『ギリシア神話』トロイアの書
2017/08/31(Thu)
 斉藤 洋(文)・佐竹美保(絵)『ギリシア神話』トロイアの書 を読みました。株式会社理論社から20010年3月の初版本です。
 『ギリシア神話』オリンポスの書・ペルセウスの書・トロイアの書と3冊シリーズの中の第3巻です。
 最初、
 ≪トロイアの戦争について話すとき、いつのことから語るべきだろうか。
 ギリシア軍の総帥、アガメムノン王が戦いを決意した日だろうか。
 それとも、トロイアをめざし、千艘をこす軍船に乗った一万のギリシア軍将兵がアウリスを出航した日だろうか。
 あるいは、トロイアで最初の戦闘が始まった日だろうか。
 否、否、否・・・・・。
 トロイアの戦争がなぜ勃発したか、その原因をさかのぼれば、世界の最初の日から語らねばならないだろう。だが、それでは、あ まりにも遠い過去から始めることになる。そこでわたしは、プロメテウスがわが父ゼウスに、ある秘密をあかした日から、始めよう と思う。≫から始まります。
 もともと、ホメーロスのイーリアス・オデッセイを読むために始めた児童図書の『ギリシア神話』の読書でしたが、このたび購入した世界古典文学全集(筑摩書房発刊)の『ホメーロス』でさえ、最初から、もうトロイ戦争のさなかから始まっています。
 でも、戦争が始まった原因から起こしてあるところが、ギリシア神話の特徴をより理解できて面白く読めます。
 それでも、原因をさかのぼるには、世界の最初の日から語らねばならないだろう。という部分に呼応して、物語の最後の「跋(ばつ)」で、語り手のアテナが
≪いったい、あの戦争はなんだったのかと・・・・・。
 そうそう、だれかがこういっていた。
 あの戦いは、神々の王ゼウスが秩序の女神テミスと協議して、ふえすぎた人間をへらそうとたくらんだ結果だったと。そういえば・・・・・。≫と思い当たる部分を、原因のところを引き合いに出していますが、そういえば、戦いの途中でも、ゼウスが係るところで、これほど死者が出ているのだから、他の方法を命じればいいのにとアテナが思わせられる部分が何度かあったように思われます。
 それにしても、秩序の女神とともに、人間が増えすぎるからと言って、戦争を考えることについては意外な結末でした。
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『ギリシア神話』ペルセウスの書
2017/08/30(Wed)
 斉藤 洋(文)・佐竹美保(絵) 『ギリシア神話』 ペルセウスの書 を読みました。
 株式会社理論社から2009年10月の初版本です。
 『ギリシア神話』オリンポスの書・ペルセウスの書・トロイアの書と3冊シリーズの中の第2巻です。
 この書は、ゼウスと人間の娘ダナエの子ペルセウスの英雄譚です。
 この物語も、オリンポスの書同様アテナによって語られます。まずは、「英雄とは」という定義から始められます。英雄とは知恵と力と勇気に於いて、神々と比べられるほどでありながら不死ではなく、人間と同じく死をまぬかれぬ者のことだったが、神々を両親のいずれかに持たぬ英雄もいるとしています。
 英雄と言われたペルセウスは父がゼウスで、母はアルゴスのアクリシオス王の娘ダナエです。アクリシシオス王は、娘のダナエが男の子を生み、その男の子はいずれ祖父アクリシオス王を殺すことになるという神託を受けていたので、ダナエが子どもを産まないように、男性が近づけられないように地下におしこめてしまいます。
 しかし、神々の王ゼウスは、金の雨になって地下に侵入して、ダナエは男の子ペルセウス(降り注ぐ黄金より生まれた者)を生んでしまいます。それを知ったアクリシオス王は、娘のダナエとペルセウスを棺に入れてエーゲ海に流します。
 セリフォスという島に流れ着きそれを救ってくれたのが漁師のディクテュスで、母子ともに彼に世話になってペルセウスは成人します。
 なんといっても美しいダナエ、ペルセウスはダナエを奪い取ろうとするディクテュスの兄ポリュデクテス王から母を守るための戦いに挑みます。
