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『信長・秀吉・家康の研究』 上・下
2018/02/25(Sun)
 童門冬二著 『信長・秀吉・家康の研究』 上・下 を読みました。
 読書記録を書くのと書かない本とがあります。いろいろ考えさせられる本であったにもかかわらず、この本は書かないことにしていました。それは、この本が大活字文庫ということで、約21㎝×14㎝強の本で1ページ8行・列21文字のずいぶん大きな活字の本で、老眼メガネなしで読めるありがたい本なのですが、読み終わってパラパラ見るには一つの事柄が何ページにも及び、作品を俯瞰的に見れないという難しさがあることがわかり、それでなくてもいつものまとまらない記録がさらにまとめにくい大変な本だということが分かったからです。
 ハーンの会に出席したり、ほかの本を読みかけたり、オリンピックを見るために、久しぶりで編み物をしたりしていて、この本をもとに考えさせられることもあったりして、やはり記録しようと思い立ちました。

 オリンピックで「そだねー」というカーリング女子の言葉が話題を呼んでいます。この記録を描こうと思ったきっかけはこの言葉です。
 「人と組織を伸ばす会議のあり方」として、黒田如水の話があったのを思い出したのです。如水は、息子の長政に自分の才覚は平和な時代にはいらないので、“異見会”というのを作ってみんなの意見を聞いて運営するように言います。
長政は、
 1、誰が出席してもよい
 2、どんなことを言われても腹を立ててはいけない
 3、職場における身分や役職は忘れる
ということで始めます。これによる弊害をみて、如水は、これでは黒田家は潰れてしまうと、長政を呼び、部下の忌憚のない意見を聞くことと、決定することとは違う。お前が決定してハンコを押せば意見を言ったものの責任はなくなる。どこまでも自分の為に意見を聞き、自分が下した決定には自分が責任をとるのだ。と言い聞かせ、長政を驚かせます。民主的すぎる会議の弊害を説いた故土光敏夫氏の会議についての話も例に挙げて記してあり、それと、このたびのオリンピックのメダルをとる熾烈な戦いでの話し合いの対比をとても面白く感じたのでした。

 童門冬二は、自分の作品は歴史に材をとりながら現代を書いているといいます。
 この現代とは、この作品を最初に刊行した1998年といいます。
 それを今に置き換えて考えて読み解く事が必要かとも思います。
 信長・秀吉・家康は奇しくも同じ現在の愛知県で生まれた。これは偶然の出来事ではないと言います。戦国民衆という同時代のニーズを満たすために、3人の果たした事業には、信長=旧価値観を破壊する 秀吉=新価値社会を建設する 家康=新価値社会を修正改良しながら維持する という継続・連続性があったと述べます。それぞれの目的によって部下への評価が違ってきます。
 信長について言えば、桶狭間の戦いのとき、粱田正綱がこの苦戦中の深夜、信長を訪ねてきて、部下の忍びのものを放って得たという敵の情報を伝えたことで、それまでの中間管理職の、自分が率先して危機に飛び込み「ここへ来い」というそれまでのよいリーダー像を、「あっちへ行け」というリーダシップの中間管理職の見本を感じとります。そのころ、せっかく育てた中間管理職の消耗を気にしていた信長に、その解決法を具体化して見せたからでしょう。この時信長は、彼の勲功をほめ、城を一つ与えたといいます。まさに戦国時代をまとめ上げるための時間との闘いであるが故の褒章です。
 秀吉は、チームワークを重んじる共同精神の持ち主を必要とします。秀吉は生まれが生まれですから、部下にも主人を選ぶ権利があるということを心にとめているところをこの作品では描いているところが面白いと思います。部下のモチベーションを上げる方法をよく心得ています。しかし彼のリーダーとしての長所が、弟長秀の死によって失われてしまうことを丁寧に述べているところでは考えさせられます。
 家康は、秀吉がほかの大名などと茶道具などの宝物を集めて見せびらかしているころ、あなたの宝物は?と秀吉に執拗に聞かれ、私の宝物は部下ですと答えそれを聞き知った徳川家の家臣を奮い立たせたといいます。彼の時代が、1603年の征夷大将軍となって幕府を開いて後、1867年まで維持できた江戸時代の巧妙な分断政策にあり、徳川幕府の管理は人的にも物的にも世界に例を見ない高密度管理社会とも書かれてあります。

