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琴引山登山
2017/09/24(Sun)
 9月23日、夫と二人で島根県飯南町の琴引山に登りました。
 調べていて、この9月23日は、琴引山山頂でお祭りがあるということを知り、お祭りの日であれば、二人で登っても熊に出合う心配はないのではないかという思いで、この日の登山を夫が計画してくれたのでした。
 肺が弱く、病気がちの夫は、二人だけなら、自分のペースで、途中無理になったとき、いつでも計画を中止することができるのでリハビリを兼ねての計画です。
 朝、6時30分に家を出発。54号線をひたすら走って、琴引フォレストパークスキー場に到着。駐車場で見かけた登山者の方に登山口を聞いて、出発しました。
 私はこの琴引山についての神話を何一つ知らずに上り始めたのですが、夫が道々話してくれるので、だんだんに、これは神聖な山だと気づいていくのでした。少し登ったところにそれを表示する案内板があります。
 途中、6人くらいの人が追い抜いて行かれます。何しろ急こう配なのでゆっくりゆっくり登りました。頂上に近づくと今度は下山者と出会います。駐車場で親切に教えてくださった方も下山してこられ夫を励ましてくださいます。
 頂上の方から、お祭りの太鼓の音が聞こえてきます。50メーターも登れば頂上という所に巨岩があり、その根元にブルーシートが広く敷かれていて、皆さんお弁当を食べて休憩をしておられます。行き着くとすぐ、観光協会の方々から思いがけず美味しい豚汁をふるまっていただきました。
 岩を回るように石の階段を上っていくとちっちゃな社務所のようなものが建っており、その前から見上げると、巨岩の裏側にもう一つの巨岩との間に急こう配の石の階段がありそこに大勢の人が所狭しと詰めかけておられるのと、その上に間口一間くらいの神社の立派な屋根のてっぺんが見えます。これが琴弾神社のようです。この日は9人の子どもさんの健康への祈願が申し込まれていて、その祈願の太鼓の音が聞こえていたのでした。若い新聞記者の方が階段をはさんだ二つの巨岩が意味するものについて耳打ちしてくださいました。つい最近古文書にのめり込んでいる私は、近世の「物成を下方にては御免米という」という古文書の文面の御免米について読み解こうと、「免」という文字を漢和辞典で調べると、先ずこの文字はお産をイメージする解説があり、女へんがついて分娩ともいうようにお産のことですとありました。ついでに、許すという意味があり、取れ高は従来すべて領主のものなのに、半分は免除されるということで差出す側からは御免なさいという意味で御免米といわせたことを理解したことを話しました。この若い新聞記者の男性はこれは新しく学んだことですと、びっくりするほど丁寧に挨拶されて、ついこの琴弾神社の石段の下から見た情景が「免」の文字にぴったりだったのでこんなことをおしゃべりしたことに面はゆい思いをいたしました。
 階段を下りて回り込む道を頂上に登ると、見晴らしのいい頂上に二人の観光協会の方がおられ、御一人の方が頂上におかれた可愛い観光協会のキャラクターの石造りの猫の置物を作られた石材店の方だということがわかり、私は幸い猫とその製作者に加わっていただいての登頂記念の写真を撮っていただくことができました。(この写真は夫のブログに近々掲載するとのことです)
下山路は、大国主命の御琴があったという岩屋を見るために真北へ向けての道を降りていきました。途中で偶然チューピー登山クラブの方々が登ってこられるのに出会い、下山道の情報が得られたのはラキーでした。お蔭で岩屋を充分見学できたり、日暮れまでに駐車場に到着できたのは感謝でした。安全運転もできて5時48分、我が家に無事到着できました。

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一兵山家山・中野冠山縦走登山
2017/09/21(Thu)
 9月20日、裏山散歩の仲間に一兵山家山・中野冠山縦走登山に連れて行っていただきました。
 19・20・22日のうちのいずれかということでしたので、19日・21日と交通安全協会の行事が入っていたりして、ぎりぎりまで、参加が危ぶまれたのですが、その日程ではなかったので、参加させていただくことができました。
 参加者は12人でした。
 いつものように水野さん・生田さん・羽柴さんが車を出してくださり、私はほかの2人と羽柴さんの車に乗せていただいて出発です。
