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『さわらびの譜』
2017/12/31(Sun)
 葉室麟著 『さわらびの譜』 を読みました。
 2013年9月発行のハード本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本です。先の『山月庵茶会記』同様鮮烈な筋立てに一気に読んでしまいました。

 ―岩ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも―
 『万葉集』にあるこの歌が好きだという伊也という女性が主人公です。5歳の時から弓術日置流雪荷派(ヘキリュウセッカハ)を引き継ぐ父親の有川将左衛門から弓術を仕込まれて育ち、藩では女だてらに大和派の樋口清四郎と競うほどの腕前です。

 ―伊也の気性を小説では才気煥発と表していますが、読者にその姿を例えて、岩ばしる垂水の上の萌え出づるさわらびと、この句が使われています。
 だれでもよく知っている歌ですが、私はこれまで、「岩ばしる垂水の上の」という言葉をほとんど意識しておらず、わらびを見始めたころ「さわらびの萌え出づる春になったな」と思って陽だまりを恋しく思っていただけのような気がします。これだけの名歌を、このようにいい加減にしか味わっていなかったことを思うと、気を入れ込んで読まないと、著者の真意が読めとれないのではと、思わされます。―

 妹がいますが、妹の初音はそのような武張ったことはいたしません。
 そんな妹に樋口清四郎との結婚が決まります。この時代、親の決めた結婚に沿うことは至上命令です。しかし、この婚約時代に、ともに弓術を通して生き抜こうとする伊也と樋口清四郎は、常に気持ちが通じあう究極の場面に出合ううちに、お互いの気を合わせる瞬間を感じ取るようになるのです。
 そのことを、家に居候している新納左近は気づいて3人のことをそれぞれ勇気づけるのですが、この左近がいるために、伊也と樋口清四郎は様々な試練に立ち会わされるのです。彼は、実は藩主の腹違いの兄で、父親より、藩にことが起こったときには、彼を藩主に据えるようにと、時の重臣にも言いつけており、彼にも藩を助けるようにと言い渡してあるのでした。実際藩の現況は藩主は江戸にいては遊蕩によって莫大な散財をし、家来は藩主の気を引くためなら武士としてどんな恥ずかしいことでもやってのける悪なのです。それが、藩主を諌めようとする新納左近や伊也の父親有川将左衛門を亡き者にしようと災難をもたらすのです。
 最後は、藩主が伊也の仕掛けられた千射祈願を達成しようと命がけで弓を射る姿を見て自分を反省し、新納左近に藩政を任せ、有川将左衛門を次席家老としそれまでの側近を遠ざけ、新納左近を一門衆に迎える引き出物として望みの初音との結婚を許し、伊也は京都在番となった夫の樋口清四郎と京都に行くのです。三十三間堂の通し矢に挑戦するためでもあります。

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『山月庵茶会記』
2017/12/30(Sat)
 葉室麟著 『山月庵茶会記』 を読みました。

 暮れも押し詰まり、気忙しく正月の準備や片づけに忙しくし、目鼻がついたねと夫がいい、私は枕カバーなどの縫い物がもう少しで・・・とミシンと格闘していたとき、思いがけず、みどりさんから、たくさんの書籍が送られてきました。
 葉室麟の忠臣蔵を扱った『はなや散るらん』を読んでいる最中に、討ち入りの日が誕生日の従妹が亡くなり、悲しんでいたとき、やはり討ち入りの日が誕生日のみどりさんがコメントをくださいました。そのすぐあと葉室麟氏が亡くなられたとのお知らせもしてくださいました。そして、みどりさんのご主人が葉室凛の著書をたくさん読まれているとありましたが、思いもかけずそれらの本をご主人と合意の上送ってくださったのです。
 感激いたしました。それにしてもこんなにたくさん!!と思いましたが、まず大慌てで家事を片付けさっそく読ませていただき、作品に吸い込まれていきました。ご主人が、次々と読まれたというのがよく理解できます。