 

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第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/02/19(Mon)
 今日は、いつもよりもっと早めに、風呂先生から預かった「すみよし」と、渡辺郁夫著 『こころの回廊』 のなかの 「スサノオとハーン」 のコピーをもって、夫と二人で第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 貝嶋先生は早くからきてお湯を沸かすなど、準備をしてくださっていました。少しして、先月欠席された方々が出席してこられ安心しました。男性は貝嶋先生はじめ7人女性は私を含めて3人でした。鉄森さんも忙しい中一瞬顔をのぞかせてくださいました。

 いつもどおり、“Believe me” を歌って、それから風呂先生の体調の報告です。
 前日私たち夫婦でお見舞いに行かせていただいていたので、風呂先生を、2日前の15日に、吉川晃司が見舞いに来てくれたというびっくりするようなうれしい報告もいたしました。つづいて貝嶋先生が風呂先生の『すみよし』への寄稿文「小泉清について思うことなど」の朗読もしてくださいました。

 資料提供では、田中先生が、中国新聞の2月12日の記事を紹介してくださいました。田中先生が、三原の実家の土蔵を整理していたときに見つけた90年前の写真絵はがきについての記事でした。その絵はがき16枚も丁寧にコピーして添付してくださっています。先生のお父様が尋常高等小学校の修学旅行のとき、買い求められた□○堂の絵はがきです。絵はがきの入れ物に、買ったところ、県立商品陳列所(廣島物産陳列館 原爆ドーム)と、日付が書き込まれていたのだそうです。原爆で何もかも焼けてしまったのに、三原でのすごい掘り出し物の報告でした。
 三島さんは、八雲会報を配布してくださったり、松江の広報をしてくださいます。このところ、すっかり松江が好きになった私も3月11日の松江フェスティバルに参加できたらと思っています。

 最後に貝嶋先生が「ある保守主義者」の解説をしてくださいました。
 最初に、ハーンの英文の訳について、私見を述べられました。
 誤訳を見つけることはたやすいが、全文訳しきることは難しく大変なことなので、まずは、訳について敬意を表するの意を述べられました。この言葉は、私の古文書の解読作業を思い起こします。国立国会図書館にある解読も、可部古文書会が出版された解読文についても、たしかに誤読をおおく見つけることは私にもできました。(もちろん私の解読にもいまだ誤読は多くあるでしょう。)しかし、まるでゼロから、解読をするとなるとお手上げです。それでも、一つ一つ考えながら訳を吟味される先生の姿勢に感動しました。
 ただ、私の場合、古文書にのめり込んで、半年くらいして体調が崩れ始めました。いまだ・・・。少しづつ毎度やっていくことが話し合われたので、よかったと思いました。
 次回がとても楽しみです。