 そのために、メドゥーサの首をとったり、アイティオピアで怪物を倒したり、ケペウス王の弟、ピネウスとその兵士たちと戦ったり、セリフォス島でポリュデクテス王をやっつけたりします。
 その戦いには、語り手であるゼウスの異母兄弟であるアテナも手伝う場面もあります。このことは、ペリセウスが戦うべき戦いをしたことを意味していると思えます。
 今後どこででも暮らしていけるようになったとき、母親のダナエが、故郷のアルゴスに帰って父親に会いたいと言い出します。ペルセウスは、自分が祖父を殺すという神託を受けているからよすように言うのですが母親は聞き入れず、それなら武器を持たずに、父親を探してくれるよう頼みます。仕方なく父親を探す旅に出かけます。
 英雄の誉れ高いペルセウスは、途中ラリッサの町で五種競技が行われており、円盤投げに誘われます。そのとき投げた円盤が、なんと、ちょうどそこにラリッサの領主の食客になって観戦していたアクリオス王に直撃し死なせてしまうのです。こうして一応神託は成就するのですが、あれほど祖父に会いたがっていた母親のダフネが、実は自分が息子に代わって父親のアクリシ
オス王を、殺すつもりだったのではないかというアテナの感想で終わる物語でした。
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『ギリシア神話』オリンポスの書
2017/08/29(Tue)
 斉藤 洋(文)・佐竹美保(絵)『ギリシア神話』オリンポスの書 を読みました。株式会社理論社から2009年6月の初版本です。
 『ギリシア神話』オリンポスの書・ペルセウスの書・トロイアの書と3冊シリーズの中の第1巻です。
 この書は、オリュンポスの12神について語られています。しかし、オリュンポスの12神は神々のうちの1部であるし、神々の話はこれですべてではなくほんの1部だと最後に念が押してあります。
 12神とは、ゼウス、ヘラ、アテナ、ポセイドン・ヘバイストス・ヘスティア・デメテル・アレス・アポロン・アルテミス・ヘルメス・アフロディアです。
 その12神の関係について図式が最初に掲載されていますが、兄弟のうえから、ポセイドン・ヘスティア・デメテル・ヘラ・ゼウスの順にうまれていますが、神々の王は末っ子のゼウスです。そして、すぐ上の姉ヘラがゼウスの後妻です。
 ゼウスの先妻の娘アテナがこの物語12神の語り手です。
 アテナは神としての領分は正義と知恵、それに戦争と技巧の女神で、守護神として納めるべき土地は、アッテカです。
 人間が、神々についてとやかく言うことは許されることではありませんが、自分は神だから多少は許されると断わりながら、12神について語っていきます。
 良識を持ったアテナの語った物語を読み進むことで、アテナのほかの性格もよくわかるようになっているところがおもしろく、また感心させられます。
 神々のいろいろの物語については、冷静にその事象を語っているのですが、自分の出生とアポロンの出生については、阻害を受けたことにこだわっているのか、同じような目に合っている読者に肩入れして、励ましています。
 最初にアテナの出生については語られているのですが、アポロンの不幸な出生について語るとき、≪ここで、ひとこと言っておきたいことがある。≫と前置きして、≪神々にしても人間にしても、誕生が心待ちにされたかどうか、また祝福されたかどうかということと、生まれてきた子の価値はまるで関係ない。≫といい、さらに祝福を受けた子供にたいして、そのことは価値があるので自分を大切にするようにと諭す人間の大人を槍で突き殺してやろうかとさえ思ったと述べます。
