「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 1
2017/04/30(Sun)
 「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 を読みました。資料は、
① 広島ラフカディオ・ハーンの会」200回を迎えて
② 防災について―共助の精神―「稲むらの火」を通じて 稲垣明男
③ へるん№48別冊 2010年度八雲会総会講演 広島に生きるハーンの心―ささやかなtorchbearerを目指して― 風呂 鞏
④ 月刊『すみよし』(平成29年4月) 小泉八雲の次男・稲垣巌 風呂鞏
島根大学 ラフカディオ・ハーン研究会 ニューズレター第6号
 今日は、早朝庭掃除をして、2時間の裏山散歩をして、あとは、夫がきれいに洗ってくれたワサビの葉と茎を調理して瓶詰めにし、夕方のおやつに特性のホットケーキを焼いただけで、一日中、秘蔵お宝の「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念料」を読みました。
 ① 「広島ラフカディオ・ハーンの会」200回を迎えて では冒頭小泉八雲生誕150年に当たる2000年6月に、松江の八雲会がギリシャ・レフカダの生家を訪ねたのに同行されたあと、7月1日に広島でも「広島ラフカディオ・ハーンの会」を7名で立ち上げたとあり、その産声を聞いたような気持ちです。さらにそれがこのたび200回を重ねたというのですから感無量で、そのような歴史をもつ会の末席に加えていただいて3年目になるご縁に感謝あるのみです。稲垣明男氏の「心臓疾患の系譜」では、他家のことながら、身内なればこそのエピソードにふれられて、親近感を覚えました。
 ② 防災について―共助の精神―「稲むらの火」を通じて 稲垣明男 では、東日本大震災のおきたとき、2011年3月3日13時58分、横浜駅の西側のかながわ県民センターにいたときの体験談がありました。「そのとき私は」という番組で東北の方の体験を伺っては涙していますが、改めて「横浜では」について知ることになりました。
 また、仙台・熊本と被災地に心を寄せられて助け合いの気持ちを強くされたことに多く学ぶことができました。
 広島での私は、小学校敷地内にある児童館に勤務しておりましたが、ちょうど用事で小学校に行って、長い渡り廊下を児童館に帰っているとき、子どもを迎えにこられた保護者の方が、血相を変えて、「先生!東北が大変なことになっていますよ!テレビを見てください!」といわれたのをよく覚えています。それから数年後、広島でも土砂災害があり、同僚の御主人とお姑さんが亡くなりました。そして定年退職して「広島ラフカディオ・ハーンの会」にお世話になるようになって、「稲村の火」を知り、何度か子どもたちに紙芝居を読んで聞かせました。
 ハーンが、松江を去って熊本に行ってから、松江がひどい水害に遭いできる限りの大枚50円のお見舞金を送ったことがあったように思いますが、それにもましてに、日ごろから共助について考えておくことの大切さを学ぶ教材を作っておいてくれたハーンに改めてその偉業をたたえたいと思いました。
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『松陰逸話』
2017/04/28(Fri)
 香川政一著 『『松陰逸話』 を読みました。
 昭和10年2月初版で、この本は昭和32年12月7版藤川書店発行のものです。 
 84ページの薄い本で、紙の質も悪く、赤茶けていて、旧字体で読みにくい上に、印刷も薄くなって読みづらい部分もおおく、明るい陽射しのなかで読めないところやわからないところは飛ばして読み進みました。
 この本は長いあいだ、うしなったと思っていたのですが、昨日古文書の辞書を探していて、見つかったものです。
 昨日は、その古文書の辞書のことで、夜書道家の先生を訪ねました。
 明治時代に作られたその辞書は、4巻あります。ほんとうは6巻あるものなのですが、我が家では1巻と2巻がかけているのです。実際に文字を引いてみると、その文字のくずした文字がひとつ、または数個あります。古文書を読むとき、文脈から見当をつけて、文字を引き、その崩しがあるとその文字で読み解きますが、なければまた他の辞書で引いてみるという作業で読み解いていくつもりです。そういうことをするため辞書はたくさん備えておくと便利だと思えます。