 ≪柏木靱負(カシワギユキエ)が九州豊後鶴ケ江の黒島藩へ16年ぶりに帰国したのは宝暦二年(1752年)正月のことだった。
靱負はかって黒島藩の勘定奉行を務め、4百石の見分だったが妻を36歳のおりに亡くした。子がなかったため、親戚の松永清三郎を養子として奥祐筆頭白根又兵衛の娘で家中でも美貌を噂されていた千佳と娶せ、家督を譲ると突然、致仕して京に上った。かって江戸留守居役を務めたおりから茶道に堪能だった靱負は、京で表千家七代如心斎に師事し、茶人としての号を弧雲とした・・・・。≫
から始まるこの時代小説は
 茶人として江戸でも有名になった靱負が16年ぶりに帰国した目的が、噂をとがめたために何も言わずに自害した妻への自責の念から、妻の真実を探るためで、そのために靱負は茶会を開いては、旧知の人から話を聞き始めます。靱負のその目的が広まると、彼がそれを知っていくことが、藩の機密が知れてはと、それを阻止するために様々なことが起こります。
 茶の湯の風景や、会話をしっとり感じながら読んでいたのですが、事件の進展に従ってそれどころではなくなって、結局、妻の藤尾が呼ばれていた茶の席で、夜幕府から藩に送り込まれている〈草〉と呼ばれる密偵が殺され、それを病死としていたことが露見されることによって、他にもいるかもしれない〈草〉に知れることで幕府が動くことが危惧されるとことの次第がわかってきます。だれがその〈草〉かもわからず、最後までどうなるのかと緊張して読みました。
 気持ちの引き締まる美しい小説でした。
 みどりさんとご主人様に改めて感謝をさせていただく読書になりました。

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『太田道灌』
2017/12/26(Tue)
 童門冬二著 『太田道灌』 を読みました。
 3か月近く裏山散歩ができない日々が続いていますが、裏山散歩で親しい水野さんが貸してくださった本です。
 この夏、同じく童門冬二著の 『小早川隆景』 を読んだときに、著者の経歴が作品に影響しているせいか大変良かったと話したとき、彼の本なら持ってるよと、童門冬二著のこの本と、『伊能忠敬』を貸してくださったのです。すぐ手にしたものの、なかなか読めないでいたのですが、やっと昨日から読みはじめ、読みだすとつい夢中になって、今朝読み終えました。

 1994年発行の本ですが、童門冬二は、「序」で、なぜ今太田道灌を書いたかということについて、今の時代が、太田道灌の生きた戦国前期の時代に似ているのでと説明しています。 またこの時代のことはどの歴史作家もよけて通る時代であり、その理由として複雑すぎることも述べてあります。道理で、私もこの時代の本を読んでいません。最後に、北条早雲が登場し、やっと私がよく読んだ時代につながるのを感じたのでした。
 それにしても、1994年と言えば今から大方20年前です。細川内閣から、羽田、村山と総理大臣が変わった年でもありますし、今では批判のもとともなっている参議院・衆議院の小選挙区比例代表並立制が施行された年でもあります。さらに、村山氏が自衛隊合憲の所信表明をした年で、広島ではアジア競技大会が開かれ、広島市の西北にある西風新都が脚光を浴びていました。

 まさに、太田道灌の時代も関東は混乱を極めます。

 私はこのたびは、一つのテーマをもって本を読んでみました。その人(この本では、太田道灌)にとって保守とは何かということです。
 足利尊氏が京都室町に幕府を開き、鎌倉に四男の基氏を関東管領におき、執事を上杉憲顕にしましたが、このコンビが関東をよく治め、何代目かにはその実績が京都を凌ようになり、いつの間にか勝手に「管領」を「公方」に「執事」を「管領」にランクアップするなどして、ついには京都の将軍職まで狙うようになり、これを諌めた上杉と足利公方との関係もまずくなることが関東の騒乱のきっかけになります。扇谷上杉の執事として仕えた太田道灌は周りの反乱を抑えるなど実績をあげていきますが、その秀でた能力ゆえに父親からも、扇谷上杉からもその本家の山内上杉からも疎まれ自分の居場所を失うなどのなかで苦しみ、自分は足利幕府の為に生きて働くのだと決意する部分があります。
 なるほど、彼にとっての心の支えとしているこの考えが、周りの人より高いところに据えているがゆえに孤独で、うまくやってゆけなかった部分もあったのかと思わされたのでした。
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『花や散るらん』
2017/12/23(Sat)
 葉室麟著 『花や散るらん』 を読みました。
 虚実混ぜ合わせての忠臣蔵にまつわる小説です。
 松の廊下での事件と、討ち入りについては子どものころから、年末、討ち入りの記念の日前後のテレビ放送などでよく知っていましたが、この小説では、もともとのことから始まり、仮説とはいえ、美しい作品なので、少し熱心に読みました。