 ≪わたしもアポロンも誕生を心待ちにされたわけではない。だが、この私をみよ!アポロンをみよ!ゼウスを別にすれば、わたしとアポロンの名はオリュンポスの神々のなかでも、ひときわ高く鳴り響いているではないか!≫と物語中「!」マークまでつけて宣言し、≪アポロンは太陽の神と、音楽や詩など芸術の神と、医術の神、数学の神、銀の弓の神、そして、予言の守り神にして神託の主ともうたわれていて、生まれると立ち上がって、「これより、わたしは竪琴と弓に親しみ、人間たちに父ゼウスのお考えを託宣するだろう。」と自分の役割を予言している≫と述べていてよほど、出生にこだわっているところが、うかがえます。ここまで言ってくれると、自分の出生が不幸だと思っている読者がいれば、女神に宣言されているのですから元気100倍です

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『小早川隆景』
2017/08/27(Sun)
 童門冬二著『小早川隆景』を読みました。
 久しぶりに大好きな歴史小説に出合い楽しく読みました。
 童門冬二という作家を知らずにいたのですが、読み終わって今、ウィキベディアで調べてみると、1927年10月生まれで、現在89歳。海軍少年飛行兵の特攻隊に入隊。そのあと東京都に勤務し、東京都広報室長、企画調整局長、政策室長などをつとめ、都庁在職中は、美濃部亮吉都政3期12年を知事のスピーチライターとして支え、都庁首脳として活躍し、1979年、美濃部の知事退任と同時に51歳で退職し作家専業になったとあります。
 また、主題はまちづくり、経営管理、組織論だということです。
 作品のあちこちに、そういう経歴だから、こういった書き方ができたのかと思いあたるところがあります。
 毛利元就が、ことあるごとに言い聞かせた毛利家存続の方法と、その方法では存続が危ぶまれるようになる時代の流れ。その流れを作った織田信長や羽柴秀吉などの、武将の組織作りにそそぐ小早川隆景の目の置き所。ここに、著者の主題が置かれていることに気づかされるのです。
 「解説」は、東京都副知事の青山佾(あおやまやすし)という人によって書かれています。この方も肩書き上、著者と主題を同じくする人のように思えます。
 織田信長は羽柴秀吉を認め、彼に賭けること大です。秀吉の信長への仕え方はよく知られるところで、ここでの「解説」では秀吉に仕えた秀吉の弟秀長についてとくに取り上げてあります。
≪本書のなかでも、主人公の小早川隆景が、秀長と初めて会って、一目で、
 (この人物はやさしい心を持っている)
  と感じた、という場面がある。
  酒宴の席で秀長は、席に連なる武将のそれぞれに対して、それぞれに見合った話題を提供する。
 これを見た小早川隆景は、「すべて、(秀長)がいままで経験してきた汗とあぶらからの所産だ」と感動する。そして
 (見落としていたが、羽柴秀吉殿にはこの弟君が一番強力な支え手だったのだ)と感じる。
 ―ここで童門さんは、「将たるものは、こうしなさい」と押しつけがましく教えたりはしない。場面描写のなかで、むしろ精神を強調する。精神さえ貫けば、方法は、むしろ別の方法でもいいのだ。そこが童門さんの作品が、いわゆるノウハウものと、違うところだ。「バイブルだよ」と言われる所以だ。≫
とあります。
 この解説を読むと作品への理解が深まるいっぽう、おなじ作品を読んで共感しあえる喜びを感じます。
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『はじめてのギリシア神話』
2017/08/25(Fri)

 尾高 薫文 堀川理万子絵『はじめてのギリシャ神話』を読みました。
 12日に「ハーンの会」に出席したとき、風呂先生が「オデッセイ」を単行本で読んだと話されたことを家に帰って夫に話すと、小学6年生の時、この感想文を書いて賞をもらったことがあるからよく覚えていると内容について話してくれました。私が読みたそうな表情をしたのか、夫がネットで探して仏典Ⅰ・Ⅱだけある筑摩書房の世界古典文学全集のなかの『ホメーロス』を購入しました。読みかけてみると、なかなか面倒そうで文字も小さく、読む気力が出ません。夫が読んだのは子ども向けの本であったというので、夕方の散歩のとき安佐北区民文化センターの図書館で4冊借りてきたなかの一番すぐに読めそうな本をえらんで読んだのがこの本です。
 「あとがき」で、
