白滝山登山
2017/05/26(Fri)
 20日土曜日に岩国市の白滝山に登りました。
 この登山は白滝山・大師山縦走の予定だったのですが、こともあろうに、私が白滝山の頂上で倒れ、皆さんの熱い介護で回復したのですが、それからの縦走途中、こちら大師山・こちら下山道という所で、私の為に大事を取って下山道を選ばれたのでした。
下山道は、倒木などで、歩きにくくあげく一時、道がわからなくなってしまい、登山者はたいてい縦走され、この下山道を下りる人はまれであることがわかってきます。私のせいで道に迷ったらどうしようと思っていましたら、「ここにあった!」といわれほっとして下山することができました。
 皆さんの縦走という夢を奪ってしまい本当に申し訳ないことでした。
 「けががなくてよかった」とか「こんなことはよくあることよ」とか「気にしないでいいよ」とかおっしゃってくださり、それにもまして皆さんのじきに元気を取り戻せる厚い介護がほんとうに身に染みました。
 わたしが、今春作り始めた笹茶を飲もうとすると、堂河内さんが、それはよして、このスポーツドリンクを飲みなさいと氷を入れて飲ませくださったり、水野さんが凍らせた保冷ザイをスカーフで巻いて腋の下に入れてくださったり、わたしもお弁当は食べられないものの、その中の明太子や昆布のつくだ煮など塩分を含んだものだけでもと食べたりしました。体力にはだんぜん信頼のあった私だけに本当にどうしたのでしょう。
 家に帰って夫に話し、日頃夫の注意をおろそかにすることがこんなことになったことを自覚させられました。汗をかかないわたくしは、塩分の入った水分をわざわざとるという習慣にもかけていたのです。昨年、夫が血尿があるのではないかと病院行きをすすめてくれ、病院に行くと、まあ誰でも夏には血尿がありますよなどと軽くいなされたのですが、このたびは帰って意識的に塩分を補給すると翌朝には尿の色が変わり、体調もすこし変わり、じつは10日くらい前から、ずいぶんしんどく、自治会での副区長としての運動会の仕事、集会所副管理委員長の仕事、交通安全協会の仕事、それに長時間の古文書のやり過ぎで疲れているのだろうと納得しようとしていたことに思い当たります。そういえば、10日の西条の竜王山への登山の時も登山靴を重く感じたのでした。このときは、日本山岳会リーダーの奥河内さんが、気温は6度くらい低かったのに、なかば強制的に全員に水分を補給してくださいと声をかけられたのでした。
 今も完全に健康を取り戻したとは言えないので、あれこれ反省して自愛しています。

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『すみよし 小泉八雲の遺稿「おばあさんの話」』
2017/05/16(Tue)
 風呂跫先生寄稿の『すみよし 小泉八雲の遺稿「おばあさんの話」』を読みました。
 偶然、森脇宗彦宮司の「働く」という記事、≪日本人は、神話にみられるように働くことは、苦役ではなく、神事の延長と考えている。≫という記事と呼応するかのような「おばあさんの話」を平川祐弘編『明治日本の面影』で読み返しました。
 私もちょうどそのおばあさんと同じ年齢です。ほんとうに、こんな風に生きていけたらどんなに毎日寝覚めがいいでしょう。ところで平成のおばあさんは、定年退職をしたいまでは、黙っていても5時前には目が覚めて、今日の予定を確認し、家事についてしようと思うことをメモ用紙に書き込み、その中から優先順にすることにしています。夫に朝ごはんの希望を聞いて、朝食をとり、ごみを出しにいって、近所の年寄りが重いごみを持っておられれば、自然に受け取って、出しておいてあげる。帰って水筒にお茶を入れて、裏山に上る。10時30分ころ帰ってきて、昼食の準備をする。早めに食べて、本を読む。たいてい眠くなるので、そのときはメモ用紙の書付を見て、何か用事をする。これの繰り返しで、夕ご飯を食べてまた本を読む。これを生活のベースにしておいても、たいてい何かあってこうはいかない。でも、ベースがあるので、何をしようかあちこち出歩くこともない。平穏で幸せな日々です。この平穏で幸せな日々というものを日々確認することは大切です。この状態が崩れたとき、幸せを見失わないために。生まれ変われば、またそこで、このような平穏な幸せを紡ぐすべを見出せるでしょう。