 5代将軍綱吉の時代、低い身分の出身とされた家光の側室であった綱吉の生母桂昌院に、朝廷より前例のない従1位が授けられます。従1位を受けるための公家衆への働きかけをするその運動が、事の始まりです。
 綱吉の生母桂昌院に従1位を朝廷より授けさせ、将軍吉綱を喜ばせ、吉綱により取り入れられようとする吉良上野介と、桂昌院と対立している御台所信子率いる大奥、それに、その運動の為に、お金に困る公家衆に貸金をして、自分の意のままにしようとするやり方に反発し、朝廷を重んじる柳沢吉保との水面下の争いから小説は始まるのです。
 貸金に苦しむ貴族にお金の算段をするのが、尾形光琳です。銀主は、京都貨幣鋳造所の役人での中村内蔵助です。小説では、尾形光琳が書きかけている中村内蔵助の自画像を敵に盗まれ銀主がばれるという場面もあります。
 吉良上野介に仕え、京で金貸しをしている神尾与右衛門は武士としては屈強の腕前で、彼を亡き者にするにはと、高田馬場の決闘で名を馳せた堀部安兵衛を召し抱える浅野家しかないと、そのお鉢が回ったのです。浅野内匠頭長矩は幕府から、勅使饗応役を命じられ、柳沢保明からは吉良上野介を切ることを命じられるのです。長矩は安兵衛に神尾与右衛門を切るように命じるのですが、公家衆に無礼を働く吉良上野介のお家に討ち入り首をはねるのならいいが、それゆえ身分軽きを切るというのは卑怯のそしりを受け、大奥の揉め事に端を発したものに他家の家臣を切ればお家の恥ともなりかねないと断ります。長矩はこれ以上いえば安兵衛は腹を切りかねないとの思いからだんだん追いつめられていきます。
 松の廊下で、吉良を打ち取れなかったことは武士として恥辱です。その恥辱をはらすための討ち入りの資金も尾形光琳の助けで進められていきます。
 尾形光琳の思いは、武士として美しく散ってほしいというものです。

 この小説を読んでいる間に、私の従妹が大動脈解離で急に亡くなりました。
 彼女は赤穂浪士の討ち入りの12月14日が誕生日でした。
 18・19日と二日間、通夜と葬儀の為に残雪の田舎で過ごし、彼女の弔いをしました。
 昭和18年に生まれ、20年8月5日、入隊していた父親の面会に母親に連れて行かれて一晩過ごし翌朝、広島駅で被爆しました。
 父親と片方の目を奪われてのそれからの人生でした。
 ケロイドがあっても本当に美しいお姉さんでした。
 その花も散りました。
 そのときの広島・三次間の汽車のキップとその時着ていたワンピースが原爆資料館に預けられていて、私にとってはそれが形見となりました。


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第208回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/12/18(Mon)
 2017年、いつもの年より寒く感じる年の瀬も押し迫った、12月16日。第208回の「広島ラフカディオ・ハーンの会」が開かれました。
 参加者は17人。部屋は10号館10409視聴覚ルームです。
 いつも目いっぱい参加会員に気を配ってくださる風呂先生が、当日はご自分の治療の経過のなかで、座ると超激痛が伴うということで、付き添われた奥様も待機の上、長椅子に横たわって「みなさんに失礼で・・・・」とご自分の姿勢を気にされながら、自分の病気の経緯を話した後、熱のこもった講義をしてくださいました。
 会場の会員も、先生の会への情熱に打たれて、熱心に聴講されています。
 部屋の隅に先生の奥様がおられるだけで、会場がとても暖かくほっとする感じがして、風呂先生はいつもこんな感じのなかで勉強や仕事をされているのかなと思い、そこにこの前、松江で観た狂言『猫と月』にでてくる「福音」を感じました。何だかこんなことを感じることができるようになるために松江にまで狂言を見に行ったような気持にさえなってきます。