 ≪ギリシア神話は、この本で初めて読んだという人も多いでしょう。けれども、ゼウスやポセイドン、アポロンといった神様の名前は、みなさんも、どこかできいたことがあると思います。≫という小学生低学年・中学年への言葉がけですが、私にもちょうど適しています。
 ≪ギリシア神話は、大きく「世界のはじまりの物語」「オリュンポスの神がみの物語」「英雄物語」「王家の人びとなど、人間の物語」のようにわけられます。
 この本では、ギリシア神話の世界や流れをイメージしやすいよう、「世界のはじまり」「オリュンポスの神がみ」にまつわる物語をえらんで、やさしいお話の形に書きあらためました≫と、自分が読んだものがいったい何であったのかということもおぼろげながら理解できます。
 ≪ギリシア神話には、ほかにもたくさんのおもしろいお話がありますので、興味をもたれた方には、子ども向けに書かれたつぎのような本もおすすめします。
『ギリシア神話』(石井桃子編・訳 のら書店)
『ギリシア神話 オリンポスの神々』(遠藤寛子文 講談社青い鳥文庫)≫
 と、次に読んだらよいと思われる本も他社出版のものながら紹介されています。
 子どもたちのことをよく考えてのいざないに心温まりました。
 もちろん高齢者の私にとってもギリシア神話への入り口はとても楽しく始まりました。

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『野火』
2017/08/23(Wed)
 大岡昇平著 『野火』を読みました。
 この作品については、島田雅彦著『100分de名著 野火』につづいて、新たに夫が寝ていても読みやすいようにと文庫本を買ったものです。
 読みかけて、ずいぶん長い間放っておいたのを昨日想いだして始めの方から読みました。
 田村一等兵のモノローグとして語られるこの作品はフィリピンの戦場で、彼は病気になり、自分が属していた部隊からも病院からも見捨てられ、それから先は味方の軍隊が形を成さなくなるほどに敵に叩きのめされ、自分は一人で行動するほかなくなっていくことが保証され、自由のなかに身を置かされます。
 戦場で自由になるということは飢えと危険を伴うものですが、命令通り手りゅう弾で自決してもいいし、生き延びてもいいし、米軍に投降してもいいのです。
 もう誰かの為に生きたり死んだりしなくていいのです。
 友軍のそばにいてもいいし、一人でいてもいいのです。
 そうしていると、今まで気づかなかった道端の花や、そこに遊ぶ蝶など、今まで目に留まらなかったものがとても美しく輝いて見えてくるのです。
 また、現地人の営みが違ったものに見えてくるのです。さらに自分を見放した病院が爆撃を受け、放火され、軍医や衛生兵が逃げ惑う姿が、滑稽に見えてしまう自分に気づくのです。
 このあたりの彷徨の部分をずっと読んでいると、思ってもみなかったことですが、これは戦争中だけの異常な出来事の中での心境ではなくて、仕事を辞めたとりとめのない今の私の究極の心境も分析してみれば実はこのように集約されるのではないかと気づかされ私も彷徨しているような心持でもありました。しかし、仕事を続けていたならこれら田中一等兵の心の風景など、異常な心境を身近に感じることはなかったでしょう。
 さらに状況は悪化し、極限状態に達してきてからの田村一等兵の心の行方は、まず丘の上から見渡せる森の中の十字架から教会があることに気づいた後に見た夢に象徴されます。教会では葬式が行われていて、棺のところに進み出て蓋を開けてみるとそれは自分だったというのです。食べるものもなく過ごしていると自分が生きているのかすでに死んでいるのか・・・。彷徨していて出合う友軍も似たりよったりです。そのうちお互い先に死んだ人を食べていることに気づいたりします。
 このカニバリズムについては、もう考えも及びませんが、立花隆の「臨死体験」で語られるところの話の反対で「臨生体験」のように思えるのでした。私たちは仏教的な慈愛の中で生かされていると思っていますが、一歩間違えばこの世は食うか食われるかのまさしくカニバリズムの世界です。当然分裂症になってしまいました。