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『空海』
2018/02/14(Wed)
 小学学館学習漫画少年少女人物日本の歴史 『空海』―真言宗を開いた弘法大師―を読みました。
 我が家の裏山には山頂近くに福王寺という真言宗のお寺があります。
 天長5年(828)に弘法大師により開基されたと伝えられています。
 それで、福王寺山は「、秋の高野山」とも言われているのです。
 私も夫も浄土真宗の家に生まれましたので、浄土真宗の仏壇を備えておりますが、何しろ裏山が由緒ある真言宗のお寺ですので、その教えも知りたいものです。
 830年、
 「帝(淳和天皇)からお手紙です!」
 「うむ・・・・。」
 「帝は何と言ってこられました?」
 「真言密教の教えをまとめてさしだすようにとのことだ。」
 「何をお書きになるのですか?」
 「うむ。これまで説いてきたことを、そのままに・・・。密教と他の宗派のちがいを、はっきり天下に示すのだ!」
 「だれでも努力すれば、親からもらった体のままで仏の世界に入れる・・・。ほかの宗派の教えをつつみこむように、密教の世界をといてみようと思っている。」
 「どのようにですか?」
 とマンガが進み、次ページで、第十住心の大日如来を中心に、それを右上から左上まで包むように第一住心から第九住心までの絵が書かれていて曼荼羅が描かれています。
 第一住心―動物と同じように本能のままに行動するような心な段階。
 第二住心―他人への思いやりの心や施しの心が芽生える段階。
 第三住心―自分より優れた神を認め、宗教を求める心が起こる段階。
 第四住心―欲望を断ち切り、すべてあるがままで満足し、それ以上求めない心の段階。
 第五住心―世の中の道理を見極め、自分の心身の安らかさを願い求める心の段階。
 第六住心―他人の苦しみを自分の苦しみとし、人々の苦しみを救おうとする心の段階
 第七住心―世の中のものは、もともと固定されたものではないと知り、自分の心の永遠性を見極めた段階。
 第八住心―自分も世の中のものも、もともとはひとつであると知る心の段階。
 第九住心―自分と大自然は対立しているように見えるが、ひとつに結びついていることを知る心の段階。
 第十住心―大日如来の知恵と慈悲が、そのまま表現された世界で、すべてのものに無限の価値が秘められていることに気づく心の段階。

 「というように、人間の心の発展の段階を十に分けて、各宗派をそれぞれにあてはめて言い表すのじゃ」
 「「密教が第九住心を包み込んでいますね。」
 「そうじゃ。密教の特徴は第九住心までとは違って、あらゆるものに価値を認め、また、だれでも第十住心の世界に到達できると説いていることじゃ。」
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『蜩ノ記』
2018/02/14(Wed)
 葉室麟著 『蜩ノ記』 を読みました。
 夫に内容を話すと、その話はテレビで見たことがあるといいます。
 最近は、なぜかテレビは途中で寝てしまいます。
 もし私もテレビで見ていたら、途中で寝てしまい、結末はわからずじまいだったのではないかと思うと、本でよかった!!と思うほど長く丁寧に書かれた小説でした。

 羽根藩の奥祐筆という役職であった壇野庄三郎は、城内で隣席のやはり祐筆の水上信吾に、墨を散らしてしまい怒った信吾に切り付けられて咄嗟に居合で彼の足に深手をおわせてしまいました。先輩の祐筆の機転で、切腹は免れるものの、家督を弟に譲り、城下からはなれた向山村で、幽閉されている戸田秋谷という人の監視と、彼が言いつかっている藩主三浦家の歴史を書きつける家譜の編纂の手伝いの為にそこへ行くことを命じられます。
 とはいえ、戸田秋谷がどのように家譜に書き記すのか報告をするようにとの密命も受けます。
 幽閉されている戸田秋谷は、7年前に、藩主の側室のお由の方が襲撃されたとき、彼女との不義密通を疑われて10年後に、切腹するよう命じられます。そして、その10年の間に、家譜の編纂をするよう向山村に幽閉されたのでした。
 幽閉暮らしは、夫は人に恥じるようなことはしていないと信じている病気の妻の織江と、16歳の娘の薫、10歳の息子の郁太郎との4人暮らしです。
 壇野庄三郎は、切腹までの3年間を監視をしながら、家譜編纂を手伝うことになるのです。

 壇野庄三郎は、この人たちの生活がわかってくると、この家では、下働きの人もいないので、まき割や、お風呂の水汲みを日課として手伝うようになります。戸主が切腹を言い渡されているにしては、皆落ち着いて仲良く暮らしています。また、秋谷が25歳から5年の間この地方の郡奉行だったことがあり、領内を丁寧にまわり、家族を諭すように農民に接していたために、周囲の人たちから慕われていろいろな相談も持ち込んできたり、食べ物も届けてくれたりするのでした。しかし農民の生活は厳しく、不作ともなると不穏な相談もあったりしてそのようなことにあたっての秋谷の清廉な態度に壇野庄三郎は、だんだん信頼を置くようになります。
 10年目の8月8日が切腹の日と決められているのですが、秋谷が、それまでの一日一日の暮らしを書いていたのが蜩ノ記でした。

 家譜を作っていく作業などに関するところを読むときは、、この前読み下した「理勢志」のことが頭をよぎります。岩国と竹原の国堺での長年の紛争や、庄原の一揆のこと、地場産業の藺草作りのことなどです。
 本当にいろんなことをよく調べて書かれた小説だと感心するばかりでした。
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『童門冬二集』
2018/02/12(Mon)
 現代時代小説3『童門冬二集』 大きな文字で読みやすい を読みました。
 6つの作品が収録されています。

 「元禄の薩長連合」は、水戸光圀の「大日本史」編纂にかこつけて徳川幕府打倒の秘密を練る薩摩藩の動きを、薩摩が行っている琉球貿易の秘密をタネに未然に防ぐ光圀の情報からの推理を利用してのしたたな処世術が描かれています。

 「来ぬ春を湖南の寺で待ちにけり」は、新選組の山南敬助が、新選組から手紙をおいて脱走し、芭蕉を好んでいたことから、居場所を勘ぐられ、沖田総司に先を越されてつかまり逃げるよう言われながらも、、総司に、山科に家を持って一緒に住みたいと家を見に行った明里のことも話され、脱走したことを悔いるのですが、いまとなっては、と隊に戻って切腹をする話です。

 「長崎の忠臣蔵」これは面白い話でした。最初に忠臣蔵についての、当時の論評があります。その中で、僧の山本常朝という人は、「上方衆は利口なので、人に褒められるようなやり方がはなはだ上手だが、長崎喧嘩のような無分別なことは出来ない」といったといいます。そのなかの、「長崎喧嘩」がどのようなものであったのかの話です。その長崎喧嘩の成功例をつぶさに前原伊助という四十七士の一人がつぶさに調査して2年後、その通りに忠臣蔵がやり終えたことが説明されています。

 「別離」は、奄美大島に島送りにされた西郷隆盛と島の娘オトマカネ(アイ)との話です。最初は自分への刑罰に腹を立てて、気難しかった西郷隆盛が、彼女の優しいくひたむきな愛情にふれて、長男長女までできる話です。その長男がのち京都市長になった西郷菊次郎です。
 
  「蛍よ死ぬな」は、久坂玄瑞の話です。禁門の変の後、京都に進撃せんとする長州過激派の中で煩悶し、野山獄の高杉晋作の忠告も、寺田屋事件で逃れた桂小五郎の情報もむなしく、彼は京都に乗り込み25歳の命を散します。