 いつも配布してくださるニュースは、今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』という作品が問いかけている“科学技術は果たして人を幸せにするか”について、メアリー・シェリー夫人の『フランケンシュタイン』と対比させ、ハーンが、この作品を一雄に優しい言葉で語っていたことに注目することへいざなってくださっています。
 カズオ・イシグロが、ノーベル賞を創設したダイナマイトについて、これを人類がより良く人類の発展に使っていくか、破壊に使うかということがあるなかで、みんながより良い方向に勧めていくために寄与する人への賞であり、それをいただけることに感謝するといったコメントを聞いてもいました。私は受賞の発表まで彼の存在を知りませんでしたが、彼の言葉をいろいろテレビで見聞きして、ここまで進んでしまった科学技術に対して、これからの人類が強く心すべきことを丁寧に語っておられることに感動し、ノーベル賞の意義をも深く受け止められたのでした。

 ニュース最後8ページ目では、小泉八雲著「ある保守主義者」と、昭和19年刊行の丸山学著『英国人の東亜観』のコピー資料があります。
 ここには、西欧の世界制覇という覇権主義への宗教的バックボーンに触れてあります。このバックボーンによって刻み付けられた歴史。ここでは、このバックボーンへの東西の反発や反省がこれからの東西の世界観をどう変えていくのか見据えていく視線を持たされていきそうです。
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『理勢志』 (2)
2017/12/15(Fri)
 『理勢志』(1)で書いた解読方法は、正直言うと昭和40年後半から60年前半の解読方法です。
 その解読方法しか知らなかった私は、『家道訓』の解読からそのようにし始めました。ところが、途中から、解読書がすでに出版されており、それに全面的にすがるという新しいメンバーに翻弄されてしまいました。
 『理勢志』も可部古文書会が、解読書を出版されておりました。加川さんから、その解読書をいただきました。みんなで解読するのに2年かかったと言われました。
 『理勢志』についても、ナビゲーターのついている車があるのに磁石と地図で歩いて旅をするといったふうな、解読法はできませんでした。
 しかし、途中で、一文字一文字解読書の助けも借りながら読み解いて行きました。そのうち、今指導を受けている、加川さんが中心となって読み解かれた可部古文書会が出版した解読書にも間違いではないかと思える部分がけっこうあることを確認しあいました。
それで、おこがましくも、この間違いを見つけて、私なりの正誤表を作る気分で丁寧に読み解いていきました。

 このたび出来上がった私の古文書解読書は、本当に初歩の人向けの解読書となり、自分で満足しています。
 私の解読書の正誤表を作る後継者が現れるかもしれません。
 私の持っている図書のなかで一番の秘蔵図書となりました。

 私の家には私が作った『理勢志』とその解読書があり、松江城には『伊勢物語』がある。そう思って今夜も眠りにつきます。
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『理勢志』 (1)
2017/12/15(Fri)
 『理勢志』の解読を一応終了しました。
 『理勢志』は、芸備藩を1601年に福島正則が拝領し、その後幕府に報告をせず勝手に城の修復を行ったなどのために召し上げられ、後1619年に浅野長晟が拝領したりといった、広島藩拝領地の「安芸・備後」についてとある役人が書いたものを、後任の役人がこれは参考になると書き写し、『理勢志』となづけた冊子です。
 文末に「嘉永七秊甲寅春写之」とあり、1854年春に書き写したということです。1854年は安政と思われる方もあろうかと思いますが、11月までは嘉永でした。
 懐かしかったのは、つけられた裏表紙に(平田蔵書・可部)という蔵書印が押されていたことです。
 平田さんは、私が20代の頃、古文書教室の片隅で古文書解読の様子を眺めさせていただいていた時分、非常な熱心さで一文字一文字、ああでもないこうでもないと解読されていた方です。
 可部公民館の古文書クラブでは、当時は、解読する古文書を、下野会長がその日のものより少し多めに当時の青焼きで、全員に配布してくださいました。
 加川さんは、後年今風のコピーができるようになって、新たに下野さんのものをコピーしなおされた平田さんの冊子をコピーさせていただかれたのだと思われます。
 近世の国の組織や、それが地方に及ぼす影響や、大きな、事件・流行り病・天災・作物の豊凶・文化・文芸など研究されておられる大学の先生と、可部の方言や、産業、運搬経路や手段など、年寄りから聞いたり見せられたりしたことのある会員が、共同で一文字一文字解読されていく様子は、この50歳代以上の会員の方々がおられなくなったら、どうなることかと思ったものでした。会員ではあとは、30代後半の方が一人と20代の私一人でしたので。