 豊平から広域農道を経由して、芸北町の一兵山家山登山口の来尾峠駐車場に到着しました。一兵山家山登山口は島根県と広島県の県境です。
 下山するところがサイオト集会所のすぐ近くですので、一台の車をサイオト集会所の駐車場に置きに行かれました。その間柔軟体操など登る準備をして、みんな揃うとゆっくり登り始めました。
 直前の本郷での登山の時に、先頭についていく方が楽なのではないかと思っていましたので、先頭に続いて登り始めました。先頭は水野さんでした。
 山道には登山口から、ずっと県道の杭がところどころに打ち込まれています。その県境は、最初の目的地一兵山家山山頂から、縦走した野上山山頂、ノベリ山山頂・ヤオノ谷峠・中野冠山山頂までずっと続いていました。そして、県境である参道には柘植の木がずっと植えられているように思えます。そして、その山道が塁のように思えるところがほとんどで、この塁は、いったい何のためだろうといろいろ連想しながら歩きました。
 道にはときに熊の糞があり、笹がけっこう高くぎっしり生い茂っており、見通しが悪いので、笛を吹いたりして熊対策をしました。
 道々、マムシに出合いました。つづいてもう一匹、また一匹と連続3匹に出合いました。水野さんはザックからスパッツを取り出して装着されました。
 そのあと、まだ小さいうす赤い色の蛇に出合いました。その蛇は水野さんに向かってくる構えでなかなか動きません。その次には黄色いスジの入った大きく長い蛇に出合いました。これは、水野さんが知らずに尻尾を踏んづけたと言われました。とうとう一兵山家山頂までに私と水野さんは5匹出合ったということになりました。あと3匹出合えば八岐大蛇だなどと言って笑いあいました。それから中野冠山山頂まで延々と歩きます。
 昨年このコースを登っておられる方々が、昼食をどこにするか話し合われ、少し遅い昼食になりました。私は、前回うなぎ丼弁当を作って行ったのがおいしくて元気が出たので、またうなぎ丼弁当にして、あとは梨とブドウだけにしてこれが残すこともなく正解でした。お腹もすいていたので本当においしくいただきました。あといただいたチョコレートをひとつ途中で食べました。
 中野冠山山頂はのびのびしたみどりの広場になっておりの展望は曇って靄がかかっていたにもかかわらず足下の村がきれいに見えました。
 下山して車に乗り込むやバケツをひっくり返したような大雨になり、タイミングがよかったねと話しました。

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「高山城・新高山城」ハイキング
2017/09/15(Fri)
 9月13日水曜日 晴れ 中国文化センター前期第6回目の「高山城・新高山城」ハイキングに参加しました。
 集合は本郷駅に9時でしたが、夫が車で送ってくれました。
 夫はそのまま本郷の町を散策して、買ったばかりのお気に入りのカメラの試写で、待っていてくれることになりました。
 高山城から登ったのですが、山行計画書の内容に変更があり、下山道に計画されていた南斜面からの登山道の往復になりました。もともと、二つの山を登るのは体力に不安がありましたので、この計画変更は私にとってはラッキーでしたし、終わってみると参加者全員にとってもラッキーだったようでした。
 登山道の様子は、思っていた以上に様子が変わることがあります。引率の方が数日前、計画登山道を歩いて変更してくださったことに感謝するばかりです。
 高山城・新高山城ともに、小早川隆景の居城だったということで、私としては、ハイキングというより、歴史探訪という気持ちもあり、久しぶりに歴史小説『小早川隆景』など読んでの参加でした。
 しかし、兄の吉川元春の痕跡のように親しんだこともありませんでしたし、じっさい本郷という町で足をとどめたこともありませんでしたので、そんなに期待していたわけではありませんでした。
 ところが、新高山城は三原城ともに、2017年4月6日「城の日」に、財団法人日本城郭協会が、設立50周年の記念事業の一環として、日本百名城を発表しましたが、そのなかに含まれていて、その幟が誉れ高く役場にも飾られており、改めて町を挙げて史跡保存に力を入れておられる様子がうかがえます。
 ですから、両方の山頂の高山城跡・新高山城跡では、予想に反して歴史を確認することができました。とくに、新高山城では、頂上へ至る道々でも、鐘の段、土塁が今も残る3段の番所跡、匡真寺跡など、よくわかるように、草も刈りこんで、木もできるだけ生えさせないで整備し、道案内や丁寧な説明版なども設置されています。
 山頂からは、眼下に沼田川が濠のようにあり、天空にあって、周囲敵の動きは手に取るように掌握できそうです。
 隆景は300年以上の歴史のあった高山城から、新しく築城した新高山城に移るのですが、45年で城を取り壊して三原城に隠居しました。
 高山城を下山して、二つの城山の中央を流れる沼田川にかかる橋を渡って、新しく築城した新高山城登山口まで川に並行する道路をさかのぼり、また下山して、沼田川の流れを見ていると、まさに、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・。」と、鴨長明のような気分になってきます。

 このハイキングでは、新高山城の中の丸のすそで初めて「テイカカズラ(定家蔓)」の種子を見つけました。あまりにも葉っぱが紅葉しているので、「テイカカズラ」かどうか不安だったのですが、帰ってネットで調べてみるとそのようです。福王寺でもたくさんの「テイカカズラ」はよく見るものの種子を確認できたのは初めてでした。
また、道々、「ひとつば」が、途中で二枚に分かれたのと、三枚に伸びたのとを見つけることができて楽しむことができました。

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『エディターシップ』
2017/09/13(Wed)
 外山滋比古著『エディターシップ』株式会社みすず書房1975年2月発行を読みました。
 昭和47年秋からから49年春までの間、雑誌「みすず」に断続的に連載された13のエッセイをその順に並べ、最後に新稿を加えたとあります。
 エディターシップという言葉初めて出会った気がします。語義は
 ≪「一、編集者の地位〔職・職分・権限〕 二、編集上の指示 三、編集・校訂」とだけあって、はっきり編集に限定されている。≫だということです。
 最初のエッセイ「ある経験」では自分が考えたこともない編集者を2年の約束で頼まれ、ほとんど校正に終始することに戸惑いながら煩悶する気持ちが書かれています。
 ここでは、私が高校を卒業して3か月和文タイプを学び、建設会館に就職し、合同庁舎の中国地方建設局に記者クラブの人たちに交じって、毎日工事の発注発表を聞き取りに行かされていた頃のことを思い起こします。清書して上司にあげた内容が正確だったか、翌日配達された業界新聞も含めて全てにびくびくしながら目を通していました。新聞社が間違っていたときは、いつも助けていただいているので、電話で知らせてあげました。半年もすると、自分も間違いだらけのタイプを打つのに、新聞を開くと間違いだけが目に飛び込んでくるようになって不思議でした。
 こんなことが思い出されてか、読書に身が入ります。だんだん編集長として成長し、編集者が売れ行きの為に作品のタイトルまで考える部分へと話が進んでいくと、いよいよ編集の仕事の魅力に引き込まれます。
 読者と作者の間を結びつける役割をするのが編集者の仕事である。という建前はわかるもののそうはなかなかいきません。
 編集について考えが突き進み深まっていくと、「編集」という語にかなり広い意味を与えてきます。雑誌や本の編集者が行う「編集」に限らず、私たち一般の人間が誰でも行っていること、例えば言葉を使って誰かと話すこともそれです。なぜなら、一つひとつの単語を選び出し、組み合わせて何かを言おうとすることは、紛れもなく「編集」による創造だからです。この他に、数ある食材を用いて料理をすることも、争っている両者を調停することも、人間誰もが自覚しない「編集」で、自分の人生をどう編集していくかというようなところまで話が進んでいきます。
 私は今、このブログを書くに当たり、まず、この本の内容を読んでそれが分かったとして、その分かったということは、分析できたということで、分析してバラバラにしただけではなにかうすら寒い気がして、その分析できたものを、どのように書き残そうか、あるいは読み捨てて、書かないでおこうか、しかし、この本から受けた様々な概念の変革で今までになくずいぶん自分が偉くなったような気がする。それをどう書き残せばいいのか、このようにあれこれ考え、バラバラあれこれを結びつけてこのように一つのブログ記事を創造する。