 「殉愛」は、清河八郎という幕末動乱期に日本中を尊王攘夷をといて歩いた人を愛したれんという女性の話です。れんは、十のうち九つが欠点でも、たった一つだけいいところがあれば、その一つで九つの欠点は許してしまえるという女性です。清河八郎が、酔ってからんできた町人を斬ってしまったために、幕府からこの時とばかり総動員の捕縛の厳命がでた。れんはあるだけの金を渡して旅にだします。結局家にいたれんが連行され、獄死します。清河八郎が所属していた浪士隊加盟の者の犯罪は特赦という案が幕府にも認められて帰ってきたがそのときには既にれんは・・・。そのあと、清河八郎も斬られてしまといという結末です。
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『黒猫・黄金虫』
2018/02/10(Sat)
 エドガー・アラン・ポー著 松村達雄・繁尾久訳 『黒猫・黄金虫』 を読みました。
 講談社の、少年少女世界文学館全24巻のなかの一冊です。
 エドガー・アラン・ポーの作品は、ここ2・3年内に夫がハーンの会で、風呂先生の影響を受けて買った、ギュストーブ・ドレの絵が挿入されている 『大烏』 2冊だけを、なんども眺めただけで、推理小説は初めてではないでしょうか。
 この 『大烏』 の作品を、よりよく理解できたらと思う気持ちが働いて図書館から借りてきたような、とくに、この全集の最後に、繁尾久の解説と、都築道夫のエッセイがありますが、これが読みたくて借りたような気もしています。

 繁尾久の解説では、
 ≪ポーは4冊の詩集と、いくつかの集められていない詩を残した。その中で彼は、若いときには、恋と野望、権力と名声への憧れを歌った。やがて、真珠のような月や、暗い海のような神秘的な自然がたたえられ、つぎに、狂気と白昼夢のような死の影が扱われた。また、ポーの4編の詩論は、彼が単に激情の詩人であっただけでなく、詩の理論、あるいは哲学を持とうとしていたこと、および、古典的な教養を備えていたことを示している。≫
 また、都築道夫のエッセイでは、
 ≪『大烏』という有名な詩をポーは書いています。これはかなり長い詩です。それを、どんなふうに創っていったか、という解説を、ポーは自分で書いています。それを読むと、ポーが、長編小説に向かない作家だということが、わかるような気がするのです。詩は感情を言葉で表すものですが、感情だけで書くものではない。と、ポーは言っているのです。どんな感情を、読者に味あわせようとするか、まずそれを定める。その方針に従って理詰めに言葉を選んでいく。どんな言葉が、読者の心にどんな感情を呼び起こすかを計算して、一行一行、書くのだというのです。≫
 と、私の要望に応えて見解が述べられています。

 そうはいっても、本の内容がすべて推理小説ですので、その解説も、都築道夫のエッセイにあります。
 ≪殺人事件をあつかった小説は、それまでにもありました。ですが、どうして、こんな不思議な事件が起こったか、犯人はだれなのかという、なぞをとくことを中心にして、しかも、それを理論で解く、という小説は、ポーが初めて書いたのです。
理論で解く、というのは、数字を解くように、理詰めに計算して、謎を解く事です。理で推して、犯罪を解決するから、推理小説なのです。そういう小説は、誰も書いたことがありませんでした。  それを、ポーが初めて書いたから、推理小説の父と呼ばれるのです。・・・・≫
 この一冊には、「黄金虫」と、「黒猫」・「モルグ街の殺人」・「ぬすまれた手紙」・「落とし穴と振り子」の5作が収められています。
 こんなに短い作品で、推理小説が書けるのかと思えるほど短い作品が3つに、まあまあというのが、「黄金虫」と、「モルグ街の殺人」です。このうち、、「黄金虫」は、英語の苦手なわたくしに、暗号解読の場面で、英語では、Eが最も多く使われる文字であること、THEが一番多く使われている単語であることをわからせてくれて、それだけでもとても勉強になりました。そして、「モルグ街の殺人」は、それに似た作品を、テレビで少なくとも、2回くらい見たような気がして、状況が述べられるところで、だいたい犯人がわかってきたのですが・・・・。それが今から170年も前に書かれたということで、エドガー。アラン・ポーという人を偲んだ作品でした。
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『紫式部』
2018/02/09(Fri)
 学研まんが日本の伝記シリーズ まんが 北上諒、脚本 こざきゆう 『紫式部』 を読みました。
 これはこれは絵が美しいので、子どもたちにも人気があるのでしょう。2015年6月28日第1刷発行、2017年4月26日第3刷です。
 読後、美しい絵を見ながら、わかりやすく、いい授業を受けた感じです。
 ノートもとっているので、ここに文章にして、丁寧に移してゆきます。

 紫式部の書いた『源氏物語』は、全54帖(巻)で、世界最古の長編小説です。
 紫式部は、970年ころ生まれたのではと言われています。亡くなった年は、記録がありません。(このまんがの最後に、仕えていた彰子と実力者の藤原実資との間を取り次いだことで、彰子の父親の藤原道真に怒りを買って宮中をおわれたので、以後の記録がないことが想像できます。宮中を去った理由は体調がよくなかったなどいくつか言われているようですが。)
 紫式部の母親は早くに亡くなり、学者である父親、藤原為時に姉、兄と共に育てられます。紫式部が25歳のころ姉がなくなり、兄も越後に赴任している父親と同行していて亡くなりました。(計算してみると紫式部が41歳ころと考えられます)
 紫式部は20代後半で17歳年上くらいの藤原宜孝と結婚し、女の子の産み、賢子と名付けられます。そのあと、1001年に宜孝も、豊前の宇佐八幡宮に2か月くらいの予定で、お祈りに行くよう命を受け、出先で亡くなります。
 紫式部の書き始めた『源氏物語』がだんだん評判になり、次を早く書いてほしいと皆から望まれるようになり、書き写しもだんだん増えていきます。
 そのうち、一条天皇の中宮章子の母親の倫子と道長より、中宮章子の女房として宮中に上がるようにとの要請を受けて宮中に上がります。
 宮中では、先輩の女御などから偉ぶっているなどと、陰口をたたかれますが、彼女もそのことに気づき、心がけて、皆と仲良くできるようになり、後輩の歌人で評判の伊勢大輔にもその能力を発揮できる場を作ったりして仲良くなり、評判をあげます。評判をあげることで彰子も評判をあげ彰子との信頼関係は深まり、良き相談相手でした。
 
  作品中に取り上げられている紫式部の和歌一覧

  めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
  おぼつかな それかあらぬか 明けぐれの 空おぼれする 朝顔の花
  北へ行 雁のつばさに ことづてよ 雲の上がき かき絶えずして
  ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる
  水うみに 友呼ぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ
  四方の海に 塩焼く海人の 心から やくとはかるる なげきをや積む
  おほかたの 秋の哀れを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも
  女郎花 盛りの色を 見るからに 露の分きける 見こそ知らるれ
  いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば
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「天離(あまざか)る ひなの長道(ながじ)ゆ・・・」
2018/02/08(Thu)
 古橋信孝著 21世紀に読む日本の古典全10集の2『万葉集』を読みました。
 さきの「あかねさす 紫野行き・・・」の続きを読み終えたのです。

 あらてめて、長歌、短歌、旋頭歌や、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌、東歌、防人歌や、枕詞、序詞などについて勉強できました。
 そして、漢詩を作り、おなじ情景を日本古来の発想を取り込んで、和歌で読んだものの例として、

 天紙風筆雲鶴(てんしふうひつうんかく)を描き、
 山機霜杼葉錦(さんきそうじょようきん)を織る
 〔天を紙にして風の筆が雲や鶴を描き、山を機にして霜の杼が葉や錦を織る〕

 経(たて)まなく 緯(きぬ)も定めず 少女らが 
              織れる黄葉(もみじ)に 霜な降りそね
 〔経糸も横糸も決めず、おとめたちが織った黄葉に、霜はおりるよ。〕

 をあげ、これらが双方とも、大津皇子の作で、中国の古典詩が、和歌に取り入れられて、新しい表現をきりひらいており、とくに四季の歌は、漢詩に発想を得たものが多いいと思われると説明されていました。

