『獄中からの手紙』 ㈠
2017/02/27(Mon)
 中島岳志著 100分de名著のテキスト『獄中からの手紙』を読みました。
 『獄中からの手紙』とは、ガンディー(1869~1948)の書いた手紙のことです。
 ガンディーは、インドの独立を導いた人です。

 もともとガンディーは、なに不自由なく育ち、悪いとは知りながら、肉を食べたり、たばこを吸ったりしていました。そして、弁護士の資格を取るためにイギリスに行き、イギリス紳士になるためにダンスやバイオリンを習ったり流行の服を追い求めたり、インドにおいてきている妻子がありながら、別の女性の気を引いたりしていました。
 弁護士の資格を取得してインドに帰っていると、南アフリカから弁護士の依頼が来たので、ビジネスチャンスとばかりに出かけます。弁護士になってイギリス人と同等の地位を得たと思っていたのに、南アフリカでひどい差別を受けたことから、ここでは当然のごとくインド人が有色人種として差別を受けていることを知り、政治に目を向けるようになるのです。
 差別の問題を考えていて、この根っこが人間の欲望であることに気づきます。そこで、まず自分の欲望を去る決心をします。そして、真の文明とは、需要と生産を増やすことではなく、慎重かつ果敢に欲望を削減することだと考えるようになり、その考えを一般の人たちに届く言葉や行動で示していくようになります。
 7年、南アフリカにて、アジア人強制登録法、8歳以上のインド人に対し指紋の登録を義務化し違反者には罰金などを科すというのに対して、インド人はこの法に従わないと登録証を燃やします。罰せられても暴力で反抗しないで、牢屋に入ります。他のインド人もこれにならい牢屋はインド人であふれ、ついにイギリスが譲歩してインド人は人権を取り戻します。
 インドに戻っては、1919年独立運動の指導者となりローラット法に反対し、一斉休業を行います。
 1930年イギリスが塩の製造を禁止していたことへの抗議運動として夢暴力を胸に「塩の行進」を始めます。海岸まで380㎞歩く間に多くの人が集まり、数千人規模で塩を作り始めます。塩は当時はイギリスの専売であったため、ガンディーは逮捕されてしまいます。
 塩は人が生きていくうえで不可欠のものです。ガンディーは、それを得るのは人間の真理だという信念を持っていたのです。
 投獄され、修行場(アーシュラム)にいる弟子に送った、ヒンドゥウ教に基づく生き方の心得を書いた手紙が1933年に『獄中からの手紙』として出版されたのです。

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『岡山の夏目金之助(漱石)』 ㈡
2017/02/26(Sun)
岡山で、亡くなった兄の義姉の嫁ぎ先である金田の岸本家滞在中、瀬戸内海の幸に遊んだことや、義姉の実家片岡家滞在中に洪水に巻き込まれたことを、子規への手紙に
≪実に今回の大水は、驚いたような、面白いような、恐しいような、苦しいような、種々の元素を含み、岡山の大洪水、又、平凸凹一生の大波乱というべし。…≫と書いて送ったように、漱石が岡山で経験したことは、この本をとおして漱石にとって捨て置かれることではないことを知ります。
 漱石が水害に遭ったときの地元の人からの話を読むと、漱石の性格がよく表れているように思います。
いち早く危険を察知した漱石は23日の午後9時頃、とにかく自分の荷物をまとめて、さっさと避難します。避難から8日目の8月1日どこからともなく滞在先の片岡家に帰ってくるのです。   
 あいだで片岡家の人と出会えなかったために、濁流に飲み込まれたのではないかとずっと心配されていたのでした。家の片づけを手伝わなかったの、散々心配しただのと苦情も言われます。
 しかし、これが末っ子の思考回路の特徴のひとつと思えます。
 私もそうしたかもしれません。
 まず、猫かわいがりはしてくれるけれど、家にとって大切な存在だと思われてはいない。そうなると、特技はただひとつ逃げ足の速さです。
 掘り出し物のエピソードとして、水害に遭う前、義理の姉の再婚先から、越中褌だけをまとって一人で大蛤を拾いに出かけ、10っこ余りも掘り出し、入れ物がなくて褌に包み素っ裸で帰ったという報告もありました。
  廉孫が、漱石について語った部分の引用があります。
≪教場での先生は厳格な、八釜しい、皮肉な先生と一部の生徒には映じていたでしょう。…≫とあるところ、近年、インターネットで情報を得るようになって、湯浅廉孫らのように可愛がられた人とはべつに、当時の教え子からのエピソードでは、藤村操の自殺が、漱石に授業でひどく叱責された直後だったためにそれを原因とするような記載に出合ったことがあったので、この引用が、気になりました。
 内田百閒は、ここでは、あまり触れられていませんが、映画『まあだだよ』をずいぶん昔見に行きました。また『続 吾輩は猫である』は、私は読んでいないのですが、夫は、それを読んで、ずいぶんおもしろかったと教えてくれたことがありました。

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『岡山の夏目金之助(漱石)』 ㈠
2017/02/25(Sat)

 横山俊之著・熊代正英編著 岡山文庫280『岡山の夏目金之助(漱石)』―岡山逗留と愛弟子廉孫― を読みました。
 このたび、風呂先生からいただいた本です。

 文庫本ですがしっかりした用紙で写真満載です。
 岡山では、明治25年、漱石25歳のとき帝国大学文科大学英文科の学年末試験をおえて、7月7日からの夏期休業を利用し、松山に帰省する正岡子規とともに初めて関西方面への旅立ち、神戸からは一人で岡山にきたときのことと、漱石にゆかりの深い湯浅廉孫のことを顕彰する事業の成果を、この岡山文庫280で発表しているようです。さらに、岡山大学では「池田家文庫」にひきつづき、湯浅廉孫の「湯浅文庫」の整理もすすめているということです。
 子規と神戸で別れる10日、岡山へ着く7月11日から、岡山を去る  8月10日までの漱石の足取りへの探索は、相当なページをさいて、まるで、松本清張の推理小説『点と線』を読むような綿密さでなされています。読者は写真や地図や、乗り物の時間表をもとに実地検分をせざるを得ないほどです。
 岡山でのことは、私たち年代の漱石の愛読者にとってどんなにか新鮮な研究と思えます。私たち年代の読者が、気軽に漱石を買って読んだ時代の手元の単行本を取り出して、その中の漱石の年譜があるものを何冊かざっとみてみました。
 ≪1892(明治25)25歳。5月、東京専門学校講師となった。夏、子規と京都から堺に遊び、松山に子規の家を訪れ、高浜虚子と知りあった。10月「文壇における平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」を発表した。≫ が定番で、あと北海道に移籍したこと、「哲学雑誌編集員になったこと、『老子の哲学』『中学改良策』論文があるのもあり、やっと江藤淳の『夏目漱石』に、「一人岡山滞在」があるだけでした。

 漱石があとで岡山から子規のところへ行くのに、ここで一人岡山に向かったのは、夏目家家長代理として、兄嫁小勝の実家片岡家へいき、亡くなった兄の養子先である臼井家から片岡家への戸籍の復籍と、小勝の再婚先である岸本家への再婚祝い、臼井亀太郎と竹との婚約など、法的手続きと慶事のために出かけたのでした。
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お寺参り
2017/02/22(Wed)
 今日は四丁目の浄土真宗報恩寺というお寺にお参りをしました。
 何しろ観光ではなくて、葬式や法事以外でお寺にお参りに行くのはおおかた50年ぶりくらいです。
 一人暮らしで、体が不自由な知り合いの人が、電話してこられました。お寺にお参りしたい・・・・。あー、一緒に行ってほしいのだなと思って、夫に車で送ってもらってのお参りでした。
 正面からすこし左側の一番前の席が取れたので、ラッキーでした。しかも、講師の方の真ん前でしたので聞き取れない部分がずいぶんありましたが、どうにか行事についていくことができたように思います。
 まず、仏教女性会で、昨年亡くなられた3人の方のために、「仏説阿弥陀経」を全員で称えます。私も持参した輪袈裟を首にかけて、数珠を手に、「仏説阿弥陀経」を唱えました。立派なお堂に入りきれないほどの参拝者です。読経の声が響き渡りました。
 そのあと、仏教婦人会の心得のようなものを、全員で読み上げられたり、『御仏にいだかれて』を全員で歌ったり、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、わららが今度の一大事の後生御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。・・・・。」の「領解文」を読み上げたりして、法要が続き、最後に女性会会長の挨拶がありました。