 文中『むじな』について≪八雲は当初「かわうそ」というタイトルを考えていた。それを「むじな」に変更したのは、“顔なしの怪物なら狢(むじな)にきまっちょる!”と断じた稲垣トミの言葉がきっかけであったと謂われている。≫と書かれているところで、最近大笑いをしたことを思い出しました。 近所の加川さんのお宅で、辞書などをいっぱい広げての古文書の勉強を終えたとき、獺祭が美味しくてたまらなかったという話をいたしました。「獺祭って!」とたずねられ、「ええーとダツはなにか動物の名前なのですよ。ダツって読む動物なのですが」というと、「ああ、かわうそね」といわれ、「ええ、何かそんな・・」と漢和辞典で引いてみますとやはりそうでした。この獺という漢字にひとつだけ熟語があります。それが【獺祭】でした。意味を読み上げました。①かわうそが、自分の捕らえた魚を、祭りの供え物のように並べたてること。②詩文を作るとき、多くの参考書を広げ散らすこと。また、故事を多く引くこと。③唐の李商隠の呼び名。
 ちょうど私たちもいろんな辞書を広げ散らかして古文書の解読をしていましたので、「まさしく私たちも獺祭ですね」と大笑いをしました。
 ついでに、風呂先生が、この『すみよし』と一緒に下さった「正岡子規展」のパンフレットには、裏面の、岩波書店の広告に、正岡子規著『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』があります。是非拝して読みたいと思いました。
ちなみに、私の庭には夜中にときどき狢が訪問します。これは、穴の掘り方に特徴があるのでわかるのです。小さい穴を手元に土をかき寄せるように一方向だけにかき寄せているのが特徴です。穴の狭いほうの直径はきまって10センチくらいです。


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第201回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/05/15(Mon)
 5月13日(土曜日)、直前になって夫も行くと言い出したので、夏の上着を出したり少しばたばたして早めに出かけました。
 夫は、4月の第3日曜日に、風呂先生の奥方とその友人とで、福王寺の春の大祭に参加して、それとは知らず私が昨年8月に仕事を辞めるとき、心を残していた友人にお祭りの最中に出会い、そのご主人と「火渡り」をしたり、「御幣」をもらってあげたりできたことや、風呂先生の奥方に「破魔矢」をいただかせてあげられたことが、風呂先生の「神ってる」のおかげだと思っているのです。最近どこに出かけるにも自信のない夫が、福王寺にお参りしようかどうしようかと迷っていたところに風呂先生から電話があって行く決心がつき、こんなにうれしいことがあり、以後、少しずつ野山にも出かけるようになりました。
 くだんの私の職場での友人は、息子に子供が生まれるに際して、おなかの中ですでに子どもの心臓に病気がある事が発覚し、その無事を祈って四国お遍路をやり遂げ、私が職場を去るについて、なんどもお茶をしましょうと約束してくれたのですが、おなかの中の子供の上にもう一人幼児がいて、お嫁さんが入院中から出産してもずっとその子の面倒も見なければならないことがわかっていたので、声をかけることを遠慮していたのでした。福王寺から帰っての夫の話を聞いて、もしやと思って「きょう福王寺に行った?」と電話をいたしましたら「えっ!」とお互いびっくりしたのでした。
 ほんとうは、風呂先生が200回ものハーンの会を主催してこられ、ひと段落して、ぐったり疲れが出ておられるのではないかと日夜心配しているのですが、夫の近況がつい長くなりました。
 当日は、読売新聞の記者の人も取材にこられての会合になりました。