 この図式は森友学園問題の森友夫婦逮捕の報道を聞くと、安倍夫婦と森友夫婦の関係を想起させます。
 ブログ記事も分裂症的になりました。
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「ある保守主義者」
2017/08/19(Sat)
 小泉八雲著 平川祐弘訳 「ある保守主義者」を読みました。
 何度か読んで、それにまつわるエピソードも多少読んでいるように思いますが、それによっての思いを抜きに、初心にかえって読みました。
 ここに登場する男性は武家に生まれ武家の躾を受けて、≪快楽は蔑視して見向きもせぬ、礼儀正しい、恐れを知らぬ、私心を捨てた人として≫≪一言いわれれば躊躇せず即刻自分の命を投げ出す人、恩愛、忠義、名誉のためには自分の命を惜しまぬ侍として≫育ちました。
 成年に達しようとする頃、日本が太刀打ちのできない夷狄が黒船でやって来て日本という国家の一大事となりました。これら夷狄を駆逐できぬと知った政府は、彼らを保護し、あらゆる学校で西洋知識を学ぶよう命令を下しました。
 彼は、≪自己変革を遂行することによってのみ日本国家は自己の独立を全うしうる≫と考え≪自国の敵の真相を冷静に研究するのが愛国者たる者の義務である≫ことをわきまえて勉学に励みます。そして≪もし西洋文明の優越した力が真に西洋倫理思想の優越した性格を示唆するものであるなら、日本の愛国者たる者の明白な義務はこのより高度の進行を奉じ、全国民の改宗のために努力すべきことにあるのではないか≫との考えから、侍の子としての立身出世を捨て洗礼を受けキリスト教者になります。
 しかし、教義の内容を≪より幅広く、より深く掘り下げて考えるうちに彼は教義を超える自分自身の道を見出した。そしてキリスト教教会の教義の主張内容は真の事実や理屈にづいていない、自分は自分の師がキリスト教の敵と呼んだ人々の見解に従うべきだと感じる、という宣言を公けにした後≫キリスト教から離れていきます。
 さらに政府の政策にも懐疑的になり、公然と反対し、国外退去の憂き目にあいます。そこから、外国放浪の旅が始まります。
 放浪中に西洋の優越性は倫理的なものではなく、それは数えきれないほどの苦難を経て発達した知性の力にあり、その知性の力は強者が弱者から略奪し破壊するために用いられてきた実態を知ります。≪そして禁欲的な武人の眼で物事を眺め、西洋人が人生において価値ありとするものが極東の人が狂気とみなし懦弱とみなすものとほとんど違わないことに驚きを覚え≫その醜悪さに、日本の文明の価値や美点に気づき、≪古来の日本の中で最良のものは極力これを保守保存し、何物でも国民の自衛や自己発展に益なきもの、不必要なものの輸入に対しては断固反対する、という決意で≫さらにそれを裏付ける≪自国の清潔な貧しさの中にかえって力を認め≫確信をもって許されて日本に帰る日を一日千秋の思いで待ち望む人になります。
 彼が日本へ帰国したことは、精神的な意味における日本への帰還をも意味していました。
  簡単にあらすじを追ってみましたが、この作品はハーンの作品の中では私にとって逸品中の逸品と思えます。
 当時の日本と、西洋の文化・文明をよく観察し分析してその本質が丁寧にのべてあります。その中のひとつ、宗教のもつ価値と、仏教とキリスト教どちらにもある非科学的な部分への解釈について≪中国哲学は、近代社会学が法則と認めている、司祭者層のない社会はかって発展したことがない、という考え方をすでに青年に授けていた。またかって仏教を学んだ彼は、仏教では、無学な庶民に対して比喩や形相や象徴などをいわば実際のこととして提示するが、そのような幻想や幻惑にも、人間の善性をのばす方便たり得るという正当な理由と価値がある、ということをすでに青年に納得させていた。≫とあり、文明に対する見方に深い共感を覚えました。
 確固たる道徳心の上に立つ国家をいかに守るか。という課題を持ちつつ近代化に向けて、進むべき方向性を提示する作品でした。


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第204回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/08/14(Mon)
 8月12日(土)、第204回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加いたしました。
 連日の暑さで、幽霊も溶けてしまうのではないかと思える早朝、目覚めるとNHKプレミアムで、小泉八雲原作・小林正樹監督の『怪談』の放映中でした。最後の「茶碗のなか」の終わりの部分を観てまた朝まで眠りました。
 夫は10日に安佐市民病院から退院したばかりで、今少し静養が必要なので今回はお休みしました。ですが、同じ団地の伊藤さんが出席してくださいました。伊藤さんとは私が集金した区費を届けに行って初めてであい、この会のことを話してお誘いしたのでした。そのとき伊藤さんは松江に月に1回、中村元の顕彰会に出席されていると話してくださいました。私も中村元には大いに関心があり、帰って、1995年に収録された『こころの時代』の再放送を2014年3月に収録した「空飛ぶ鳥に迹なし」と「自らを灯りとせよ」を再度観ました。亡くなる4年くらい前の映像です。書籍では筑摩書房の世界古典文学全集の6・7巻の中村元編の『仏典』があるばかりですが、いずれまた読めるといいなと思っているところです。
 このたびのハーンの会は、風呂先生が『雪女』の原文の朗読カセットを聞きながら、解説をしてくださいました。
 説明を聞きながら、私は、原文を読んで参加していったつもりでしたが、字面を訳すということが精一杯で、全く読みこめていないことに茫然自失の心境でした。
 先生は、お雪が巳之吉に「おまえが何を見たのかについて話したら、・・・そのときには、おまえを殺すつもりだ・・・。」と言ったのに、巳之吉にあえて話すように促していることを指摘されました。言われてみれば、なるほど、直訳「おまえが明かりに顔を照らされて、そこで縫物をしているのを見ると、おれが十八歳の若者だった時に起きた不思議なことを、想いださずにはいられない。そのときおれは今のおまえと同じくらい美しくて肌の白い者を見たんだよ。本当に、そいつはお前によく似ていた・・・・」までしか巳之吉は話してはいないのです。つづいて、直訳「縫い物から目を上げずに、お雪は答えた。」となっていて、そのとき、もし目をあげて顔をあわせていれば、巳之吉はそれがお雪であることに気づいてそれから先は話さなかったかもしれないものを、さらに直訳「その人について話してよ・・・・。どこで彼女に会ったの」と、お雪は話すよう誘いかけるのです。そのために直訳、「それから、巳之吉は、渡し守り小屋における恐ろしい夜のこと、彼の上に屈み込み、微笑んでささやいた白い女のこと、そして、年老いた茂作がものもいわずに死んだことについて、彼女に話をした。・・・・それがおれの見た夢だったのか、雪女だったのか、おれには今でもよくわからないんだ。」と書いています。そのつぎ「お雪は縫い物を下に投げつけて立ち上り、そこに座っている巳之吉の上に身をかがめ、彼の顔に金切り声を浴びせた。
 風呂先生は、その時にはお雪は巳之吉をすでに必要としていなくなっていて、巳之吉に言わせて自分が去っていくつもりだったと示唆されたのです。
 「雪女」と言えばテーマは「約束を破る」と思ってしまいがちですが、ハーンの思いは・・・・。あとで、それぞれ参加者の感想発表があり(聞き取れなくて残念でしたが)、いつになく盛り上がって終わりました。

※小林正樹監督の『怪談』では、巳之吉は、縫物をしているお雪を見て、あの夜のことを一人で問わず語りに長い時間話すのです。話初めの頃、お雪はじっと巳之吉の顔を見ています。最後まで聞いて、「夢ではない」と静かにいい、ゆっくりとそれは自分であることを話し、「私とあんたの命に代えた永遠の誓い、それに背いたら私は殺すといったでしょ」とさらに思い出させるのです。そして雪女が異界の霊であるように映像は変化します。その別れは、約束を守れなかった巳之吉のせいで愛する子供たちと別れなければならなくなったお雪の深い悲しみを思わせます。お雪のさったあと、巳之吉が後悔のあまり泣き悲しむところで終わります。


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『100分de名著 野火』
2017/08/08(Tue)
 島田雅彦著 『100分de名著 野火』 を読みました。
 もちろん、『野火』は大岡昇平の作品です。
 若い頃に読んだもので、こういった太平洋戦争の従軍記を読んでいる頃は、どんなにつらい話も過去のこととして読んでいたのですが、昨今の政治家の国有地の私物化状況などみていると、国民である私たちも私物化されるような気配も感じられてこのような話も過去のことだと思えなくなっています。
 しかし、この作品は反戦が目的ではないと解説されています。
 大岡昇平は、当時としては、経済的にも十分裕福で、高等教育を受けるなかで、スタンダリアンとして、スタンダールの『パルムの僧院』『赤と黒』『恋愛論』を訳し、『我がスタンダール』をあらわすほどにインテリでした。1944年7月35歳で召集を受け船でフィリピン戦線ミンドロ島に向かいます。44年12月には米軍が彼の軍務地に上陸、45年1月にはマラリアに罹り米軍の攻撃から撤退していく部隊から病兵として放置され、単独で山中を彷徨しているうちに倒れて気を失い、米兵に発見されて捕虜になりレイテ島タクロバンの俘虜病院に収容され、3月に一般収容所に移送され、8月の終戦、12月に帰国します。そのあと、37歳の時小林秀雄の勧めで小説を書き始めます。
 『野火』は、「私」である田中一等兵のモノローグによって語られる小説ですが、レイテ島で生き残ることのできた人から話を聞いての、フィクションです。田中一等兵は、肺病を患い病院に収容されますが、すぐに部隊に帰るように言われ、帰ると病院に無理やりおいてもらえ、さもなくば手りゅう弾で自害するよう命令を受けます。病院、部隊とも食料がないので引き受けないのです。食べ物を自分で調達しなければ生きていけず、原住民や米兵から身を守り、さらに死体の肉を狙わざるを得ない友兵からも身を守らなければならない状況で、死を目前に与えられた自由の中での思索です。
  第1回は、落伍者の自由
  第2回は、兵士たちの戦場経済
  第3回は、人間を最後に支えるもの
  第4回は、異端者が見た神
で解説されるこの『100分de名著 野火』を読み終わるか終らないかのうちに、本文『野火』も並行して読み始めました。
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『ちいさいモモちゃん』
2017/08/04(Fri)
 松谷みよ子著 『ちいさいモモちゃん』 を読みました。
 本当に小さな子供向けの本であろうということは想像できていたのですが、『おときときつねと栗の花』と『ふたりのイーダ』を読んで、彼女の創作による作品をもっと読んでみたいと思っていました。
 ぐうぜん今日、夫が安佐市民病院に入院したのですが、外来で説明を聞いてくださいといわれて待っているとき、この本を見つけました。読みかけていた本をそっちのけで、161ページ最後まで読みました。お話に引き込まれて、読んだのですが、このような幼児の本に夢中になれるなんて不思議でした。
 菊池貞雄という人のかわいい絵が各ページにあり、それも楽しめます。
 この本には、テレビで人形劇のように放送された時の写真ではないかと思えるようなページが4枚差し込まれています。そうして、人形制作 小室一郎、喜多京子、仲沢照江・小道具 片岡道太郎、平岡真魚・構成デザイン瀬川拓男、と巻頭に紹介されています。瀬川拓男は、著者の夫です。風呂先生にいただいた『民話』のなかで取り上げられ考察が試みられている人です。
