『良寛の四季』 
2017/03/22(Wed)
 荒井魏著 『良寛の四季』 岩波書店2001年発刊を読みました。
 みどりさんから贈っていただいていた本でしたが、このたび、近所のKさんに、お貸ししようと手に取ったので、ついでに読み返しました。じつは、短歌や、俳句以外は何も覚えてなくて、改めて短歌や俳句の力を感じます。
 読み終えて、過去ブログを読み返し、みどりさんからのコメントの 「人の心の奥底に潜むものは、ひとくくりでは言えませんね」が、このたびの読書からの感想に近い気がして、仕事をやめたことで、自治会の役員などの雑用はあるものの、読書への力の入れ込みが深くなったように感じられました。

 2000年3月から2001年4月まで毎日新聞に連載されたものだということです。良寛の四季それぞれの生活ぶりなどから、その人間性を具体的に浮かび上がらせることへの狙いが、書いている途中から、良寛の経歴などわからない部分が多く、その謎解きに追われ、探っていくと突然霧の中に閉ざされて、結局は良寛の「人生の四季」そのものを描くことになってしまいおおく加筆したと著者もあとがきで述べているように、ある意味では、読みにくい本だったかもしれません。
 それならいっそのこと、良寛の生い立ちからくる人間性を求めず、彼の作品を楽しんだほうがいいのではとも思いますが、作品をできるだけ深く味わいたいと思うのでやはり、そうはいっても、著者と同じ思いをしてしまうのかと思わされる本です。
 構成は
  春の章 越後の里へ
  夏の章 母と父、そして出奔―その謎に迫る
  秋の章 書と詩歌と―五合庵での創造
  冬の章 良寛の思想―三人の師、そして貞心尼

 春の章では、著者が、良寛の晩年を暮らした新潟県分水町の国上山(くがみ山)の中腹にある国上寺から、10分ほど下ったところにある五合庵の頃、乙子神社、などの句碑も訪ねて文学散歩をします。
夏の章では、春の章でも、疑問だらけだった良寛の出奔の謎に迫ろうと、これまでの良寛に関する資料や研究書を中心にして考察してゆき、18歳で出奔、22歳で光照寺で国仙に会い出家剃髪するまでの空白の4年間が、良寛の人間性のベースを解く鍵ではないかと結論付けています。
秋の章では、やはり、備中・玉島の円通寺から故郷越後へ帰り、此処での書や詩作などについて述べてあり、書については生存中から偽者が出回っていたということです。
冬の章では、貞心尼との楽しい晩年が描かれています。
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『無意識の構造』 (3)
2017/03/18(Sat)
 なんだか読書がすすみません。
 こんなときは、しっかり地元仲間に入っていて、裏山散歩をしたり、お寺参りをしたり、親戚付き合いや、元の職場の仲間に誘われるままに、少し出かけてお茶をしたり、食事をしたりしているように思います。
 『無意識の構造』、一応はどのページも読み終えているような気もしますが、私の思考の弱さでは、すっきり頭に入ってきません。 このように、人間ひとりひとりの無意識を構造的に捕らえるということは、無意識の現れ方が人それぞれであるだけでなく、地域的、あるいは歴史的に違うのですから、大変です。

 そのひとつの例として、「浦島太郎」の話があります。
 小泉八雲は、もともと日本人ではありませんが、「夏の日の夢」と題して、日本の民話である「浦島太郎」の話をもとに日本人が読んでも違和感なく読める美しい作品を残しています。
 この「浦島太郎」をソ連の学者チフトフが自分の孫に話してやった体験を述べている話があります。
 ≪チフトフが竜宮城の美しさを描写したところを話しても、孫はぜんぜん興味を示さず、なにか別のことを期待している様子であった。そこで、彼は孫に何を考えているのかをたずねた。
 「いつ、そいつと戦うの?」
 というのが孫の答えだった。彼は竜宮城にいる竜と主人公の浦島の戦いが始まるのをいまかいまかと楽しみに待っていたのである。
