FC2ブログ
『ビルマの竪琴』
2017/10/30(Mon)
 竹山道雄著、『ビルマの竪琴』 ポプラ社 アイドル・ブックス7 昭和54年第14刷を読みました。
 10月14日(土)、の「広島ラフカディオ・ハーンの会」のとき、今学習している「ある保守主義者」の資料に竹山道雄の「私の文化遍歴」も紹介されました。
 それがきっかけでふと家にあった『ビルマの竪琴』を読みました。この作品も小学生の時読んで大変感銘を受けたことは覚えています。感銘は受けたものの内容は忘れてしまっていました。
 映画やテレビで何度も見る機会もあったらしいのですが、それも見ないで過ごしてしまいました。
 「おーい、水島。いっしょに日本にかえろう!」青いインコに教え込まれた部隊全員の強い思い。その思いを込めた合唱。
だんだんに思い出してきました。
 子どもの頃、感動したはずです。児童図書としては最高のものだと感じます。子どもたちにこんな素晴らしい贈り物があるでしょうかと思わされます。
 しかし、読み進むうち、8月に大岡昇平の『野火』を読んでまだ間がありませんので、戦場の状況、ことに敗戦間際の状況が心境に及ぼす影響については、違和感があり、著者は戦場経験がないのではと感じ、途中、著者の竹山道雄について「彼の年譜」や、他の作品も読んでみました。
  確かに経験がないということはわかりました。
 しかし、終戦間もない昭和21年に。原稿依頼を受け、この作品を手がけたいきさつと当時の情報の状況を読むと、経験のあるなしによらずこの作品が素晴らしい作品であるということがわかってきます。
 最初にこの作品の原稿を読んだ、児童雑誌「赤とんぼ」の原稿依頼者の藤田圭雄氏は、≪ぱらぱらと読んでいくうちに、私はいつの間にか、ぐんぐんとその中に引き込まれていきました。読み終わったときの私は喜びでいっぱいでした。すぐ、猪熊弦一郎さんに挿絵をたのんで、これで新年号ができたと思いました。≫と「解説」で語られています。それがアメリカ軍の検閲に引っかかり、うずもれてしまうところを、こんな立派な作品を埋もれさせてしまってはと、再度頼み込んで読んでもらい、許可を取り付け、遅れて第1部「うたう部隊」が3月に掲載された顛末も記されていました。
 ビルマに配属された部隊の人たちが、文明の遅れたビルマの人たちと日本人を引き比べてどちらが人間として尊い生き方であるかと論議するところなどは、いつの時代にも考えさせられる問題です。
 子どもへ向けての文章が、飾り気がなく率直で純真であることに最近なぜか魅力を感じています。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「舞姫」
2017/10/22(Sun)
 森鴎外著、集英社の日本文学全集4森鴎外集から「舞姫」を読みました。
 太田豊太郎と名乗る自分は、旧藩の学館、東京での大学でも抜群の成績で、学士の称を受け、某省に出仕し、故郷から母親を呼び寄せ3年の後、「洋行して、一課の事務を取り調べよ」と命を受けて洋行します。
 ヨーロッパでは、目を見張るものばかりでしたが、自分は、このようなものには目もくれずの決心です。
 ドイツ語・フランス語とも十分な実力を備えていたため、事務方も進み、仕事の合間に赦しを受けて、大学での勉強もはじめるほどです。
 その間、自由な大学の風に当たり、自分の本当にやりたいことに気づかされてもいきます。その頃、まじめ一辺倒の自分に、嫉妬もあってか、周りの人間からつらく当たられるようになり、孤独と苦悩に身を置くようになります。
 そんな夕暮れに、父を亡くして葬式をあげる金が家にないため苦しみ泣いているエリスという女性に出合います。自分の大胆さに呆れながらも、家に送っていき、資金にと腕時計をおいて帰ります。その後、訪ねてきた女優の彼女とは他愛のない付き合いでしたが、彼女を思うことで、気持ちが明るくなっていきます。
 この交際が、同郷の者から長官の耳に入り、彼は職を解かれてします。そんなとき、母親の死を告げた手紙も届きます。
焦っているとき、相沢謙吉という友人が東京にいて官報を読んで事情を知り、ある新聞社にベルリンでの仕事の斡旋をしてくれました。
 彼はエリスと部屋を借りてつつましく暮らします。しかし、この新聞社の仕事は彼に、学問では到底得られなかった見識をもたらします。その内、エリスは妊娠して寝込んでしまいます。
 そんなとき、またもや相沢謙吉から天方大臣が彼に会いたがっているので、ベルリン一のホテルにくるようにとの連絡を受けます。
 大臣から急を要するドイツ語の翻訳の文書を受領します。帰りに、相沢と昼餉を共にし、彼は一切の事情を話します。相沢は自分を責めることはしませんでしたが、最後にエリスとの関係を解消するようにと断言します。
 相沢と大臣の仕事を手伝い彼の語学力は大臣の信頼を得るところとなり、大臣は、帰国時彼を日本に一緒に帰るよう促します。
 彼は、断ることができず、従うことにします。
 この機を逃すことは自国を失い、栄達の道を閉ざしてしまうことも怖かったのです。
 しかしそのあと、エリスへの赦されない罪を思い、彼女の待つ家に帰る足の運びがはかどらず、ベルリンの1月、雪のある寒空をさまよい体調を崩しついに寝込んでしまいます。
 熱が激しく、譫言ばかり言っていた数週の後、相沢が訪ねてきます。
 相沢から豊太郎がエリスと別れると言ったことと、大臣と日本に帰ると答えたことを聞いて妊娠中のエリスは怒りのためその場に倒れ、精神を病み治癒の見込みがないという診断で癲狂院(精神病院)に入院させられます。
 相沢は豊太郎と話し合ってエリスの母親に資金を与えて子どものことを頼んで帰国の途に就きます。

