『小泉八雲新考』 ㈢
2017/01/31(Tue)
 拾遺「Folkloristとしての小泉八雲」のつづき
 ハーンが日本に来朝した明治23年は、ゴムの『民族学のハンドブック』が出版された記念の年だそうです。世界の民族学史上でも、民族学が芽吹き始めてまだ十年にも満たなかったというのに、ハーンが早くこれに着目していたことは、たくさんの関連本を読んでいたことでも知れます。
 このあたりから話題は、世界の民族学の状況と日本の民族学の状況の解説に入っています。
昨年、九州の椎葉村を訪ねました。そのとき、椎葉村では、明治41年に柳田国男がこの村を訪ねて調査したことから、民族学そのものが発生し、椎葉村は柳田国男による民族学発祥の地ですとの説明を受けました。
 日本の民族学がどのように発展していったのかについてここでは、明治17年人類学会発足。しかしこれは民族学とは違うと述べてあります。明治26年日本土俗学会発足。(これは人類学会の支会のようなもの)ハーンの作業が始めて後の柳田国男の取り組みと同じようなものになっているとのことです。しかし、目はあまり見えない、日本語が読めないしあまり聞き取れない、といったことからのハーンの限界についてもしっかり述べられています。
 さらに、ハーン亡き後、ハーンの作品が逆輸入される形で日本語に翻訳した人は、民独学的な見地を知らず、また、ハーンがそのような見地から書いていることを知らなかったために、同じ言葉を訳すときにも民俗学的用語を文学的に訳したりして、その本意が伝えられていないことを例を挙げて残念がっています。
 もちろん私も、ハーンの作品に対して、文学的な解釈はできないまでもなんとなく文学的に読み、その再話に、廃れていく昔話を思い起こさせてはくれたけれどとの思いにとどまった作品もありました。しかし、それは、私が彼の英文での原文が読めないからかもしれないとの思いでいました。そこに、世界のほかの地域にはない民俗学的な意味を持たせることはありませんでした。決して高校生のころ三角寛の『山窩の記憶』を読んだときのような読み方はしませんでした。
 最後に≪しかし、ハーンの著述は今日われわれが呼ぶような意味での民族学の文献とは言えないのである。・・・・彼が筆を執った時代は、日本のみならず世界的にも、民族学はまだようやく嬰児の時代であった。したがってヘルンがもし書き残してくれなかったならば遂にそのまま消滅したであろうところの多くの事象が、幸いとして文字となりしかも世界的な文献となって後世に残るに至ったということである。ヘルンをあえてフォークロリストと私がこの一文の中で呼んだのは、このような意味においてであった。≫ と結んであります。
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『小泉八雲新考』 ㈡
2017/01/30(Mon)
拾遺「Folkloristとしての小泉八雲」
                ※ Folklorist 民俗学者
                ※ Folk-lore 民族学・民間伝承

 第6章までで初版の『小泉八雲新考』は終わり、そのあと、拾遺として、この「Folkloristとしての小泉八雲」と、「ヘルンの人間発見」(講演筆録)が収録されています。