 英雄が竜を退治し、そこに捕らわれていた乙姫と結婚をする。このパターンは西洋の場合、よほど小さい子どもの心にも定着しているのである。「浦島太郎」では、竜との戦いがないばかりか、浦島と乙姫が結婚したのかどうかさえ定かではないのである。・・・・ともかく、このような昔話が存在していること自体、ソ連の子どもたちにとっては不思議で仕方ないことであるだろう。≫
話を聞いている子ども達が、無意識のうちに期待しているものにこんなに開きがあるのには驚きます。
しかし、河合隼雄は、ユングの心理学の核心といえる元型について述べていきます。
 元型は、無意識内に存在するものとして、あくまで人間の意識によっては把握しえない仮説的概念で、これの意識内におけるはたらきを自我イメージとして把握したものが元型的イメージだといいます。この元型と元型的イメージの微妙な違いを把握することがとても重要なことのようでした。ここでの乙姫についてのイメージでは著者の著書、『母性社会日本の病理』で、詳細に述べられているとのことでした。
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『無意識の構造』 (2)
2017/03/15(Wed)
 河合隼雄著 『無意識の構造』 を引き続き読んでいます。
 1月は、裏山散歩を、よく休みましたが、2月は所用が多い中でも歩くように努力しています。今朝、下山がいっしょになった近所のAさんと話していると、「仕事の失敗をしてしまったりだとか・・・・、悪い夢をよく見るので、夢を見なくできるような薬がないかと思うのだが・・・。」と言われます。私よりずいぶん年上で、もう仕事をやめて何年にもなっています。いつもは、植物の名前を教えてくださったり、歴史の話をしてくださったりなのに以外でした。もしかしたら、出会いがしら、私が奥様は調子はどうですか?とお聞きして、あまりよくないといって奥様の体のことを話されました。そんな会話のあとだったからかな、などと思いつつ、夕刻、手が空いたのでこの本を読みました。
 しばらく読んでいると、「夢」について書かれてあるところに出会います。新書本なので、ごく簡単にとはあるものの、読むほうからすれば丁寧に書かれてあると思えます。
 もちろんどんな夢でも、解釈はいろいろ考えられるようです。このように、見たくない夢を見るというのはどうしてでしょうか。おこがましくも、Aさんの夢について夢判断ができるのではないかと思えるほどに丁寧です。
 夢の分析の話をすると、自分はほとんど夢を見ないという人がいる。私もそうです。しかし、夢分析をはじめると、ほとんどの人が夢を見るものだと述べられています。一般に夢というものは記憶しがたいものなので、夢分析という動機付けがない限りあまり覚えられないのが普通で、分析家と被分析者の人間関係が夢の分析を進ませていることは事実であると思われるとあります。
実際夢を見ていないのかというと、まず、現代では、睡眠中、REM状態のときに夢を見るという研究がされていて、一晩でだいたい一般に5度くらい、REM期があり、5回くらい夢を見ているようです。夢を見そうだ、という状態が始まると同時に起こすことを続けて5日やっていると、起こさなくなると、急にたくさん見るのだそうです。
 もともと、精神病や精神分裂症の人の治療のための臨床心理学だと思えるのですが、Aさんは、精神病や精神分裂症ではありません。それに、Aさんが、日ごろ悩みを抱えているにしても、健やかな生活を送っておられるように見受けられて、人並みに悩みを自分の胸のなかで、それなりに処理されておられるように思えます。
 とりあえず、今朝の会話を思い出してみると、どうしてこんなに世界中の人が大量殺人をするような戦争をしなくてはいけなくなったのかについて困ったものだという話がありました。まず稲作をするようになって、食料が保存できるようになったところから、子どもがたくさん生まれるようになり、人口が増えすぎたからですかね、などというと、うん、稲は連作をいとわないというのが大きかったね。と言われます。なるほど、ほとんどの作物が連作を嫌うのに、稲は連作を嫌わないということに改めて気づかされました。このような思考回路がAさんに子孫など将来への不安を思っての夢だと結論いたしました。これはもしかすると、客体水準の解釈に順ずる解釈といえるかもしれません。。


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『無意識の構造』 (1)
2017/03/14(Tue)
 河合隼雄著 『無意識の構造』 を読みました。1977年中央公論の新書版481の発行です。
 読み終えるのに、とても難しくて、時間がかかっています。
 何のために読んでいるのかわからなくなるようなときもあったりして、気をとりなおしてまた読み始めるといった具合です。
 なかに、小泉八雲の「勝五郎の再生」の、再生譚に関連した興味深い記述があるので、引用しておきます。
  ≪「私」というものは不思議なものである。誰もがまるで自明のこととして「私」という言葉を用いているが、われわれはどれほど「私」を知っているだろうか。インドの説話に次のような話がある。・・・・・・・・この話は「私」ということの不可解さをうまく言い表している。ここでは体のことになっているが、たとえば、われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない。しかし、そのようにして、自分にそなわっているすべてを次々と棄ててしまって、そこに「私」というものが残るのだろうか。それは、らっきょうのように皮をはいでゆくと、ついに実が残らないものではなかろうか。われわれが精神病の人たちの話をきくと、ときに、彼らは自分と同じ人間がこの世にもう一人存在していると主張したり、自分は××の生まれかわりであると確信したりする。 これをわれわれは異常なことと感じる。自分というものはこの世に唯一無二の存在であり、過去にも未来にも同じものは存在しないと確信しているのである。ここに「確信」という言葉を用いたが、実際これは積極的に「確証」することが難しいことである。われわれは確証なしに、これらのことをむしろ自明のこととして受け入れている。
  ここに「われわれ」という主語を漠然とした形で用いたが、実のところ、この「われわれ」には相当限定を加えなければならない。というのは、現在においても、輪廻転生を信ずる民族や集団も相当存在するからである。われわれ日本人にしても、そうとうの長期にわたって輪廻の思想を受け入れてきたのである。
 近代人は合理的科学的な思想に基礎をおき、輪廻の考えを拒否している。それに基づく数々の迷信を笑いものにすることもできる。しかし、近代人にとって、「私」はどこから来てどこへ行くのか、というのは厄介な問題である。近代の先端をゆくアメリカにおいて、「私」の根(ルーツ)を探し求めることに異常な関心がむけられているのも、まことに興味深い。「ルーツ」はあくまで外的な根を探すことに焦点づけられているが、そこに、「私」という存在の基礎を知ろうとする内面的な問いかけが象徴的にはたらいていると考えられる。・・・・≫
 この本では、≪自分は××の生まれかわりであると確信したりする。≫ということをどう結論付けているかを知ろうとすると、そのことだけを頭において読んでいかないと、それなりの結論を見出せない気がします。以後注視して読み進みます。
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『ある英語教師の思い出』 ㈡
2017/03/12(Sun)
 稲垣巌が京都の桃山中学に勤務していた、昭和3年4月から昭和12年8月40歳の若さで亡くなるまでのあいだの、大きな出来事のひとつに、昭和9年9月21日の室戸台風上陸がありました。
 この室戸台風では、死者・行方不明者3036人という大被害をもたらしました。京都府下では、倒壊27校、それによる死者70余名(内職員4名)、桃山中学校でも、死傷者はなかったものの、木造2階建ての1棟(18教室)が全壊するという甚大な被害をこうむり、そのほか平屋建もみな半壊、備品もほとんど使い物にならない被害を受けました。
 午前8時10分が1時間目の授業開始時間。全員が着席して、授業が開始されました。午前8時25分頃が最大暴威だったため、以後の15分間の避難が、生死を分けます。その、15分間の避難行動について、3者の記事があります。ひとつは、光家元正教諭が『昭和9年9月21日の風害記念号』のなかに、「風害について」という題で学園の惨事を詳細に記録されているもの。それに対して、当時中学生だった編著者の小野木重治氏の体験とそれへの思い。稲垣巌の桃山中学校の「金城会」発行の『桃山』第28号(昭和9年12月28日)のなかの、「死線上に立つ」と題しての記事です。
 この3つの記録を読むことで、15分後には全壊することになる校舎で、いつもどおり、整然と授業を受けようとしていた500人の生徒と教職員のそれからの避難のようすを、かなり立体的に把握することができます。
 若くて元気な男の子、高学年はもう立派な青年とはいえ、恐怖心の強弱は人それぞれで、巌は
 ≪・・・いきなりしがみついてきた傍らの一生徒を反射的に抱きしめながら私は青い血潮が一時に頭に上がるような気持ちを味わった。一同は畏怖に圧倒されて、群像のように一瞬沈黙したが、その顔は悉く灰のように白ちゃけていた。「講堂が壊れたんだろうねえ」誰やらがへしゃげた声で呟くと、熱に浮かされたような別の声が早口で答えた。「いや違うよ。第二教館が倒れたんだ。此処から見えたよ」・・・≫
 次の指示が来ないので、恐怖におびえながら、じっと指示を待つみんなのつぶされたような思いが伝わってきます。
 稲垣巌のこの「死線上に立つ」の避難時の臨場感あふれた描写は、八雲の「生き神様」とおなじように、自然災害に対する教訓として、あらためて身の引き締まるような思いで読みました。
 このような災害のときでも、平行して、日常的な苦しみや悲しみもあります。
 稲垣巌は、この災害の起こった9年の1月にたまたま京都に来た医者である義弟の(妻のミドリの弟)種市良春によって癌を発見され自宅で手術をうけたとあります。6月には、妻のミドリが、不和から青森の実家に子どもを引き連れて帰っていきました。さらに、9月にも京大で手術を受けていました。夫婦ともに癌による生命への不安からくる精神の不安定さに、義弟の理解が深かったことが、その後の話からうかがい知ることができるのが救いでした。

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『ある英語教師の思い出』 ㈠
2017/03/11(Sat)
 小野木重治編著 『ある英語教師の思い出』小泉八雲次男・稲垣巌の生涯 1992年11月、恒文社発行を読みました。 
 タイトルのある英語教師とは、小泉八雲の次男で、稲垣家の養子となった稲垣巌のことです。彼は31歳の昭和3年4月から昭和12年8月40歳の若さで亡くなるまで京都府立桃山中学校で英語教師をしていました。桃山中学は大正10年創立で、中学は5年生で卒業だったようで、ちょうどきりよく、昭和1年の卒業生が第1回卒業生ということになり、第4回から第17回卒業生までの約3000人が稲垣巌に学んだということになるということです。著者の小野木重治は、桃山中学の第13回卒業生として、昭和10年に週に1~2時間のわりで1年間、稲垣巌に学んだ生徒でした。
 この本の制作にあたり、稲垣巌が亡くなって50年もたっていることから、資料収集にずいぶん手間がかかったようです。それだけに本をめくるごと、よくぞ残してくださいましたの思いが篤くなっていきました。
 タイトルから見て、稲垣巌に学んだ生徒のまなざしから見た彼について知りたいと思い、第一部の第4章からは、第二部を先に読むなど、興味に任せて楽しく読めました。
 同僚であった松井清人「稲垣先生の思い出」に、稲垣巌が語ってくれたという、父親の小泉八雲との秋の終わりの散歩のときの話がありました。
 読んでいるうち涙が出てきました。
 「巌、あそこに何か花が咲いているようだが、何の花かな見てきなさい」それを見て、「これは、ちっぽけな、けちな朝顔の花だよ」と思わず足蹴にしながら父に告げたとき、八雲は、けしからんと巌を今まで見たこともないような形相で叱りつけ、「巌、よーく見てごらん。この殺風景な枯草の中に、この朝顔の花が一輪咲いているから、どんなに美しいことか。この辺りを和やかにしていることか。巌、いっしょにこの花を拝もうよ」といっていっしょにひざまずいて合掌し、さらに、地生えして、遅ればせながら咲いて、自分の生命を守り、自力でなんとか生き抜いて、この一隅を明るく照らしていることについて語り、再度二人して合掌したという話です。父子の会話については、巌の「父八雲を語る」にある、「巌は遊んでばかりいるから悪い。これから少しの間勉強するほうがよい」というのは「イワホ、タダアソブ トアソブ。ナンボ ワルキ、デス。スコシトキ ベンキョ シマセウ ヨキ」という具合ですから、こういった父の言葉のはしばしから思いを汲み取り、さらに、巌がそのことを同僚に語るころには、思えば、この朝顔もおぼろげにしか見えなかったであろう父が、誰の援助もなく、自分の生命を守り、自力でなんとか生き抜いて、その一隅を明るく照らしていてくれたことを心に深く感じていただろうと思えます。その教訓を心の宝としていたことをテニスの試合の後、宿直室で一服、四方山話にしたっているとき、珍しく稲垣先生が父小泉八雲の思い出として熱っぽく語られ、このときのお話は、今でも私の心に深く焼きつき刻み込まれているとの美しい記述でした。


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『宮島・伝説の愛と死』
2017/03/08(Wed)
 西村京太郎著 『宮島・伝説の愛と死』 を読みました。
 これは、テレビでおなじみの、十津川警部と亀さんが、犯人を捕まえるというミステリー小説です。
 東京で乗寺多恵子という45歳の女性が殺されました。同居の一人息子が大学から家に帰って殺されている母を発見。
 母親は、末期がんであと3ヶ月しか持たないとの告知を受けていました。どこか生きたいところがあったら連れて行くというと宮島に行きたいというので、そうすることにして、母親はその準備をしている矢先の出来事でした。
 一乗寺多恵子の夫は、一乗寺渉という作家でしたが、売れるようになるまで、ずっと多恵子が生活を支えていたのに、ようやく売れ出すようになると女を作ったので、離婚したのでした。
 息子の女友達が、息子が疑われているので犯人を見つけようと誘ってきて、二人でなにか犯人の手がかりがつかめそうな宮島に行きます。もちろん十津川警部たちも宮島へ捜査に行きます。
 実は多恵子は、結婚する前年の20年前、宮島から東京の大学に進み就職していた真田浩介という人と付き合っていました。宮島に一緒に行ったとき、二人とも船から海に落ちて、多恵子を助けようとしているうちに浩介が溺れてしまって亡くなるという事故に遭遇していました。浩介はその2年前に広島県議会議員の副議長でしかも老舗旅館を経営している木下雄一郎の娘との見合いの話があり断っていました。気に入っていたのに断られた娘はその後鬱病になり2年後に自殺してしまいました。その県議会議員の副議長は、興信所を使って真田浩介について付き合っている女性がいることを調べあげ、女性がいるのにお見合いをするのは詐欺だといって真田家に怒ってきたことがありました。
 結局、この木下雄一郎が、政治家になりたいという野心を持つ真田浩介を殺していました。そのことがばれないために多恵子に500万の金を渡していたのでした。
 そのことを知っていた県議会議員二代目の息子の木下勝郎は、自分の当選以来そのことがばれることを気にして、多恵子のその後の行方などを興信所で調べていました。そして、近く宮島へ旅行する計画があることをマンションの管理人から聞いて、多恵子を殺害をしたのでした。
 テレビで見ていたら、きっと途中早々に寝てしまって犯人を知ることはなかったでしょう。ところが、本で読んだので、解決までこぎつけることができました。
 めでたし、めでたし。の読書でした。