 この辞書では、くずした文字の横に「右軍」とか「大令」とか「子昴」とか書かれています。これは一体何?あるいは書体をいうのかと見当をつけ調べてみますがそれもよくわかりません。それで、先生を訪ねたわけです。
 教えることができるかしらと、80歳を過ぎ役所から届いた認知症についての調査用紙をみせ、「こんなものが届いてくるのですから・・・」と笑われます。
 質問するなり、それは人名ではないでしょうか、「右軍」とは「王義之」ではないでしょうか。といいながら、辞書を出してこられました。この辞書には、ひとつのことがらにひとつの解だけがあり、それが2段組でずらーと並んでいる辞書なのです。一人の人がなんとおりもの名前を持っていますから、偶然その中の二つが合えばわかるのですが、なければまた違う辞書で探すようです。いろいろあるなかで、ひとつでもこの辞書から見出せば先生のおっしゃる人名ということの確証が得られるのですが・・・、そしてあったのが「子昴」です。「子昴」は「チンスゴウ」だと思いますといわれて探していくと、そのとおりありました。「趙孟頫」と書くのだそうです。それで私もやっと納得できました。これは古文書ではなく書道の辞書のようです。先生の応接間にある1間半の書棚はほとんど辞書です。書道では、これらの書家のなかから選んでは、その書体を勉強するのだそうです。自分が選んで書いている人が載っている辞書もみせてくださり、その書体で書いて表装したものを数点見せてくださいました。
 もう書道をやめて10年にもなりますからね、辞書も書体を書いてこのように表装したものもほとんど人様にもらっていただきました。とさっぱりした様子でした。
  『松陰逸話』については、版を重ねて昭和16年6版のとき修正したとかかれてあります。第二次世界大戦に向けて、松陰の思いが、それへの先鞭のように書かれてあり、この部分が書き換えられたのではないかとも思えるのです。萩市立萩図書館に昭和10年発行のものが所蔵されていることがわかりましたので、いちど、疑問部分を読み比べてみたいというのが感想でした。

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『華麗なる一族』 中巻・下巻
2017/04/27(Thu)
 万俵大介は、都市銀行第七位の第三銀行と小が大を食う合併をともくろんでいたのですが、それがかなわないとなると第三銀行の弱点を新聞記者にスクープして、第三銀行が合併しようとしている平和銀行との合併をつぶすことに成功します。
 一方、万俵大介の1万坪もある邸宅に妻妾同居の生活を営む、女執事の高須相子は万俵大介の次女の二子に、長男の鉄平、長女の一子、次男の銀平につづいて閨閥を広げるために二子の意思に関係なく佐橋総理夫人の甥との結婚をおしすすめていきます。
 そんなおり、鉄平の会社の製品を買い付けると約束してくれたアメリカの会社への船積みを待つばかりになっていたのに、船積み延期の知らせが届きます。いつまで待てば・・・にきっちり答えてくれないためあわててアメリカに交渉に出かけます。
 しかし、鉄平の岳父である以前元通産大臣・建設大臣だった大川一郎の危篤の知らせを受けあわてて帰国しますが岳父は腹部動脈瘤で亡くなってしまいます。佐橋総理の葬儀委員長のもとで葬儀が営まれ、鉄平は情熱的におしすすめている高炉建設を岳父が応援してくれていたこともあり、遺影にやりぬくことを誓います。
 大介と鉄平は正月休みに雉撃ちに出かけ、あやまって鉄平の撃った弾が、大介の帽子を掠めます。そのことが父親と鉄平の関係をさらに悪化させます。
 結局アメリカの会社は大手に吸収合併され契約した担当者は会社を辞めそれが原因で鉄平は資金繰りに奔走しますが父親の阪神銀行は応じてくれず、日銀から天下り、鉄鋼業界に理解のある三雲頭取のいる大同銀行から融資を受けます。
 さらに、鉄平の会社では爆発事故が起こり、死者4名、重傷者5名、軽傷者13名という惨事で、株価が72円から一挙に60円に下落してしまいます。持ち株の依頼、さらなる融資を父親が聞き入れてくれないため、大同銀行の三雲頭取から受けます。