10分の休憩をはさんで、

 湯来町西法寺吉崎哲真師の法話でした。
 「苦悩の有情」ということについての法話です。
 ここでの「苦しみ」は、「自分が思うようにならない」こと、とまず定義されました。たとえば、けがをして苦しむというのなどは除外されてのお話のようです。
 苦しみを四苦八苦に分類します。四苦とは、生・老・病・死のことで、八苦は、生・老・病。死に加えて、
  愛するものと別離すること―愛別離苦(あいべつりく)
  怨んで憎んでいる人に会うことをいう―怨憎会苦(おんぞうえく)
  求めるものを得ることができないことの―求不得苦(ぐふとくく)
  肉体が思うままにならないこと―五蘊盛苦(ごうんじょうく)
をいうとのことでした。
 これらの苦は情があるから苦となるのです。情がなければ、ただの現象で、楽なのです。苦と楽はセットで、反対のものに目をそらせて生きているだけなのです。とのお話でした。四苦八苦は仏教用語だったのでした。
 本堂の柱に、美しい字で、
    み仏の み名を称ふる わが声は わが声ながら 尊とかりける
                                       とありました。
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『最後の秘境 東京芸大』
2017/02/21(Tue)
 二宮敦人著 『最後の秘境 東京芸大』―天才たちのカオスな日常 を読みました。
 ここでは、音楽部門で指揮者を目指す学生に聞いた話についての部分についてです。
わたしの場合、特に耳の手術以降聞こえは悪く、さらに受け止める音波が異常になっているので、音楽が本当はこんな音ではないのだろうなと思うし、もともと音楽がわからないのでほとんど聞かなくなりましたが、この本を読んでいて、聞き方を変えて聞いてみようと思うことができそうです。
音楽は呼吸だというのです。指揮者の本番での仕事は何か?ということで、
≪「オーケストラを物理的に助けるのが仕事になります」物理的、の言葉には、まるで外科医が傷口を縫うようなニュアンスがあった。
「なかには合わせにくい、難しい曲もあるんですよ。小節ごとに拍子が細かく変わってしまう曲とか。そんな時、たとえばホルンが落ちるとしますよね。あ、落ちるというのは、リズムがわからなくなって演奏がとまってしまうことです。その時、ホルンに教えてあげるんです。指や表情、目で『今、ここだよ』と伝えるんです。そうして復帰させる」
もちろんそれは演奏の真っ最中。指揮者は振りながらの作業だそうだ。≫
そうやって全員で海を渡りきる。交響曲という海を、呼吸を合わせて泳ぐ。ピアノ奏者もピアノで大切なのは呼吸。音楽はもともと歌から始まったので、歌でいう息継ぎみたいなものがピアノでも必要で、息継ぎがない演奏は聞き苦しくなってしまう。管弦楽の人も音楽の流れに合った呼吸をして、音楽の表情を作っていき、楽器とも、仲間とも、お客さんとも一体になって呼吸をしなくてはならないといいます。ここまで読んでいくと河合隼雄の、『おはなしおはなし』のなかの「鼎談」と「指揮者」の話を思い出します。
彼は、鼎談は難しい。ところが、見事な鼎談を聞くことができた。として、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの三重奏の演奏がまさに理想的で調和的な鼎談をしていて、聞いていて、不思議だったのが、さらに形を変え、作曲者、演奏者、聴衆、三者の鼎談に発展してきて対話の質も変わり、活気を帯びて立体化してきたことを感じた経験を述べていました。
 「指揮者」では、オーケストラを聴きにいって、エドガー『交響曲一番』は、威風堂々と進んでいくような艦隊のように聞くことができたが、武満徹氏の『オリオンとプレアデス―チェロとオーケストラのために』を聞いたときときは、
≪その艦隊の上に、すーと飛んできた一羽のかもめの命が、艦隊よりも重みを持っているように感じさせたり、艦隊を浮かばせている海のきらめきが急に焦点づけられたり、艦隊も空気も、何もかもが、そのときどきの流れに従って、卒然として輝いたり、重みを持ったりする。こうなると、この全体を「統率」することは、連合艦隊総司令長官をもってしても難しくなるのではないか。・・・武満さんの曲はエドガーのように中心に一人の人間を立てる曲とは異なるのである。≫とすこし音楽の妙味にふれられ、日本の音楽は古来指揮者なしで演奏してきたので、こんな演奏も今後・・・などとあり、あんなふうに聞くのだと思いました。
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第198回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録 ㈡
2017/02/20(Mon)
風呂先生は今回のニュースでは、雪は人を親切にすると書かれています。
 本当にそうかもしれません。私の団地は南抜きの団地なので雪解けは早いのですが、もともと風呂先生のお宅よりもっと北で、積雪が多いです。朝、外に出てみると、私の家の前の雪がいったんきれいに取りのけてあり、その上からまた少し積もっている感じでした。わたしは、あと積もった雪とお返しに近所の雪かきもやりました。そして雪かきのスコップが壊れたという友達の手伝いをして、そのあと近所の高齢で一人暮らしのご婦人のうちの雪かきをし、大汗をかきました。いつも車で来られるホームヘルパーさんが歩いてこられ喜んでくださったので、大汗をかいた甲斐もありました。とんでもない積雪のおかげでみんなが心を通わせることができました。
 「勝五郎再生記」についての説明がありました。輪廻転生からくる再生といえば、ダライ・ラマを思い起こします。やはりなかなか信じられないのですが、信じることで、自分を取り巻く他人、自分を取り巻く自然、ありとあらゆるものへの慈愛の気持ちがもてるなら、より人生を深く生きていくことができます。そんなことを考えさせてくれる話なのだと思えます。 
「飛行」の説明もありました。11月のハーンの会での井野口慧子氏を迎える予習で、飛行について考え、自分は飛ぶ夢など見たことがないと思っていましたが、そのことを忘れてしまったころ、自分が飛び降りる夢を見ました。何だかそんなに高くもないところから飛び降りる気になったので、いざ飛び降りようとすると実は高い崖の上で下は海、まるで東尋坊です。ところが実際降りてみると、そんなに高くなくて、柔らかいぬいぐるみの感触のような床にとんと降りたのでした。さっそく夫に話すと大笑いされましたが、じっと心に思っていれば案外夢に見るのではないかと実感した人生初体験の出来事でした。
 1月11日の中国新聞の切り抜きのコピーの添付については、加計家から発見された蠟管の声が再生できないと書かれてあることについてあとで風呂先生に、「NHKで再生するというのをやって声が出ましたよ」と言ったのですが、帰っていっしょにテレビを見た夫に話すと、「音は出たけど、劣化がひどくて聞き取れなかった。骨相学から声を復元する人がいてその人が作った声が流された」と述べました。やはり再生できなかったようです。蠟管から、「せんだって、僕が学校へ行くのは学生に教えるためではない、飯櫃の足しにするために出かけるのだと言った」という言葉などが聞き取れるようになるのを楽しみに待つことにします。
 そしてやはり、2月18日の中国新聞では、「漱石と広島」というタイトルで大正13年新設の広島高等学校(広島大の前身の一つ)の初代教頭で赴任してきた大谷繞石(正信)と漱石との関係に触れてあります。
 19日、夫と孫の発表会のために広島へ出ましたので、そのあと、厚着のため、汗を浮かべる夫を誘って繞石の句碑の前に立つことができました。
  広高の 森の東風にも 子らの声     繞石先生に添削をお願いしました。