 創造することに於いて、ばらばらあれこれの橋渡しがなされることの大切さを思うと、素直に編集ということの深い意味を・・・・。
 そうではなくて、小泉八雲の再話編集のすごさについて並行して考えさせられたのでした。


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第205回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/09/11(Mon)
 9月9日(土)、第205回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加いたしました。
 朝から、裏山登りを中止して、大洗濯をしたり、迷惑がる夫を尻目に家の片づけや掃除をしてお風呂に入ってさっぱりして、術後少しづつ調子を上げている夫と参加いたしました。
 会は、寺下さんの開会のことばの、寺下さんが翻訳された『神と黄金』の著者ウォルター・ラッセル・ミードが来日されるので面談をし、その報告を後日してくださるとのお話に期待を寄せるところから始まりました。
つづいて末国さんが、「イエイツと周辺人物(日本の能に至るまで)」と、「人物相関図」の資料を作ってきてくださり、その解説をしてくださいました。
 以前、古川さんが東京に能「鷹姫」を見に行かれた報告をされたとき、イギリスの脚本を日本の能で?とその結びつきを意外に思ったものでしたが、そこへ至るまでの人と人との交わりを感じる報告でした。
 風呂先生の『ある保守主義者』についての解説は、やってもやっても言いたりないというほどの熱のこもったものでした。
言ってみれば一言、西洋の近代化を取り入れることと引き換えに、日本の伝統ある精神文化を軽んじることの愚に警鐘を鳴らしているというものですが、当時そのことに確信をもって執筆することができたハーンの思考と筆に力を与えたものは何だったのか?
そして、イギリスやアメリカでのその出版が、以後西欧諸国の人々に与えた影響がどのようなものであったのか?

 少し前、何かでマッカーサーについて読んだことがありました。
マッカーサーは子どもの頃日本に来て、日露戦争に功のあった東郷平八郎などにも会っており、彼らの人物像に非常に感銘を受けておりました。長じて、太平洋戦争の時、マッカーサーはフィリピンで日本軍にひどい目に遭い、部下を置き去りにして逃亡せざるをえないという屈辱を味わったことがありました。それで戦後、日本にやってきたとき、日本人の持つ忠誠心や質実剛健的な生活信条など、日本人の良き特質をそこなわせるような日本経営をすることで、日本人を骨抜きにしてしまおうという怨念があったというような内容であったと思います。
 また古い話ですが、井上ひさしの著作によるものだったと思います。戦国時代、スペイン艦隊の一人が、キリシタン大名にスペイン艦隊をくっつけて、日本を統一させればいかが?とマカオの司令部に具申したとき、茶の湯などで日本人の武将などと深くかかわっていた司令部に、「あのように忍耐強い日本人に勝てるものか!」と一喝された場面があったことを思い起こします。司馬遼太郎によれば織田信長戦力は当時世界一だったとありますから、一概に精神力だけで量ったものでもないという思いもしますが、これら日本人をよく知る西欧人への日本人の精神力の脅威を思い起こします。
 それにしても当時、海外留学など渡航をした日本人は多くいます。私がひそかに興味があってほとんど読めていない、軍事力を背景にした帝国主義に価値を認めなかった南方熊楠 や、おくれて漱石、鴎外などあまたいるなかで、雨森の渡欧理由などの影響についてその特徴を見出す研究ができたらとも思っています。

 風呂先生の『ある保守主義者』についての解説は、次回にも引き継ぎますので今からワクワクしているところです。


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『三次稲生物怪禄(ミヨシイノウモノノケロク)』
2017/09/06(Wed)
 『三次稲生物怪禄(ミヨシイノウモノノケロク)』を読みました。
 古文書を習っている加川さんに頂いたものです。表紙には『三次稲生物怪禄』に続いて「解読ノート{可部}古文書同好会」とあり、非売品です。
 もちろん加川さんも解読に協力された主要の一人ではないかと思われます。