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第199回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/03/06(Mon)
 会に出かける直前、居間に掃除機をかけていて、机を動かした瞬間パソコンの無線受信する何とか言うものにもうひとつの机の脚があたってこわれ、インターネットが受信できなくなるというハプニングが起こったのですが早めに参加できました。

 次の「広島ラフカディオ・ハーンの会」は、第200回という記念すべき会になるので、稲垣巌氏のご子息である、稲垣明男氏を迎え「八雲の住んだ海外の跡地を訪ねて」と題する講演を聞かせていただき、奈加靖子氏のアインリッシュ・ハープ演奏が聴かれるということで、楽しみにしているのですが、迎えることに骨折ってくださっている風呂先生はとても忙しそうで何も手伝えないことに申し訳なく思っています。
 そのぶん、稲垣巌氏のことや稲垣明男氏についてできるだけ、予習をして、話されることがより理解できるように努力しておこうと思います。

 このたびは、浮田先生の「アイルランドを巡る20日間の旅」の発表がありました。
 スクリーンに説明つきの映像での発表で、初めて知ることになるアイルランドの国のいろいろな名所・旧跡の説明をものめずらしく見せていただきました。アイルランドといえば緯度も北海道よりは高い。不毛の地というイメージしかないけれど、そこにも人間の生活が紀元前もっと大昔から連綿と続いていることを改めて認識します。飢饉によって多くの移民をだしたりするのは当然としても、その移民した人の中に『風と共に去りぬ』のスカーレットの父親がいて、農園の名前をアイルランドのタラとしていたことを知りました。『風と共に去りぬ』のタラの印象は深くて、これを見て育った私たち世代が必要以上に土地への執着を強くしたのではないかとも思うのはわたしだけでしょうか。
 イギリスでの宗教については、ピューリタン革命という言葉しか知らず、ハーンのキリスト教嫌いというのは、もしかしてアイルランド人がプロテスタントに反発するがゆえのカソリック原理主義のような現象があったのではないかとも想像してしまいました。
 それにしても英語が堪能な浮田先生だからこそ、このような有意義な旅行が可能で楽しみを満喫されたのではないかと思えるとてもいい報告でした。

 小泉凡氏の「ケルト人と出雲人」では、その類似点への考察を読んで、アイルランドのケルト人に親しみを持つことができます。若くして浅野図書館の近くに住んでいたころ、歴史小説や自然主義文学を好んでいて、どちらかというと怪奇文学的なイギリスの文学を避けていたことがありました。しかし、河合隼雄の本を読んでいて、人間の深層心理についてだんだんに考えるようになり、こういった文学に興味を持てるようになっているや先だったので、ずいぶん興味深く読めました。もちろん小泉八雲の怪談話などにも違った感じで味わっている自分に少し満足しています。
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『華の人』
2017/03/02(Thu)
 伊藤緋紗子著 『華の人』 を読みました。
 この作品は、北海道旭川に生まれ、東京の女学校に学び、大恋愛の末、九州佐賀県有田に嫁ぎ、30歳で亡くなった実在の人物深川敏子の半生を描いたものです。
 敏子は、明治38年(1905)北海道旭川で、井内歓二・加代の六男七女の四女として生を受けます。大成小学校から、庁立旭川高等女学校を経て、大正11年(1922)東京に嫁いでいた12歳年上の姉・喜美子を頼って山脇高等女学校の家事専攻科に二年の予定で移ります。
姉の喜美子は、東京帝大理学部卒で霞ヶ浦の海軍航空隊の研究所に勤務する野田哲夫と結婚して不自由のない生活をしており、敏子はそこから女学校に通うことになります。
 野田哲夫の腹違いの弟の陸男が、当時のモダンガールの先端を行くような敏子の美しさに憧れ、恋心を抱くのですが、気後れして、おなじ慶応義塾大学の剣道部の主将で八段の友人深川進を紹介します。
