11/26(Sat)
菊池寛著 『恩讐の彼方に』 を読みました。
 旗本の使用人の市九郎は主人の愛妾のお弓と通じたために、主人に切りつけられ主人を殺してしまいます。お弓と江戸から逐電し、さらに悪事を重ねていましたが、お弓のあまりのあさましさに嫌気がさし身一つでお弓からも去りました。
 美濃の浄願寺に駆け込み、現往明遍大徳衲に自首すると打ち明けます。上人は「それもひとつの方法であるが、それでは未来永劫焦熱地獄の九艱を受けておらねばならぬ。それより、仏道に帰依し衆生済度のために身命を捨てて人を救うことに、汝自身を救うのが肝心じゃ」との強化を受け、修業の後諸国雲水の旅に出ます。
 享保9年の秋、彼は赤間ケ関から小倉に渡り、豊前の国宇佐八幡宮を拝し、耆闍屈山羅漢寺に詣でようと山国川の渓谷にそい辿っていきます。 そのとき、鎖渡しという難所で、人がまっさかさまに落ちて亡くなったところに出くわし、乞われて1遍の経を読み、聞けば毎年数人の死人が出るという話を聞きます。
 刹那に自分の精進勇猛の気を試す難業への大誓願が萌し、身命を捨ててこの難所を除こうと思い立ち、道屈を始めます。掘り始めて、19年目、9分まで竣工したときに、自分が殺害した主人の跡継ぎが、お家再興のために市九郎を探し当て、あだ討ちのために訪ねてきます。しかし、洞窟を掘るのを手伝っていた石工の棟梁が、竣工が果たせるまで待つように告げ、聞き入れざるをえませんでした。あだ討ちを早めるために出来るだけ早く竣工できるようにと彼も手伝い始めます。ところが、1年半たって、竣工なったときには敵同士感激に涙するという話です。
 今回の夫婦で九州へのたびでは私たちも、平成28年11月10日、赤間ケ関から小倉に渡り、豊前の国、宇佐八幡宮を拝し、山国川の渓谷にそって辿り、青の洞門を訪ねました。訪ねたときは、ちょうど雨でした。駐車場から、カッパを着て洞門を往復いたしました。あわただしく見物したのですが、あかりとりもあって洞門のなかからも山国川を望めます。もともと山国川に向かった切り立った山が壮絶で川の向こうののどかな村の様子とのちがいに驚くばかりです。川の向こうはちがう国で、交通には国の内を通らなければならなかったので難儀していたからこの隧道を掘ったと夫が説明してくれます。子どものころ、子供向けのもので青の洞門の本を読んだことがありましたが、自分勝手にふつうに岩山にトンネルを掘って近道を作ったように想像していてこととはちがっていました。帰ったら菊池寛の『恩讐の彼方に』を早速読んでみようと思っていました。
 読んでみると、文面から壮絶な景色が思い出され、江戸時代の話が、そのまま蘇ってくるようでした。

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吉野ヶ里遺跡が考えさせること
2016/11/22(Tue)
 吉野ヶ里遺跡では、いったいこの頃の人々は何を食べていたのだろうか?と疑問を持ちます。
 「南のムラ」と名づけられたところで、地元の御婦人らしき人々6人くらいで、当時の食文化を体感しようとされているのでしょうか、抜いたソバを集めて実をちぎっておられました。少し白い花もくっついています。北に行くと赤い花のソバもありますよ。と教えてくださいました。まわりには稗が刈って束ねて干してありました。
 木が大きく育ってこんもりとした林になっているところでは、ドングリがたくさん落ちています。夫が食べてみようというので、むいて食べてみましたがしぶくてすぐに吐き出しました。じつは、私は今年、生まれてはじめてどんぐりを食べました。裏山に登りはじめるとすぐ出会った国広さんが、炒ってみたんだけどといってくださいました。「止められない止まらない」と、いつもの最終地点に到着するまで食べていました。前日、みんなで拾って、調理を国広さんに任せられたようでした。みんな次々もらって美味しそうに食べられました。その日ひろったのは私が湯がいてみようと、伊藤ふくお著『どんぐりの図鑑』を見ます。まず、水につけて、浮いている虫食いか古いのは捨てるとあります。美しいどんぐりばかりでまさか捨てるのはないと思ったのですが、5分の1くらいを捨てました。この図鑑では最後に、アク抜きをしないでも食べられるどんぐりを紹介してあります。クリ・スダジイ・ツブラジイ・マテバシイ・イチイガシ・シリブカガシ・ブナ・イヌブナ・コナラ・ナラガシワ・・・。私たちが拾ったのはスダジイとツブラジイです。湯がいてみましたがそれではむいて食べようがないので後で炒って食べました。炒っただけが美味しいとの皆さんの感想でした。