 その「Folkloristとしての小泉八雲」は、今まで私が、ラフカディオ・ハーンを読むにあたって、まったく抜けていた観点へのアプローチがありました。その抜けていた観点とは、彼の作品が欧米諸国の読者へ向けての民族学てきなレポートであるという側面でした。
 1893年のヘンドリックへの手紙から、ラフカディオ・ハーンが、日本でなしとげようとした思いに、チェンバレンと日本民族についての本を書くことであったことが述べられています。
一般庶民の日常生活に仲間入りして日本人の思想で書くために考えたテーマは「こどもの生活と遊戯」・「家庭の生活と信仰」・「伝説と迷信」・「婦人の生活」・「古い民謡」・「言語習慣」でした。
 もともと、日本に来るについて、彼を送り出したハーバー社の目的が日本が、議会を開設し、軍事・産業などの面で着々実績をあげて急速に近代国家になって行くその実態を知りたかったとしても、ハーンが書きたいものは、マルティニークの延長線上の民族の特性の報告でした。
 なので、ハーンの日本での最初の本のほとんど全部が民族採訪の記録であると見て差し支えないことを述べ、さらに、それを内容的に累型192項目すべて以下のごとくていねいに分類してあります。
 1、民間信仰に関するもの(30項目)
 2、神道に関するもの(17項目)
 3、仏教に関するもの(35項目)
 4、動物に関するもの(31項目)
 5、植物に関するもの(15項目
 6、怪異に関するもの(14項目)
 7、職業に関するもの(9項目)
 8、年中行事に関するもの(9項目)
 9、人事に関するもの(11項目)
10、物品に関するもの
11、その他(6項目)
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『小泉八雲新考』 ㈠
2017/01/29(Sun)
 丸山学/木下順二監修『小泉八雲新考』を読みました。
 講談社より学術文庫によって1996年11月10日第一刷発行されたものです。
 丸山学による序文は昭和11年11月20日になっています。最後の解説は「小泉八雲と丸山学先生」と題して、木下順二が書いていますので、これらから読みました。
 ここでは丸山学と木下順二との関係が明らかになりました。木下順二が1928年のとき旧制熊本中学校1年生で、初めて英語を学んだときの先生が、丸山学先生だったそうです。
 丸山学は、そのあと広島で学び広島高等師範学校の教授になり、小泉八雲の研究をするにあたり熊本にいる木下順二に協力を依頼し、この『小泉八雲新考』を出版した次の年、兵役に取られました。
 1945年に広島に復員してきたとき、「学友と学問のための資料の一切を失った私は広島でまたふたたび同じ仕事を第一歩からはじめる勇気を持てなかった。私は父祖の地に帰ることにした・・・。」と言ったというところでは、いろんな意味で悲しい思いがしました。

第1章 熊本時代の作品とその素材 先に読んだ「赤い婚礼」は、≪当時の新聞に取材したというが、その出所を私はまだ  発見していない。≫と書かれていました。
第2章 熊本時代の私生活 ここでは、日清戦争のさなか、官立学校廃止論などが取りざたされ、宮仕えの不安を痛感し、著作での 生活にむかっており、2千円の貯蓄があったということに驚きました。
第3章 教員室で机を並べていた佐久間先生と不仲になっていじめられていたという記述には初めてであいました。その丁寧ないきさつと、つらい思いをしたことが知れました。
第4章 『停車場にて』などハーンの作品についての考察ですが、≪ハーンの作品を文芸作品として見る立場に加えて、同時にそのうちの相当多くのものは日本人についての民俗学的研究とみなすことができる≫とのべ、ハーンの作品はその読者を英・米 人を念頭において書いており、今のように日本人にも読まれるとは思っていなかったことを強調しています。第一書房版全集の日本語訳を見て、翻訳に当たって、当時民俗学・民族学・土俗学といった学的内容に理解のない時代であったがために、それへの不満があることが述べられています。
第5章 ヘルン踏査 昭和10・11年ですら、松江・熊本・神戸・東京・焼津と踏査を重ねてみて、第五高等中学校のうらの小峰の高台にある小峰墓地を訪ね、≪あらゆるヘルンに関する遺跡の中で、この墓地ほど完全に旧態を保っているところはないと私は 確信する。≫と述べられています。