 この作品は10月17日に記録した「妄想」より先に読んでいたのですが、この全集本では作品が読み辛く、しっかり理解できないでいました。
 「舞姫」は、鴎外のなかでも有名な作品ですから一度は読んでいるとは思うのですが、このたび読んでこんなに読みづらいのに、若い頃は、どのような本で読んで理解したのか不思議な気がします。
この難解さは、今頃毎日解読している古文書以上とも思えました。思い直して今夜もう一度読み返しながら、記録した次第です。

この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
「妄想」
2017/10/17(Tue)

 森鴎外著、集英社の日本文学全集4森鴎外集から「妄想」を読みました。
 森鴎外を読むのは、ほんとうに年十年ぶりです。
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、日露戦争時、兵隊が多く脚気で亡くなったとき、海軍は食事を改善しましたが、陸軍は軍医の森鴎外が改善を認めなかったためにさらに脚気で多くの兵隊が命を失ったことが記されてあり、何となく彼の作品から遠ざかっていたのでした。
 しかしこのたび、ハーンの会で、風呂先生が参考文献として挙げられていたので、「舞姫」につづいて、この「妄想」を読みました。
 ≪・・・・。そんなふうに、人の改良しようとしている、あらゆる方面に向かって、自分は本の木阿弥説を唱えた。そして保守党の仲間に逐い込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行りだしたが、元祖は自分であったかもしれない≫
と西欧に真似て日本をあれこれ改良しようという意見に対して異を唱え、保守主義だと思われる部分が、いま、みなで学習しているハーンの「ある保守主義者」の参考資料となる部分です。雨森信成以外にも、明治の時代、夢を抱いて渡欧して、行った先の西欧に落胆して、逆に日本の良さがわかり保守主義になった人が数あったことの今一つの例を確認できます。

 何年かぶりに鴎外の作品を読んで、ここに告白されている彼の人生観に出合い共感でき、改めて読んでよかったと思えました。
 ≪自分はこのままで人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知っている。しかしその死はこわくはない。≫と述べているところ、また、
 ≪・・・その代わりに哲学や文学の書物を買うことにした。それを時間の得られる限り読んだのである。・・・・昔世にもてはやされていた人、今世にもてはやされている人は、どんなことを言っているのかと、たとえば道を行く人の顔を辻に立って冷澹に見るように見たのである。冷澹には見ていたが、自分は辻に立っていて、たびたび帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。帽は脱いだが、辻を離れてどの人かのあとに附いていこうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかったのである。≫
 西欧の哲学者が著作で、死を恐れないのは野蛮人だと述べているのに対して、森鴎外の心境がこのように語られていくのですが、「そうです。そうです。それが今の私たちの心境です。」と、まさしく今、私をはじめ、日本中に多数を占める高齢者の中の読書好きの人たちの思いを的確に代弁していると思えたことです。
 秋の夜長、大正時代の50歳の高齢者と、現代の私たち高齢者が共感できることに人生の深まりを感じています。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
第206回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/10/15(Sun)
 10月14日(土)、第206回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に夫と二人で参加いたしました。
 楽しみなハーンの会なのに、なんだかぜんぜん訳のわからない古文書にはまっていた1か月でどうしましょう。
 直前、ハーンの会の予習にこともあろうに、風呂先生の9月の『すみよし』への寄稿文を読むというあわてぶりです。
 最近世間を賑せているヒアリについても書かれてあります。末っ子でどうせ生まれたところから出ていく私ではありましたが、子どものころから、四里四方内でとれた用材で建てられた家に住み、その内で収穫された食べ物を食べることが一番といつの間にか思うようになり、害を及ぼす外来種については、ここではその天敵もその毒を消す植物などもないことから、里におかえり願いたいというのが私の偽らざる思いです。
 ヒアリから話は蟻に、「蟻」という漢字について、難しいながら「かどめ正しい」虫と説明してくださっています。これも私事ですが、漢字の中では義のなかの羊という字を一番大切な字だと思っています。理由はさておき、以前いた職場では子どもたちに、「食べ物の中で一番おいしいのは勿論羊羹よ。だって羊羹という漢字の中には羊という字が3つも使ってあるでしょう・・・。」と説明していました。「羊」と「我」についてはまた研究の余地がありそうです。
 ハーンの会では、1年ぶりに五十嵐先生が少しお痩せになられたものの元気になって参加され皆ほっと喜び合いました。
 「小泉八雲来焼120周年・焼津小泉八雲記念館10周年記念講演とシンポジュウム」へ、風呂先生、三島さん、古川さん、浮田さんの4人が参加され、その報告を浮田さんが発表してくださいました。
 第二部のシンポジウム「地域資源としての文学~小泉八雲による地域づくり~」、最近大学では、地域資源を掘り起こして観光資源にして、とにかく研究費を稼ぎ出せとかならず、あらゆるものを地域資源とすることが叫ばれているようです。
 漱石山房にあつまる高等遊民の時代が遠く感じられます。
 私だと、小泉八雲は大のタバコ好き。八雲の泳ぐ姿が海の沖遠くなってもタバコの火が消えなかったことを乙吉が証言しているのをどこかで読んだ気がします。タバコの形をしたキャンデイを作って、何時間なめていられるかとか、JTと共同して「タバコの火を何メートル消さないで泳げるか大会」の開催などが提案できそうです。