 前会の予告どおり、青灯社2014年発行の、ウオルター・ラッセル・ミード著『神と黄金』上・下を翻訳された、広島ラフカディオ・ハーンの会員の寺下滝郎さんの発表でした。
 『表現者』2014年11月号での翻訳者寺下滝郎ご本人による寄稿書評から始まって、目次、図書新聞・国際政治・北国新聞・読売新聞・毎日新聞・朝日新聞・歴史通(隔月刊雑誌)に掲載された書評、『神と黄金』を引用しての論壇・時評での記事と、A4で10枚の資料をいただき、「イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか」というテーマについてお話をしていただきました。なにしろ、ひろく、長いスパンの中で考えることですし、著者が、どこにスタンスをおいているのか・・・・。とりあえず、現在までの、イギリス・アメリカの近現代世界を支配できた要因が、多くの異なる教派や神学傾向が並存して、自由と教条主義が並存することによって教義間の対立があるがゆえに活力があって発展してきたというのであれば、イスラム教のワッハーブ派とサラフィー主義の政治運動は、ピューリタンが使徒時代の純粋なキリスト教回帰を望んでいる姿とよく似ていて、イスラーム世界が内的闘争を経て動的宗教を発生させそれに基づく新たな社会を生み出して行けば、これからの世界秩序も整うという展望が・・・。
 しかし、「こういった改革者に誑かされないために」というのが寺下さんのわたしたちへの強いメッセージでした。
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『文鳥』
2017/05/14(Sun)
 夏目漱石著 『文鳥』 を読みました。
 今日、201回広島ラフカディオ・ハーンの会に参加したとき、風呂先生にいただいた昭和51年7月発行の新潮文庫に掲載されたものです。
 午前中、近くにある亀山児童館の母親クラブの総会に運動のため歩いて公民館まで行き、帰って昼食後すぐに201回広島ラフカディオ・ハーンの会に参加、帰ってたくさんの洗濯物を取り込んで整理し、くたくたでした。とにかく休もうと床に入って読みかけて眠り、3時間くらいして目覚めて読み終えました。
 爆睡した間夢を見ました。見た夢を覚えられるようになったことが、これは何かの能力がアップしたことと思えるので、こうして記録する必要を感じているところです。
 夢は、古文書を読んだ結果をどのように原稿用紙に記録するかを考えている場面のようです。その記録のやり方が、なぜか夢の中のことゆえ廊下を拭き掃除するやり方に置き換えられるのです。「だから、よく絞った雑巾で拭くのではなくて、まず水気をたっぷり含んだ雑巾で拭いて、なんでも書きやすいように、ほら!」と、とくに壁際を何度か試みに拭いてみると、なぜか夢の中でそうだそうだと納得するのです。

 私は、文鳥を読みながら、これが結局死ぬのよね。しかも漱石の粗相で・・・。とおもいながら、具体的にどんな粗相で死ぬのかは思い出せないでいます。人は、それぞれ同じ作品を読んでも感じることが違いますし、読んだ年齢によっても違います。またどう感じたかを自分自身でどう認識するかも違います。今日の児童館母親クラブの研修会で、深層心理で無意識のうちに捉えている部分が95%、意識的に捕らえているのは5%だとの説明を受けました。このたび読んでみて、実は、ずっと昔読んだときに不愉快に感じた部分が深層心理の中の何であったかについて今になって思い当たるような気がしています。この文鳥を籠とで当時のお金で5円も出して買って、しかも死なせてしまうという設定そのものがきっと不愉快極まりないものだったのです。
 私は、家に何匹かの牛、馬、山羊これは1頭のみ、鶏を飼っている家で育ちました。馬などは、今で言う大型トラックの値段がしたでしょう。馬に保険が掛けられる時代ではありませんでしたから、これが人間の粗相で死ぬようなことがあると大変だったと思います。母は「あんたたちはお腹がすいたというけれど、動物はいえないんだから、しかも、人間が勝手に綱をつけているものに餌をやらないと科料になるから」と、これらのものにきちんと餌をやらないと食事をしませんでした。そして、馬の餌代にいたっては農協に1頭につき家族全員の食事代くらいの支払いになっていたようです。我が家での動物たちは、私たち家族と運命共同体の一員だったのを知った大人になって読んだために、漱石の文学性を読み解こうという意識的な感想の裏にこういった深層心理が働いていたことにいまになってきづくのでした。