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「赤い婚礼」
2017/01/28(Sat)
 小泉八雲著 平川祐弘編 『日本の心』のなかの仙北谷晃一訳 「赤い婚礼」を読みました。
 先に読んだ『広島ラフかディオ・ハーンの会々誌』第1号の、ニュース№10(2001・6・2発行)で、「赤い婚礼」が原作になった米国映画『おはぎ』のことを知り、ニュース№14(2001・11・3発行)で、さらに風呂先生が徳島大学での日本英文学会中国四国支部大会で「赤い婚礼」の発表をされたことを知りました。
 平川祐弘編 『日本の心』は早いうちに読んでいるのですが、どんな話だったか覚えていなかったためさっそく読みました。
 文庫本で64ページから81ページまでの短い話です。短い話なのですが、今日は一日友達と「空き家を復活させる事業」の日で忙しかったせいか、書き手の話の間が長く感じられて、なんだか読むのに時間がかかったような錯覚を覚えました。
 友達との活動が積雪のため空き家の雪かきになったため、「『おはぎ』という映画観たことある?」から始まって、原作である「赤い婚礼」の内容について話して聞かせたので、おそらくもう忘れないでいられるのではないかと思っています。なぜ「赤い婚礼」というタイトルにしたのかわからないのよねというと、婚礼が心中で、線路が二人の赤い血で染まったからではないの。と答えてくれました。この人は、非常に色彩感覚のいい人で、暮れに蝋梅と南天を使って空き家の玄関に活けておいた生け花も、久しぶりに玄関を入るなり、目が覚めるように美しくて、すがすがしい気持ちになったのでした。
 ハーンはこの作品の、最初、恋が成就しないがための自殺について、東洋と西洋の違いについて述べています。
そして最後に、人間の普遍的な祈り、これは「苦の宗教」とでも名づけるべきものではなかろうかと述べています。
ハーンも路上生活などを余儀なくされたり、あるいは結婚していた人に出て行かれて自殺を考えたことがあることを、どこかで何度か読みました。そのような苦し紛れの自殺ではなく、苦しみの中にあって、死によって魂が浄化されていくがごときの死というものがあるということを日本に来てハーンは知っていったのではないでしょうか。
そして、平民気質よりも武士気質にそれが強いことも。 
 ≪「これからは二世も、三世も、私はあなたの妻、あなたは私の夫、太郎様」
太郎は何も言うことができなかった。≫では、商人の出の太郎を、武家の血を受け継ぐおよしがうながし、ここにきて、はじめて太郎は、自分が二人のこれからの人生を切り開くべきではなかったかと気づいたのかもしれないとの余韻も感じさせます。
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『広島ラフかディオ・ハーンの会々誌』第1号 
2017/01/27(Fri)
 平成26年(2014)1月31日発行の『広島ラフかディオ・ハーンの会々誌』第1号 を読みました。

 1月の『広島ラフかディオ・ハーンの会』のとき、風呂先生から、口頭で「ハーンに出会って」といったようなものを書いてくださいとの告示がありました。
 『広島ラフかディオ・ハーンの会』が200回を迎えるについての記念誌かなにかの原稿だと勝手に了解しました。
大雪と突然の寒波ですっかりそのことを忘れておりましたが、ふと思い出し、「アブナイ!アブナイ!」と、初めて参加したときの資料を見ていたら、その中に、このピンクの冊子を見つけました。「これは、これは、」と開いてみると、なんと、いろいろのところに線を引いて横の空白に※印がついています。一生懸命読んだ形跡です。理解できないものにしるしをつける癖があるのです。いまでは会員として普通によく使う言葉もそのときはわからなくてみんな※印です。印はだんだん減ってゆきますから、とにかくぱらぱら読みすすんだのかもしれません。読んではいたけど、何のことやらわからずに読んだことにしてしまったのでしょう。

 ≪「会誌」第1号発刊にあたって≫ を読んで、この冊子のできた目的といきさつがわかってきました。そして、次の2ページでこの会の結成会が開かれ、立ち上がってゆく光景も目に浮かんできました。

 次から№1~№15までのニュースが掲載されています。『雪女』から始まったことがわかります。次は小林正樹監督の『怪談』の『雪女』を観て、『黒髪』。そして、八雲会主催の「生誕150年記念ギリシャ夢の旅」のビデオ鑑賞『日本の面影』になりますが、№10回から取りやめになります。テープ鑑賞希望者には貸し出しますとあります。これは時間があるときにお借りできたらと思います。カンヌ国際映画祭の短編映画部門で最高賞を受賞したという『おはぎ』は『日本の心』所収の「赤い婚礼」であったとあります。この「赤い婚礼」についての風呂先生の講演も新たに聴けたらと思います。またここでは会誌の原稿の催促があります。もともと、10回目で会誌を出すという計画があったのかもしれません。つぎの「つぐみの粕漬け」の話はどこかで読んだ気がします。

 そのあと、6人の方の寄稿があります。
すでに亡くなられたという照沼好文氏の、日本史の記録で誤り部分について指摘されたことがあっても、そのまま訂正されずにいたため、ハーンの『日本―一つの試論』の中でもまちがって使われているとの論の考証がありました。そして、やはり亡くなられているという金本正孝氏の論文では、籠手田安定知事について感銘する話があり、ハーンの松江中学への赴任が決まったいきさつへのいままでであったことのない論が読めました。
 しみじみと、この会にもいろんなときがあったんだーと感じました。
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『小説 小泉セツ』
2017/01/26(Thu)
 寺井敏夫著者『小説 小泉セツ』を読みました。
 山陰文芸協会発行の平成27年9月15日初版です。
 わかりやすくて、あっという間に読み終えました。
 小泉八雲については、原作・脚本ともに山田太一で、1983年3月3日から24日までNHK総合テレビでテレビドラマとして放送されたそうですが、この『小説 小泉セツ』もすぐにでもテレビドラマ化されそうな作品です。
 松江にあって、小泉セツがハーンと一緒になることによって、この本に書かれていたような、つらく悔しい思いをしたことは読み進んでみると当然といえば当然ですが、これまでそんなことにはほとんど無頓着でした。小説だから書ける真実かもしれません。
当時の松江を聞き知っている人の想像であれば真実により近い、あるいはそれ以上とも思え、なんと迂闊であったかと自分ながらあきれる思いでした。
 平明な文章にもかかわらず、これだけの切羽詰った心情を交え、奥行きをもって語られるのが小説だとしても、小泉セツを語ったものとしてはとても新鮮に思えました。
 
 士族の、食うや食わずの苦しさが語られるなかに、明治の政変が語られ、地租改正を初めとする税制などの変化による戸惑いについての記述はどこかで読んだような・・・・と、私の高校時代の恩師、阿川静明先生から送られた先生の著述による平成3年11月1日発行の『ふるさとの灯―船所仏教青年会日誌より』のことを思い出していました。
この本は国道54号線の三次の高速道路分岐点あたりの船所の、仏教青年会の毛筆の記録、明治41年起の『日誌』を解読活字化されたものです。明治の政変によって、農村の人たちも戸惑いの連続だったはずです。自給自足的な生活をしていた農村の人たちが、貨幣経済に巻き込まれ、地租改正によって、土地所有が認められ、耕作物の規制がなくなった分、土地に対する税金もかけられるようになり、出来高への租税ではなく、耕作地の面積に応じての租税になり、豊作・不作に関係なく同額の税金がかけられ、米ばかりでなく、より現金収入の見込みのある作物への研究、その流通などへの研究と、不況にあえぎつつ、自らの発展と向上のために、何をなすべきか自問自答する青年たちの記録です。夜学会での、人の集まる場所で自分の考えを簡単にまとめ、他人の前で発表する5分間演説は、帝政ローマ時代に盛んであった雄弁を競ったことを思い出させるとの先生の感想もあります。
先生の書にはまた、「人間は歴史をつくり、歴史によって人はつくられる」というヘーゲルの言葉も記されてありますが、小泉セツも歴史を作った一人ではないかとの思いをいたしました。
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『出雲における小泉八雲』
2017/01/25(Wed)
 根岸啓二編著者 『出雲における小泉八雲』 を読みました。
 八雲会発行の昭和27年7月1日再改定増補第11版です。
 これは夫が古本屋で1昨年30円で買い求めた本です。
 ネットで買い求めた、昭和5年12月20日発行の初版本と、昭和8年6月20日再改定増補第4版の2冊もあり、この3冊を見比べる楽しさもあります。
 表紙からして、初版本は『松江における小泉八雲』となっていてタイトルは右から左へむかっての文字運びになっています。
 読むことに決めた昭和27年版は、当時の本に特有で紙は粗末であり、さらに30円で買った本だけに、ていねいに扱わないとバラバラになりそうですし、活字は小さく、引用文はさらに小さく、旧い漢字で、・・・・理解不可能のまま読んだことのいい訳です。それでも、まるで1日半かかりました。

 思えば、ハーンが住んだ住居では、いちばん気にいっていた住居の持ち主で、その後ずっとハーンの住居跡として守ってこられた根岸巌氏のお話なので、目次「最後の住居の頃」はハーンをより身近に感じることが出来ます。ハーンがとても愛していた庭は、島根県園芸会長であった筆者の先代干夫氏が自ら手をくだして造られたものであること。そして、29年にふたたびこの家をハーンが訪ねたときのことを母親から聞いたエピソード。この庭を愛でたハーンの作品を読んだ人々が尋ねてきたときのエピソード。そして、家の垣根から見える真山城跡、もしかして、ここでは麒麟児山中鹿之助の毛利勢との攻防の話をなんどかハーンも聞いたかもしれないと思いをめぐらすこともできます。

 なかに、師範学校でのハーンの講演録 「想像力の価値」 の要旨があります。ハーンの ≪彼らの作文は個人の性格ではなく、国民的感情またはある種の集合的感情の現われとして私にとって特別の興味がある。普通の日本の生徒の作文において最も驚くべきことと思われるのは、彼らは全く個人的特色をもたないことである。≫ に呼応しての講演であると思えます。このなかで、想像力がこれから先にも大いに必要であうことに加えて、個々の子どもの個性を伸ばすための教授法についても言及しています。現在では個性重視の教育が叫ばれてはいますが、その教授法に添った指導というとまだまだ立ち遅れているように思います。

 初版本ではなかったもので、最後の付録のなかに小泉一雄の 「亡き母を語る 父八雲の協力者として」 があり、これもとても楽しく読めました。

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『八雲の妻』小泉セツの生涯
2017/01/23(Mon)
 長谷川洋二著 『八雲の妻』小泉セツの生涯 を読みました。
 今井書店より、平成26年(2014)5月21日初版発行されたものです。

 勿論ハーンの会に参加させていただくようになって入手できた本ですが、今さらここに記録するのも、と思うほどラフカディ・ハーンを学びながら、何度も手にとり読み返した本です。

 このたび、梶谷泰之著 内田融監修 村松真吾編注『へるん百話』―小泉八雲先生こぼれ話集 を読んだあと、読み残しはないかと、ていねいに読み返しました。

 後半309ページからの『思い出の記』は、いつ読んでもハーンの日本での美しい生活の雰囲気が読み取れて心和むものです。
外国から来たハーンの気持ちはわからないことが多いのですが、時代や境遇が変わっていても、女性の気持ちはよく伝わるのかもしれません。そして、彼女の言葉を通してハーンの人柄により近づくことができます。
 319ページに
 ≪それから山越に、伯耆から備後の山中で泊まった事をいつも思い出します。ひどい宿でございましたがヘルンには気に入りました。車夫の約束は、山を越えまして三里ほどさきで泊まるというのでしたが、路が方々壊れていたので途中で日が暮れてしまったのです。山の中を心細く夜道をいたしました。・・・・あの25年の大洪水のあとですから、流れの音がえらい勢いでゴウゴウと怖しい響きをしています。・・・≫このあと可部の太田川の渡しへとつづく道行の部分で、この宿屋がどこであったろうと、川の音の聞こえる伯耆からの旅を考えてばかりのときがあったことを思い出しました。

 セツがいやで、私もハーンと好みがいっしょと思えたのは、神戸から江戸へ行ったときの貸家探しのことです。牛込あたりにあった≪門を入ったところから薄気味の悪いような変な家・・・・あとで聞きますとお化け屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとう壊されたとかいうことでした。この話をしますと、ヘルンは「あゝ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました。と申しました。≫私も全く同感です。


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『へるん百話』―小泉八雲先生こぼれ話集
2017/01/21(Sat)
 梶谷泰之著 内田融監修 村松真吾編注 『へるん百話』―小泉八雲先生こぼれ話集 を読みました。
 1984年7月4日から1986年11月15日まで、週2回250字枠で、毎日新聞島根版で連載されたものが、1968年に八雲会からまとめて小冊子として出版されました。
 それがこのたびさらに八雲会発足50年を記念して、新たに再版されました。

 この本は、本当に楽しくハーンに親しめ一気に読めました。
とはいうものの、松江や出雲の地名やお寺などがでてくると、グーグルマップで検索して、地図上、あるいは航空写真上で、ありかを探してハーンの歩いた道のりを確認してみたりもしました。そういえば、松江・出雲方面については、何度か遊んだこともあるので、このようにしてみるとその風景なども思い出して、臨場感ひたれる部分もありました。
 
