『100分de名著 維摩経』
2017/06/18(Sun)
 釈 徹宗著 『100分de名著 維摩経』 を読みました。
6月のNHKの『100分de名著』は、釈 徹宗氏が、『維摩経』について解説してくれます。
 NHKの『100分de名著』は、毎月1冊の名著の紹介をしてくれる番組です。毎週月曜日の午後10時25分から、25分ずつが4週間放送があり、これはそのテキストです。
 前の月の終わりころこのテキストが発売されますので、買い忘れていると、番組の途中から思い出して買いに行くことがあったり、時間がなくて読めないままで放送を見ることもあります。
 このたびは、第1回を見た後から読み始めました。最近は読書に当てる時間が少ないため、フィードバックしながら長期間で読みました。そのため、少し読んでは読んだ内容についてそのときどきでよく考えました。
 今までであった経典、といっても具体的には何も覚えていないのですが、そのなかで、この維摩経の経典は初めてで、とてもユニークな経典でした。
 読み終わってみると、知恵と慈悲から社会や人との向き合い方を学ぶ経典であることがわかり、今現在の日々の生活のなかで、仏教的に自分が生きていける具体的な姿を描くことができると実感できます。
 そのように感じられることに力をえたのは、このところ勉強している、貝原篤信著『家道訓』の教えに日々接しているからではないかとも思えます。
 古文書としての『家道訓』なので、巻六まであるなかで、4月18日からはじめて、まだ巻4の初めの部分に到達したばかりですが、これが江戸時代も初めのころに書かれたものだということを忘れることがしばしばの内容なのです。士農工商ともに、その家を保つ方法を具体的に指南しているのです。これが、日本人の生活の根幹としてながい江戸時代に保たれたが故の、明治の23年にラフカディオ・ハーンが日本にきて、日本で生活し始めて美しいと感じた基をなしているのではないかと率直に感じ取れました。
 『家道訓』が、ひとつひとつ手をとって生活のあり方を教え諭しているのに対して、『維摩経』は、維摩という在家仏教者が病気であることに端を発しての物語です。釈迦が維摩が病気であることを察知して誰か見舞いに行ってくれないかと直弟子たちに依頼します。釈迦の頼みであるにもかかわらず、りっぱな直弟子たちはみんな嫌がって拒絶します。それぞれの弟子が、以前、維摩に仏教者としてのありかたをやり込められたことを語ります。その語りを通して維摩の菩薩行のありかたを知っていくというトリックになっているお話です。
 今このときを、執着する心を持ちながらも、自分も宇宙のなかの生じ滅していく現象の一つだと捉えて生きていけそうです。


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避難訓練のときの講演から
2017/06/11(Sun)
 6月11日日曜日、朝から上大毛寺町内会の防災訓練がありました。
 朝、8時30分から連絡網が発信されそれを聞いて、団地の下にある病院の駐車場広場に集まり点呼をとり、そこから国道191号線を東に200メートルほどの全体避難場所に設定されている亀山小学校体育館に歩いていきました。
 そこで、2014年(平成26年)8月20日に発生した豪雨が広島市の安佐北区や安佐南区の住宅地を襲い、全体で死者77名を数えた大規模な土砂災害のとき、同時に襲われた新建団地の元自治会・可部東自主防災会会長だった今田勝馬氏の講演がありました。
 新建団地では、災害が起こる3・4年くらい前、自主防災会ができていて、その時の会長であったこともあり、3人の死者が出たということは、この自主防災会の取り組みは失敗でした。その失敗が何であったかということをここでお話をいたします。と語り始められました。まず、いろんなところで災害が起こった報道を見て、気の毒には思うものの他人事であったことを挙げられました。それは私たちも一緒です。
 災害時のことについて、少しメモを取っていたので、以下に書き記しておくことにします。
 19日の昼ごろから雨が降り始め、20日に夜中の1時には、すぐ近くへのあちこちの雷の音、雨の音が異常な大きさでした。2時に窓を開けて外を見ました。すると、隣の横の水路の橋がなくなっており、隣の家に裏からの大木が刺さっていました。川は流木などで流れがせき止められ、道路は濁流が流れ、判然としませんでした。もう家から出られる状態ではありませんでした。3時30分ころ小康状態になったので、連絡網で連絡を取り始めましたが、すぐに、電話は使えなくなりました。4時、高松山の大文字の方から、ものすごい音がして山が崩れ落ちてきました。すぐ近くにある公園のトイレの屋根がまったく見えませんでした。団地から外部への道が4本あるのですが、3本は全くダメで、1本だけ、皆で力を合わせて通れるようにし、避難しました。朝は、避難所で朝食をいただいたのですが、昼食ときにはほとんどの人が団地に帰っていませんでした。うれしいことに、被災していない人もみな出て、スコップなどを手に復旧作業を手伝いあっておられました。避難生活は40日に及びました。亡くなられたのは幼子を救出の為に預かった消防士さんとその幼児、そして、定年を迎えられたばかりの60歳の男性でした。2階に寝ていた奥さんと娘さんは軽いけがで済んだのですが、1階に寝ていたご主人は亡くなったのです。