 このたびは、110年前に発表されたこの文章の中に、今の私に読めない文字、意味のわからない言葉、現代と表記の異なるものなどがどれくらいあるだろうかと書き出しながら読んでみました。印象的な用法は「自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと布団の上に卸した。」でした。あと、二遍目を二返目、一緒を一所と注釈に普通の「書き方では」として記してありました。
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「山姥夢の記」
2017/05/12(Fri)
 まったく今日が何日の何曜日かわからなくなるほど疲れています。
 いまの季節ほど勉強に適している季節はありません。
 4月の18日から、近所の加川さんに教えを乞うて、20代の半ばにやっていた古文書の勉強を始めました。
 やってみようと思い立ったのは「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念大会」に参加した夫が、中国などのように、自国の国語を単純にした国などでは、学力が急激に落ちて行っているという現状があると聞いてきたことによるものです。 それなら、自分が以前20歳代のとき一度手がけていた古文書を教えていただこうと思い立ったのです。
 加川さんは、歴史ある可部公民館での古文書解読研究会の中では、一番よく読める人として、紹介を受けたことのある人です。 テキストとするべき古文書の写しが手元にすこしある中で、話し合って、美しい文字で書かれていて一番読みやすい『家道訓巻の一』を読むことにしました。    
 最初は加川さんに確認を取りながら、くずし文字を読みあげて原稿用紙に書き、読めないところを教えていただき、古文書辞典で確認をして、書き進めていきます。見ていただきながら書きすすめていくのが精いっぱいでしたが、家に持ち帰って復習をする中で、書かれている内容がすこしずつその文脈から理解できるようになってきました。いぜん習っていたときは、下野家の印が押されていたので、講師的な役割もされていた下野さんの家に伝わる「下野家の家道訓」なのかと思っていましたが、四民すなわち士農工商のそれぞれへ、武士たるものはからはじまって、商いを営む者はとあり、すべての家業への家道訓ということがわかってきます。その中でも、貧しき者・富める者ともおおよそ人としての守るべき道、家を保つべき術が丁寧に書かれているのです。
 そんななか10日、西条駅から竜王山に登って、帰りに「賀茂泉」で、酒造りについての資料をもとに解説をしていただき酒作りの見学をさせていただいたあとお酒もたっぷりいただき、帰って7時頃から爆睡.。この家道訓は明恵上人の「あるべきようは」に心酔していた北条時宗が作った貞永式目ではないかと思いついたところで目が覚めました。朝かと思ったら、22時でした。あわてて「貞永式目」の内容について検索してみました。別名「御成敗式目」というほどあって、読んでみると裁判長の判決の参考になるような内容でした。これがけっこう現代でも通用する部分が多いのに驚きましたし、「家道訓」も、結局いつの時代でも家庭が崩壊しては国はおろか人類も・・・との勉強でした。
 今日も、南原の駐車場からとおく可部冠登山口まで歩き、さらに可部峠まで延々歩いたのでくたびれは並みでなく、これから爆睡して、頓珍漢なお告げの夢を見そうです。
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『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』