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第198回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録 ㈠ 
2017/02/19(Sun)
 2月18日(土)久しぶりの青空に映える道を「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 開会の挨拶では、寺下さんが、自分の翻訳したウォーター・ラッセル・ミード著 『神と黄金』の「書評」が掲載されている本を示して、現今のアメリカ大統領のありようなどへの思いを話され(あまり聞こえなかったのが残念でしたが)、その本をみんなに回してくださいました。
 あとで回ってきたその本を斜め読みしてみると、著者が池内恵という人だったように思うのですが、アングロアメリカは、一度も負けたことがない。そのキリスト教の国に対して、イスラム国が反発を強める図式について書かれてあるように思えます。キリスト教にもたくさんの分派があるが、イスラム教にもいろいろ分派があり、それぞれの共通点も多々あることも書かれてあったように思います。あるいは、ただもともとキリスト教国が理論的で正義を標榜していて、世界の中心的存在をなしているのはなぜ?みんな考えてみて!といったように両者の歴史や立場を今一度検証してみる必要があるのではないかと提議している本かと読み取っていきました?
 リベラルという言葉の解釈がキリスト教は、キリスト教のそれぞれの宗派は違うところもあるけれど、その違いを認め合って、やっていくことだとあり、仏教では、みんな同じ仏教の中のそれぞれ違った部分だからと寛容的なことをいうと、この前読んだ100分de名著のテキスト『獄中からの手紙』に書かれてありました。イスラム教ではどのように理解するのでしょうか。マルクス主義の国が崩壊して、代わりにイスラム国が反発を強めたのはどうしてでしょうか。
  ガンディーは、宗教は真理を求めながらも、もともと人間から生まれたものだから、どのような宗教も完全なものはない。でも真理を求めることについては同じなのだから、真理を求める巡礼とか断食による「行」によってつながろうとしました。
 レヴィ=ストロースは、歴史による進化「未来に向かって発展していくことによってパーフェクトなものが人間の前に現れるというのは幻想である。もし、そんなものがあるとしたらそれは人間の希望的夢想である。十九世紀の欧米で確立され、その後人類に大きな影響力をふるってきた「歴史」と「進歩」の思想が、いま私たちの思考にかさぶたのように覆いかぶさってきているが、そのことは現代の世界に危機をもたらすともあるといった考えが頭の中で勝手に錯綜していました。
 とりあえず、イスラム教やイスラム国について私は何も知らなさすぎるので、思いがわけのわからない方向へと飛躍していったのです。
 いろいろ最近読んだ本から考えたのですが、実際には、寺下さんが訳されたふたつの“G”『神と黄金』とはどんな本なのでしょうか。
 この記録が、開会の挨拶だけで横道にそれてしまいました。

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『水の女王』
2017/02/18(Sat)
中村真一郎 著 『水の女王』を読みました。
 昭和38年(1963年)、彼が45歳のときの作品です。
 河合隼雄の「二十一世紀のおはなし」というエッセイの中に、中村真一郎の『王朝物語 小説の未来に向けて』という作品が取り上げてありました。
 ≪それでは二十一世紀のことを考えるのに、どうしてわざわざ古い物語を取り上げるのか、ということになるが、これについて中村さんの考えをごく簡単にいうと次のようになる。十九世紀に生まれた「純粋客観主義」の小説が行き詰ったところで、二十世紀になると、人間の内界を探索しようとする、いうならば人間の「無意識界」を問題とするような小説が生まれてきた。そして、二十一世紀には「人間の魂の全体と社会の全貌」をとらえるような「つくり話」が生まれてくることになるが、そのヒントを王朝物語が提供してくれるというのである。≫
 とこのようにです。
 私は、とりあえず中村真一郎の我が家にある彼の作品で一番短いもの『水の女王』を読んでみました。

 なにはさておき、とにかくびっくりしました。
 この作品は、いまマレーシアで死亡したとして、毎日報道されている北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄の金正男氏を主人公にしたような「おはなし」でした。
 この「おはなし」は、若い王が、兄の帝の住む都から、はるか東の川下にある自分の居城に帰っていく途中の心境を語っているのです。
 冬を迎えるに食料にも窮する自分の小さな領国に向かいながら、自分がどうしてこのように仲のよかった兄から、いつ殺されるかわからないという恐怖におびえるようになったのか。いったいいつから疑われるようになったのか、を自問自答するのです。父の帝が、人前をはばからず、兄に位を譲ろうか、それとも自分にしようか、能力を競ってみろ。などというところから、自分の周囲にも家臣団が取り巻くようになり、自分の友人も自分を王位につけようと策略を弄し始めたことが兄の取り巻きの家臣を刺激し、自分と兄との間が冷たくなったのだ。と思うところから、武勇で知られた王が帝である兄に暗殺されるのを見聞きしたことなどを思うにつけて恐怖に締め付けられるのです。
 自分は、父が捕虜として奪った敵の一族の妻に思いを寄せたことがあった。父はその女性を兄に娶わせることで勝利の快感を味わった。二人の子どもができていたが、自分が思いを寄せていることがわかると兄は女性を殺してしまった。あの世に行ってしまった女性を思い慕うことで、今を何とか持ちこたえるのに精一杯の気持ちで自分の国に向かっていくという話ですが、切羽詰った心情を現す表現が独特でした。
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『おはなしおはなし』 ㈡
2017/02/17(Fri)
 どのエッセイひとつ読んでもなんだかすごいなと感じさせられます。と先に書きました。㈠では、最初のエッセイだけで終わってしまったので、それでは寂しい気がしてもう二つ。

 著者について、どうして京大の理学部を出た人が心理学などをやっているのだろうと不思議に思っていました。
「ただ座っていること」では、それへの疑問に答えてくれます。卒業後数学の教師をしていたが、教師自身もなにか学んでいないと堕落してしまうといわれてやはり京大の大学院(旧制)で心理学を学んだことが書かれています。こんな立派な話ではありませんが、じつは私も就職してから臨床心理学の聴講を始めていました。ところが講義に出てみると先生はほとんど出張で、教室では幼児教育学科の学生が、順にテキストを読むようにといわれていて、まじめに端から順に一人ずつ立って読み上げるのです。途中読めない漢字に行き当たると全員で年上の私を見るのです。仕方なく読みをいうといった状況で講義時間が終わります。1年で行かなくなってしまったのですが、さすが後に明恵に傾倒するようになる人だけあって、著者はそのようなことやいろいろ困難はあったでしょうが世界的な臨床心理学者になられたのです。数学教師としては、一生懸命指導したが特別生徒の学力がついたというのでもなかったそうで、いま思えば「ただ座っていること」のほうが大事だったというのが主旨でした。