 大同銀行は、副頭取がさらに日銀から天下り、行内は実績のある生え抜きの綿貫専務たちと日銀天下り派との激しい確執がひろがり、その情報を入手した鉄平の父親は、綿貫専務が彼の岳父への洗剤会社への融資を三雲頭取が貸し渋っているので融資をし、専務との関係を深めることによって、大同銀行の乗っ取りを計画するようになります。
 この、小説はあまりにも政界・金融界・基幹産業などに、真摯に取り組む人と、政権・利権を最優先にそのためならどんなあくどいことも辞さない人を対峙してえがき、まじめで正直な人が苦しみ滅びていくというお話で、読んでいて気分が悪くなり、とても読み進むのにエネルギーを要します。。
 それで下巻もなかばにもなると、あとがきや解説がありますのでそれを読むと、結論が書かれてあるのに気づきます。阪神特殊鋼は会社更生法の適用をうける状況にまでなり、下請け会社などのこともあり、帝国製鉄の傘下に下ります。鉄平は自殺し、三雲頭取は責任を取って辞職します。
 あとがきに、大蔵省銀行局・日銀・都市銀行などの取材に相当手間取ったことが書かれていましたが、銀行の仕事が身近に感じられてとても社会勉強になりました。
 
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『華麗なる一族』 上巻
2017/04/21(Fri)
 山崎豊子著 『華麗なる一族』上 を読みました。
 昭和55年発行、平成19年50刷の分厚い新潮文庫です。
阪神銀行頭取の万俵大介が主人公の小説です。
いまは亡き万俵大介の父親の万俵敬介が、阪神銀行・阪神特殊鋼・阪神不動産・万俵倉庫などを起業し、莫大な財を築き、広大な屋敷に、贅を尽くした何棟もの家屋敷や、別荘を所有していたのを受け継いで、万俵大介はさらにそれらを大きくし阪神銀行の頭取に納まっているのでした。
彼には、公家華族の嵯峨子爵の出の寧子という妻と、長女の一子、長男の鉄平、次男の銀兵、次女の二子、三女の三子、と5人の成人した子どもがいます。
そして、華族の娘として、何もできない妻の寧子にかわって、大介の片腕となって、子どもたちの教育をし、家を取り仕切り、大介の事業に役立つ子どもたちの結婚相手を見つけ、ひいては、大介の寝室に大介のベッドを中心に妻の寧子の反対側にベッドがおいてあるという、大胆不敵な愛人の高須相子という人もいます。
この夫婦生活が寧子を傷つけるのは当然で、自殺未遂もしたりするのですが、自殺もきちんとできない自分ではしかたがないと、我慢して生活しています。
この、高須相子との関係が世間に知れると大変なスキャンダルになって、万俵大介は世間から抹殺されかねませんが、広大な邸宅でのことなので、外部には漏れないのです。子どもたちも反発の気持ちがありますが、だれとて、万俵大介には抵抗できなくて、かわいそうな母を見守っているのが精一杯です。
長女の一子は、高須相子が陣頭指揮をとって結婚させ、大蔵省の役人美馬中に嫁いで東京に居を構えています。
長男の鉄平は、叔父が引き継いで社長をしている阪神特殊鋼の専務です。東大工学部冶金を出てマサチューセッツ工科大学に留学後、高い知識と技術と情熱で、高炉建設にこぎつけます。やはり相子によって、元通産大臣大川一郎の娘早苗と結婚しています。祖父似の鉄平は父親に冷たくされ、融資の多くを大同銀行に頼むしかなく、父親の冷たさがなぞです。
次男の銀平は、阪神銀行に勤務し彼も本人の意思とは関係なく、相子によって、安田太左衛門大阪重工社長の令嬢万樹子と結婚にこぎつけます。
万俵大介は、時の大蔵省が健全で強力な銀行への整理を進めようとしていることをキャッチし、自行の合併には先手を打って、大が小を食ういわゆる弱肉強食型の合併を画策します。そのために、行内においては、大幅に預金を増やし、狙いをつけた銀行の不良債権などの汚点を大蔵省の資料から秘密裏に知ろうと画策します。しかし、各銀行には、必ずといっていいほど与党の実力政治家がついていて、資金パイプになっていて、なかなか難しいことを知っていき、阪神銀行が神戸に本店を置く地方銀行的な都市銀行10位の銀行であることを改めて認識させられて気を落とすところで、中巻へ・・・。