 そしてこれも、名作でした。1974年に初版が発行されてこの本は1992年56刷のものです。他の装丁で出版されている本の方がもっと人気のようです。
 最後に、モモちゃんとあかねちゃんの本(全6巻完結)
 1、ちいさいモモちゃん
 2、モモちゃんとプー
 3、モモちゃんとアカネちゃん
 4、ちいさいアカネちゃん
 5、アカネちゃんとお客さんのパパ
 6、アカネちゃんのなみだの海
との紹介があります。
 これらは、著者の家族の歴史が伏線になっているので、夫婦の離婚を、ちいさな子どもたちがどのように感じて成長していったのか。そして、父親の死をどのように乗り越えようとしたのか、それがどのように描かれていったのかを知ることにはとても興味があります。
 生活の中の出来事をファンタジックにとらえ表現することは、ある意味生活をシンプルにとらえ、核心に迫っているとも思えます。
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『ふたりのイーダ』
2017/08/01(Tue)
 松谷みよ子著『ふたりのイーダ』を読みました。
 これは、1976年講談社発行ですが、7年前に他で発表されたもののようです。
 名作中の名作に出合ったという感じです。
 昨日、一挙に読みました。
 物語の最後、広島の原爆に遭って孤児になり自分が誰かもわからない3歳の女の子が、やはり3歳の女の子を原爆で亡くした夫婦に育てられ、そのような自分の過去のことを知ったその子が、1945年8月6日、原爆の落ちた日の日めくりカレンダーをそのままに廃墟になっている家の子どもであったことを知る場面では、先日の七月二日(日曜日)に、夫と二人でサロンシネマで観た、こうの史代原作・片淵須直監督 映画 『この世界の片隅に』の最後に、女の子を空襲で失た家族が、被爆地で出合った被爆孤児を連れて帰って家族で育てる場面からの続きに出合ったような気持がしました。
 物語は、小学4年生の直樹君が、母親が九州での取材の間、妹で3歳のゆう子と一緒に、東京から瀬戸内海にある広島に近い花浦の祖父母の家に数日預けられるところから始まります。
 直樹は、祖父母の家から近いお堀に出かけ、「イナイ、イナイ、ドコニモ・・・・イナイ・・・・」と呟きながら足をひこずるようにして歩いている背もたれの付いた小さな椅子に出合います。その椅子は城山のくぼみの林の奥にある一軒の洋館建ての廃墟に行きました。翌日祖父母の留守中ゆう子の面倒を頼まれた直樹は昼寝から目をさますとゆう子の姿が見えずあわてて探すうち、洋館建てまで行ってみると、ゆう子が一人おままごとをしています。直樹にであったゆう子は「だあれですかあ。」と尋ねます。翌日祖父母が宮島へゆう子と出かけた留守に祖母から留守中の直樹の様子を見てくれるように頼まれたりつ子が来てくれますが、大丈夫と早々に返して不思議な椅子のある廃墟に行ってみます。家に上がると椅子は「マッテイマシタ」と迎えてくれます。椅子とも話せるようになった直樹は、この家のことを椅子から聞き出します。椅子は「イーダガカエッテキタ」といいます。このうちには以前アンデルセン童話の「イーダちゃんの花」という作品が大好きな女の子がいたこと。しかし、直樹の妹のゆう子にもイーダというあだ名があって、椅子は彼女と勘違いしているのでした。しかしそのうち、だんだんにゆう子がこのうちのことに通じていることから、以前このうちにいた人の再生ではないかと思えるようになります。いろんな秘密を背負って思いつめているとき再びりつ子に出合い、とうとうこのような秘密を打ち明け、自分ではわからない情報を彼女に託します。そのことを調べたりしているうちに、実は、こ家には、椅子など家具づくりの名人のおじいさんといつ子という女の子がいて、原爆の落ちる当日二人は広島に出かけておじいさんは被爆死、いつ子がりつ子だったことがわかってていくのでした。その間の話が長いのですがそこへ行きつくまでの話がとても感動的なのでした。

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