『白洲正子自伝』
2016/12/31(Sat)
 白洲正子著 『白洲正子自伝』 を読みました。
 「ヨーロッパの旅」のなかの文章です。
 ≪吉田茂さんが大使になってロンドンへ来られたので、英国にいる間は大使館に泊めていただくようになった。
 ・・・・ロンドンの大使館でお世話になっている間に、吉田さんは白洲次郎という人間をよく見て理解されたに違いない。何事もなければそのままのいい友達であったであろうが、第二次世界大戦が終了した後、進駐軍との交渉の矢面に立つ重要人物として次郎を起用されたのは炯眼(ケイガン)であったと思う。
 ・・・・イギリス人は「トーク・ショップ」といって、パーティーなどで政治や経済の話をサロンに持ち込むことは悪趣味とされていた。そういう点では吉田さんも次郎も完全に英国的教養を身につけており、そこのところが現代とは違っていた。だから男性には「クラブ」というものが必要で、そこは女人禁制の「男の城」であったから、大っぴらに政治や商売の話でも女の噂でもすることができた。ただし、メムバーになるのは大変むつかしく、よほどのヒキがなければ大臣や大使だって無視されてしまう。もちろんピンからキリまであって、一流のクラブに入っていればそれだけで排他的なイギリス人も信用した。日本では外交官というと未だに華やかな職業のように聞こえるが、そういうところまで食いこまなければ本当の情報など得ることはできず、そんなものが存在することさえ若い外交官は知らないであろう。
 ・・・東大卒の秀才というだけでは、せまい日本の国内では通用しても外国では二束三文の値打もないのである。≫
 吉田茂は、明治41年、大正9年につづいて、このときの昭和11年は3度目のロンドン勤務でした。
 そのためか、このときにはすでに、フリーメイソンであったのではないかという文面ですが、うなずけます。
 またほかのところでは、、≪外国を多少でも知っているものには、戦争は負けるに決まっていたし、大本営発表で有頂天になっている人たちの夢をさましてやりたかった。…≫と述べています。
 白洲次郎についてのウィキペディアのなかで、彼が吉田を中心とする宮中反戦グループに加わっていたことが述べられていますが、早めに疎開をして、身を守り、敗戦による終結についても考えざるを得なかったことがうかがえます。
 いままで、何冊か白洲正子の本を読んできたように思うのですが、民芸について語られたものがほとんどでした。
 しかし、この本は大正・昭和史としても格別充実した資料が満載でした。

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お墓参り
2016/12/27(Tue)
 今日は、午前中は裏山に登り、帰って、友達のところへ届け物をして、早めの昼食を済ませ、廿日市へ夫の両親のお墓参りに行きました。
 結婚してこの方、夫の両親のお墓参りは、必ず二人そろって夫の運転で行っていました。
 今年は夫が行かないというので一人で行きました。
 可部から廿日市までは、結構長い距離の運転です。
 このところ、夫も廿日市市内に降りる道を間違えて行き過ぎてしまうこともありました。
 ちゃんと一人で運転できるかどうかなんとなく不安です。
 夫と行くときは、それなりに着替えをしていくのですが、エプロンも、腕抜きもしたままにジャンパーを着て、軍手をはめていつ車が落ちても引き上げる気分で出かけました。
 途中でお花を買って、まずは、いつもどおりの道を辿っていきます。
 廿日市の体育館があるのですが、それより早めに左の佐方に降りました。佐方に早めに降りたのは初めてで不安でしたが、元の道に平行して南下でき、宮内で右折して間違えずに最短距離でお墓に到着できました。
 誰もいない墓場でひとり、お墓を掃除して、ろうそく立てや線香立てなどを、取り付けられている流しに持っていってきれいに洗って、お墓も水をかけて洗い前面の草引きもしました。
 もともとそんなに汚れていなかったので、細かいところのお掃除が出来ました。夫がいるとそんなことはしなくていいとか何とか、夫の判断だけですべやって帰るのですが、今日は一人なので自分のペースで、心ゆくまでお掃除ができました。お花を手向けてお祈りをして、使わせていただいた道具や流しもきれいにできました。
 一人で行ってよかったことは、墓場の向かいの戦没者の慰霊碑のあるところに上がってみることができたことです。