2017/05/09(Tue)
 村岡恵理著 『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 を読みました。
 読み終わったあと、村岡花子の生涯、1893年(明治26年)~1968年(昭和43年)の伝記は、あわせてこの75年間の日本女性の近現代史といった感がありました。
 たとえば、村岡花子は昭和7年6月1日から、NHKの前身JOAK放送局で毎日午後6時25分からの「子供の新聞」という子供向けのニュースの朗読に出演していました。そして、昭和16年12月8日の早朝、「今日は非常に勇ましいニュースがありますから女の声ではいけませんので、いらっしゃらなくて結構です。明日、改めてお越しください」との電話を受けます。この日は、真珠湾攻撃の日で、ラジオは一日中日本は戦闘状態に入ったと報道されていたようです。昭和12年に日中戦争が勃発してから、彼女の属している婦人参政権獲得などを訴える運動団体や、文学関係の団体にも軍部の風当たりが強くなっており何度も辞表を書いては出さずにいたものを、この時をしおに辞めます。次にラジオ番組に出演したのは昭和21年の正月早々。四夜連続で特別企画に出演したとあります。
 また村岡花子は、日本は西欧に比べ女性や児童向けの図書が少なく内容も夢のある楽しいものがないことに早くから気づいて、このような本の著作や翻訳の必要を感じています。しかし、翻訳していることが人に知れてはいけない時代もあり、そんなときの生活での苦労も語られます。
 花子が東洋英和女子校に勤務していたカナダ・メソジスト派の婦人宣教師のミス・ショーからあずかった『赤毛のアン』の原作は、1908年6月が初版で、毎月のように版を重ね12月の第7版でした。花子によって翻訳された本が1952年(昭和27年)5月に発行され、さいわいたちまちベストセラーになったといいます。

 『赤毛のアン』を私はいつ頃読んだのか特別記憶がありません。ですが、他の翻訳者で読んだとき、違う話を読んでいるような気持になった事を誰かに話したことは覚えています。仕事で緘黙児を預かったとき、そして美智子皇后がお声が出ない病気になられたとき、文庫本での村岡花子訳『果樹園のセレナーデ』のことを思い出した記憶もありました。
 この本の中には、竹柏会を代表する歌人で片山廣子という人が松村みね子というペンネームでアイルランド文学を紹介した翻訳者だとあり、村岡花子はこの人からたくさんの洋書を借りて読んでいます。(小泉八雲と関連しているので特記しておきます。)
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『明恵上人』
2017/05/08(Mon)
 白洲正子著 『明恵上人 愛蔵版』 を読みました。
 新潮社より1999年発行のものです。
 愛蔵版というほどあって、表紙カバー・本文写真とも美しく価値あるものです。あとがき・明恵上人参考年譜につづいて、白洲正子・河合隼雄の対談 「明恵の夢をひらく」があります。 
 明恵は親鸞と同じ年に生まれたのですが、その違いについて、親鸞は『善人なほもて往生を研ぐ。いはんや悪人をや』(歎異抄)といっているのに対して、『悪人なほ隠れたる徳あり。況や一善の人に於いてをや』(明恵上人伝記)と比較し、また、教団を作った人と、ただひたすら『弟子持て仕立てたがらんよりは、仏果に至るまでは我心をぞ仕立つべき』(遺訓)といった言葉の比較こそが明恵上人の特徴をよくあらわしています。明恵を慕ってくる人を弟子とは言わず同行と言っているあたりは仏陀とも共通する部分でもあります。
 また。栄西に印可をうけ、栄西から跡継ぎをといわれたのを断りますが、以後お互い認め合い、和して同ぜずという関係は、他の人々との距離関係とも共通しています。明恵の仏弟子としての姿勢には、むしろ後に現れる道元の「・・・つつしんで宗称することなかれ、仏法に五家ありといふことなかれ」(正法眼蔵)に近いとあります。