 「公案としての子ども」では、兵庫教育大学大学院での講義の話でした。多くは実際に現場で働いている人たちの学生へ向けての講義だったそうで、深い講義が成立する場面での話です。
 子どもがすぐにバレるような盗みを働いたことを、禅のように「公案」として、考えることによって、子どもは自分の悩みを誰かに気づいてほしい、誰かに聞いてもらいたいが話す勇気がないので、無意識のうちにすぐにバレるような盗みを働いたのではと気づき、そっと呼んで子どもの話をきいてみると、誰も知らない悩みを打ち明けその話を聞いてやることで子どもは気持ちが軽くなってゆき元気を取り戻す機会に恵まれるかもしれない。
 禅の場合常識的な答えをいうと老師に「喝」とやられる。大人の常識的な判断ではなく深くさまざまな方面から考えてゆく。意識的にやったことだとすれば、常識的に考えての原因が考えられるかもしれない。しかし、無意識のうちにやってしまったとしたらどうだろう。
 子どもの問題行動を「考案」のように深く考えてみては、という話が聞けるとは・・・。
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『おはなしおはなし』  ㈠
2017/02/16(Thu)
 河合隼雄著 『おはなしおはなし』をしんしんと雪の降る夜読みました。これもさきの『河合隼雄の幸福論』と同じようにエッセイです。
 ただ、タイトルも表紙の装丁もかわいいのです。
 いつも、高校生が読んでもわかる言葉で書きたいとありますが、ほんとに辞書を引くこともなくほんわかと読めます。このことが、専門の人だけでなく広くよく読まれることにつながると思えます。しかし、どのエッセイひとつ読んでもなんだかすごいなと感じさせられます。

 読み始めるとすぐ「明恵三題」として、明恵の話があります。
 『明恵 夢を生きる』が版を重ねて広く読まれていることをうれしく思っていると、これが英訳されて写真も多く立派な本に出来上がったことと、西川流の西川千麗さんが、この本を読んで、「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようは)という舞を舞われるとの知らせがきたという、明恵によくあった共時性が自分にもおこったことの喜びから始まっていますが、「そんなことで喜ぶようではたいしたことないよ」と明恵に言われそうな気がしたと終わるところが河合さんらしいと思えます。
 この河合さんらしいというのは、あれだけ強い意志を持って仏教の教えを守った明恵に心酔するようになったといいながら、読者にはどのエッセイを読んでも、心理学療法士として守るべきこと、あせらない、押し付けない、じっと聞いて待つ、決め付けない、などこういった姿勢を守っておられる筆遣いが伝わってくることです。まさに「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようは)ということを胸に秘めておられると感じられてすごいなと思えるのです。

 この共時性ということひとつをとってみても、結構誰でも経験していると思えます。Aさんのことを考えていたら偶然Aさんから電話がかかってきたというようなことはよくあります。しかしこんなことがなぜ起こったのかというようなことを深く突き詰めて考えるようなことはめったにありません。しかしこのことを考えることが何かにつながると思えるようになるのです。

 『明恵 夢を生きる』も、ずっと読んだときにはここまで考えた記憶がないのですが、というより考えても及ばなかったのですが、今回ずっと深く考え込んで夢を見ることについて考えていたからでしょうか、読んだあと夢を二度見ることができました。しかも、見た夢について目がさめてから考えることができました。
 どんな人との出会いでも、出会った人の体と心と魂についてじっと深耳を傾けることのできる人だからこそのエッセイだと感じました。
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「おしどり」
2017/02/15(Wed)
 小泉八雲著 平川祐弘訳 「おしどり」を読みました。
 『怪談』の中に収録されている短い作品です。
 諸兄那香編訳 小泉凡監修 『小泉八雲の“怪談”で英語を学ぶ』と、田代三千稔訳『対訳ハーンⅠ〈怪談・奇談〉』も家にあるので、三人の訳で、それぞれ1回ずつ三回読みました。
 短い作品なのでこんなことをして読んだのですが、昨年暮れの『広島ラフカディオ・ハーンの会』で朗読してくださった詩人の井野口慧子さんの朗読を思い描きながら読みました。

 尊充がある日、狩りに出かけます。その日は獲物がとれず、仕方なく帰りかけると川にオシドリがいました。おなかがすいていたのでこれを射ると、雄のほうに命中し、早速もって帰って調理してたべて休みました。すると夢に美しい女性が現れ、どうして罪もないあの人を殺したのかと、泣きながら、さらに自分は生きていられないと恨み言をいい、あす朝川に来るようにと言い残して消えます。朝起きて川に出かけると、雌のオシドリが岸に近づいてきて尊充をみつめて、自分のくちばしで自分の腹を割いて死んでしまいます。尊銃は髪をそって僧侶になるという話です。

 尊充という名前については、この平川祐弘訳では、このような漢字を当てて訳してあるのですが、ハーンはローマ字書きでSonjŌ とあるので、訳すにあたって、いろんな漢字が当ててあります。諸兄那香編訳 小泉凡監修 『小泉八雲の“怪談”で英語を学ぶ』では馬充となっており、日本語版原典では馬充(うまのじょう)となっている、とわざわざ注意書きがあります。田代三千稔訳『対訳ハーンⅠ〈怪談・奇談〉』では孫充となっています。この話は『古今著聞集』のなかの一編によったものと注釈がありますので、この訳者がみた『古今著聞集』ではそのような漢字が当ててあるのかもしれません。

 ハーンは欧米の読者に向かって、「オシドリ」に注釈をつけて、昔から東アジアでは、これらの鳥は夫婦の愛情を象徴するものだとみなされている。と書いていますが欧米では見かけられない鳥だからだそうです。

 ハーンは、昔から、日本では夫婦仲がいいといわれて夫婦愛の象徴のように言い伝えられて、仲のいい夫婦を「オシドリ夫婦」ともいわれていたことを知っていたでしょうか。あるいは、この話を聞かせてくれた人から聞いたでしょうか。夫を追って死んでいった雌のオシドへリの後追い自殺を、自殺を禁じているキリスト教の人たちにどう伝わったでしょうか。
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「米良、椎葉の山奥で」
2017/02/13(Mon)
 宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代 巴監修 『残酷物語二』のなかの「米良、椎葉の山奥で」を読みました。
 昨年秋の暮れ、九州への旅で椎葉村を訪ねました。その時、なぜ平家の落人が椎葉村にのがれてきたのかという疑問がわきました。
 この記録には、「口碑によると」としてそれへの説明がありました。
 ≪壇ノ浦で滅びた人たちがこの山郷を知りここへおちてきたのは、肥後の菊池氏の心からなる援助であったといわれる。もともと菊池氏はその祖先を大宰府弐藤原隆家に発していた。寛仁3年(907)刀伊の賊の来寇にあたってよく防御し、そのまま九州に定住した。・・・源平合戦のときには平氏にぞくし菊池隆直は一ノ谷以来よく奮戦して平家に尽くした。しかし、ついに平家滅亡の悲運にあい、故郷に帰って家を固め身をかためて、滅亡をまぬかれた。この菊池の背後に、五箇も椎葉もかくまわれていたのである。≫と書かれています。寛仁3年(907)は、1019年のまちがいだろうと思います。この菊池氏についての興亡が椎葉村に住む落人の行く末にも多大に影響することもあって、詳しく書かれてあり、直前に読んだラフカディオ・ハーンの『怪談』のなかの「ろくろ首」にでてくるヒーローの僧侶が、もと菊池氏の家来の侍だったのでつい興味もわいて熱心に読めました。
その、平家の落人たちが、山深い世界で息をひそめて暮らしてゆくなかで、中央勢力の流れにも影響を受けつつ、内部抗争によっ てつらい歴史をたどったときのことが書かれています。
このように記録しようと思うと、口碑ということのせいなのか、時代の流れと話がかみ合わないと思えたりして、何度か読み返して、自分なりに、土地の人が聞き伝えてきたことの本意をくみ取ったのですが自信がありません。そして作者が、あるいはのちの人が、米良地方と比較して、やりかたによっては、ここまで内戦をしなくても暮して行けたのではないかということの結論に到達することで、ご朱印状や権威、太閤検地への恐怖が、世間に知られない山の奥地で暮らす人たちそれぞれへどのような影響を与えたのかの一例を知ることになります。
 椎葉村では、南に伊東氏、島津氏、西に相良氏などがいる中で、那須祐貞の4人の子ども左近と九郎右衛門は小崎、弾正は向山、将監は神門にいてあい助けて山中を統一していて椎葉三人衆と呼ばれており、なかでもご朱印状を取り付けるほどの豪胆な弾正に、検知に協力をさせようとの中央の思惑もありながら、その息子久太郎の代になると、重い課税を課して住民に恨みをかうようになり、悪巧みにあって父子ともに殺され、それ以後検知のための役人に対応できるものがおらず、中央への反発とみられ多くの人の命が奪われていきました。それ以後、結局幕府の直轄領となったということでした。
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『河合隼雄の幸福論』
2017/02/12(Sun)
 河合隼雄著 『河合隼雄の幸福論』を読みました。
 安佐北区民文化センターで、交通安全協会の研修があったのでついでに図書館に立ち寄りました。明恵で検索したのに、不思議とこの河合隼雄の『河合隼雄の幸福論』と、『おはなしおはなし』が表示され、この2冊を借りました。
 
 でもこの本は、私のカウンセリングになりました。
 ほんとうにリラックスできました。
 彼の本は何冊か家にもあるような気がするのですが、このように自分がカウンセリングを受けた気分になったのは初めてでした。
 結局幸福というものは、人によってみんな違うし、この本によって自分はもしかして取り越し苦労ばかりしているのではないかと、気づかれる人も多いのではないかと思えます。
 ともあれこの本はよく読まれていて、1998年(平成10年)5月に初版が発行された本が市場になくて、息子さんの河合俊雄氏が2014年にPHP研究所から装いを新たに発行されたもののようでした。
 なかに「カルチャー・リッチ」というお話があります。著者もこの言葉は最近アメリカに行ったとき初めて聞いたということで、
 ≪アメリカの人たちが今、文化差ということに非常に強い関心を持っていることを感じた。これまでは、どうしても欧米中心という感じがどこかにあったが、現在は自分たちと異なる文化についてよく理解し、それを尊重することによって自分たちの生き方をより豊かなものにしてゆこうと考えるのである。このような態度は、これまで無視し続けたともいえるアメリカ・インディアン(ネイティブ・アメリカン)の文化に対して、特に顕著に感じられる。≫
とあり、「文化と心」について論じるシンポジュームで、自分を含め3人が論じたということでした。
 ご自分ははじめてアメリカの土を踏んだときの自分のカルチャー・ショックの体験を交えながら日米のものの考え方の差について話しをした。
 続いて、グーリンベルグ博士はアメリカのクリスチャンたちのなかでユダヤ教徒として生きてきた体験をかたり、片山京子さんはアメリカ人を父とし、日本人を母として日本に育ったこと。日本で混血児として育つことの苦しみ、そして、どのようにして自分がアメリカに来たか、そして、父親に出会うことができたかを語られた。
 これらのことは、個人の体験を深めることによって普遍的なことを見出す。個より普遍に至る道がある。文化差をはっきり認めてお互いに得るところがある。このようにして得られるものが「カルチャー・リッチ」ということだそうです。
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「ろくろ首」
2017/02/11(Sat)
 諸兄那香編訳 小泉凡監修 『小泉八雲の“怪談”で英語を学ぶ』のなかの「ろくろ首」を読みました。

 あとの解説に、≪日本でお馴染みのろくろ首といえば、姿は若い娘で、首が伸び縮みして、行灯の油をなめるという化け物。かっては湾曲した鏡を用いたからくりものだったのか、いんちきろくろ首の見世物もあったそうです。…≫とありますが、このろくろ首という話は、そのようなものではありませんでした。
 
 九州の菊池氏に仕えていた武勇すぐれた磯貝平太座衛門武連という武士がいました。菊池氏が滅んだので回竜という僧侶になって旅に出ました。甲斐国の山中で、野宿をしようとしたとき村の男が通りかかって、自分の家を宿にと申し出ました。彼の家に行くと、4人のものがいてが、それぞれ、作法を知っており、山中の人とは思えない丁寧な挨拶をします。主が、ある大名に仕えていたのに、身勝手な所業の為に一家を破滅させたので、お家再興を願って不幸な人を助けることで、自らの罪業に打ち勝とうとしているといいますので、その願いがかなうように経を唱えると約束します。
 経を読み上げて、水を飲もうと襖を開けると、5人の寝姿に頭がありません。『捜神記』に、頭のない体を別の場所に移したら、頭は二度と首に接合できないと書かれていたことを思い、主の体の足をつかんで外に押し出し、庭にから林の中に行くと5つの首は飛び回りながら、坊主を食べたいのに、経を読んでいて近づけないと話しています。ところが主は自分の体が動かされて接合できないことに腹を立て、4人を従えて回竜にとびかかります。回竜は4つの頭は打ち払って逃がしましたが、主の頭が袂にくらいつき離れません。回竜は、そのまま諏訪にやってきて、袂の頭の為にとらえられます。ついに役人の前に引き立てられ事情を聴かれ委細を話します。役人は自分たちが愚弄されていると腹を立てたが、一人の老役人がその首を見て『南方異物志』のことを思い出し、回竜の言うことが正しいといい、彼のもとの素性を聞いた。すると、役人たちも磯貝平太座衛門武連という武士を知っていたものが多く恭しく彼を大名の屋敷に送り届けた。大名は贈り物などして歓迎してくれた。回竜はまた袂に首をつけたまま旅を続けていた。すると、追剥に出合い、追剥がその首の付いた着物を自分のと変えてくれれば5両やるというので、取り換えまた旅を続けた。 追剥はしばらくして胴体を探し出し首と一緒に丁寧に葬ってやったという話でした。
 ろくろというのは、轆轤のことで、陶芸を作るのにつかわれます。もう一つ、井戸の滑車のようなものもいうのだということもわかりました。
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「死者の秘密」
2017/02/10(Fri)
 諸兄那香編訳 小泉凡監修 『小泉八雲の“怪談”で英語を学ぶ』のなかの「死者の秘密」を読みました。
この本を読んで「英語が身につきました。」の記録をしたいのですが、勉強そのものは全く省略しての日本語訳の読書です。
本当に短いお話です。
 丹波の国に稲村屋善助という裕福な商人がいました。お園という娘がおり、可愛く利発なところがあるので、京都に送り出し、雅なおけいこ事も身につけさせました。そして、長良屋という商人のもとに嫁がせ、子どもが一人いましたが、結婚後四年目に病で亡くなります。お園の葬儀が終わった日から、お園の亡霊がお園の箪笥の前に現れるようになります。亡霊は、箪笥のほうを恨めしそうに見ていました。夫の母親は、禅寺の太元和尚のもとに行き、彼女の霊をどのようにして慰めたらよいか相談をします。彼は、亡霊の出る頃、お園の箪笥の前で、経文を唱え、お園の戒名で声掛けをして、お園の人影に話しかけました。「わしはそなたを助けるためにここに来たのだよ。おそらく、あのたんすの中に、あなたが気にかける事情のある品があるのだろう。わしがあなたに代わって、それを見つけてみようかの」と、箪笥を調べて、一通の手紙を見つけ、それを誰にも見せず焼く約束をしました。その手紙はお園が京都で習い事をしていたときに彼女に書かれた恋文だったのですが、その秘密は太元和尚の死とともに葬られたという話でした。

 この話のもとになった話は『新撰百物語』に収録された「紫雲たな引蜜夫の玉章」だそうです。その話とちがうところについての解説も楽しく読めます。

 もとのはなしは、浮気をする女性がこのところおおいいが、浮気をしていると、死んだ後にも子どもが誰の子かわからないといったようなことからろくなことはないから、慎むように。という趣旨に受け取れるということです。
 しかし、ハーンの作品では、手紙は結婚前のことで浮気にはなりません。自分の死後、婚家の人がいい思いはしないし、子どものためにもよくないと、残されたの家族の幸福を願って、気遣う心が描かれているとのことでした。

 ほんとうに箪笥の中には、持ち主さえ気づかない隠し場所がけっこうしつらえられてありこんなこともありそうです。
 自分の死後の家族への気遣いまでできるような死に、尊いものを感じます。
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「薩摩の真宗禁制」
2017/02/09(Thu)
  宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代 巴監修 『残酷物語三』のなかの「薩摩の真宗禁制」を読みました。
 昨年秋の暮れ、水俣を訪ねて、駐車場のそばのお寺の境内に立ち入ってみました。水俣は鹿児島県との県境にある町ですが、このお寺はその昔、真宗を禁制にしている薩摩藩から、薩摩の人々が禁制を犯してこっそり抜け詣りに来ていたお寺として今では知られています。

 夫がこのたび、そのことが書かれているこの本を紹介してくれました。
 「水俣市浜町源光寺の本堂仏壇うらにある秘密の部屋」と説明のある、水俣で訪ねたお寺の内部の写真があります。もともとこの寺は薩摩国高尾野にあったものが、真宗禁制によって「帰命尽十方無碍光如来」の十字の名号と妻子をたずさえてこの地に来たので、薩摩寺とも呼ばれているということです。
 告発から隠れての信仰の方法もこのほか様々です。京都などの本山ではこういった人たちが申し受けるための小型の本尊や親鸞や蓮如の影像や正信偈もあったといいます。

 禁制での処罰については、処刑を受けた人の書き置いたものがあり、とてもとても読むに堪えないものです。しかし、命あっての書置きですが、それで絶命する人は数知れません。女性は競売にかけられて奴隷として売られ、以後の生き様も並ではありません。とらえられることによっての「崩れ」の歴史も少なくありません。それでも、村という村、町という町、浦という浦にひろがり信仰を守る人は後を絶たたず、さらに根強く信仰が守られたのです。ここまでして、自分たちの信仰を守ろうとした思いについては、
 ≪郷中にただ一幅しかない仏さまを出して焼き捨てられでもしたら、それこそ孫子末代たすかる法なし。祖先が身命をすてて守ったのに、わたしが命惜しさに白状できますものか、≫とあります。

 これらのことについて、島津氏は、代々禅宗、真言宗に帰依しており、キリスト教や法華宗、浄土真宗は贅沢な宗教だとして退けたという説もありますが、いずれにせよ、「真宗は教義が直截簡明で信仰もひたすら(一向)熱烈であり、勢いの赴くところついに治安を害するおそれあり」との領主、士族と、貧窮にあえぐ疲弊した農民との越えがたい対立として、残酷な歴史が続くのです。

 びっくりするのは、廃藩で領主島津家が取りのけられても、薩摩の真宗が解禁されたのは明治9年5月で、その時のことを、「くらがりの世」から「お開きの世」になったといわれたそうですが、地租改正や士族秩禄処分や、廃仏毀釈で世の中が混乱し、そういったなか西南戦争で薩摩の士族を中心とした薩軍が負けるまで平民の宗教である真宗は依然として迫害を受けたとあることでした。
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『明恵 夢を生きる』  ㈢
2017/02/08(Wed)
 河合隼雄著 『明恵 夢を生きる』では、明恵の残した夢の意味を探ってゆくことが目的です。そのためには、事前に彼の意識状態を知っておく必要があります。
 手始めに彼の略歴などを手掛かりとするようです。
 1173年に生まれる。親鸞も同年。父は高倉上皇の武者所に伺候した平重国。母に続いて父1180年9歳の時病死。同年西日本大凶作。1192年頼朝が幕府を開く。明恵20歳。前年より『夢記』を書き始める。1212年法然に対して『摧邪論』を書く。1232年北条泰時、明恵の教えの影響を受けて律令体制の革命的と言える「貞永式目」を制定。明恵60歳で示寂。生涯不犯唯一の清僧。
 明恵の生きた時代に思いがさかのぼります。
 そんな中で、彼の特徴を現わすエピソードの一つに、明恵4歳のころ美貌なので大臣に仕えせればと父が戯れを言ったが、自分は僧侶になりたいの思いから、顔に焼き鏝を当てたりして傷つけようとたことがあります。何気なく、読んでいたのですが、ずっとあとのほうで建礼門院に戒を授ける時、建礼門院が上座からの受戒の態を示したとき、自分は地位の低いものだが、仏門に入ったからには、国王・大臣にも臣下の礼はとれないので、誰かほかの僧からといい、建礼門院は非を悟って詫び明恵を上座に座らせ戒を受けたとある部分を読むと、自分の目指すものへの信念に驚かされました。
 さらに彼が、修業の高みに上るころの夢
 ≪或ル時夢ニ見ル、一ノ塔アリ、我昇ルベシ思フ、即チ一重コレヲ昇ル、ソノ上ニ又重アリ、…流宝流星ノ際ニイタリテ、手ヲ懸ケルト思ヒテ覚メヲハンヌ。≫さらに、20日ばかりして≪・・・先日ノボリオハラズ、今昇リキワムベシト思ヒテ、…今度ハ流宝流星ノ上ニ昇リテ…≫≪是等ハ成仏得道マデノ事ノ見ユル也≫
と自分の求道が高みに達したことを確認するのですが、求道者としてのきびしい姿勢での生活でついに病気になってしまいます。 このために、死ぬのは本望と思うのですが夢に
 ≪数日ノ後、夢ニ一人ノ梵僧来リテ、白キ御器ニアタタカニシテ毛立チタル物ヲ一杯盛リテ、コレヲ服ス・・・即時ニ其ノ病、気分ヲウシナヒテ平癒セリ。≫ここで、著者は、≪おそらく、この夢によって、明恵は自分の体を大切にすることを学んだのではなかろうか。・・・自らの身体と和解することを学んだのではなかろうか≫と述べ、釈迦にも同じようなことが起こり、他の比丘が修業を放棄したと立ち去るのだが、実のところ、釈迦の本質的な修業の段階はここでもう一段と進化され、このことが人々の救済に向かうことへとつながってゆきます。
 なぜか、昔に読んだアンドレ・ジッドの『狭き門』での葛藤を思い起こしもします。


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『明恵 夢を生きる』 ㈡
2017/02/07(Tue)
 河合隼雄著 『明恵 夢を生きる』の続きです。
 河合隼雄は、明恵の『夢記』を湯川秀樹に知らされ、梅原猛にも研究するように言われていたのに、仏教のことがわからなくて長い間取り組めなかったといっています。実際仏教用語などのわからないところは、協力者にお寺に行って聞いてもらったりもしたといっています。
 読む私たちはどうでしょうか。
 やはり仏教のことがよくわかりません。
 それに夢について、心理学的にわかるかというとそうでもありません。

 明恵は自分の見た夢を解釈して「案じて云はく、・・・・」と、述べています。それから後にくる言葉を法華経の教義に関係ある言葉として理解しなければわからないのです。ずっと以前これを読んだときに、解釈の内容もわからないのに、以後「案じて云く、・・・・」と口癖になっていたことを思い出し赤面するやらおかしいやらの思いです。

 できるだけわかりやすく書いてある、井筒俊彦の華厳哲学に関する論を基にして、難しい言葉だけれど、ここであえて象徴的な言葉、①事法界、②理法界、③理事無碍法界、④事事無碍法界があることを知って、その4つの法界を理解することが、「そこでは一々の小さな塵のなかに仏の国土が安定しており、一々の塵のなかから仏の雲が湧き起ってあまねく一切をおおい包み、一切を護り念じている。一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動しており、その他一切の塵のなかにおいてもまた同様である。」ということになると理解するのです。

 取り上げられた塵は「有力」であるが取り上げられなかった塵は「無力」である。「有力」なものを見る時、仏や菩薩には「無力」なものも両方が見えるのです。このようにいかなるものをも「有力」「無力」両方の側面から見ることができて、華厳は、あらゆるものが「深い三昧のうちにある」、というのだと述べられています。

 華厳について学んでいることと、華厳の境地を味わうことは、切り離せないものとは思いますが、ハーンは、亡くなる前の日の夢で、死の予告を受けたと理解されています。彼は、むしろ目が悪かったがために、近くに感じられるのに、ざっとぼやけておおまかにしか見えないもの、机にしがみついてレンズを通して見えたことのほかに、ほかの人にはどのように見えていたかを常に類推し、本当はどうなのかへの探究心による目を持って生きていたために、あらゆるものが「深い三昧のうちにある」ことを感じるのにより近くにいたのかもしれないと思えてきます。
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『明恵 夢を生きる』 ㈠
2017/02/06(Mon)
 河合隼雄著 『明恵 夢を生きる』を読みました。
 先に読んだ、高木大幹氏の『ハーンの面影』の 第17章の講演「ハーンを慕って六十三年」の「神秘な次元…夢の場合」の中でこの本のことが取り上げられています。
 以前買って読んだことのある本でしたので、読み合わせて考えることもできる一冊です
 ≪ハーンは正に、夢見る人でありまして、彼のエッセイにも、再話文学にも夢に関するものが多く、東大での講義「小説における超自然的な物の価値」はハーン文学の理解に大切なものですが、その中で「霊を信じないとしたら、どうすればよいか。夢を活用することだ。怪奇文学の芸術的要素はみんな夢の中にある。夢こそ、文学の素材の宝庫だ」と申し、ハーンがわれわれに理解して欲しいのは、超自然の力がどういうものかを、些かなりとも見せてくれるのは夢であるということなのであります。≫から始まり、ハーンが亡くなる前の夜に見た夢が、ユングの言う予知夢と思え、さらに実際自分が経験すると不思議を通り越して驚く他なく、ハーンの怪談奇談が身近に感じられると結んであります。
 明恵が19歳から亡くなる直前まで夢の記録をしたためたことや、彼の動植物に示す優しさとに、ハーンを結びつけてあります。

 河合隼雄は、本書の「仏僧と夢」のなかで、当時、仏教において、夢を前兆として考える態度がよくあり、『阿難七夢経』をはじめ物語、日記、仏教説話などに、夢に関する書物が多く、夢は重要な役割を占めており、夢想・観想の功徳が解かれていると述べます。そのことが、のちの世までも高僧と言われた人に、夢で神のお告げを受けたなどという云い伝えがよくあることなのだとうなずけます。

 理想と現実が大きく違うことは日常茶飯事です。その違いに、いかに妥協して生きていくか。あるいは、その違いの苦しさにどこかに救いを求めるか。あるいは我慢をし、精進して乗り越えていくか。
仏道を求めて、入門してみたけれど、ほかの入門者は堕落しきっていて幻滅を感じる。よい師もいない。そんな現実に立ち向かったとき、いっしょに堕落してゆくか、仏にすがって生きていこうとするのか、自分で、常に仏に問うて、仏の声を聞き取って、その道を歩む努力をするのか道は様々です。
 法然や親鸞は仏にすがる教えを説きます。苦しみ多い民衆の中に広く受け入れられ、信者は精神的にも強くなり、一向一揆などおこし時の政権に否定されていきます。
 そんな中で、明恵は常に夢想し観想し、精進の道を説いてゆきます。
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「ハル」
2017/02/05(Sun)
 小泉八雲著 平井呈一訳 「ハル」 を読みました。
 『心』の中に収録されている作品です。
 高木大幹氏の『ハーンの面影』の 第1章ハーンはなぜ小泉となったのか、の「カーカップ氏とハーン」のなかで、ハーンの帰化への影響としてのセツの特性を語るのにこの作品のことが記されています。
 ≪ハルは典型的な優しい、感じやすい日本の女で、この「ハル」というエッセイは、洗練された女の性格の素晴らしい研究だといい、幾つかの点で、ハルはハーン自身の日本人妻、節子を私に想いださせるのだと書いている。ハルの最後はまことに哀れで、セツのそれとは全く違うが、ハルの心、ハルの所業には、セツのそれらに通う面が確かにあり、カーカップ氏もそこに日本の女性の特質、そしてセツの美点を見出したのであろうと思われる。≫とあるので、そういった話だったかと今一度読み返しました。
 全くそのようですと私も思いました。
 とくに、先月、寺井敏夫著者『小説 小泉セツ』を読んで、小説ではありますが、セツがハーンと結婚する前に結婚していた人とのその生活を、そして夫に家を出て行かれて、夫の行き先の大阪に迎えに行った時のセツのことを読んでいる者にとっては、全くその通りでございますとしか言えません。

 よく躾けられてその通りに育った女、ハルについて書かれてあるのに加えて、よく躾けられて育った男についても書かれています。
 ≪日本の良家では、夫たるものが妻に向かって、口に邪険をいうなどということはまずないことだ。そういうことは、下品な、はしたないことと考えられているのである。気性のおだやかな、教育のある人なら、女房に小言をいう場合にも、ごく穏やかなことばで言う。日本の作法からすると、普通の礼儀からいっても、男らしい男はみなこういう態度をとる。また、これがいちばん無難な態度でもあるのである。というのは、嗜みもあり、悟りも早い婦人なら、粗暴なあしらいには、とうてい長く服してはいないし、また、すこし向こうばしの強い女なら、亭主が一時の腹立ちまぎれで、かっとなって言ったことばのために、淵川へ身をさえなげかねない。女房にそんな自害でもされようものなら、亭主としては一生の名折れである。≫

 引用の趣旨からはそれますが、丸山学氏の言われるように、これはれっきとした民俗学的な報告書と読み取ることができます。どういった女性像、男性像を当時の日本人が尊いとしたのかよくわかったし、自害まではしないものの、現在でもあまり変わっていない気がします。
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『ハーンの面影』 ㈡
2017/02/04(Sat)
 この、第1章の「ハーンはなぜ小泉となったのか」は、ハーンがどうして帰化したのかということにこだわっての考察です。
 18章まであるなかで、第1章にあてられ、一番おおくページ数がさかれてあります。

 ハーンは、この帰化ということについての気持ちを、いろんな人への書簡に書いて送っています。
 ≪帰化の理由については、あまりにも当然すぎるほど当然なことになっていますが、いまあらためてその疑問に光を当てることによって、帰化の理由の本筋と脇筋との全貌が一つの全体として立ち現れると思う≫とあります。

まず、当時欧米人が日本に帰化することへのデメリットについてまとめて記載があるのは便利です。
 1、英国民が英国から与えられる強力な保護を失う。
 2、領事館税よりはるかに高い税金を払わなければならない。
 3、外国人としての俸給で日本政府に雇われるのは困難となる。
 4、英国人としての旅券を失えば自由に好きなところへ行けなくなる。
 5、たとえ、日本国籍を得ても、完全に、日本人に慣れきれない場合には、日本で孤独となる。(1894年10月23日、西田千太郎宛の手紙で、「私は決して日本人になれないし、日本人全体から真の同情を見出し得ない事実を認めざるを得ません」とハーンは書いている)
 これを読むと、ハーンにとってよいことはないといっていいのですが、ハーンが時々、臣民という言葉を口にしています。当時でいえば、明治天皇の臣民か英国の臣民かということになるのでしょうか。
 ここで、注目されるのが、昨年(2016年)11月25日の山陰新聞に、愛知学院大学の竹下修子教授によるハーンの帰化に関する記事です。
 ≪竹下教授によると、八雲以前にもあった英国人男性と日本人女性との入夫婚姻について、英国は「婚姻によって臣民としての義務を脱却しようとするなら到底許しがたい」としており、国籍離脱を認めていなかった。島根県が八雲の「日本人タルノ分限」取得の手続きを英国領事に照会。96年に代理領事が八雲に返答した未公開書簡が池田美術館(新潟県南魚沼市)に所蔵されており、「日本側だけの手続きで完了する」と記されていた。≫
 著者の高木大幹氏はそのことは知らずに亡くなられたのですが、ハーンのみぞ知るこの書類がどのような経路で池田美術館に所蔵されたものかはわかりませんが、これによると、ハーンは両国民としての利益と義務を背負うことになるのですが、このあたり今後の研究を待ちたいところです。
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『文学論』の「序」
2017/02/03(Fri)
 夏目漱石著 岩波の漱石全集18巻『文学論』の「序」を読みました。
 これも、先に読んだ高木大幹氏の第1章のなかの「夏目漱石とハーン」の中に一部引用されている作品です。

 『私の個人主義』は講演記録のため、かなり読みやすかったのですが、この序文は短いとはいえ読みにくく、旧字体で小さな文字を以前は興味に任せてよく読んだものだと今更関心をします。引用文は
 ≪学ぶに余暇なしとは言わず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。・・・・・倫敦に来てさえ此の不安の念を解く事が出来ぬなら、官命を帯びて遠く海を渡れる主意の立つべき所以なし。≫と、やはり、漱石の不安についての引用です。『私の個人主義』と同じように不安を述べた文章ですが、その講演が大正3年11月だったのに比べ、その前の明治40年に出版された本ですので、「欺かれたるがごとき不安」とか「遠く海を渡れる主意の立つべき所以なし」などと、少し強い口調になっています。しかもその前に、
 ≪余は漢籍に於てさほど根底ある学力に非ず、然も余は充分之を味ひ得るものと自信す。≫とまで書いています。
そして苦しんだ挙句
 ≪余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。・・・・・余は心理的に文学は如何なる必要にあって、此世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、隆興し、衰滅するかを極めんと誓へり。≫と十年をかけてやり遂げようと自らに誓います。

 当時、味の素の発明者池田菊苗氏がヨーロッパにいて、ヨーロッパにいる日本人をよく訪ねていたことは知られています。
 その池田菊苗が明治34年5月5日にロンドンにいる漱石のところへ訪ねてきて、2か月近く一緒に暮らしました。その池田菊苗が漱石のこういった決断に影響を与えたことを小宮豊隆が、この『文学論』の解説で述べています。
 漱石は池田菊苗と議論をしたり、散歩をしたりするなかで、彼が理学者でありながら大いなる哲学者であることを認めざるを得なかったようです。その会話の中から、心理学や社会学の角度からの文学の根本的な作用についても分析をすることを思いついたことを感じます。しかし、  ≪のみならず文学の講義としてはあまりに理路に傾き過ぎて、純文学の区域を離れたるの感あり。≫と以後の講義への工夫を重ねるところから、彼の文学論が進展していくようです。


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『私の個人主義』
2017/02/02(Thu)
 夏目漱石著 『私の個人主義』を読みました。
 岩波の漱石全集第32巻に収録されています。
 大正3年11月25日学習院輔仁会での講演記録です。
 先に読んだ高木大幹氏の第1章のなかの「夏目漱石とハーン」の中に一部引用されている作品です。漱石は文学とはいったい何かわからない
 ≪私は斯うした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、又、同様の不安を胸の奥に畳んで遂に外国迄渡ったのであります。≫という部分が引用されているのです。引用のあと、
 ≪まことに奇妙なことであるが、ハーン(八雲)の一生も、それは不安の連続と言えるもので、漱石とは別の意味で、「生」とのきびしい闘いで貫かれたのであった。≫と著者は結んでいます。
 漱石は本文で、さらにこの不安の中のロンドンで、
 ≪私は初めて文学とは、どんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う道はないのだと悟ったのです≫と、意を強くします。しかし、生活に追われて、
 ≪私は私の企てた事業を半途で中止してしまいました。私の著した文学論はその記念というよりもむしろ失敗の亡骸です。しかも奇形児の亡骸です。あるいは立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のようなものです。しかしながら、自己本位というその時得た私の考えは依然として続いています。≫と続けます。

 この部分を読んで、中学生の時、国語のテストで、語学的なことはいいとして、感想を採点するやり方にどうにも納得がいかず、国語が嫌いになった事を思い出しました。自分は単純な人間なので、答えの決まっている数学や物理のほうがすっきりして納得がいきました。短期大学部の国文へ入る時の面接試験で、「なぜ、国文へ?」と聞かれたとき、「自分は卒業さえできれば何でもよかったのですが、本が好きでいつも読んでいましたので、これら読んだ本が、体系づけられるのではないかと思ったのです。」と今思えばとんでもないことを言ったのですが、そばにおられた岩佐先生がいきなり、「そう!大切なことだ!」といわれ、とりあえず合格できたかも・・。と思ったのを思い出します。

 そのような文学への話のあと、漱石は講演を聞く学生たちが生まれもよく裕福な家庭の子弟であることを前提に、こういった人たちの個人主義、を標榜することへの心構えについて時間をかけて説いています。それについては、英国人の権力に対する義務の追行のバランスに敬意を表することを述べています。これは現今、我が国や隣国の韓国や北朝鮮、アメリカの首長にも大いに考えてもらいたいと思ったことでした。

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『ハーンの面影』  ㈠
2017/02/01(Wed)
 高木大幹著 『ハーンの面影』 を読みました。
 著者の高木大幹の本は少し読んでいるように思いますが、先ごろ読んだ、冊子『広島ラフカディオ・ハーンの会々誌』の「ラフカディオ・ハーンの会」ニュース№9(2001・5・12発行)に風呂先生が、奈良在住の高木大幹先生からも、4月20日の書簡で「盆踊り」に関するアドバイスをいただいたこととその内容が記されていて、とても身近に感じるようになりました。

 序文の前にハーンの写真の裏側に、著者の写真も大きく掲載されていました。それが遺影のように感じられましたので、調べて見ると、2003年1月14日に亡くなり、この本はその翌年2004年10月12日に八尾米一氏によって発行されていることがわかりました。
 八尾米一氏がタイトルを『ハーンの面影』としたことについて、ハーンが日本を愛してその面影を慕ったように高木大幹先生がハーンを慕っていて、ハーンのように真摯に生きられたからだとありました。
 第7章ハーンの夢のなかの、「ハーンの死の予感」につづく「夢と死」・「夢は枯野を」まで読み進み、ふと感じて、最後の初出一覧をめくってみるとこの第7章と、第13章修羅と微塵Ⅳ・第18章ラフカディオ・ハーン小伝は書き下ろしになっていることがわかり、先にこの章を読み、高木氏の晩年、ハーンの一生とその晩年に触れられている部分を、感無量の思いで読みました。この、第13章修羅と微塵Ⅳは、修羅と微塵Ⅰから通読したとき、厳しい仏教の修行のあとのすっと体から力を抜いているようなイメージがあります。

 ハーンは墓地を好みました。私も墓地に行くのが好きです。ずっと若い、中学生のころからでしょうか学校の帰りに途中から通学路をそれて、少し山を登ると私の先祖のお墓もある墓地の裏側にたどり着きます。そこから、向かいの緑の山、東西に伸びる県道や学校や役場、農作業にいそしむ村人が見えました。長じては、山道で出会う見知らぬ墓地で、それぞれのお墓で亡くなられた年月や享年をていねいに見るようになりました。最近は、内藤丈草にならって、「かげろうや 塚より外に いるばかり」とほとんどお仲間入りしている気分でもあります。目を瞑ると、宵闇の中、薄明かりに浮かぶ下市の「盆踊り」の輪が、走馬灯のようにゆっくりと回ってゆくようでもあります。

 高木大幹氏は1995年の講演でにハーンを慕って63年、と述べられています。2003年1月に亡くなられるまでのおおよそ70年の八雲に対する思いの集大成、充分に時間をかけて読ませていただきました。

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