 吉野ヶ里をさらに歩いていると、きれいな野生らしき鳥に出会いました。夫が鶉だと教えてくれました。鶉のたまごも食べていたでしょう。そういえば鳥居があって、これがほんとの鳥居ですと、木製の鳥が3羽止まっているのと、しばらく歩いて2羽止まっているのがありました。止まった鳥をカシワだといったかもしれません。カシワの葉に乗せられたお供え物、カシワデを打つ、とカシワという音について考えてしまいます。集落を取り巻く濠にも鴨がいました。そのなかに魚もいたでしょう。また蜂が巣を作るでしょう。椎葉村では蜂の幼虫を食べたと聞きました。
 食べ物についての説明が展示場のどこかにあったのかもしれませんが、それには出会えず、一人あれこれ考えています。
 今日は、昼から吉野ヶ里遺跡発掘いぜんに、この時代がどのように考えられていたかを、暁教育図書の『日本の歴史』第1巻古代の豪族を読み返しています。
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吉野ヶ里遺跡に行ってきました
2016/11/21(Mon)
 10日の朝、4時過ぎに家を出発して、夫婦2人で九州への旅に出かけました。そして、19日の夜帰ってきました。
旅行のブログへの記録は、たまってしまった家事の合間に、覚えている最後のほうから順に、印象に残ったものを記録できたらと思っています。
 18日、朝一番に行ったのが吉野ヶ里遺跡でした。吉野ヶ里遺跡はなんといっても、日本の歴史の最初をかたる文献「魏志倭人伝」の世界にせまることのできる遺跡ですから、夫がいちばん行きたがっていたところでした。
 資料館内に、邪馬台国はどこにあったと思いますか?自分の思うところにシールを 貼って下さいということで、日本地図がかかげてあります。
 若いころ古田武彦氏の説得力ある書物に親しんでいた私はためらうことなく北九州地方にシールを貼りました。
 吉野ヶ里の発見については、無頓着に過ごしてしまっていたので、資料館の説明書きを一生懸命読みました。映像も見せていただきました。 
 発掘が始まったのが平成元年ですから、発掘がすすみ状況がわかりはじめ、このような公開展示にいたる道のりを考えると、平成元年というより、吉野ヶ里元年と年号を変えたほうがいいのではないかと思えるほどでした。
 資料館を出ると広大な敷地に紀元前300年くらいから、起源200年くらいまでの、空間が広がってきます。
 「下戸」と呼ばれる一般の人々が住んでいた区域で、竪穴住居や高床倉庫など27棟の建物が復元されている所は「南のムラ」と名づけられています。「倉と市」と名づけられた区域は、吉野ヶ里の「クニ」の交易の中心地と考えられています。南内郭と名づけられたところでは、物見やぐら4棟や、王たちの家、煮炊き屋など、王たちの居住空間も含め20棟の建物が復元されています。吉野ヶ里集落の中で最も重要で、神聖な場所とされている北の内郭と名づけられたところでは、まつりごとが行われていたところと考えられ、巨大な祭殿をはじめ、9棟の建物が復元されています。ずっときれいに刈り込んだ野原が続きますが、ところどころ直径1メートル半くらいにこんもりと盛り上がっているところがあります。これは甕棺墓列といって全長300メートルにわたって約500基からなるスケールの墓列が中央の墓道とともに再現されています。そのむこうにりっぱな施設がありますが、北墳丘墓と名づけられた約2100年前の歴代の王やそれに近い身分の人が埋葬された特別な墓で、発掘された状況が見えるようにその上に立てられたものです。その1基には青銅の剣とガラスの管玉が、7基には青銅の剣が副葬されていました。
 甕棺への埋葬の様子を映像で見たのですが、なんとも心地よさそうで、以後、夜布団のなかに入るとき、甕棺に入る気分で安らかに眠ります。
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 『フリーメイソンの秘密』