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お寺参り 
2017/04/17(Mon)
 4月16日は裏山の真言宗福王寺さんの春の大祭です。
このところ、春・秋の大祭とも参加していたのですが、このたびは行くことができませんでした。
 足の悪いというか腰の悪い知り合いの方が、浄土真宗報恩寺にお寺参りをされるようになり、その送迎ボランティアかたがたそのお寺にお参りをしました。
 浄土真宗報恩寺では仏教女性会のお参りの日が、毎月、曜日に関係なく16日に設定されているとのことです。
 報恩寺へのお参りは3度目ですが、女性会は2度目です。
 先月も女性会で16日にお参りして、このお寺の御住職が経をあげて、法話をされましたが、このたびもそうでした。
 本願寺新報 2014年(平成26年)5月20日掲載の『みんなの法話』から。牧野光博(岐阜・大性寺衆徒)の「大好きなお名前」というお話からの法話でした。
 そのお話の中で、親鸞さんが大好きだったという七高僧のお話がありました。
 七高僧とは、
   ① 龍樹 中国人
   ② 天親  〃
   ③ 曇鸞  〃
   ④ 道綽  〃
   ⑤ 善導  〃
   ⑥ 源信 日本人
   ⑦ 源空  〃
です。そうして、それにもう一人、あの法然です。
 親鸞は、親鸞を名乗る前、綽空また善信と名乗っていましたが、これらの名前の文字はすべてこれらの七高僧の名前から文字を取ったということでした。そして、私がこのお話を聞いていてよかったと思ったのは、「正信偈和讃」にこの七高僧の名前があり、順に書かれてあり、それぞれ持参の『真宗勤行集』のなかの「正信偈和讃」のなかでのこの七高僧の名前のあるページをそれぞれ指し示してくださいました。
 今それぞれの高僧一人ひとりの教えとその働きが語られているところを読んでいるところです。
 これらの法話を聞きながら、宗教に洗脳されていく気持ちがわかってくる気がしてきました。
 政治が、総合扶助の精神に貫かれているものであれば、それはそれとして尊くて、さらに自分たちを取り巻く大自然に、そして日々くらしやすい方法を考えてくれた先祖に感謝して法治国家の一員として勤めを果たしていけるよう心がけるでしょう。しかし、自分たちが生きていくことができないならば、一向一揆だって、抜け参りだって命をかけてでも救いを求める気持ちになるでしょう。
 宗教とは・・・・を考えさせられるお寺参りでした。


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日浦山(ヒノウラヤマ)ハイキング
2017/04/15(Sat)
 4月12日水曜日晴れ 中国新聞文化センター「現地講座・里山ハイキング」前期第1回「日浦山」という事業に参加しました。
 裏山で知り合った方々との福王寺登山の会では、このハイキングよりたやすい山登りを登山とブログにも書いてきましたが、この事業ではハイキングということです。

 海田市駅に9時30分集合です。
 そこから熊野神社に行きお参りをして、講師の奥河内氏は神社の神主さんらしき方とお話しをされており、私たちはアシスタント講師の沖田清美氏の指導で準備体操をいたします。そのあと、神社からの封書と、2万5千分の1の地図を配布してくださり、参加者全員の自己紹介がありました。全部で22人の参加です。
 講師は日本山岳会のかたがたで、事前に夫の友人で山岳会の宮石さんが連絡をしておいてくださったので、お二人とも私の名前は覚えてくださっていて、少し肩の力を抜くことができました。
 ゆっくりゆっくり登るとの説明がありました。裏から抜けて、巨大で金ぴかの観音像のある薬師寺を横にほそい墓地の間を抜けて山に差し掛かります。
 途中、70代くらいの男性がその道を降りてこられて、じつは・・・と話し始められました。
「早朝、いつもより少し早めに頂上に上って、少し奥に行くと、男性が首吊り自殺をしておられたので、警察に連絡をいたしました。警察が山道を上がってこられたのですが、山道に不案内なため少し時間がかかって、それから事情聴取を受けて、やっと今下山したところです。おそらく、登山途中でご遺体を運んで降りてこられるのと遭遇されるでしょうから、気をつけてあげてください。」