 寛延2年(1749)、弟と二人暮らしの稲生平太郎16歳のとき、隣家の元相撲取りの三津井権八と五月のある夜に肝試しをします。五月雨の心細い夜を平太郎はただ一人、鳳源寺の裏山にある比熊山山頂の千畳敷に登り、触れると祟りがあるという天狗杉へ結びをつけて帰り、そのあと権八も登ってきました。
 それから二か月経った七月一日から三十日にかけて、夜な夜な、あるいは昼間から、だれか尋ねてきている人がいても、いろいろな妖怪変化の類が、手を変え品を変えて平太郎の家に出てくるようになりました。平太郎だけがいる時に出てくるのではないので、このことは三次や近郷の人びとの知るところとなり、門前に群衆が集まってきたりもし、あまりにも騒がしいので、村方役所より、「見物に出ざるように」とそれぞれの村役人に触れさせるほどでした。
 何かあってはと弟の勝弥は叔父に預けます。
 親戚の者、近所の者、家中の者と、狐のいたずらではないかとか、狸のいたずらではないかとかわるがわる跳ね罠を持ってきて仕掛けてくれたり、西江寺から仏影や野狐よけのお札をもらってきて居間にかけてくれたり、踏み落とし罠を持って来たりして応援に駆け付けてくれますが、どれもこれも役には立たず、みんな恐怖の為に逃げ帰っていきます。
 よく応援に駆け付けていた権八は、病を得て、怪異の気に打たれたのかついに死んでしまったりもします。
 しかし、平太郎は、だんだん相手にしなければ、どうということもなくおとなしくなることもわかってきて、疲れると、応援が来ない方がいいと思う日もあります。そんなことで、ときには命に危害が及びそうになるときでも、平太郎だけは平然として少しも怖がりません。
 そして、ついに七月の晦日、平太郎は「いつまでこんな物怪の守りをすることやら、頃合いを見て闘い討ち捕ろう」と思っています。日暮れ時には晴れて、夜十時頃また現れたと思い、ここぞと抜き打ちに切り付けると「待たれよ」と言い「左様にあせってもそなたの手に打たれるような、我にては非らず。言い聞かすことが有って此処に来たれるなり。刃物を収め、心を鎮められよ」とのべ、魔王の山ン本五郎左衛門と名乗ります。平太郎の大嫌いなミミズを出して彼をためし、平太郎の気丈を確認し、「平太郎は今年難に会う年だったが、もう難は終わった」と述べ、「しかしこれから難があれば北に向かってはや山ン本五郎左衛門が来たれり」と申すべしと言って、おじぎをしてでていき、それからは物怪も出なくなったという話でした。
 この書物に出てくる比熊山も鳳源寺や西江寺など見知っている私にとって、とても身近に感じることのできる怪談話でした。
 近いうち、改めて訪ねられたらと思ったことでした。

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『家道訓』
2017/09/05(Tue)
 4月20日から解読を始めた古文書の『家道訓』を一応解読して読み終わり、今朝、一つ一つの崩し文字を、もとの文字に書き換えた原稿用紙を綴りました。
 近所の加川さんにお願いして教えていただいていたのですが、8月は、お休みにしました。体調不良の私は、夫の入院もあったりして、その間古文書には全く触れませんでした。
 9月から再開して、2日に終わったのです。
 最後に辞書を引いたのは、
 ≪古人貧しきハ束脩をおくり冨め流盤玉帛越於く流(古人貧しきは束脩を贈り、冨めるは玉帛を贈る)≫にある、束脩玉帛で、束脩は干し肉、玉帛は玉・絹でした。最初に引いた古語辞典にはなく、漢和辞典で確認できました。
まだまだ辞書を引いて調べるべきものがあったとは思うものの、完璧と思えるようにはなかなかいかないものだと改めて思います。
 そうはいってもできるだけ完璧に近づけたらとの願いから、途中から、歴史書もよく読まれていて博学な水野さんに仲間に入っていただきました。
 わかっているつもりで見過ごしてしまうところに気づくことができたり、彼女の今までの経験によって、解読が広がり、深められていくことへの願望がありました。
 とにかく読めるようになりたいと家庭で解読書を利用して、努力に、努力を重ねた彼女は、家道訓の終わりの方では、解読書を観ないでスラスラ読めるようになりました。
 私が、20歳代の時、可部公民館の古文書の会に入れていただいて少し学んだ時のことを思い起こしてみると、水野さんが参考にした解読書の、斉藤茂吉著、(貝原益軒の名著『家道訓』を読む)という副題のついた『人間としての最高の生き方』という本は出版されておりませんでした。