2016/11/07(Mon)
 2010年3月 株式会社レッカ社発行 『フリーメイソンの秘密』を読みました。
 秘密、といえばよけいに知りたくなるのが人情です。長い間、フリーメイソンに関する本があれば・・・と思っていたのですが、先日古本屋で見つけ早速買ってきました。
 まずは、日本とフリーメイソンの関係についてつよく興味があります。日本人でフリーメイソンといえば、西周、鳩山一郎くらいしか知りませんでした。
 この本によると、日本人初のメイソンは、帰国後、現在の東京大学の源流とされる開成所の教授として明治政府の近代化に貢献した、西周と津田真道になっており、日本初のロッジ活動は、横浜の外国人居留地で行われています。
 薩長同盟や、江戸城無血開城は、フリーメイソンのグラバーやバークスの筋書き通りに進められたこと。また、グラバーは三菱財閥の相談役として、メイソンの人脈で巨万の富を手に入れ、三菱財閥では、その人脈はグラバー亡きあとも受け継がれていったこと。
 実はそんなことより前に、語学力と造船知識を武器に、幕府とアメリカとの仲介役として日米和親条約の平和的締結に大きな役割をはたしたジョン万次郎もフリーメイソンで、フリーメイソンのペリーの通訳としての働きも、フリーメイソンの力なくしては考えにくいと述べられています。
 意外だったことは、明治政府では、結社や集会の自由が認められていなかったために、自分たちの儀礼や集会の内容を外部に公表しない、という原則を持つフリーメイソンのような組織が自由に活動を行える状況にはなく、1897年頃メイソンの代表者と、「フリーメイソンは日本人と接触しない。日本人を加盟させない。日本人への宣伝活動も行わない」という密約協定を交わしていたということでした。
 そして、戦後では、ダグラス・マッカーサーの手引きによってメイソンに加入する政治家が多く鳩山一郎もその一人だったのです。もともと連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)員のほとんどが、メイソンだったと言われていることから、戦後日本の青写真はフリーメイソンが描いていたと述べられています。
 ちなみに、戦後の、日本人のフリーメイソンで有名な人としては、佐藤尚武(駐ソ大使)、三島通陽(ボーイスカウト日本連盟の総長)、高橋龍太郎(大阪麦酒社長)、東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎、吉田茂などがいるということです。
 フリーメイソンのシンボルでもある「万能の目」をあちこちで見ていると、ルドンの絵に描かれた目、靉光の絵に描かれた目、ラフカディオ・ハーンの怪談で映画化された「雪女」にでてくる目について想像をたくましくしてしまいました。
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第195回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/11/06(Sun)
 今回は、ハーンが、東京帝国大学において講義した、英国バラッドについて教えていただきました。
 《一般的には、バラッドはひとつの単純なお話ないしは出来事を語るものと説明できよう。・・・・・元来バラッドは踊りの伴奏歌謡であった。・・・・現代に至ってもなお、リフレインすなわち折り返し句である。・・・・簡明である。・・・・民衆の話し言葉で書かれた。・・・・》
 このような講義をしたハーンは、下層階級をも含めた一般庶民の生活に愛着を持ち、日本のいろいろな地方に古くから伝わる俗謡にもおおいに興味を示したということも学びました。
 彼の著作『心』の付録「俗唄三つ」の「俊徳丸」・「小栗判官」・「八百屋の娘『お七』」や、「日本の俗謡における仏教隠喩」や「日本の古い歌謡」や「日本のわらべ歌」があるということでした。
 とりあえず、前の回に聞かせていただき、我が家でも購入させていただいた英国バラッドのCDを聞かせていただき、さらに、バラッドも歌う、今年のノーベル文学賞の受賞が決定したボブ・ディランの「風に吹かれて」のCDも聞かせていただきました。
 風呂先生には、バラッドについて相談をされる桝井幹生先生がおられると話して下さいます。いま、桝井先生についてインターネットで検索させていただき、ラドヤード・キプリングの「ダニ―・ディ―バー」という詩を訳しておられるのを読んでたのしませていただきました。なんだか、これから毎朝処刑されたダニ―・ディ―バーのことを思い浮かべそうでもあります。
 それはさておき、親切で深く研究しておられる相談相手の桝井先生に恵まれて、私たちへの資料も講義もよりいっそう充実を増し、ほんとうに感謝です。
 つづいて、12月のハーンの会で講演をしていただく井野口慧子氏の作品の一部を朗読して下さいました。
 『深い永遠の中へ 詩が生まれる場所』の「川のほとりでわたしは生まれた 広島県三次市」です。
 《・・・
  祖母の口ぐせと 
  河原の石ころたちの感触が 
  じわじわと よみがえる 
  白くすべすべした石 飴色に透きとおった石
  平べったい石 まあるい石
  黒光りする石・・・・・
  懐かしい人たちの たましいの形
  ・・・・》
 詩の生まれるところ 川のほとり、流れる水に映る青い空や白く流れる雲、そんなことを思い浮かべていると、ふと、吉川英治の『三国志』の冒頭を思い浮かべます。劉備は、半日以上も黄河のほとりに座りこんで、洛陽船をまっています。黄河の水を黄色くしている沙の微粒もじぶんの先祖もこの黄河の流れに添いつつこの地を拓いてきたことを思い、天に漢民族の血と平和を守ることを誓うのです。川の流れに決意の情を強くする力があるのかとの思いで、今もう一度、双方の作品を読み返させていただきました。

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『“べっぴんさん”坂野惇子の生涯』
2016/11/03(Thu)
 2016年11月14日発行のサンエイムック時空旅人別冊 『“べっぴんさん”坂野惇子の生涯』を読みました。
 裏山で、毎朝のように出会う水野さんの奥さんが、先日貸して下さった本です。
 NHK朝の連続ドラマで、10月からはじまった、『べっぴんさん』のモデルになった人のお話です。その方が、坂野惇子(ばんのあつこ)さんという人で、そのひとについての特集です。
 坂野惇子は、大正7年、佐々木営業部の創業者、佐々木八十八の三女として神戸で生まれました。
 昭和15年、京都帝国大学を卒業した坂野道夫と結婚し、外国人の多い地域に新居を構えます。昭和17年、長女光子が誕生しますが、翌年道夫が招集され、21年4月に帰国し、兵庫県尼崎へ移ります。昭和22年、生活に困窮し、週1回自宅で手芸教室を開始します。
 そして、昭和23年、31歳のとき、坂野惇子・田村江つ子・田村光子・村井ミヨ子の4人によってベビーショップモトヤを開店します。
 それらのことが、
 ・ 坂野惇子と3人の女性創業者 赤ちゃんによいものを
 ・ 坂野惇子とファミリアの編年史
 ・ 「皇室を通して見るファミリア」皇室ジャーナリスト・渡邊みどり氏に聞く
 ・ 戦後女性の憧れ 美智子さまの子育てと坂野惇子との共通点
 で、述べられています。
 ベビーショップモトヤから、社名変更した、ファミリアが努力と、アイデアと、多くの人に支えられて、成長していくさまと、晩年までの坂野惇子の生涯が描かれているのですが、その支えた人々の紹介のプロフィールが丁寧に紹介されているので、そのコンテンツを記録しておきます。
 ・ 佐々木八十八 惇子の父で佐々木営業部創業者
 ・ 坂野道夫 惇子を支えグローバルブランドへ
 ・ 岡崎晴彦 ファミリアの成長期を支えた娘婿
 ・ 尾上清 レナウンを創業した惇子の良き相談相手
 ・ 清水雅 阪急百貨店初代社長“発展”を後押しした
 ・ 鳥居正一郎 直営店の出店に尽力した阪急百貨店3代目社長
 ・ 山中鏆 “百貨店経営の神様”と呼ばれた男
 ・ 小林一三 阪急グループの創設の祖
 ・ 四代目・飯田新七 高島屋創業家の四代目“東京進出”の礎
 ・ 田村駒治朗・田村駒の創業者にして光子の父
 ・ 榎並充造 創業を後方から支援した江つ子の父
 ・ 田村千代 洋裁の師匠“皇室のデザイナー”
 
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