 この慰霊碑はどっしりと大きく、灘尾弘吉の名が大きく刻んであります。
 よくみると、それより上の段にもお墓があり、さらにその上の段にもお墓があります。ずっと高いところまで上がってみました。
 上からは、お花を手向けた夫の両親の墓も見えました。植え込みの山茶花の花も美しく咲いて見えました。小雨が降り出したので、あわてて下りて、車を廻して帰りました。
 東へむかって走る途中、道のまっすぐ向こうに、虹が出ています。なんだか今日のお墓参りがとてもいいことだったように思えてきます。
 途中、夫の祖母と叔母さんのお墓にもおまいりさせていただいて帰りました。


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『宇佐八幡宮』
2016/12/24(Sat)
 三橋 健監修 週刊【日本の神社】№17『宇佐八幡宮』を読みました。
 この冊子は、2014年2月18日№1『出雲大社』~2016年6月7日№121『総索引号』までを夫が購入したものの1冊です。
 いままで読んだことがなかったのですが、邪馬台国はどこにあったのかと考えていると、夫が、いろんな説があるなかで、一説には卑弥呼の墓が宇佐八幡宮の境内のなかにあったともいわれているといいましたので、今日はそのことにふれてないかとの思いで読みました。
 読み終わってみると、邪馬台国は奈良にあり、その邪馬台国は北九州地方にも強力な勢力のあることもわかっていて、それから身を守るために宇佐八幡宮は奈良のヤマト政権にとっての出城の役割を果たしたと読み取れます。
それは、
 《ヤマトの九州支配と宇佐神宮の地理的意味
 ・・・・古代の人々にとって、ここは流通と戦略の拠点だった。まず、沿岸部は北部九州とヤマトをつなぐ海の道の「止まり木」の役割がある。これは、誰にでもわかる地勢上の優位性だ。
そしてもう一つ、大切なことがある。それは、ヤマト(東)が九州(西)を支配するために、宇佐神宮のある豊国(豊前、豊後)は、なくてはならない場所だったのだ。・・・・。
古代日本をめぐる知られざる実相
 纏向遺跡(奈良県桜井市)の発掘調査によってヤマト建国の詳細が明らかになり、意外なこともわかってきた。弥生時代の最先端地域だった北九州は、ヤマト建国にはほとんど影響を及ぼしていなかったのだ。それどころか、ヤマトや出雲から北部九州に人が流れ込んでいた。『日本書紀』は、「ヤマト建国は神武天皇の東征によって成し遂げられた」と主張し、邪馬台国北部九州論者は「九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」と主張するが、雲行きが怪しくなってきた。「文物は西から東に流れる」という常識までも、覆ってしまったのだ。・・・・日田の盆地は天然の要害で、西からの攻撃には頗る強かった。その反面東側から攻められるともろく、また日田から川を下れば一気に筑紫平野を襲うことが出来た。北部九州勢力にとって、日田は厄介な存在だった。・・・・日田市の小迫辻原遺跡は、ヤマト建国と同時代の政治と宗教に特化された環濠集落だ。この遺跡の特殊性は、機内や山陰から土器が持ち込まれていたことだ。しかも、ヤマトの纏向遺跡と平行している。ここに「東側の勢力が拠点を築いた」ことは間違いない。》と容赦ない。
 纏向遺跡の語るものを知らないと・・・・。ということでした。
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『次郎と正子』
2016/12/24(Sat)
 牧山桂子著 『次郎と正子』を読みました。
 平成19年4月に新潮社から出版されたものが、よく読まれて、さらに平成21年12月に文庫本として出版されたもののようです。
 白洲次郎や白洲正子についての本を読むのは何年かぶりです。
 ひさしぶりに手が荒れるほどごそごそとなにやかややって本から遠のいていたので、まずは軽い本をと読みました。昼食を食べて後片付けもせず読み始め、読み終わったころ和子さんが来ました。
 和子さんが今日は孫を連れて、明治製菓がスポンサーをしているステージを見に行ったといいます。
 あら偶然。いま読んでいた『次郎と正子』の「軽井沢の夜」と題したエッセイに明治製菓の本家の明治屋創業の磯野計について書かれていたとつい口走ってしまいました。そのエッセイでも、つい書いてしまったといった挿入コメントでした。