 この災害で、道路を流れる水にハンドルを取られながら避難された二家族がありました。一家族の方は帰ってみたら土砂に埋もれて家がなかったそうです。このような災害では、電話は災害の音が大きくて会話は聞こえず、メールを見るしかないこともわかりました。生死を分けたこの災害を体験した後のこの自治会の避難への活動にもずいぶん教えられました。
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『5000匹のホタル』
2017/06/09(Fri)
 松下竜一著 『5000匹のホタル』 を読みました。
 小学校高学年・中学校全学年に向け、人生の初めにめぐりあう本として、理論社より、1978年7月第9刷で、初版は1973年です。
 この物語の主人公は、大分県下毛郡耶馬溪町出身の梶木玉子という女性です。高校を卒業して、3年間商事会社に勤め、仕事の傍ら勉強して保母資格を取り、22歳の4月に大分市にあるろう児施設《あかつき学園》に保母として就職します。
著者は、大分市にある《あけぼの園》で取材をしてこの作品を作ったとあります。
 《あかつき学園》は、大分県下でただ1校しかないろう学校に通うろう児たちが生活する寮です。幼児は同じ敷地の保育園に通います。児童居室は6寮に分かれていて、1寮が4室にわかれおり、1室に幼児から高校2年生まで混じって5・6人の子らが家族のように共同生活をし、高校3年生になると、独立して高等部の部屋に移るのだそうです。1寮で宿直は2名ずつですが、宿直の時は、ふたクラスの朝食や保育園や学校へ行く準備に付き添います。
 寮内では、上級生から教わる手話で、幼児も自然にコミュニケーションをとるようになり、手話も何も知らない玉子先生は筆談のできる子に伝え、あるいは伝えてもらって他の子どもの情報も得るのです。
 新年度から新しく入寮した子どももいるなかで、音を知らない子どもたちがどんなものかも知らず、子どもの抱える問題も見えず、様々な問題にぶち当たり、そのたびに先輩やろう学校の先生に注意され励まされ、教えられていきます。
 初夏になり、この年は第19回の友情のホタルが届く年でした。『5,000匹のホタル』とは、初代寮長の山室先生が、発足当時の粗末でうるおいのない殺風景な寮舎で、親元を離れて暮らしている子どもたちを何とか励ましてやりたいと考えたことから始まります。子どもが図書室で絵本のホタルに見入っているのを見て、かっての教え子である竹田市で雑貨屋を営む後藤彰さんに、ホタルを買い集めて送ってほしいと手紙を書きます。後藤さんは、母校の明治小学校を訪ねて、ここの子どもたちの手でホタルをとって送ってあげたらと提案、賛同した校長先生は子供会に提案し子どもたちが話し合って、自発的に耳の不自由な子どもたちへ毎年ホタルを送るようになるのです。園長先生は9年目の年、明治のホタルがいなくなるのではと心配し、ホタルをふ化させて明治の山川に返すことで友情の輪が完結できたらと考えます。それで、由布院に高校教師でホタルの研究家の秦野先生のところに指導員を行かせて飼育方法を習わせ、生徒たちの研究グループを作らせ飼育に成功させ以後それを毎年明治村に持っていく話からつけられたタイトルです。
 素晴らしい本でした。昨年舞台となった地方を旅行したことでもあり、感動に目頭を熱くして読了しました。

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『小泉八雲の社会思想』
2017/06/08(Thu)
 穂積文雄著 『小泉八雲の社会思想』 を読みました。
 夫がネットで見つけて取り寄せてくれました。
 昭和24年11月 有斐閣発行のものです。200ページで、大方30パーセントが八雲の原文の英語で、これは訳だけを読みますのでとっくに読み終わっていいようなものですが、穂積文雄氏の文体が読みづらく、階下の座卓で読み進めている、貝原益軒の家道訓のほうがずっと古いものなのに変体文字さえよめればまだ読みやすいと思えます。
 「むすび」で最後の8章までの要約が試みられているので、ざっと引用します。
1、小泉八雲は貧困にさいなまれ、世の辛酸をなめた。
2、そのため世を厭い憤る。特に人の利己心と産業主義を憎み厭世逃避に至る。
3、しかし彼は思いやりの情が厚く弱きもの虐げられた者の味方であった。
4、そこで世からの逃避でなく改良を思いよりよい社会を志向することになった。
5、彼は深くものを考える人で、とくに想像力の豊かな人だった。
6、そのことは、彼がユートピアンへの志向に関心を持つ。
7、しかし、スペンサーの進化論への傾倒によってユートピアンにはならなかった
8、進化論は将来社会を現在社会の必然的産物として把握し社会主義社会到来は必然であると認識した。
9、しかし、社会主義社会は自由が抑圧され、奴隷国を見なければならないと考えて反対であったが、社会主義社会は自由の社   会到来への過渡期的なものととらえていた。
10、彼の言う自由の社会は人類の完全化を前提としたが、彼は、人類の完全化を進化論の立場から、論証し肯定しようとした。   よって彼は論理上に於いては、ユートピアンへ逆転することから免れることができた。
 人類の完全化を具体的に述べたものとして、『怪談』のなかの「蟻」が引用されています。
 蟻は生まれながらにして完全に「無私」であり、「利己」がそのまま「利他」であるような社会を作り上げた。個々の蟻はすべて「自分の属する社会、種族の繁栄」のみを至上の目的としており、我欲をまったく持たない。人間にとっては最も抗しがたい欲望であり、そして人間をいずれ破滅のふちに追いやるであろう「性欲」すら、特定の個体に生殖行為を一任するという形でコントロール済みである。ただ一時の生殖行為のためにのみ雄の個体を生み出し、雄は女王蟻と交わって卵を産ませた後はすぐ用無しになって死ぬ。このような、「完全なる無私にもとづく社会秩序」を理想として提唱し、人間はいつの日か蟻のレベルにまで進化できるのかと問いかけます。このような社会が人類の完全化からだというのです。
 小泉八雲の社会思想が、彼の経験から、発生したものであることを思うとうなずけるのですが、八雲亡き後、いろいろな社会思想の成り行きや、実践を経験した私たちからすれば、私のようにずば抜けた才のないものでもそれぞれの個性が花開くことのできる社会も理想とされるのではないかと思えます。
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第202回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/06/05(Mon)
 6月3日(土)、第202回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加いたしました。
 夫と早めに参加し、『雪女』の英文プリントを2枚重ねで折るお手伝いをして、板書の書き写しをします。
 先月休まれた鉄森さんや三島さんがこられたので、ほっとし、土谷一友さん・山本さんという新しい参加者もむかえての会になりました。
 今回、特別な話題として、風呂先生が安佐北区の大林小学校5年生の子ども達の作った『や・く・そ・く―根の谷川の小さな命の物語―』という冊子の紹介をしてくださいました。
 2014年の8月に起こった集中豪雨による広島土砂災害で、学校の近くの根の谷川やそれへそそぐ支流が、大量の雨水で押し出された土砂に襲われホタルのねぐらを破壊しホタルが激減。近隣の水辺に再びホタルをよみがえらせるよう『や・く・そ・く』することを子ども達が決意した冊子です。
 順に冊子を回してくださり、最後に私に回ってきましたので、全文読ませていただきました。子ども達の伸び伸びした絵の中に、災害以後、ホタルを見なくなったおばあさんが寂しがる様子から、なんとか以前のようにホタルがとびかうようにと願うようになり、ホタルを飼育して増やそうとする過程が描かれています。自然災害によって失ったものは多々あったと思います。しかし、子ども達がみずから自分たちの住む町にホタルを蘇らせたいと願いその気持ちを形にと方向付けをされた先生方の熱意に敬意を表したいと思います。
 このブログでも以前紹介したことがあるように思いますが、昭和31年・32年私が小学1・2年生のとき受け持ちだった池亀英子先生が、昭和60年に『まんさくの歌―竹地谷の子どもと共に』という本を出版されました。昭和52年に複式学級だった竹地谷小学校に赴任して1・2年生2人を受け持ってどの様に指導しようかと戸惑った挙句、53年以来続けて広島県科学賞に出品し入選、準特選、特選、ついに昭和55年には学校賞を受賞して、退職後この本を発行されたのです。たまたま実家に帰ったとき、食卓にあったこの本を読み、すぐに先生のところに行き、数十冊預かり、私の職場の職場研修が子ども文化科学館であった時売りました。さらに暇々にあちこち小学校を訪ねて売りさばきました。売上金を先生に渡すとき、はじめて先生にすこし恩返しができたように思いました。この参加記録を書く前に、所々子どもたちの観察記録や絵などが満載の実践記録を読み返し、さらに感動し、ハーンの会の参加記録にもかかわらず先生のことを書かずにはおれませんでした。
 映画『雪女』の感想では、寺下さんが映画の最後に巳之吉がしあわせな話だったのだと思ったと話されました。しあわせとは、幸という字ではなく仕合せという字で書くしあわせですと話してくださいました。これにはびっくりしました。私は幸子という名前で、自分の幸子の幸という字の語源はよく承知しておりました。幸という字を横に寝せると、真ん中のあいたところに罪人の手が入った手かせで、こういうことにならなくてよかったの意味です。最近、古文書で倖という字にであいました。私の漢和辞典で調べたばかりでした。これは思いもよらぬ幸運という意味でした。何の因果かこの世に生まれての、しあわせについて考えました。
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