 よほど詳しく丁寧に調べられたと感心する部分も多くありました。また、御存知の方があれば教えて下さいと、より知りたいとの願いにも多くであいました。そういった思いが通じて、ほかから提示されてくる資料もあったことも記されています。

 こういった思いは、しかし私たち夫婦も経験したことが在りました。
この書物でも55ページ、79・80ページに取り上げられている、「出雲への旅日記」の「広島にて 八月二十九日」の太田川の可部の渡しの記述についてです。
 私たちの住まいしている可部の記載はハーンの作品中たった数行ですが、以前渡しがあったところから見た川の流れや、遠くの山々をのぞみ、そして巡礼の少年のいた時代へと思いをはせてゆきました。
 我が家には、夫の叔母が、昭和35年ころこの渡しの可部側にあった「料亭翠香園」の前で写った和服姿の美しい写真があります。可部駅前に移った翠香園で以前聞いたのですが、当時の翠香園のお客は、可部の人はいなくて、広島から汽車できて、鮎料理を堪能して船で下るひとがほとんどでしたとのことで、叔母も広島の己斐に住んでいました。
 また、翠香園には舟が川を行き来する当時の写真が残っていて、中国新聞の日曜版を大きく飾ったこともあると新聞も見せて下さいました。いまでは舟で可部・広島間を行き来するなど考えられないことです。
 これほどにハーンの物語に出てくる可部の風景は今では遠くなってしまったことを感じました。
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『恋の華・白蓮事件』
2017/01/18(Wed)
 長畑道子著 『恋の華・白蓮事件』 を読みました。
 白蓮とは、大正天皇の従姉弟に当たる柳原燁子のことで、15歳のとき、華族女学校を中退して、北小路資武と結婚、16歳で功光を出産し、20歳のとき破婚となり、1911年26歳のとき、炭鉱王といわれた伊藤伝右衛門と再婚し、1921年二度目の離婚後、宮崎竜之介と結婚。2子を設けて、昭和42年81歳で亡くなった人です。
 『・・・・白蓮事件』というのは、伊藤伝右衛門のもとを去って宮崎竜介に走り、いまでいう浮気が当時では姦通罪として処罰される対象であった時代ので、そうなっていると思います。
 しかし、白蓮はその浮気相手が法学博士でもあったために、その姦通罪を免れる方法として、≪・・・・このままではあなたに対し罪ならぬ罪を犯すことになるのを恐れます。最早今日は私の良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時期に臨みました。虚偽をさり、真実に就く時が参りました。依って此の手紙により私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の訣別を告げる事にいたしました。私は私の個性と尊厳を守り培うために、あなたの許を離れます。永い間の御養育下されたご配慮に対しまして厚くお礼申し上げます。・・・・≫というように彼女が文章作成したものを直してもらって、「絶縁状」として朝日新聞に掲載します。
 つづいて、宮崎竜之介や伊藤伝右衛門のコメントもつぎつぎと発表され、読者の声も賛否両論次々と発表されてゆきます。
 この、世間一般からみて、白蓮とはいったいどんな人なのか。貞淑な女性なのか、わがままで奔放な女性なのか。伝右衛門とはほんとうにおカネに物を言わせて女性に対してひどい人なのか、あれだけの荒くれ男をまとめて事業に成功しているほど男気のある魅力的な男なのに、じっと我慢していたのかそこのところが洗いざらい取材できています。
 とことん調査すると、生身の人間のそれぞれの味が出てくるのがわかります。
 意外だったのが、有島武郎情死のいきさつでした。≪有島は、妻をなくしたあと三人の子どものために独り身を押し通してきた。作家としてもそのころ夏目漱石の地位を継ぐものは芥川龍之介か有島かと目されたほどの、文壇のの寵児であった。周辺には、いつも女たちが群れていた≫そして彼は与謝野晶子に思いを寄せるようになっていたのに、晶子の下で編集の仕事を手伝っていた波多野秋子に強引にいいよられ有島はついに秋子と姦通。秋子の夫波多野春房に一切を知られてしまい、姦通罪で訴えてやると多額のお金をゆすられ増す。≪軽井沢別荘での情死は、姦通後わずか4日目のことだ≫と書かれてあったことです。