 岩崎弥太郎が、当時東京大学の学生数人をイギリスに留学させることになり、磯野計はその一人に選ばれました。岩崎氏から、帰国後は三菱に入社することはない。何でもよいから将来の日本のためになることを身につけて来いというお話があり、食に興味のあった磯野計は、外国の食糧品の輸入の道筋をつけて帰国し、現在の明治屋の基礎を築いたと書かれていました。
 岩崎弥太郎のこの要求は、じつは、このたびの学指導要領の改訂によって提示された、アクティブ・ラーニングを導入して、何を学ぶか、どのように学ぶか、何が出来るようになるかというものと似ています。読後感からは脱線してしまいますが、学ぶということについて最近、学び終わるときには、すでに起業できる能力を持っていることが出来ないと・・・。という時代になったことを感じたばかりのこの改訂に驚いています。
 以前、我が家で2人の学生をホームステイさせたことがありました。一人はIBMの奨学金で、テーマと行きたい国を決めて応募、多額の奨学金をもらっての留学でした。いまにして思えばそれだけの奨学金を元手に起業できるのではないかとも思えます。もう一人は女の子でインドネシアの文部・スポーツ省というところからの派遣学生でした。
 なにかをするために、あるいはなにかの研究のために留学するのと、学びの一環として留学したのとの違いがあったことは否めません。
 著者の牧山桂子さんの両親は双方とも留学しています。母方の父親の樺山愛輔も留学していました。これら多くの留学経験を持つ親族に取り囲まれて留学の効果を考えていたからの挿入文であったかもしれません。
 それにしても、牧山桂子さんの飾らない両親に関する思いは、末っ子であるだけに、距離をおいているぶん充分楽しめました。
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『魏志倭人伝』
2016/12/22(Thu)
 監修 高島忠平・編集 折尾 学・発行 吉野ヶ里公園管理センター
 平成26年3月31日(校訂)第4刷
 表紙には
  『三国志』
   『魏書東夷伝倭人の条』
     通称『魏志倭人伝』
        読下し文・注釈

とあり、2000字あまりの『魏志倭人伝』の原文と、読下し文、注釈とが、わかりやすく書かれていて、手軽に読めるようになっています。
 
 吉野ヶ里遺跡の高台に立って、見渡すかぎりの青い空、そして温暖な風、赤い花そして白い花と植え分けたいちめんに広がるソバ畑や、「スダジイ」などと書かれた樹木の通路を歩き、あるいは木製の鳥を乗せた鳥居をくぐりながら、魏(220年 - 265年)の歴史書に物語られたころの日本をおぼろげながら回想しました。
 それは、邪馬台国はどこにあったのか?という究極の関心事をはなれた、自分のなかにも残っていて消えることのない生命のルーツに出会ったような懐かしさでした。
 九州旅行から帰って、忙しい日々をすごし、活字から遠ざかっていました。いま、吉野ヶ里遺跡でいただいた数枚のパンフレットにまぎれたいたこの冊子で、あらためて、邪馬台国はどこにあったのか?という関心もいだきながら、全文25ページを丁寧に読んでいきました。
 邪馬台国はどこにあったのか?という問いには、
 《人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。舊百余国。・・・・對海国・・・至一大国・・・至末盧国・・・至奴国・・・至不彌・・・》まず、戦国期(前403~221)の『山海経』に朝鮮半島の南部に倭があって倭は燕に所属したとある。山島は九州とする意見が有力。對海国は対馬である。至一大国は現在の壱岐市。末盧国は現在の松浦(佐賀県東松浦郡・唐津市)。至奴国は昔、那の大津といわれた博多、現在の福岡市博多区から春日市一帯。至不彌国は現在の宇美(福岡県糟屋郡宇美)から宗像郡と、飯塚氏(旧福岡県穂波郡)に当てる説がある。
 このように、異説も取り上げながら、決めるにはむずかしいもの、あるいは異説の矛盾点について述べ、邪馬台国の位置は吉野ヶ里??への思いも否定せず、『魏志倭人伝』からの文字や、発掘資料、『古事記』、『日本書紀』、国々の『風土記』などの資料による注釈を読みながら、考えを深めるヒントに胸をときめかしました。
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九州旅行・熊本市
2016/12/17(Sat)
 熊本に入る前夜、熊本から1時間くらい東に入った上益城郡山都町の通潤橋の近くにいる友だちをたずねました。彼女はこのたびの地震災害で被害を受けて崩れかけた熊本城を見て涙が出たと話しました。
 お城について、このような思いがあることが、城下町に育っていない私には以外でした。夫に、広島城も原爆で焼け落ちたとき、広島市民もこんな思いだったのだろうかとたずねますと、「そんなことはないよ、何にもなくなったのだから。だから広島の人間は冷たいんだ」とこれまた思ってもみない言葉。
 そんな言葉を胸におさめながら、朝一番に熊本城を訪ねました。熊本城を訪れたのは初めてでした。災害の前は、熊本城ではとにかくあの石垣が見てみたいの一念でした。あの憧れの石垣が無残にも崩れ落ちています。まるで私が修復しますといわんばかりに崩れた石垣の写真を何枚も撮りました。
 子どものころ、姉がレコードをかけては、扇をかざして何度も踊っていた、三橋美智也の『古城』の「崩れしままの石垣に 哀れを誘う病葉(ワクラバ)や・・・」の歌詞が思い出されてきます。この城を見て涙を流す市民の心を思って涙が出ます。お堀のまわりの歩道なども壊れています。風呂先生御推薦で熊本城のお堀の向かいのホテルキャッスルも、足場に取り囲まれています。明治10年の西南戦争のときにも町はいたるところが壊され、ハーンが第五高等中学校に赴任したときもまだ復興しきれていなかったようすをどこかで読みました。自然災害の多い国土に人災まで・・・の思いもめぐり、はかない気持ちが漂ってきます。
 熊本市の繁華街に出て、小泉八雲旧居を訪ねましたが、立ち入り禁止部分も多くて入場料は無料になっています。門扉も玄関も開いたままで人気がありません。もう隣人になったような気分であちこち眺めておりますと、館長さんが、あわただしく入ってこられました。広島ハーンの会で風呂先生に学ばせていただいているものですと名乗りますと、大忙しにもかかわらず、親しく対応して下さり、いろんなパネルを取り出してきては説明をして下さいました。無料だけあって、立ち入り禁止場所がほとんど全部で、玄関から座敷の奥のほうを眺めるだけで終わりです。
 この旅行では、土産に「ひごくに」というケーキを頼まれていましたので、鶴屋百貨店におもむき、頼まれていない人たちにもまとめて購入しました。
 熊本といえば、質実剛健の気風を広島ハーンの会で学びましたが、売り場面積では日本最大級というこの百貨店の手提げ紙袋の質素さには、その気風がよく現れておりました。
 そして、夏目漱石旧居にも足を運びました。
 この記録を書いていると、来日中のロシアのプーチン大統領が柔道を見に行って、山下泰裕と話している映像がテレビに映し出されました。この山下泰裕は私たち夫婦がたずねた通潤橋の近くにいる友だちと従姉弟で目元や口元などどことなくよく似ています。彼が小さいころ子守をしたということでした。
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九州旅行・三角西港
2016/12/15(Thu)
  三角西港は、ハーンの作品「夏の日の夢」の舞台になった、「浦島屋」をたずねての旅です。左に海に浮かぶ島々をみながら西にむかいます。
 途中、カメラを持った人たちがたくさんいるのに出くわしました。振り返って見あげると空中に橋が架かっているのですが、その真ん中がいままさにつながろうとしているのです。つながる瞬間をカメラにおさめようとの列のようです。
 ああー、連結される直前を写真に取らないと・・・。と、駐車できそうなところを探しますが、「残念!」と、さらに三角西港にむかい三角西港の駐車場に車を止め、「浦島屋」へと向かいます。
 ところが、そのまえに、三角西港の埠頭すれすれに打ち寄せる波が表面をぬらす石畳に出会ってしまいました。この美しさに圧倒されます。この石畳に見入っていると、この港は、明治時代にヨーロッパの人によって設計されたのだと説明してくれます。すぐに、この旅行に出かける直前に読んだ、フリーメイソンが思い起こされます。石工といえばフリーメイソン。港がなければ海軍の戦艦も寄港できないから、フリーメイソンと海軍は切り離すことが出来ないと夫に説明されて、合点。このようにしてフリーメイソンは世界中に広がっていったと考えると、なんだかわくわくして、そのできばえをていねいに見届けます。
 三角東港までしか線路が伸びなかったために、西港は明治の面影を残したまま今日に至っています。大方130年近く波に洗われ続けてきたこの石畳の埠頭。わたしは、山深いところで育ったために港への思い入れがないけれど、この港の築工にかかわった人たちの仕事への誇りを全身で受け止め心の奥深いところへ畳み込んでいきます。
 港の広場に明るく美しい洋館立ての建物があり、それが「浦島屋」です。さっそく入らせていただきますが、ハーンの顕彰のための見物人はいなくて、何でこんなところに、小泉八雲が??と思いつつ、一面の説明を読んで納得して感じ入っておられる様子は、ハーンの顕彰に訪れた私が、埠頭に感激したのとさかさまでした。ハーンが乙姫とたたえた“根岸小町”とうたわれた美人のヨシさんの写真にも出会えてまずまず。
 港の奥の高台に、開港後開庁したという三角簡易裁判所、宇土郡役所などが、「法の館」あるいは「九州海技学院本館」として、面影を残しています。「法の館」では、ほかに客もなく二人で隅々まで見学し、裁判長になったり被告になったりしました。「九州海技学院本館」では、玄関に、ようこそどうぞ見学して下さいとかかれてあったので、興味のある図書館に入っていくと「すみませんここは試験問題を・・」といわれあわてて退出しました。
 さんざん見学して駐車場に戻ると、駐車場から巨木が海に向かって太く伸びています。地元の人が、潮風を好む「あこうの木」といい、天草市のシンボルとなっている木ですと教えてくださった。
 見上げると空中の橋が連結に失敗したのか元通りにまんなかがあいていました。


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九州旅行・水俣2
2016/12/14(Wed)
 旅行の記録がのびのびになっています。
 もっと言うと、NHKの連続ドラマ「とと姉ちゃん」関連の本もまだ何冊か読み残しの本が残っているし、いまの連続ドラマ「べっぴんさん」関連の本も積んであるし、第一熊本大学の『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』もなにかまだのこっていそうな気がします。
 それに、九州から帰って、レヴィ・ストロースのNHK100分de名著『野生の思考』を読み返しても理解できていなくて、そのことばかり考える毎日だしと、頭の中が騒々しいばかりで雑然とした日々を過ごしていました。
 でもこの本では、理屈抜きで、感じられることがありました。九州旅行で、椎葉村や、吉野ヶ里遺跡をたずねたとき、何もないこんなところで、どうやって暮していただろうと、想像を絶する思いに涙が出そうになりました。しかし、『野生の思考』に語られる、いまに引き継がれている人間の叡智の豊かさに、あのとき見た青空に、そして、14日の夜ホテルの窓から見たスーパームーンの神々しい満月に、広くゆたかに心が開かれてゆくのを感じました。
 、そんななかで、裏山散歩で話題になっていた、赤くかわいいマフラーを約1週間もかかってやっと編み上げ、首に巻いて夫に見せると、似合わないとのこと。裏山に持っていって、いあわせた水野さんの奥さんに見せると欲しいといわれ、巻いてみていただくととてもかわいい。みんなも賛同。マフラーは行き先が決まって水野さんの胸元でイキイキと映えている。まあ一件落着ということで、記事を書こうという気持ちになりました。
 水俣です。水俣の町外れで、不思議な木に出会いました。車を止めてよくみると「はぜの木」です。わたしたちが広島で目にする「はぜの木」は、すーっとのびてとおりにすーっと枝を伸ばしています。しかし、これがおなじ「はぜの木」だとわかるにはあまりにも立ち木姿がちがいます。しかし、これも「はぜの木」という気持ちで夫と2人で記念写真を撮りました。
 市役所の前にある水俣市立蘇峰記念館と、町並みの中にある徳富蘇峰・蘆花生家を訪ねました。双方とも、ほかに来訪者がなく、職員の方の丁寧な説明を受けましたが、聞こえないので、返事に窮し少し疲れました。蘇峰は、少し前『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』で、ハーンが第五高等学校に勤めていたころまでの熊本の学校事情の説明にもその名前なども出てきていたので、懐かしく思いました。水俣市立蘇峰記念館では、頼山陽が水俣を訪れたとき峠で乗ったかごが大切に保管されていました。私は頼山陽の記念館が広島にあり、私自身、頼山陽の叔父に当たる杏坪が一時代官を勤めたところで生まれ育ったことを話しましたら驚かれました。
 蘇峰も、この頼山陽の影響を強く受けたことがありそうです。
 町を散策中、石牟礼道子さんも通ったであろう侍街道へ登ってゆきました。なんと侍街道沿いに、小さな「はぜのき館」があります。ろうそくの約30%が熊本県で生産されており、そのほとんどをこの水俣が占めているということでした。朝、町外れで出会った「はぜの木」の謎が解けた一瞬でした。
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実験第2日目
2016/12/09(Fri)
  今日は、実験台2日目です。
  よみがえった安藤家に集合しました。
  まばらな集合になったので、最初に行った私とけい子さんふたりは、道路から、引き込み通路、駐車場、庭木のあいだ、玄関まわりと、空き地の落ち葉をかき集めて、袋詰めをしました。終わるころ4人そろったので、持ち寄ったもので、お茶の時間にしました。
  話し合って、急遽、玖谷埋立地管理事務所に連絡をとって、和子さんの先導で、3台車を連ねて、そこに行くことにしました。
  たくさん大きな紙袋が必要だろうということで、途中ナフコで買うという案が出るや、けい子さんが2件ぐらい隣で、いただいてくると言い出し、私もついていって見ました。けい子さんは、あけっぴろげの倉庫で袋があるこ とを確認すると、事務所に入っていって、出てきた男の人に頼みましたら、丈夫な立派な袋を、もてるだけ持って帰ってくださいと取り出すのを手伝って下さり、私は、近所とはいえ重くなった大量の袋をえんやと持って帰りました。
  とにかく、玖谷埋立地管理事務所からは、直接現場にいこうということで、早めに昼食も済ませることにして、4人で充分食べて安藤家をきれいに片付けて出発しました。
  玖谷埋立地管理事務所は以前3人で登った押上山の上り口のところで、山に登らず、そのまま道路に続くトンネルを抜けたところにありました。それぞれ手続きをすませ、それぞれのところで説明を受けて、いただける量の4分の1も詰め込めませんでしたが、みんな汗だくで、3台に積み込みました。
  現場では、おくところを決めて、準備をし、またまた汗だくでそこに運び込みました。また、現場は広いので、ほかの作業もして、道具を洗って終わりにしました。
 つぐみさんのうちで、お茶を頂き、友達に教えてもらって作ったという柚子味噌で、きゅうりも出してくれました。私と和子さんは美味しいので、全部食べました。
  今日は、夫がひどい風引きで声が出なくなっていて、我が家での夕食はありませんでした。
  それどころか、私も味噌汁と、アジの南蛮漬けと、明太子だけで夕食を済ませました。
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第196回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/12/05(Mon)
 11月3日(土)「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 当日は、三次市出身の詩人井野口慧子氏の講演「極私的小泉八雲」を聞きました。
 ブログで知り合い、詩集もお出しになっているみどりさんから、本当にたくさんの本をいただいていて、そのなかに、多くの詩集もありますが、つい、詩集のほうが後回しになるというのが私の読書です。  
 もともとセンスがないわたくしなので、文学においても、芸術的方面への関心が薄いのです。
 しかし、当日は、詩人のお話ということで、こうごうしい気持ちで受講です。

 先月いただいた資料『深い永遠の中へ 詩が生まれる場所』の中に、
 ≪もしかすると、祖父が娘の子供として生まれ変わり、七十数年後に、再び三次の河原の詩を書くことになった。≫
と感じられている、その感性の奥深いところの思いのようなものについて話されました。
 このような感性で大切に日々をつなぐことによって、次々と巡り合う人々が、何かの関連性を持つ因縁の不思議について。
それを心の奥深いところで受け止める。さらに、このつながりは、人と人だけではなく、人と自然、草や木や石や山や川や海や空や・・・・・そして、時空を超えて歴史をくぐりぬけて、ひとびとに受け継がれて、受け止められていく。
 そのような経験のなかで、ラフカディオ・ハーンについても、ずっとむかしに、日本の民族的な心が、世界中に広がっていて、ハーンは、ギリシャ、アイルランド、フランス、アメリカなどをとおって、日本に来たのではなく、日本に帰ったと思えるとも話されます。そして、小泉凡先生とのご縁などから、小泉八雲の霊にもひかれて導かれていることを感じる時もあるというようなお話でした。
 絵本の読み聞かせや、詩や物語などの朗読もされておられるとのことで、平川祐弘訳で、小泉八雲の『怪談・奇談』のなかの」「おしどり」の朗読がありました。
 夫を殺されたメスのオシドリが、矢を放った尊允(そんじょう)の夢に現れて恨みを述べ、明日赤沼へ来るようにいいます。やってきた尊允(そんじょう)のまえでおしどりが自分のくちばしで自分のお腹を裂いて死んだため、尊允(そんじょう)は、頭をそって僧になったというお話でしたが、とても情感のこもるいい朗読でした。
 引きつづいて夜、恒例の忘年会でした。私も、何か因縁めいたことにであえたらと、会場になった、料亭で、そこの経営者について訪ねて見ました。
 やはりそうでした。すでに亡くなっている夫の知人の奥さんが、この料亭の娘さんではないかということでした。ちょうど、広島で土砂災害があったころ、フランスに在住のその娘さんのことが1時間くらいの番組で放送されて、その母親ですと、Iさんと奥さんの映像が映されたとき、夫が、この前行ったという料亭の娘さんだよ。と言ったことを思い出したのでした。
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九州旅行・水俣
2016/12/01(Thu)
 夫から、順序よく記録してくれと、注文が来ました。
自分勝手に私のブログの記事に合わせて自分のブログで写真の紹介をはじめていたための注文です。しかし、私のほうも旅行ボケと、忙しさで、思い付きの記録になってしまいました。(仕事をやめてからのほうが忙しいというのがさっぱりどうしてかわかりませんが・・・。昨日も交通安全協会の依頼で8時から夕方4時までボランティアで、廃校を利用した西綾ケ谷集会所で餅つきを手伝い、餅とり粉だらけになって帰ってきました。女性会というのがあると聞いていたのに、女性は私と西田さんという人だけで、あとは男性8人でした。忙しさは並ではありませんでした。今日はこのお餅を路上で配る活動に借り出されています。)
 それでも、記念写真だけの記録よりはいいのではないかと自分に言い聞かせています。
 15日、水俣。ここは私がいちばん訪ねてみたかったところです。
 いまでは、水俣病の保障業務を専業とする会社ということになっているチッソ水俣工場の周りを始業時間前に、見て歩きました。
 創業した明治の初めころ、材料や製品の運搬のために水路が引かれています。その水路を見ると、当時の近代化を推し進めるための意気込みが伝わってきます。そして会社の正門前を国道3号線が走り、向かいが肥薩おれんじ鉄道の水俣駅です。チッソの会社によって町が成り立っている様子が伺えます。
 これは、私たちが住んでいる旧可部町の大和重工とおなじしくみだと、いま気がつきました。太田川から会社に水路が引かれ、正門の前を国道54号線が走り、横切ると可部駅です。
 水俣病資料館は、水俣湾の北側の突端にあります。
 水俣湾への水俣病の原因となる汚水口の百間排水溝からの汚水で死んだ港を埋め立てて、エコパーク水俣が作られ、巨大な面積の公園になっています。
 水俣病資料館は開館間際で、受付は閑散としていました。NHKの「100分で名著の石牟礼道子著『苦海浄土』」をみてきたことを告げました。そのうち、見学会で訪れた中学生などを含めたくさんの見物客が詰め掛けてきました。見て歩いていると、先ほどの受付の女性が話しかけてきて、私は千葉から来てここに就職したと話され、千葉にもチッソの工場があり、問題があること。広島では、原爆被害についてどのように子どもたちに伝えているのかなど質問を受けました。夫のところには、館長が行って、展示の苦労話などにくわえ、やはりおなじような質問をされたようでした。被災者として差別を受け、いまも続く補償問題を抱えていることに関しては同じということでの質問だったでしょうか。
 身につまされるものを感じました。
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