とのことでした。
 しばらく、みんな死者について思いをめぐらしてか黙々と登りました。いつものことですが、のぼり初めがしんどくて、ついてゆけるかしらと思うのですが、頂上に近づくにつれ元気が出てきます。
 途中、大勢の警察のかたがたが登っていかれるのをやり過ごしたり、山桜やツツジ、なかでもゲンカイツツジ、サイフリボク、遠くに見えるタムシバの花をめでたりして登ります。岩と岩の間に足の先が少しかかるくらいのところなどをすり抜けたりするところも当然あります。そんな中、先頭からの申し送りで、少し広いところで待っていると御遺体が担架に載せられて大勢の警察官に付き添われて降りてきました。

 頂上では、アゲハチョウやキアゲハ、テングチョウに似た蝶が飛び回っていました。
 お弁当の後、第1回講座「日帰り必要装備とパッキング」がありました。
 そのあと、ひとりでそっと枝振りのいい木を見つけここで・・・・・と、合掌したのでした。 足元には、春の風に吹きあげられた桜の花びらが美しく舞い散っていました。


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『小泉八雲』
2017/04/13(Thu)
 斎藤真理子構成・文 『小泉八雲』(日本を見つめる西洋の眼差し)を読みました。
 この図書は、筑摩書房による、ちくま評伝シリーズ(ポルトレ) 2015年12月発行で、このシリーズは、高校生くらいをターゲットに編集されているようです。
 ラフカディオ・ハーンを風呂先生の会で勉強するようになって丸3年になりました。東京帝国大学に夏目漱石が奉職するときの前任者であったというような記憶しかなかった小泉八雲が、私にとっていきなり退職後の課題の対象者としてあらわれてきて以後の読書のかなりの部分を占めるようになりました。
 しかし、入手できた本の傾向が似ているためか、ハーンその人の、人生のある域に限定され、ハーンの全体像に迫ることができていないことがはっきりわかる読書となりました。
 ハーンの全体像の中で、自分が、あるていど理解したことのある部分については晩年ではありますが、全体の4分の1です。
この本では、あとの4分の3をダイジェスト的に正確に知ることができます。
 読んでいくと、当然のことながらこれらのことが、後のハーンの人生のあらゆる部分に影響していることが理解されていきます。
 まずは、ハーンの両親の結婚についてです。ハーンの父親が、ハーンの母親ローザとであったギリシャのイオニア諸島のチェリゴ島で、チェリゴ島出身の彼女と結婚しようとしてローザの家族から厳しく反対され、駆け落ち同然の形で、つぎに赴任したレフカダ島にいきそこでラフカディオ・ハーンはパトリキオス・レフカディオス・ハーンとして生まれました。そこのところまでは、先日の稲垣明男氏の講演でも話がありました。しかし、なぜ、そこまで結婚を反対されたのかについての、理由は省略されていました。
 ところがこの本では、母親の生まれ育ったイオニア諸島について、東西を結ぶ海上交通路上に位置し、またイギリスとイタリアの間の戦略的重要地点にあり、中世から近代にかけて、さまざまな国の侵略・占領を受け、ギリシャ本土とはまた別の歴史に翻弄され、トルコ、ベネツィア、フランスに相次いで占領され、レフカディオスが生まれた当時はイギリスの半植民地のような状態で、一方ギリシャはトルコから独立して18年目を迎えており、イオニア諸島でも、独立ギリシャに帰属したいと考える人が増え、反英感情が高まっており、ローザの家族が結婚に反対したのはそのためであったことが説明されています。
 そのときの、アイルランド人の父親のイギリス軍医としての立場とそのあわただしさの説明も詳しく説明されています。そのために、レフカディオスが生まれた当時はすでに本国に召還されてもいました。
 このように、ハーンの行く先々でのその国とその地方の状況が、説明されており、ハーンが日本に来るまでのことを知ることができます。それを知った上で、改めて彼の日本での生活を知ることの重要性に気づかされ、新しくハーン研究の課題ができたのでした。

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『一茶』
2017/04/11(Tue)
 藤沢周平著 1981年12月 株式会社文芸春秋発行の文庫本 『一茶』 を読みました。
 これは先に読んだ『ひねくれ一茶』の半分のページ数で324ページです。
 この文庫本には、さいごに、藤沢周平の「あとがき」と、時事通信社・文化部長 藤田昌司氏の解説があります。
 その解説のなかに、藤沢周平が、一茶についてのこの作品を書いた事情について述べられています。
 藤沢周平は、一般に私たちが一茶にもっているイメージとおなじように、
  ≪それまでの藤沢氏には、
    痩蛙まけるな一茶是にあり
    やれ打つな蝿が手を摺り足をする
 といった句で知られる、善良な眼をもち、小動物にもやさしい心配りを忘れない、多少こっけいな句を作る俳諧師の姿があるだけだった、という。≫
 わたしなどにしても、子どもにかかわる職業にあったため、常日頃から、
   我ときてあそべや親のない雀
   雀の子そこのけそこのけお馬がとおる
 といった句が、子どものさみしさにつきあい、子どもの身の安全を気づかう心持として、いつも心をめぐっていたように思い、わたしにとっては、俳諧の師としてではなく、日々の生活の師としてこの句で呼吸をしていたようにおもいます。
 ところが藤沢周平は、20代の終わりのころ結核に罹り、5年にわたる闘病生活中に句会に入り、指導を受け静岡の俳誌「海坂」に作品を送り、巻頭を飾ったこともあるといいますが、それが機縁で俳句に関する書物を読み、それまでの一茶像が砕かれたというのです。
 ≪「そういう一茶像をみじんにくだくようなことが、私が読んだ文章には記されていた。それによれば、一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり、悪どいと思われるような手段まで使って、ついに財産をきっちり半分とりあげた人物だった。また五十を過ぎてもらった若妻と、荒淫ともいえる夜々をすごす老人であり、句の中に悪態と自嘲を交互に吐き出さずにいられない、拗ね者の俳人だった・・・そしてゆっくりと、価値の再転換がやってきたのが近年のことである。一茶はあるときは欲望をむき出しにして恥じない俗物だった。貧しくもあわれな暮らしもしたが、その貧しさを句の中で誇張してみせ、また自分のみにくさをかばう自己弁護も忘れない、したたかな人間でもあった。
 だがその彼は、またまぎれもない詩人だったのである」(エッセイ「一茶という人」)≫
そんな一茶を、田辺聖子著『ひねくれ一茶』と、この藤沢周平著『一茶』で楽しみました。


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第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」参加記録
2017/04/10(Mon)
 当日、4月8日は夫の誕生日でした。一緒になって以来、夫の誕生日がこんなに素適だった日はありませんでした。
 あっ!夫の誕生日の記録ではなくて、第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」の参加記録でした。
 朝から広島国際ホテルにいくことに運命的なものを感じていました。夫は結婚前、街で偶然出会ったら必ずこの国際ホテルの地下にあったバーで、食事をご馳走してくれました。そこのバーは、ホテル内のレストランや料亭から和食・洋食とどんな食事も注文することができました。
 思い出のホテルだね!と朝夫にもうしますと、自分は最初私を見かけた金正堂が思い出だといいました。
 私はそのとき金正堂で当時話題になっていた『赤頭巾ちゃん気をつけて』を立ち読みしていたのにおかげで読みをのがしてしまいました。
 あっ!第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」の参加記録でした。
 広島市まちづくり市民交流プラザでは、風呂先生の奥様を始め、宇野先生、そして東京からこられた丹沢先生にお会いすることができました。丹沢先生は以前いろいろと贈り物をしていただいていたので、そのお礼を述べさせていただくことができました。初めてお会いしてみると、とても素適な先生なので、こんなひとがほんとに世の中におられるのかとまるで、子どものころよく父親に連れて行かれた映画館で見た若いころの森繁久彌に出会ったような気分になりました。
 稲垣明男氏の講演では、小野木重治編著『ある英語教師の思い出』~小泉八雲次男・稲垣巌の生涯~を読んでおりましたので、稲垣明男氏については父親と縁の薄い末の男の子というイメージだけがありましたが、とてもゆたらかに感じられる方で、終始心豊かな気持ちで楽しくお話を聞かせていただきました。特に来広して、午前中平和公園で慰霊碑にお参りに行かれたときのお話では、涙が出ました。ラフカディオ・ハーンが熊本の第五高等中学校で全校生徒を前に講演した『極東の将来』の最後に、「九州スピリット」について語りそのことを大切にと申し渡されたことを思い起こし、その土地にくらす者のよすがへのまなざしに力をいただきました。夫も生後4ヶ月で被爆し、高校時代も入院生活が長かったようです。いつの世も、急激な成長や不況からの脱出を望むと必ず取り返しがつかなくなることが起こることを心しないわけにはいきません。明男氏はなんと言ってもハーンに生き写しの面差しをしておられ、立ち姿もそっくりではないかと思います。何度も握手をさせていただき手の感触も忘れません。
 アインリッシュ・ハーブ演奏者の奈加靖子さんは、末国さんがお話を深めてくださったので私たちの心の琴線にも触れてくださり、とてもいいお話をうかがうことができました。そして、井野口慧子さんとも三次の話しができました。ご自分の祖父の『黒い蝶』を英語訳された桑本仁子さんご夫婦に会えたことも大きな喜びでした。

 最後に、こんなにみのりおおいい祝賀会に出席できたことを風呂先生と、それを支えてくださった風呂先生の奥様に心よりお礼申し上げたいと思います。


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『ひねくれ一茶』
2017/04/06(Thu)
 田辺聖子著 1995年9月講談社発行の文庫本『ひねくれ一茶』 を読みました。
 午前中は、交通安全協会のイベントに参加。昼食後から夕刻まででつづきを読みおえ増した。夕食には一茶にあやかって、ブランデーを久しぶりにたっぷりいただきました。夕食はすき焼きです。老夫婦が二人ですき焼きとは、こってり過ぎると思いますが、さにあらず、こってりはこってりなのですが、友達が畑に玉ねぎを植えていたのが、その借りていた畑にマンションが建つことになって、その玉ねぎを抜かなければならなくなったのでといただいて、抜いた玉ねぎを試しに丸ごとすき焼きにしてみました。それがなんとも美味しくて、以来抜くごといただいて、この玉ねぎの丸ごとすき焼きのとりこになったのです。お肉だけがのこるのが特徴です。
 この一茶の文庫本は、なんと643ページもあります。文庫本でこんなに厚い本は初めてかもしれません。しかし読んで感服いたしました。
 五木寛之の解説でその記録に変えます。
≪「兜を脱ぐ」という言いかたがあるが、いまどきの若い人たちに通じるかどうか。こいつはとてもかなわない、と、白旗をかかげて降参することである。田辺聖子さんの『ひねくれ一茶』を詠み終えたときの私の心境が、まさにそれだった。
 考えてみると、小林一茶という人物は、どうもはっきりしない男である。熱烈なファンも多い一方で、なんとなく彼をいけ好かないと感じている向きも少なくないようだ。私自身もこれまで漠然とそんな受け止め方をしていた。たぶん、一筋縄ではいかないしたたかな男、という固定概念にとらわれていたのだろう。
 そんな私の月並みな一茶観に、気持ちのいい一撃をあたえてくれたのが、この『ひねくれ一茶』だった。
 出囃子の音がきこえてくるような洒脱な語り口につい引きこまれて、ページをめくるのももどかしく読みすすんでいくと、やがて小林一茶という不思議な人物の姿が行間からぐいと起ちあがってくる。体つきや、目鼻だちも見えてくる。身のこなしや、声の調子、吐く息のなまぐささまでが感じられる。江戸の町の華やぎや、信州の雪の重さ。そして故郷と肉親に対する執着の深さと激しさ。職業的俳人として業界に生きる自負もあれば、地方出身者の入り組んだ劣等感もある。一座建立の歌仙の座に身をおくつかのまの恍惚は、一転して先立つ知友や妻を見送る悲しみに変わる。
 それにしても、ここに描かれている小林一茶の濃密な存在感はどうだ。こういう男とはあまりつきあいたくはないなあ、などと思っているうちに、いつのまにやら一茶の俳諧仲間の末席にでもくわわったような気分になってきて、彼の病気の場面になると大根のひと束でもさげて見舞いに駆けつけたくなってくる、といった具合なのである。それだけではない。小林一茶を見る目が変ってくると同時に、月並みな言いかただが、人間、とか、人の世、とかいったものに対する自分の見かた、感じ方に、それと気づかぬほどの変化が生じてくる気配さえあるのだ。うまく言えないが、日ごろ「嫌なやつ」と思っているような相手にでも、自然に声をかけられそうな気分になってくるのである。いい小説を読むことの醍醐味とは、たぶんこういう体験を言うのだろう。・・・≫
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『三木清 人生論ノート』
2017/04/03(Mon)
 岸見一郎著 100分de名著テキスト『三木清 人生論ノート』を読みました。
 早朝読み終えて、山歩きをしながら考えました。
 この本を、安部政権前に読んでいたとしたら、さすがNHKの推薦図書でいいことが書いてあると、この図書に出会えたことに感謝して読んだと思います。
 しかし、岸見一郎氏は、この本が書かれた戦前の時代と、今が大変よく似ているので、今こそ読む意味があると冒頭に掲げています。読んで個人個人が、自分の人生について考えてほしいとさらにいろいろの局面でも述べています。
 この 『人生論ノート』が連載で掲載されているあいだに刊行した『哲学入門』は驚異的なベストセラーを記録しているといいます。内容から考えて、当時これらの本を読んだ多くの人はどういう気持ちになっただろうかと考えます。
 うがった言い方をしますと、籠池氏の国会招致では、巷の話題を耳にするにつけ、国民のほとんどの人が何らかの形でテレビでこれを見て大変な視聴率だったのではないかと感じます。
 このときの証言がどうであろうと、以後の国政を預かっている人たちの動きを見ていると、逆に、如何にこの証言が大きな爆弾を抱えた証言であったのかという思いがいたします。証言の内容よりも、以後の対応によっていまのところ、日に日に政府は国民の信用を失っているように感じて残念です。
 このことは、著者の岸見一郎氏が言っているように、三木清が哲学者として述べていることが、時の為政者にとって戦時体制を揺るがすような爆弾思想でありましたので、彼を陸軍報道部員として徴用し、国外に追放したり、些細な言いがかりをつけて、投獄しなければならなかったことに思いがつながります。戦後になってからでさえ、自分たちが戦犯を問われないために彼を投獄したままでついに死に至らしめるのです。
 先日、地域の公民館で交通安全協会の理事会があり、いきなり主催者側の一員としてはじめての出席だったため、早めに出席して、準備を済ませ、図書室であのユダヤ人へのパスポートで有名な杉原千畝についての本を読みました。彼は北満鉄道譲渡交渉のときにも、広田弘毅に外交手腕を高く買われるほどの外交官でしたが、帰国した昭和22年に外務省を退職させられました。  戦後も戦犯への恐れから、時の為政者は戦時中の自分の行動を反省するどころか、護身に躍起であったことが書かれてありました。敗戦後の数年は、それまでどおり、人間が人間としての自由や尊厳について考え、道徳的に生きることについて考えることが容易ではなかったことを知りました。
 三木清は、太平洋戦争が始まる前から日本がアメリカと戦争することや、日本はその戦に破れて、同盟国の独裁者ヒトラーが自殺することを予言して友人達に話していたということがわかっているそうです。
 三木清の『人生論ノート』について書いた岸見一郎氏の今の政情(三木は検閲を考えて社会情勢といったでしょう)を見越しての解説を、NHK教育テレビ放送で今夜10時25分から、そして4月の毎週月曜日夜に勉強できたらと思っています。
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