 勿論、「ある保守主義者」Ⅱ~Ⅲの途中まで、風呂先生の熱のこもった解説で、充分勉強させていただきました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
旭山登山
2017/10/12(Thu)
 10月11日、かず子さんとけい子さん3人で白木の旭山に登りました。
 この3人での山登りは、私が39個の「あさきた里山マスターズ」認定対象の山をすべて登り終え、かず子さんとけい子さんの二人がそれにならって挑戦を始めて12個目の山です。
 年初めにかず子さんが階段で足を痛めて登れなくなり、さらに、けい子さんの娘さんが病気になったりでなかなか次へ登れなかったのですが、やっと日程が決まったので、私はチューピークラブの登山をキャンセルしての登山になりました。
 二人にとっては、全くの久しぶり登山ですので、簡単に登れて、道に迷うこともない旭山に決め、二人にも気楽に登れる山だから、と前置きしておいたせいか、二人とも忘れ物があったりして、9時20分ころに我が家を3人で出発しました。
いつも誰かに乗せてもらって行っているのですが、自分で運転していくとなると・・・。
 三篠川をさかのぼり、JR志和口駅の手前を左に折れて、さらに今では廃校になった白木高校の校門前に車を置き、向かい合っている高南小学校の周りをぐるりと回って高南小学校の裏から登り始めました。
 シダや笹を踏み分けて登るので蛇に出合うのではないかと心配してみんなでスパッツを装着して行ったのですが、蛇が体を温める道幅もなく幸い行きは蛇には出合いませんでした。
 以前、この山に登ったときはなかった倒木が多く、またいだりくぐったり、考えてみると、先日の暴風雨の後、裏山の福王寺でもみんなで倒木を始末するのにくたくたになったのでした。
 途中、下から上がってくる道があり、ここにも登山道があるんだね、といって、そのまま頂上にたどり着いてみると、「あさきた里山マスターズ」認定のしるしになるプレートがありません。以前にもほかの山でも風か何かで少し離れたところに落ちていたこともあったので、あたりを探してみましたがありません。そうこうしていると、かず子さんが、思い切ってもと来た道に降りてみようというので降りて、もう一つの登山道だと思ったところを降りてゆくと、だんだん登りになっていて、とにかくその道をあがっていくと、頂上にたどり着きました。
 それまでは、ところどころで、自分たちが車で走ってきた側の村がみえていたのですが、頂上では反対側の村が見えます。お弁当を食べて「あさきた里山マスターズ」認定のプレートの前で証明写真を撮り、こんもりとよく育って美しい苔をめでて下山しました。1時5分でした。
 そのあと、久しぶりに3人が隠れ家にしている家に行くと、長雨だったせいか思っていた以上に家中がカビでした。テーブルと、椅子だけ拭いて、コーヒーを飲みおやつを食べて休もうとした途端、それまで、しんどがっていたかず子さんは、たちまち掃除機をかけはじめ、私たちも、拭き掃除をしました。この家は、3人の誰の家よりも大きい家ですが、1・2階トイレとも、すべて掃除機がけと雑巾がけを済ませました。けい子さんと私は翌日1時間くらい時間が合いそうなので、水拭きした家の窓を開けて風を通しにまた来ることにして家を後にしました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン |