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第209回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/01/22(Mon)
ハーンの会に参加し始めて、はじめて風呂先生のおられない会です。
 先生が出てこられるようになるまで、おられなくてもつづけてやっていくそうです。と伝えたとき、すごく明るく喜ばれたので、元気を出して参加します。
 少し早めにいくと、K先生が明かりをつけたり暖房を入れたりして準備してくださっていました。

 参加者は10人でした。少ないと聞いて、私の難聴だけの都合で、机の並べ方を変えさせていただきました。
 この度の会ではこれで差支えなくてほっといたしました。
 K先生が第一声を上げてくださり、会が始まりました。
 風呂先生が元気になられるまでの期間、K先生が代行してくださることになりました。
 
 まず、風呂先生の病気の様子の報告がありました。
  そして、1回に一人が何かの発表をすることが決まりました。
 自発的に、挙手があり、1月から、6月までの発表者が決まりました。先生のおられない間、お互いを高めあおうという会員の思いに思わず込みあげるものがありました。
 私は、到底発表するほどのことはできません。それで、みなさんに教えをいただくために、わからないところを発表してもいいですか?と訊ねるとそれでもいいということになりましたので、何か調べていて、わからないところが質問できるので安心いたしました。
 このたびは、U先生の、「小泉八雲ゆかりの地を巡る神戸の旅」と題しての発表がありました。1月4日~6日に行かれての詳しい発表でした。
 準備してくださった、8枚の資料には、ハーンが1年9か月滞在したあいだの居住跡3か所のうち2か所、そして旧居留地でハーンがよく訪ねたところ、ハーンが就職していて今はすでになくなっている、新・旧の神戸クロニクル社跡地を訪ねた写真も掲載されています。
 大谷正信を伴って訪ねたという兵庫大仏をはじめ、日本初の英文碑のジョセフ・ヒコ英文碑、新しくできた居留地にかかわる各藩への通行路の変更通達の不徹底と、政権譲渡の不備が露見する瀧善三郎正信慰霊碑、能福寺、平清盛廟、などの資料もあります。
 このような、歴史を物語るものの中にも、ハーンが滞在していたころの神戸の空気を感じとることができるものもあり、行ってみなければわからないことを現地でも調べ、、充分に味わって、感動を伝えてくださいました。
 ハーンの神戸滞在について事前によく調べて、効率よく、尋ねられていての発表に、私たちも神戸でのハーンに出合うことができ、充実した時間を過ごすことができました

 
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『草雲雀』
2018/01/19(Fri)
 葉室麟著 『草雲雀』 株式会社実業之日本社 2015年発行 を読みました。
 葉室麟の作品の中に『草雲雀』という作品があることがわかってから、町内の大きな本屋2店舗に行って探してみたのですがありません。
 小泉八雲の作品に「草雲雀」という作品があります。一昨夜から小泉八雲の作品を読み返していると、「草雲雀」はタイトルの後に、「一寸の虫にも五分の魂」という諺が記されてあることを確認しているうち、やはり、どうしても読んでみたいと思い立ち、病院の帰りに図書館に行き単行本のところで探しましたがありません。ところが、ハード本のところに行ってみると葉室凛の作品が意外とたくさんあり、この『草雲雀』もありました。そして、2015年10月の発行なのに、たくさんの読者に親しまれたという手触りです。
 クサヒバリという昆虫を私は小泉八雲の作品を通して初めて知りました。 その頃、このあたりの秋の草原を夕刻訪ね歩いたのはもしかして私だけではなかったのかもしれないと思えてきます。

 葉室凛の作品には、タイトルの言葉が一瞬出るくらいのものが多いようですが、これでは何か所か出てきます。
 この『草雲雀』は、武家に生まれた28歳の主人公が、剣術の腕は立つものの四男であるために、父親が亡くなってからは、何をするにも、長兄の許可が必要な、部屋住みの身の上であることを、籠に入れられて飼われている草雲雀に象徴させているのです。
 しかるところへの婿養子の話もないまま、将来、甥の世話になって厄介者扱いになるのかと暗い気持ちになっています。そんな気持ちを察知して、優しくしてくれる女中ときもちが通じ合い、兄に嫁にしたいというのですが、百姓娘の者を正妻には出来ぬから、今まで通り女中として働かせ、妾にし、子はなしてはならぬということで認められます。しかし、本人は正妻とのつもりでいとおしむ生活が始まります。
 そんな夫の気持ちを慰めるために竹かごに入った草雲雀を彼のそばにおいてくれます。しかし、涼やかな音色を楽しんだ後、彼女は彼の希望で、草雲雀を広い草原に放してやるのでした。、
 同じ思いをしている五男の友達が、じつは家老と妾の間に生まれた子供で、今に家に里子に出されていたということことがわかり、もと家老の、長男が亡くなったために父親に引き取られることになったのでした。友達に彼の護衛を頼まれます。 親族や、派閥にも敵が多い中で、もし家老になれたら、お前を藩の指南役として百石取りにしてやる、そうすれば分家し、女中のみつを正妻にして、子どもをなすことができると約され、家老への苦難と、命がけの護衛が始まります。
 そして、めでたく念願成就となる話でした。
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『陽炎の門』
2018/01/17(Wed)
 葉室麟著 『陽炎の門』 講談社文庫、2016年発刊を読みました。
 『山月庵茶会記』にも登場した架空の6万石を有する黒島藩におこる出来事です。
 桐谷主水は家禄が50石の家に生まれますが、両親を早くに失い天涯孤独の見でありながら、苦難を乗り越え37歳の若さで執政に推挙されましたが、最初の登城の日から、冷たい目で見られ、あてつけに嫌味を言われ、自分はみんなから嫌われていることがわかります。
 彼は、以前、藩主への落書をかいて切腹を命じられた友人でライバルでもある芳村綱四朗の介錯を仰せつかったことがありました。その落書の筆跡について自分は綱四朗のものだと思い、そのことを認めて綱四朗が切腹に追い込まれたことでいつも苦しみ負い目を感じて生きてきました。そして、罪を犯して切腹させられた綱四朗の娘由布の養父作兵衛から由布を嫁にと頼まれ妻にしていました。
 執務についていたとき、江戸にいた綱四朗の息子喬之介が父の筆跡ではないという証拠をもって父の敵討ちを藩に願い出たことについて評定があり、全一致で証拠を見てと、認めることになります。
 その証拠について調べていた主水は、だんだんに、綱四朗が書いたという落書からして藩主の罠であったことがわかってきます。藩主がもともと人をいたぶって楽しむ悪癖を持っていたことに気づき、藩内でそれを暴く場面を設定し、藩主の言いなりになっていた執政者たちの目を覚まさせ藩主を押込めにし隠居させようとします。しかし、闇番衆の与十郎が藩主をその場で切り捨ててしまいます。
 三か月後黒島家の親戚筋の河野家4万石三男を藩主として迎え、もと藩主の死は幕府に届けられ、桐谷主水はまた一段出世して次席家老の補佐役になるという話です。

 みどりさんから送っていただいた8冊の本のこれが最後になりました。すべての本が、江戸時代のものでした。
 偶然のことですが、昨年、4月の終わりころから、古文書の解読を近所の加川さんに、火・木・土と、週3回もお宅にお邪魔して学んでおりました。
私たちが古文書というのは、大体江戸時代を中心としたものです。そのなかの、貝原益軒の「家道訓」と、芸備藩の役人が書き記した「理勢志」でした。
 「理勢志」は、ある役人が書きつけていたものを、後任の人だと思える人が、これは役立つと思って「理勢志」と名付けて書き写して、今に伝わったものです。内容は、税の取り立ての考え方と施行法、が「租・庸・調」ごとに書かれてあります。また産物、米相場、座頭などについて、そして、八つの郡の地形や気候、交通、納税の成績、人々の気質、国境の争い事やそれまでの一揆などについて、さらに特殊な人事異動、役職の仕事内容の変更などが記録してあります。
 ちょうど暮れから正月休みにかけて、これら江戸時代を背景とする藩政を担う人たちや、文芸を高めた人たちを題材にした物語を描いた本をみどりさんに8冊も送っていただき読むことができました。
江戸時代を、江戸時代に書いた文章と、ミステリー的なものとはいえ時代考証がしっかりなされて現代に書いた文章とで、より具体的に深めることができたように思えます。
 12月23日66歳で著者の葉室麟氏が亡くなられました。
 御冥福を祈りします。

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『潮騒はるか』
2018/01/16(Tue)
 葉室麟著 『潮騒はるか』 を読みました。
 これも、江戸時代ですが、幕末です。すこし、勝海舟や西郷隆盛や月照も登場します。
各藩が、幕府と朝廷との板挟みになって苦しむ時代です。
 そして舞台は長崎です。
 筑前博多で鍼灸医をしていた菜摘(なつみ)が、弟の渡辺誠之助と博多の眼科医稲葉照庵の娘、千沙を伴い、長崎で蘭学を学んでいる夫の佐久良亮のもとにやって来ます。
 しかし、夫の亮は皆が一緒に住むために広い家に移ってくれますが、勉強が忙しく生活を見てくれることができません。そのかわり、長崎奉行所を預かる岡部駿河守長常の妻で病がちな、香乃の手当と、奉行所の牢に収監されている女牢から病人が出たときは診察するという仕事を世話してくれます。
 シーボルトの娘のいねが、菜摘の鍼医療に興味を抱き、香乃の手当を見学に来て交友を結びます。
 あるとき、もといた福岡藩から横目付だという田代甚五郎が訪ねてきて、一緒に住み込みます。彼は、加倉啓という夫を毒殺して、逃げてきている千沙の姉の佐奈が長崎に来ているので、彼女と不義密通の罪で追われている平野次郎が、彼女のもとに来るはずと、彼を追ってきたのでした。
その佐奈らしき女人に奉行所の牢で、菜摘は巡り合います。佐奈は路銀に困って春をひさごうとして、途中で嫌になったらしく相手の旅の商人を懐剣で切り付け巾着を奪って逃げた罪で捕えられていました。
 菜摘は女医のいねに頼んで、この女牢の病状を診察してもらいます。佐奈であることは間違いないことがわかりますが、佐奈は妊娠しており、さらに遠く長崎にくるまでの疲労が重なり、このままでは命が危ない状態です。なんとか牢から出す方法をと、関係者で相談をし、こんど牢で死者が出たら腑分けをしようということを理由に、彼女を牢から出します。
 体調を見ながら、佐奈が家を出奔した理由、本当に佐奈は夫を毒殺したのか、平野次郎と不義密通をしたのかを問いただします。それと、横目付がわかっていたことと、こっそり福岡に帰って調べたこととなどを考え合わせ、和歌などを教える横山故山という人物が、佐奈の夫を殺し、佐奈を眠らせて襲い、佐奈は夫の子だと言い通しますが、もしかしたらその時できた子ではないかということになります。
 平野次郎の疑いも晴れ、実は佐奈は子どもの頃、両親と載っていた船が遭難し、両親は助かったものの、自分は遠くに流されたとき救ってくれたのがこの平野次郎だったことを打ち明け、その時の約束通り結婚をするという話でした。
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『秋霜』
2018/01/14(Sun)
 葉室麟著 『秋霜』 を読みました。
 これも、江戸時代を背景の、純然たる時代小説と言えます。

 豊後羽根、羽根藩の城下の外れに、欅屋敷があります。
 その欅屋敷では、楓が和歌や生け花を教えるかたわらおりうとともに、身寄りのない子どもたちを預かり育てて、平穏にくらしています。そして、千々岩臥雲という羽根藩きっての学者が学塾を開いて楓を助けていましたが、大酒飲みで他のことは何もしません。また、修験者の玄鬼坊も時折屋敷に顔をだしてくれます。
 そこへ、腰に木刀を差しているだけの武士風の若者、草薙小平太が、太吉からの添え状をもって欅屋敷を訪ねてきます。小平太は屋敷で下男のような仕事を快く請け合い力仕事は何でもこなします。じつは小平太は、江戸幕府から巡見使羽根藩に向かって来ることになったために、この巡見使が来る前に、巡検使が疑念を抱いている事情に関係ある人の口止めをする使命を帯びて欅屋敷に送り込まれたのでした。ところが、子どもたちもなついて、36歳の美しい楓も打ち解けてくれ、小平太は楓のためには何でもしようという気持ちになっていくのでした。

 もともと楓は、今は亡き鬼隼人ともいわれた多門隼人に離縁された人でした。
 生前の隼人は藩の立て直しの為に苛斂誅求を行い、さらに難工事のため誰も成し得なかった黒菱沼の干拓工事に着手し鬼隼人と呼ばれるほど領民たちの怨嗟の的となっていました。しかし、3年前領内で起きた百姓一揆に際し、単身一揆勢のなかに乗り込んで百姓たちを煽っていた者を切り捨て、さらに秋物成の銀納を廃止することを約して一揆を鎮めました。藩主は隼人の独断専行を咎めて、閉門させるとともに討手を差し向け横死させます。一揆を鎮めた隼人を討ったことを咎められ、藩主や筆頭家老も隠居します。しかし、幕府の疑念は晴れず、藩にとっては、その関連の人たちが欅屋敷にいることが目障りで、亡き者にしようとしているのでした。

 いよいよ、巡検使が近づいてきます。臥雲は身を犠牲にして、玄鬼坊やその仲間にも手伝ってもらって、子どもをはじめ、楓などを逃がすことにしました。
 国境を超える手前で追いつかれ、小平太が後に残って闘い、皆が渡ったのを見届けてから、国境のつり橋を切って自分は倒れてしまいます。
 獄舎に入れられますが、助けられ、楓と一緒になることを二人で決意します。

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『おもかげ橋』
2018/01/14(Sun)
 葉室麟著 『おもかげ橋』 を読みました。
 これは純然たる時代小説と言えます。
 歴史小説は大好きでよく読んでいましたが、時代小説は久しぶりです。
 時代は江戸時代です。

 ≪剣は一流だが、道場は閑古鳥の鳴く弥一。武士の身分を捨て、商家に婿入りした喜平次。十六年前に故郷を追われ、江戸で暮らす二人の元に、初恋の女が逃れてくる。だが、変わらぬ美しさの裏には危うい事情があった。
一方、国許では、化け物と恐れられた男が返り咲き、藩を二分する政争が起きていた。再開は宿命か策略か?儘ならぬ人生を描く傑作時代小説。≫

 読み終わって、記録をする間もなく、時間をつぶさなくてはいけない事情に任せて、次々と本を読み漁っていたら、本の内容がわからなくなってきました。
 文庫のブックカバーの裏のこの文章を読んで、ああそうだったと思い出したところです。
もともと、この化け物、藩主の庶流で藩の要職についていた所業の悪い左京亮が、跡継ぎ問題に異を唱えて江戸に訴え出るというので、これを阻止するため上司の命で国境の峠で、二人して彼を襲い阻止したのです。なのに、彼らは国を追われてしまうのです。
 ところが、この化け物左京亮が要職に返り咲いたことにより、再び藩に政争が起こり、彼らは、いろいろな人からの謀に巻き込まれていきます。

 その謀の一つが、二人の初恋の女、喜平次が萩乃をかくまい、弥一が護衛をするということでした。
初恋の女とは、彼らに命を下した怨み多き上司の父親猪口民部でした。
 藩内に隠して左京亮が、老中安藤壱岐守信利江戸に出てきます。しかし本来峠で襲った二人を成敗することが目的でした。左京亮はさらに上手で、手ずから成敗しなければ気のすまない左京亮をおびき寄せるために、娘を二人に世話させたのでした。その仲介役をした軍兵衛は、一方では左京亮に仕えて、彼の助っ人役を演じるふりをして、藩の命運を担って猪口を助けようと高田の馬場にての設定をし、二人に左京亮を討たせたのでした。
 弥一はそのあと、出稽古に出ていた、笠井守昌から見合いさせられ、おおらかな見合い相手の弥生に気に入られ、押しかけられて結婚し、幸せを感じるのでした。

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「一蝶幻影」
2018/01/09(Tue)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの五作目です。
 『乾山晩秋』のなかの作品群は、短い作品の中に、多くの人名が語られていて集中力を欠くと、訳が分からなくなります。
 途中で、「あとがき」や「解説」を読んで、この話が、英一蝶(はなぶさいちちょう)という人の話であることが分かります。
 ついでに、ウィキペディアでこの人物を調べてみると、1652年~1724年を生きた人で、画家、芸人とあります。

 人物の大方もわかって、なるほど、と思いながら読み進むうち、途中で、夫が町医者に診察してもらって、安佐市民行院へ紹介され、そのまま入院ということになり、ドタバタしてしまい、うつろな気分で少し読んでは思いついた家事をやりながら、今日夕刻頃から興に乗って読み終わりました。

 時代は、5代将軍綱吉の時代で、やはりここでも、綱吉の生母桂昌院と、正室の信子との大奥の争いに巻き込まれることから話が始まります。
 このころは、中橋狩野家の安信のところを破門になり、吉原遊郭で客として楽しみながら、一方で幇間としても活動して、名を朝湖と名乗っていました。
 吉原で公家から嫁いだ正室御台所の信子を味方する公家方の右衛門佐という奥女中が、武家の話が聞きたいと言われ諜者の役割をするようになります。
 気がめいると、芭蕉案を訪ねる俳人でもあります。其角・その門の人とも親しくしていました。ところが、朝湖の誘われるままに遊女を身請けし、些細なことから町人を殺す事件を起こした六角越前守の取り巻きになっていたため奉行所にとがめられ、家宣が6代将軍になった大赦で許されるまで、11年間、三宅島に島流しになります。大変な生活で、生き延びれないと思っていましたが、偶然やはり島流しにあっていた右衛門佐がと自分のところへ橋渡しのための使いをさせていた日珪に出合います。日珪はその頃弾圧されていた法華経の信者で、島流しにあったとき、他の信者がついてきて世話をしていることから、いるものがあったら送ってもらってやると言ってもらい、やたら絵が書きたくなっていたので絵筆と絵具を頼みます。書いた絵を江戸で売って生活の助けにもします。
 このとき、朝湖は、なぜ芭蕉が苦しい旅を続けていたかがわかります。俳句を作ることが芭蕉にとって生きることだったと。


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「雪信花匂(ゆきのぶはなにおい)」
2018/01/07(Sun)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四作目です。
 狩野派の絵師雪信の話です。
 狩野永徳の二男、孝信の子、狩野探幽が、後継者のなかで一番絵の才能を認め子供の頃から可愛がっていた女弟子です。
 雪信は、探幽の姪の娘です。
 1675年、俳諧師の井原西鶴が、平山藤五と名乗っていたころ、俳人仲間などとの、京の遊郭の宴席で見かけた、花魁の身につけている袷の、手書きでの秋野の模様に目をとめました。
 その絵を書いたのが、ちょうど離れた席にいる清原雪信だと花魁に聞かされます。
 天下一の絵師、狩野探幽の姪の娘で、しかも近頃評判の女絵師がどうして、「江戸」ではなくて、「京」に?
その謎が語られるのがこの作品の内容なのです。その話が終わると、
≪「なるほど、秋野にはそんな意味があるんや」…西鶴は大仰に言った。袷に手書きした女絵師の才能に目を開かれる思いだった。≫とあります。
 この7年後、西鶴が浮世草子の筆名をあげた「好色一代男」に、
≪白繻子の袷に狩野の雪信に秋の野を書かせ、これによせて本歌、公家8衆の銘々書き、世間の懸物にも稀なり、これを心もなく着る事、いかに遊女なればとてもつたなし、とは申しながら、京なればこそ、かほるなればこそ思い切ったる風俗と、ずいぶん物におどろかぬ人も見て来ての一つ咄しぞかし。≫と書いた1682年、雪信は39歳でこの世を去ります。

 私は、この「好色一代男」の引用をここに引いていて、この80ページに及ぶ雪信の話が「好色一代男」のこの数行に凝縮されてあらわされていることに、胸が打ち震える思いがしてきました。

 葉室麟の作風に魅かれて、作品群を読ませていただいているのですが、もしかして井原西鶴を読んで育った人たちが、明治28年ころ、女流作家の樋口一葉の作品を目にして、漱石にしても森鴎外などにしても今の私のように胸が打ち震えたのではないかと思わされています。

 狩野派は、探幽の鍛冶橋狩野家、その次弟尚信の木挽町狩野家、末弟安信の惣領家である中橋狩野家、さらには探幽の養子益信の駿河台狩野家の四家に分かれており、皆それぞれ幕府や大名、神社仏閣などに名を売り、仕事を請け合うために争っています。その争いに巻き込まれて、とくに、評判のいい雪信が嫉妬などの為に噂をたてられたり、兄の品行の悪さから京を出ていかざるをえなくなったのでした。しかし、江戸を出ていくときに、探幽のとこに詫びを入れに行くと、探幽は、評判を得るために書いたものは自分の書きたい絵ではなかった。自分が書きたい絵が描けないために、弟たちに厳しくしすぎ反発を買ったことがこんな結果になってすまなかったと自分のせいにするのでした。
 雪信と一緒に探幽の下で絵を勉強するうち、恋仲から一緒になった守清は、探幽から受け取った25両の餞別にそえられた、探幽の手蹟の短冊の歌を
―秋野には今こそ行かめもののふの男女の花匂見に
と読んで聞かせるのでした。

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「等伯慕影」
2018/01/06(Sat)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 長谷川等伯の話です。
 等伯の絵についてのテレビ番組を見てまだ日が浅く、ワクワクしての読書となりました。

 小説では、長谷川等伯は、「永徳翔天」で、狩野永徳が豊臣秀吉に用いられるようになってから、登場してきたので、そのつづきのような気持ちで読め、さらに、絵の特徴が両者と、さらに時代はもっと下がりますが「乾山晩秋」の尾形光琳とも比較でき、その違いを知ることで、それらの特徴をより鮮明に感じることができました。

 長谷川等伯が帯刀信春と名乗っていたころ、竹田信玄の肖像を描いて、褒美に多くの碁石金を絵を頂戴します。
 織田に戦いを挑み続けられている朝倉家から密使として、前波伝九郎・長新左衛門らとともに反織田同盟への武田の参加を求めて雪深の中を越前から甲斐までやってきて描いたのです。
 ≪「義景殿は、父上の肖像に朝夕、香を炷き、武運長久を祈願いたしたいとのことでございます」≫とのべ、ここで書き、それは献上して、帰ってからも書くということでした。しかし、信春だけが飛びぬけてもらったので、他のものが帰る途中で取り上げて信春は遭難ことにしようとしたことから、一人で逃げます。逃げる途中も狙われて散々な思いをして妻と息子の松家に帰ります。それでも狙われるので京に家族で逃げます。

 京に出て16・7年目、長谷川等伯と名乗るようになって、大徳寺三玄院の襖に無断で絵をかいて、なかなかの出来栄えに評判がよくそのことを聞きつけた利休に見初められ、大徳寺山門の彩色を頼んだのです。それも気に入って、新内裏の対屋の造営に際して、その彩色をすでに狩野永徳に決まっているのに、前田玄以に推挙したのでした。ここの部分が「永徳翔天」の内容と重なる部分です。

 結局、狩野の方が人脈が強く、仕事は狩野に取られてしまいます。しかし、直後狩野永徳は亡くなり、以後は等伯に仕事が来るようになっていきました。
 自分よりは才能があると認めた長男の久蔵が若死にして、無念の気持ちは深かったのですが、画業はさかえ、豊臣が徳川に変わり、等伯71歳で江戸幕府に招かれて江戸に下って二日目で亡くなりました。

 そのあと一年半後二男の宗宅も亡くなり、宗也、左近が次ぐことになるが江戸時代、狩野派ほど振るわなかったのです。

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「永徳翔天」
2018/01/05(Fri)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 狩野永徳の話です。

 1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛15代して将軍に据え、それまでの京での権力者、三好・松永に代わって、信長が猛威をふるい始め、狩野源四朗がそれまで関係の深かった五摂家で先の関白だった近衛前久の屋敷を焼き払うといったところから話が始まります。
 狩野永徳は、そのころ狩野源四朗と名乗っており、26歳です。
 幕府御用絵師の父親の松栄のもとで、水墨画の技法に大和絵を取り入れた技法で、工房は、扇面工房が主流だったようです。

 織田信長の乱暴な屋敷の焼き払いの現場で、遊郭の遊女で源四朗の馴染みの夕霧が、非難めいたことを大声で言ってしまった源四朗の袖を引いて遊郭に連れていき、そこで待っていた近衛前久に会います。前久は石山本願寺の顕如を頼って大阪に行くと告げ、朝廷に復帰するのはそれから7年後でした。そのとき、前久に以前納めた、屏風絵や、襖絵をまとめて運び出した小姓がいて、それが織田家中の美しい万見仙千代だとほかの遊女から聞かされます。
 その現場では、狩野家の敵対の絵師である朝廷絵所預の土佐光元にも出合いますが彼は織田信長の家臣羽柴秀吉に仕える武士になっていました。土佐家は、泉州上神谷に千石の知行を持っていたため織田信長に安堵してもらうためでもありました。そうなると、幕府からの絵の注文も来なくなる不安もありました。
 父親の松栄は、源四朗に家督を譲って、豊後の大友宗麟を頼って九州に下ります。1570年に戻ってきて、翌年、今度は源四朗が大友氏の居城に行きます。
 1573年4月には信長は将軍足利義昭を京都から追放し、万見仙千代の推薦があってのことか、12月にはその信長に源四朗は拝謁します。、源四朗は、10歳の時、絵師としては名高かった祖父の元信に連れられて13代将軍義輝に引き合わせられたこともあり度胸は据わっていました。信長からは「これからはわしのために励め」との言葉をもらえます。
 そして、安土城を飾る絵をすべて描くことになります。絵への注文は空を飛翔するような絵ということです。安土城が出来上がったときの≪壁一面の金箔、魚子の飾り金具による唐草模様、組み入れ合天井が豪華を極め、高麗べり、繧繝べりの備後畳が青々と続くことが家臣たちの目を驚かせた≫のなか、備後畳では、先ごろ読み終えた『理勢志』に語られる備後畳、やはり日本一だったのかと思わされます。
 信長亡き後、ひきつづき秀吉に用いられます。また諸大名からの依頼も多く、疲労から1590年、このところ、千利休に気に入られてのし上がってきた長谷川等伯にとってかわられることを憂えながら、48歳で亡くなります。
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『乾山晩秋』
2018/01/03(Wed)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 を読みました。
 2008年12月初版発行、2014年5月9版発行の文庫本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本『山月庵茶会記』・『さわらびの譜』・『この君なくば』に続く読書です。

 この作品は葉室麟の最初の作品で、歴史文学賞という賞を受賞したという作品です。 そして、彼の作品では初めて出会う短編です。この文庫本にはその他4編の短編が掲載されているのです。
 また、この作品は、わたしが葉室麟の作品に初めてであった『花や散るらん』の印象が深かったために、その作品の扇の要に思える部分がある作品でした。
 『花や散るらん』は、忠臣蔵を扱った作品です。
 赤穂浪士の討ち入りが、その後忠義の士として美しく忠臣蔵となって語られるほどにやり遂げられるには、誰が演出し、どれだけの経費がかかったのかというところをとらえて書かれているともいえます。ほかでもない尾形光琳が演出し、彼の支援者だった銀座役人中村内蔵助から資金が出たとのことが、四十七士を花と仕立てたのです。

 正徳6年(1716)6月2日に尾形光琳が享年59歳亡くなり、そのとき深省54歳から話は始まります。
 葬儀から数日後、乾山は親しい右京太夫と甚伍と3人でお茶会をし、その時、甚伍が少し前、商用で江戸に行ったときに聞いた噂話をします。14年前の赤穂浪士の討ち入りに絡んだ話として、どういったいきさつと人脈によって討ち入りのためのお金が用立てられ、光琳好みの装束で、討ち入りを果たすことができたのかが、延々と語られるのです。
 延々と語られたこの部分が、省略されて、『花や散るらん』が、忠臣蔵を語るのです。

 乾山が、≪「どうやら、わしは、この年になって兄さんのまねがしたくなってきた。兄さんは狩野探幽に勝とうと思うて、江戸にいかはったんや、と思う。そして、江戸から帰りはった兄さんは見事な紅白梅図を描かはった。わしにも、まだできることがあるかもしれん」≫と江戸に出たのは69歳でした。
 乾山は江戸で寛保3年(1743)81歳のとき光琳と同じ6月2日に亡くなりました。乾山の焼き物をみて、もいちどこの作品を読めたらと思います。
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『この君なくば』
2018/01/02(Tue)
 葉室麟著 『この君なくば』 を読みました。
 2015年10月初版発行の文庫本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本『山月庵茶会記』・『さわらびの譜』に続きます。
 先の2冊は、茶道、弓道という道・術という極める境地に心を据えて学ぶことのある作品でした。しかし、この本は、幕末の動乱期を描いた作品です。
 この時期の、多くの作品は、その動乱を起こした人、それを阻止しようとした人など、立場を持った人を中心としていて、維新の道筋が見えていく作品だったのですが、この作品はそのような人たちに情報も予知すらなく揺り動かされていった人たちの不安を描いていると言えます。
 読み終わった後、ほんとうに「動乱期」だったのだなーと感じさせる作品でした。昨日お互い同志だと思っていた人が、今日はその同志を切る。筋を通して生きていると思ってもいつ咎人にされるかわからない。訳の分からな理由がそうさせる。これから先の見通しがきかないどころか今がわからないといった不安の中に脱藩したり、藩の立ち位置もけっせられぬまま戦場に駆り出されたりします。

 そのような時期、桧垣鉄斎の此君堂(しくんどう)で国学と和歌を学んだ楠瀬譲(くすせゆずる)と、鉄斎の娘栞(しおり)の長くかかる結婚までとそれからの苦難の物語です。
 二人の関係を
 ≪此君堂の名は、『晋書』王徽之伝(おうきしでん)にある、竹を愛でた言葉の、
―何ぞ一日も此の君無かるべけんや
からとったもので、〈此君〉とは竹の異称だ。≫
 とあり、「この君なくば」という言葉で象徴させます。お互いがこれくらいの思いがあってこの時代を冷静に生き抜く姿を描いています。
 この読書記録を書きかけて、あれこれ用事ができ中断していました。こんなとき、家事をしながらふと作品について気づくことがあります。
 じつは、薩長土肥は江戸時代、密貿易で苦しい財政をやりくりしていたのです。その藩の富豪の商家は大名貸をするほどの者もいました。そんななか、幕府の開国によって、藩の公易による既得権を奪われることへの内向きの危惧があっての攘夷を主張していた人もいたのではないかと思ったことです。
 その、藩の違いによらず交易にかかわりのあった人となかった人との間にも情勢を見る目に大きな違いがあったことを思わされました。
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