 進と敏子は、お互いであったその日から惹かれあうようになり恋心を燃やすようになり喜美子や陸男にも喜ばれ、デートを重ねます。
 進は、九州佐賀県有田の、パリ万博で金賞の栄誉に輝いた名門窯元深川製磁の社長深川忠次の長男でした。
 進が結婚をほのめかせたとき、敏子は「もしも東京で二人で暮らせたら・・・」と言ったのに対して、進は何が何でも結婚したい気持ちが先走って、「僕は深川製磁の東京支店長になるから、それは可能さ」と答えてしまいます。進は父親の忠次に敏子を紹介しますが、忠次は欧米諸国を見聞していることもあって、敏子に好意を持ち喜びます。
 そして、大正13年敏子は進と忠次に迎えられて有田の深川家を訪ねます。東京への帰りを送ってくれた進と神戸で一夜を明かし妊娠してしまいます。進は父親から、本社勤めをするよう言われたことは敏子に言えないでいました。妊娠がわかるや、進と敏子の為に陸男があちこち走り回って、結婚にこぎつけます。
 しかし、進の母親のモトは、九州から初めて華族の家に住まわせてもらって華族女学校に入学、英語も習得していましたが、佐賀出身で、武士道といふは死ぬ事と見つけたりの葉隠思想を受け継いだ家庭に育ち、嫁に容赦はなく、進の愛は変わることはありませんでしたが、なにしろ国内外の仕事が多く、優しかった忠次も亡くなり、敏子はモトの厳しさに苦しんで、3人の男の子を残して30歳の若さで亡くなるのでした。
 

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『獄中からの手紙』 ㈡
2017/03/01(Wed)
 NHKテキスト100分de名著『獄中からの手紙』を読んで、約1か月が過ぎようとしています。
 テレビでもこの放映を見ました。
 このところのNHKの100分de名著は、テキストを読みっぱなしにしてブログへの記載をしていないこともあって、この『獄中からの手紙』もよみっぱなしにしていたのですが、なににつけても、頭から離れないというのが正直な感想です。
 何かにつけて考えていると、頭の中でだんだん抽象化されて、すでに㈠に書いたことなどの、根底にある部分で、(キリストのことはあまりよくわからないのでさておいて、人知れず、ガンディーのように生きた人がいたかもしれませんが)ガンディーが考えて行動を通しての生涯は、私にとって人類未踏の普遍的な生き方だったのではないかと思えます。
 欧米諸国の近代化への対応として、日本は追いつけ追い越せと、欧米から必死で学んで、近代化への道を進みました。ラフカディオ・ハーンや、夏目漱石など、あるいは、12月のやはりNHK100分de名著で取り上げられた『野生の思考』を著作したレヴィ・ストロースなど、多くの人たちが、この近代化への進み方に疑問を呈してきました。
 しかし、だからと言って、ではどういう生き方がいいのかということを徹底してやって見せた人はいないのです。
ガンディーは、植民地支配をするイギリスだけが悪いのだろうか、イギリスがもたらす近代文明を甘んじて受け入れ手放そうとさえしないインド人にも問題があるのではないのか。一人イギリスだけが悪いのではなく、インドにも問題がある。その問題を解決しないで独立することは、第二のイギリスを作るだけだと考えて、むしろ自分自身の自己統制によって、近代化の問題に打ち向かっていくのです。しかも、打ち向かう相手に対しても愛をもって、一緒に歩むことの意味を提唱するのです。
 この生き方、これは、昨年の3月16日にブログに乗せた、佐々木閑著『100分de名著 ブッダ最後のことば』を思い起こします。そして、3月26日の「高校教科書のなかでの宗教」にも関連の記事を書きましたが、ブッダが、人間が本来生きていくべき姿への実践のためのインストラクターであったことと、二重写しになるのです。では、今の私たちはどう生きるべきかについて、最後の3ページをつかって著者が思いを示しています。
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