 タイトルにあげた、

 天離(あまざか)る ひなの長道(ながじ)ゆ 恋ひ来れば 
            明石の門(と)より 大和島見ゆ   柿本人麻呂

 は、ラフカディオ・ハーンの「ある保守主義者」の本文の冒頭に掲げられている、雨森信成の手になる文章と言われている、

 あまざかる 日の入る国に 来てはあれど 大和錦の 色は変わらじ

 という和歌の、本歌とも思える歌なので、強い関心をいだきました。
 旅には重要な場所があったといいます。陸の場合は峠、海では海峡、明石大門とあるように、これらは境界、国境だといいます。
 この歌の前には、彼が、旅に出る時からの歌が引かれていて、行きは、別れてきたときの生々しさ、我が家をはなれるさみしさを歌っていますが、帰りは、まず大和国を見るよろこびを歌っていて、その違いをうまく表現しているといいます。
 この歌の前後八首は、人麻呂が宮廷歌人のはじめとして、後の歌人たちの歌のモデルを作ったと説明されていました。

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「あかねさす 紫野行き・・・」
2018/02/07(Wed)
 古橋信孝著 21世紀に読む日本の古典全10集の2『万葉集』を読み始め、最初のⅠ首です。

 「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」 額田王
                              (巻一・二十)
 というお馴染みの短歌の、解説を読んでいて、この1首だけでもまず記録しておこうと思いました。

 「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」

 これがもともとの表記だそうです。
 仮名がなかった時代、文字も文も中国のものしかなかった時代の工夫だといいます。
 音をさす文字、意味もさす文字を工夫して取り混ぜているといいます。
 ついさきまで読んでいた、江戸時代の古文書でも、平易な文章に「野守者不見哉」などの表記はこう書いていても普通に見えそうです。
 自分たちの意思疎通のできる言葉の音を、情景を思い起こせるような音と漢字に気持ちとを込めたのでしょうか。いつの時代も、若い人たちのあいだで、あるいは職場で、新しい表現や言葉が作られていきます。その先鞭がここにあるような気がします。
 万葉集は、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌という分類を基本にして歌を載せているので、その分類に従って、歌の意味を考えるべきだというのです。
 この「あかねさす紫野行き・・・」は、雑歌に分類されているのだそうです。雑歌は、天皇の歌、猟の歌、旅の歌、季節の歌、宴会の歌などで、この歌は宴会かなにかのふざけた歌だと分かるのだというのです。この歌と、つぎの一首

 「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」 大海人皇子
                             (巻一・二十一)
 とは秘められた恋の歌のように語られる説があるけれども間違いだと述べてあります。
 もしそうであるなら、天智天皇の妻のこの歌をだれが大海人皇子に伝えたのか。そうしてどうして書き残されたのか、これでは秘密でもなんでもないとも述べられています。

 別の本で、大岡信は、「あかねさす紫野行き・・・」の額田王の歌について、
 ≪天智七(668)年五月五日、近江の都から一日の行程の蒲生野に、天皇や廷臣総出の薬狩りが行われ、これは当夜のにぎやかな宴席で歌われた歌と思われます。「君」とは額田王のかっての夫であり、天智天皇の弟である大海人皇子です。そして、額田王自身は現在天智天皇の妃の一人になっています。三角関係の歌、と胸躍らせた読者も古来たくさんありました。語調もよく、色彩感覚豊かな歌です。≫
 と解説しており、「紫草の にほへる妹を」については、
 ≪額田王の歌に唱和した歌です。大胆率直な秘密の恋の告白です。目の前には、かってのわが妻をいまは妃としている兄の天智天皇もいるのです。事ずらだけ読むなら、なんという情熱、とうれしくなってしまう読者もたくさんいるはずです。しかしこれは、三人の関係を皆がよく知っている宴席での唱和だったことを考えにいれて読むべきでしょう。きわどい恋歌だから、いっそう宴の場を陽気に盛り立てたに違いない、魅力ある唱和でした。≫
 とあり、今までの想像とはずいぶん違って心に入ってきたのでした。