 この道元のところを読んでいると、『にごれる代に登用せらるるは、無道の人なり。にごれる世に登用せられざるは、有道なり。』ということが延べられており、驚きます。今世界各国が核兵器の威力を高める中、テロが蔓延しつつあり、にごっているときに、落ちついて人の道をという政治家を望むのは無理で、戦国時代、織田信長が現れたようにヤンキーで非道な人間がいったんまとめない限り、どうにもならないものなのだろうかと思わされます。さらにそのことをダメ押しするごとく、『治世の法は、上み天子より下も庶民に至るまで、各々皆な其の官に居する者は其の業を修す。其の人にあらずして、其の官に居するを、乱天の事と云ふ』とまで述べています。ここでは、このような道元の特質は明恵の影響があったことを感じさせ、明恵の「あるべきようは」との一致を伝えます。二人とも「和して同ぜず」という姿勢によって、より仏陀に近づこうとしたように思えます。
 しかし、道元は永平寺を本山とし、「曹洞宗」を立てるというようなことになったため、道元の仏法は彼一人のものに終わったと延べていて、以外にこういった人の生き方が、心ならずもこのような結末を迎えることがよくあることもうなずけます。このあたりも仏陀が、インストラクターであったと説明したNHK100de名著の『ブッダ』の姿と一致して見えます。
 明恵の業績にこれといったものはないけれどといいつつ、時の執権北条泰時との関係を、白洲正子流にとらえているところは、やっとこのふたりの関係に触れてあるものに出会えたとの思いで読ませていただきました。あとにある河合隼雄との対談集で河合隼雄は明恵上人の「あるべきようは」を基に北条泰時の作った貞永式目は明治になるまで生き続けたと述べています。

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『兄いもうと ―子規庵日記』
2017/05/03(Wed)
 鳥越 碧著 『兄いもうと ―子規庵日記』 を読みました。
 講談社文庫より、2014年8月に発行されたものです。
 あとがきの冒頭に、
 ≪昨年、「漱石の妻」を上梓した折に、夏目漱石の親友正岡子規に関する資料を読み、脊椎カリエスに冒された子規を介護する妹律の姿に感動した。ぜひとも小説にしたい、律を中心に据えて、この凄まじい闘病の日々に織りなされる兄妹愛をしっかりと見つめてみたいと。≫とあるように、妹、律を中心に書かれていて、女性を中心に書かれているぶん、生活が細やかに描かれ、子規の交友関係や、病状、作品との関係がよりよくわかり、親しくも読めましたが、子規の晩年の病状の過酷さには胸詰まるものを感じました。
 ところで、
 ≪朝、牛乳 菓子パン二つ 梨一つ。昼、粥三碗 泥鰌鍋 薩摩あげ 味醂粕漬梨一つ 葡萄一房。夕、粥三碗 鰻 薩摩あげ みりん粕漬 牛乳ココア入 菓子パン小二個 葡萄 梨一つ」≫
 子規は明治35年9月18日に亡くなるのですが、この引用は、その年前9月16日の日記『仰臥漫録』からの記述です。いつ事切れても不思議ではない病状でありながら、この食欲にはびっくりです。内職の仕立物から、病人の下の世話、病床での食事の世話、掃除、洗濯、買い物をしている母親の八重と律は、ご飯と漬物だけで食事を済ませて、ほとんど病気をしません。
 脊椎カリエスという病気、私が通学した当時の広島文教女子大学の学長武田ミキ氏は、脊椎カリエスだったと聞いていたので、どんな病気かと注意深く読んでいたので病状はわかったのですが、痛み止めのモルヒネを処方することしか治療法についてはわかりません。
 調べてみると、このように甘いものの食べすぎが病気の一因でもあり、さらに病状を悪化させるようです。砂糖や果糖によって血液やリンパ液などの体液酸性化が進行してやがて死にいたるといいます。それを防ぐための中和としてカルシュウムイオンが骨から供給されるため、骨格はもろくなり、病原菌に侵されて最悪脊椎まで侵されるとのこと。これを食べたころには立つこともままならなくなり、歯も抜け落ちていたのです。 
 そんなこともあり、子規のこの『仰臥漫録』は、栄養学の1級の資料といえるとのことです。

 2月に風呂先生にいただいた『岡山の夏目金之助(漱石)』を読みました。漱石が、子規と一緒に神戸まで行って、一人岡山入りして、後で松山に子規を訪ねます。そのときの様子もあり、興味深く読みました。
 そして、この小説は子規が亡くなって終わるのですが、律は叔父にあたる加藤拓川の子どもを養子に迎え正岡家を継がせます。なんという本であったか忘れたのですが、阪急に勤務する養子忠三郎の物語を読んだことがあったことも思い出しました。
                          
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「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 2
2017/05/02(Tue)
 ③ へるん№48別冊 2010年度八雲会総会講演 広島に生きるハーンの心―ささやかなtorchbearerを目指して―  風呂 鞏 
 風呂先生は、ハーンについて研究をされていて、ハーンと広島もずいぶん深い関係があるので、広島でもハーンについて顕彰する意義が大きいことを述べられています。広島に於けるハーン縁りの人として、いままで知りえていた大谷正信、小山内薫、丸山学、銭本健二、服部一三に加えて、小日向定次郎、栗原基、金子健二、西宗久壽馬、野田正明が紹介されていて、改めてハーンの心が広島のひとびとに受け継がれていることを知ることができます。
 そして身近なところでは、ハーンの作品「出雲への旅日記」“広島にて”では、私の住む広島市安佐北区可部で、太田川の渡しを利用したときの様子が美しく描かれています。このときのハーンの実際の旅の日程や行程については、すぐ近くなので、作品の中のちょっとしたヒントにも目を向けていろいろ実地検分して、ハーン一流の創作手腕を感じ取っていくことになります。
  ④ 月刊『すみよし』(平成29年4月) 小泉八雲の次男・稲垣巌 風呂鞏 
 このたびの「広島ラフカディオ・ハーンの会」の200回記念例会を記念して、記念講演で、お話をうかがうことができる、小泉八雲のお孫さんにあたる稲垣明男氏にちなんで、小泉家のなかでの小泉巌氏を紹介されています。
 このなかで、小泉八雲の妻、小泉セツの名前の由来について2月4日の節分の日であることがわざわざ記されていますが、先日裏山に登る仲間の一人でいつも本を貸してくださる水野さんの奥様が「本箱を整理していたらこれがでてきたのよ。あなた、これは読んでおられるでしょうね」といって、見るからに古い長谷川洋二氏の『八雲の妻―小泉セツの生涯』を差し出されました。「ああそれは持っていて親しんでいます」と申し上げると、「私も2月4日生まれで、節子という名前になるところだったけど、親戚に節子という短命の人がいたので節子にならなかったのよ」といわれ、ハーンの研究者でなくても求めて買っている人もいるのだなと感じたことを思い出しました。
  ⑤ 島根大学 ラフカディオ・ハーン研究会 ニューズレター第6号 
 島根大学ラフカディオ・ハーン研究会事務局編集になるものです。
 この研究会の副会長をされていた長岡真吾氏が、島根大学から福岡女子大学に転出されることになり、研究会を振り返っての寄稿文があります。このなかで、「ハーンが生まれた19世紀のヨーロッパ世界を大英帝国の支配という文脈で見直してみようと試みたのです」と、あるところ、私たちの「広島ラフカディオ・ハーンの会」でも、この3月に浮田佐智子氏による「アイルランドを巡る20日間の旅」と題しての発表があり、その後、アイルランドと英国の関係を、そして他のヨーロッパ諸国、世界中の国々との関係を調べていて、英国への言い知れぬ怒りが・・・。そして、その苦しみを奏でるアインリッシュ・ハープの音色が思い出されてきました。
 また学生横山竜一郎さんの研究小論『小泉八雲と「しゃがみ」』は、すばらしく、小泉八雲先生の学生なら立派な図書のプレゼントが授与されたであろうと思ったことでした。

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