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 『白蓮れんれん』
2017/01/11(Wed)
 林真理子著 1994年発刊の『白蓮れんれん』 を読みました。
 少し前、白洲正子の自伝を読みました。その中に、白蓮が伊藤伝衛門のもとを去り、宮崎竜助のもとへと出奔したとき、おなかに子どもがいたことなどから身を隠さなければならない事情におちいりました。そのとき、白洲正子の父親である樺山愛輔がかくまわなければならなくなり、白蓮が白洲正子たちと同居していたと書いていたので、えー?それは初めての情報と思いこの本で確かめてみようと思ったのが読み始めたきっかけでした。
 結局この『白蓮れんれん』では、白蓮が樺山愛輔にかくまわれたという記述はありませんでした。
読み終わって、何か新しくびっくりするような情報に出会わなかったような気がしてブログの過去記事を調べてみると、なるほど、すでに2014年の1月に読んでいました。
 そのときの記事をもういちど掲載しておきます。
≪・・・お話は白蓮が伊藤伝衛門と二度目の結婚をするところから始まります。そして、その嫁入った先の伊藤家から宮崎竜助のもとに出奔し、落ち着いたところでお話は終わります。
 読み終わって、印象に残ったのは、前の本によって、伊藤伝衛門に新聞紙上で絶縁状を掲載して失踪したその大胆さに度肝を抜かれていたのですが、この本ではここのところのいきさつが詳しく書かれてありました。
 姦通罪がまだあった時代、彼女に法的処罰がなされないように、出奔のなりゆきを企画したのは、彼女の意思ではなく、お互い相思相愛になっていて出奔したあとに結婚した東京大学法学部を出て弁護士になりたての宮崎竜助が、彼らの恋路を応援するやはり法学部の学友二人との三人で企画したことでした。
 まずは白蓮が伝衛門との結婚がいかに不条理なものであったかについてそれを訴えた長い手紙を東京に送ります。それを彼らが法的に不利にならず、世評を悪くしないような文章に書き直し、それを白蓮に再度送り彼女の了承を得るのです。なにしろ二人の手紙が700通もあるというのを遺族からそっくり借りてそれを読んで書かれた小説ですから、真に迫った事実が伝わってきます。
 その後の世間の騒ぎはなみたいていではありませんでした。従弟は大正天皇であり、腹違いの姉は昭和天皇の入江侍従長の奥様ですから当然といえば当然です。腹違いで戸主の兄は大金を伝衛門にもらって伝衛門とは二十五歳も年下の妹を嫁がせたのですから、結局若くして華族院議員を辞めざるを得なくなりました。それまではお金目当に妹を売ったといわれた身でした。
 この作品によって書かれた伊藤伝衛門との結婚生活と新しい恋人との恋と離婚劇。むしろ、前に読んだ本がこれにつづく三度目の結婚のお話といってもいいのではないかおもえます。前の本では結局三度目の結婚で彼女が本当に幸せになったということでした。それはおおいに宮崎家の家風というものが、彼女を大きく成長させた、そして白蓮は辛いことはあっても自分が内面的に成長できる結婚でないと満足できない人であったのだということでした。
 女性は普通子育てをしてゆくなかで成長できる要素が多いとおもわれます。伝衛門は白蓮には結婚前に知らせていなかったのですが子どもができないように手術を受けていました。三度目の結婚では2人の子どもに恵まれました。そのこともこれらの結婚生活に大きく影響したともおもわれました。
 もうひとつこの本によって知ったことは、以前は学校によって新学期の始まる月が違っていたらしいということでした。9月から始まっていた学校もあったようだということでした。≫
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第197回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/01/09(Mon)
 1月7日(土)朝は、注連飾りの籾を小鳥がついばみ、玄関に散らばった籾殻のお正月なごりをあとに、「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 早めの参加で、配布していただいたニュースのさわりや、「すみよし」の宮司様と風呂先生の記事にも目を通すことが出来ました。年の初めに宮司様のお言葉を読ませていただくとは、風呂先生のご縁とともに何かしら日本人なりの心を呼び覚まされて心引き締まる思いもいたします。