 ところで、改めて、『理勢志』の解読を一応終了しました。ということの内容は、筆文字の『理勢志』の一文字一文字のもとの文字を原稿用紙に写し取るということです。たとえば、「候」という文字は、それに近いくずしから、ただの「、」だけのことまでがあります。
旧字、異体文字、俗字などの崩しもあり、文脈から、検討をつけて崩し文字の辞典で引いて、同じ姿の文字が「あっ!これだ」と崩す前の元の字を原稿用紙に書きつけるのです。
 たとえば、「弥」のくずしで、「いよいよ」と読ませるところがあります。何となく人名に出てきそうなこの文字が文頭にあったりすると、想像もできずとばします。ふたたび似た文字が出てきたとき、もしかして「弥」ではないかと検討をつけ、辞書を引いて見ますと「いよいよ」という読みがあることがわかり、それなら文頭にあってもと、納得できることがあるのです。こんな作業は、病気でもしなければできはしませんし、病気をしたのは、これをがんばりすぎたせいとも思えたりもするのですが・・・。
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病院通いの日々
2017/12/10(Sun)
 
病院通いが始まったのは、11月14日に、中野内科に行った時からです。
体がしんどく、咳と痰がよく出た上に、声がかすれて出にくくなったからです。
 先生は「14年ぶりですね。どうしました。」と言われ、症状を話すと、「もっと早く来ないと肺炎になったりしてどうにもならなくなるよ。」と、点滴をされ、4日分の薬をいただいて帰りました。
 いままで、いただいた薬がなくなるまで、病気が治らなかったことがあったかしらね。と、18日に再度中野内科に出かけました。「先生、なかなか治りませんね。」と不満げにいうと「もう歳だからね、今日も点滴。」と、また、薬も4日分いただいて帰りました。
 21日に中野内科には夫が出かけ、4日分の薬をいただいてきてくれました。
 体はずいぶん元気になりました。
 以後、たまった家事で毎日大忙しです。
 そのうち、22日、交通安全協会の定例会、24日交通安全協会亀山・亀山南の定例会に忘年会、26日、集会所の運営副委員長のため役員会、29日、交通安全協会の45kの餅つき手伝い、12月1日、年末の交通安全月間の道路での啓蒙活動、12月3日、安佐北区民文化センターでの「安全安心なまちづくり安佐北区民大会」の受付とステージ出演?、この日の集会所の運営副委員長のための総会には夫に行ってもらい、受付などしてもらいました。
 たびごと、来ていく洋服が違って、忘れてはいけないと整えるのが大変でした。
 12月2日には共立歯科に行きました。
 いかにも声がひどいのが治らないので、4日に野田耳鼻咽喉科に行きました。
 「こんなにひどくなるまで病院に来ないなんて、治るかどうか・・・」とひどく叱られました。「できるだけ声を出さないように」と、申し渡され、7日にも診察を受け薬をいただいて帰りました。
 明日、月曜日にもいく予定です。

 寝ている間、ウォルター・ラッセル・ミード著、寺下滝郎訳『神と黄金』をどこということなしに読みつづけました。読みづらく2,3度読んだところもありました。
 テレビで見る、ヨーロッパの見方、アメリカ、イギリスの見方が変わってきました。

 古文書も読みました。読めるようになること。内容がわかるようになること。
 わかっていないで読むことは、本当に難しいことです。
 ずっと昔、私たちの若かった頃、三篠公民館の運営委員長をされていたという金岡照氏が作られた、『広島藩における近世用語の概説』を、コピーして読み漁っています。
 夫も親しくしていた、西川公彬先生が三篠公民館の館長だったころ一緒に飲んだこともある人だと言って懐かしんでいます。
 この冊子を作るきっかけになった、各藩で、用語の用い方が違うということに着目したのが、「所払」という用語であることが私と一緒だったこともあり、そのことから、これだけの言葉について調べられたことに敬意を表しています。
 私は、これについて調べるために広島文教女子大学の図書館にまで出かけて調べました。ゆくゆく近世文学が専門で2年くらい前「武一騒動」について話し合った横山先生にもいろいろ教えを乞うことができたらと思っていた矢先、先生は10月10日に亡くなられたと聞いてがっくりきたところでもありました。
 応援してくれている夫の声援にもこたえるため、まだまだ病院通いは続くと思いますが、あきらめず、元気になるまで、頑張ります。
 
 
 
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