 それで、彼女にその本を紹介し、彼女が図書館で見つけてこれを予習に利用したのでした。このような本の存在によって、古文書の解読の方法が形を変えていったことにいろんなことを考えさせられました。
 主婦になってから大学に入って源氏物語の講義を受けました。講義内容については忘れてしまいましたが、購入させられた宮内庁書陵部蔵青表紙本源氏物語の『須磨』は、表紙の文字からして『春満』(すま)の崩し文字で、中身の解説以外の本文は、変体仮名です。授業がどのように進められたか忘れましたが、この変体文字については、講師の先生より、大学受験前に可部公民館で近世の古文書を少し学んでいた私の方がよく読めた記憶がありました。読めるということとこの作品の背景や内容や意味や文学性を知ることとは別の作業であることがよくわかります。
 このことは、私が翻訳もので了解するだけではほんとうにわかったといえるのだろうかと、無能にもかかわらず、原文に挑戦することと似ています。原文にこだわって、限られた時間の勉強が上滑りになったのが先月のハーンの会への反省になったことを思い、自分の能力の限界と興味への充足をいろいろ考えさせられ、次に挑戦する『理勢誌』への取り組みについても考えてみたいと思わされました。
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『保守とは何か』
2017/09/02(Sat)
 福田恒存著『保守とは何か』をすこし読みました。
 文春学藝ライブラリー2015年第3刷発行の文庫本です。
 先日、小泉八雲著 平川祐弘訳 「ある保守主義者」を読むときに、保守という言葉について、これは、その地域その時代によって違うものではなかろうかと思っていたとき、図書館で、この本を見て借りてみようと思ったのでした。
 著者の名前は知っていたものの作品を読むのは初めてで、それへの興味もありました。
 しかし、読み始めてみると、胃が痛くなってきます。仕方なくところどころ読んでいき、最後の「解説」にいきあたると、感じるところがあり、また少し読み返しました。
 「解説」の著者浜崎洋介は、福田恒存が1912(大正元年)生まれであるのに対して、1978(昭和53年)生まれです。ついでに言えば、ほぼ1949年生まれの私がその中間どころです。
 ここで、生年月日にこだわるのは、ここでいうところの保守がよくはわかりませんが、生まれによって保守のイメージが変わってくるような気がするからです。
 この解説者が、自分の生まれた世代について述べているところに大変興味を抱きました。
 ≪戦後の、しかも高度成長期後の日本に生まれた私には既に自明な伝統などありえなかった。と同時に、冷戦後の時代を生きる私には、既存のイデオロギーはどれも偽物にしか見えなかった。とはいえ、消費生活の夢に戯れるといった余裕もバブル崩壊後を生きる世代には許されてはいなかった。いいかえれば、頼るべき過去は既になく、来るべき未来も未だなかったのである。そして、既にないと、未だないという二重の「ない」を生きるデカダンスが最後に縋るのは、いつでもロマン主義的な観念である。今ある現実の彼方に、ここではないどこかを思い描くこと。そのユートピアによって、断片化する社会と、あてどなく浮動する私の不安を吊り支えること。進学するでも、就職するでもなく大学を出た私は当時柄谷行人によって結成されたロマン主義的政治運動NAMに向かうことになる。・・・・・実際、NAMは、たった三年余りであっけなく潰えていった、むろん、世間知らずの知識人が、おためごかしの綺麗事を並べて自滅していく図など、近代日本にはありふれている。しかし、自らのルサンチマンに目を瞑り、周囲の忠言に耳を貸さず、難解に秘教化された理屈を身元保証として、そのおためごかしに乗ったのは、他でもない私自身だったのである。とすれば、いまさらの自己反省や自己批判は全く無意味だろう。なぜなら、反省し批判している当の「私」自身が一番信用ならないのだから。「自己喪失」という言葉の意味を、私は初めて思い知る気がした。・・・・・・≫この文章に続いて本文を読んでいくのなら、著者福田恒存の文章が少し理解できる気がしてきます。
 それにしても、この解説を読むと、今40歳くらいの人たちの行動が痛いほどに理解できてくるような気がします。
 
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