 鉄森さんが、2ヶ月も病気でお休みになっていた五十嵐先生をお連れして参加されたときは、心から新年のことほぎを述べさせていただけました。
 “Believe me” を歌って、さっそく五十嵐先生の開会の挨拶で始まり、各自の挨拶がありました。これは私には全く聞こえなくて、大変残念でしたが仕方在りません。でも元気そうに話しておられ、ほほえましく聞いておられる皆さんの顔が見られて何よりでした。
 そして、池田雅之先生古稀記念にと出版された『祈りと再生のコスモロジー―比較基層文化論序説―』のなかの小泉凡先生の「再生する文学―文化資源としてのラフカディオ・ハーン―」について学びました。
 この「再生する文学―文化資源としてのラフカディオ・ハーン―」の報告は、
はじめに 近年、全国的なふるさと創生の動きや、持続可能な共生社会の実現に向けた地域資源探求の動きとも深くかかわりながら・・・・ハーンが地域から採集した文学作品の原石ともいえる地域の基層文化を、文化資源として二次的に活用する動きが見られる。・・・・いくつかの事例を通して考察することにしたい。
 子ども塾の誕生―松江発の地域教育の場 2004年・・・・未来の松江を担う子どもたちに、現代社会の中で輝きを失わない小泉八雲の意味を継承する企画を!という意見があり、それに共感し、実践したのが「子ども塾―スーパーヘルンさん講座―」だった。・・・・未来の松江を担う子どもたちに筆者が伝えたかったのは、ハーンの五感力だった。・・・・「子ども塾」の成果を数字で計ることは難しい。・・・・五感体験の結晶である文学作品が、現代の子どもたちの五感教育に生かされ、再生されていく現場に立ち会えることを誇りと喜びをもって見守っている。
怪談をツーリズムに ・・・・2008年から「松江ゴーストツアー」という着地型観光プランを展開している。・・・・2015年末までに226回開催され、述べ4379人が参加する人気の観光プランとして成長した。・・・・ゴーストツアーは、地域住民が地域に矜持を覚える機会を提供する側面もある。≫
地域資源としての再生譚では、 ハーンの作品の「勝五郎の再生」などにある、仏教の輪廻転生の教義に似た思想は世界中にあり、このように、教養を「人間を自由にする技術」として発信していくこともできる要素についても考えられています。
、オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン・プロジェクト ここでは、エフスタシワ氏が八雲の精神性の根幹を「オープン・マインド」と捕らえたことによって、民族・宗教紛争の拡大する21世紀に必要な思考として、世界中の人にわかりやすいアートを通して表現する活動が世界中のあちこちに広がりを見せていて、再生する文学の力をひしひしと感じているとの報告です。
おわりに ・・・・今後、顕彰そのものの方向性が、文化資源の創出にシフトしていくのかもしれない。≫といったものです。
 長くなってしまいましたが、私は、ざっとハーンの会で説明を受けて、、帰っていちばんに、「国立大学法人法の概要」を、ネットで検索しました。つづいて、富山大学における「ヘルン研究会」、池田雅之先生の「鎌倉てらこや」、さらに「宮島てらこや」を長時間かけて検索しました。そしてあらためて、小泉凡先生の報告を何度か読み返しほっとしました。 
 ハーンが、松江の子どもたちに接したように、凡先生が子どもたちに接しられたからこその、≪五感体験の結晶である文学作品が、現代の子どもたちの五感教育に生かされ、再生されていく現場に立ち会えることを誇りと喜びをもって見守っている。≫の締めではなかったかと思え、新年早々良い報告が読めたことに感謝いたしました。
 また、私たち広島ハーンの会は、出席するなり「すみよし」月報をありがたくいただいたりして、いながらにしてハーン顕彰とともに、ハーンの文化資源を価値観共通認識尺度として世の中を見つめながら会が進行し、文化資源再生の様相を呈していると感じたことでした。

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