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 『フランケンシュタイン』
2018/02/06(Tue)
 メアリ・シェリー著 飯豊道男文『フランケンシュタイン』を読みました。

 先日裏山に友達と二人で登っているとき、県民文化センターの向かいにある建物に習い事に行っていた時の話になりました。角を曲がって二つ目の建物でしたが、角に貸衣装屋の大きなウィンドウがあり、いつも文金高島田の花嫁衣装を着たマネキンと、ウエディングドレスを着たマネキン人形が飾ってありました。わたしが、いつもこれを見て、それぞれに男性のマネキンも置いてやらないと、あの人形が気がふれてしまうのではないかと心配だったことを話しました。すると六歳年上の友達は、ひぇーそんなことは思わないよ。着物の色があせるのではないかと心配したと、やはり年上らしいことを言いました。
 しかし、この『フランケンシュタイン』を読むと、やはり同じことを考える人がいるものだと安心する一方、それが人造人間第1号であったとは・・・・。

 フランケンシュタインに創られた人造人間は出来上がったとき、
 ≪二年がかりで作った生き物が、くすんだ、きいろい目をあけたんです!
 それがふうっと、息をはいたんです!
 手足がピクピクッとしたんです!
ついに、ぼくは自分の手で、生命あるものを、新しく作り出したんです。
人造人間第一号です!≫
一口にいってかっこいい男だったのですが、変な気持ちがしだしてなんとなくゾッとし、疲れて、そのまま少し眠り込んで、怖い夢を見て目を覚まします。
 ≪ふと、誰かに見られているような気がして、そっちに目をやると、ずうたいのでかい人造人間がこっちを見ていました。そいつが口を開けてしゃべるんでしょうか、訳の分からない音を出しました。言葉はしゃべれないんです。低い地獄から響くような声でした。ぼくはなぜか、たまらなく怖くなって、思わず部屋を飛び出しました。≫
フランケンシュタインが家にかえってみると、人造人間はいなくなっていました。
ずいぶん経って、フランケンシュタインが彼に出合った時には、弟や弟を殺した疑いをかけられて処刑された女性を思って、彼を始末しようと覚悟を決めていたときでした。
 しかし彼は、名前もないまま、みんな友達や家族がいるのに、自分には誰もいない。仲良くしようと近づき、親切にしたり、命を助けたりしても、自分を見るとみんな怖がって気味悪がって逃げてしまう。彼は、フランケンシュタインに、友達になってくれるよう頼みますが、彼を信じることができず、恐怖のあまり拒否します。
 ≪おれに、女性を作ってほしいんだよ。女性を。一緒に暮らしていける、話が通じる、おれとおんなじ女性を作ってほしいんだよ。それができるのは、お前さんしかいない。これは断れないぜ。なんてったって、俺を作った責任があるんだからな。≫というのです。しかし、フランケンシュタインは、そうすれば落ち着くかどうかと疑って一度は作りかけて出来上がりかけた女性を壊してしまいます。
 そこまですると、神様だっていろんな人間を作ってしまうのですから、それは無理とも思えます。
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『イワンの馬鹿』
2018/02/05(Mon)
 レフ・ニコラエビッチ・トルストイ著 木村博訳『イワンの馬鹿』を読みました。
 講談社の少年少女世界文学館全24巻のなかの一冊です。
 この一冊には、「イワンの馬鹿」と、「人はたくさんの土地がいるか」・「人はなにによって生きるか」・「受洗の子」・「小さな火種でも」の4作が収められています。
 図書館でお借りしたのですが、見開きに「読書指導のしおり」が挟まれて貼り付けられています。
 それには、巻末の解説をまず読んでから作品を読むことを進めています。
 トルストイは1828年に生まれ、1863~1869年にわたって最初の長編『戦争と平和』・1875~1878年『アンナ・カレーニナ』を書きます世界の文豪として有名になります。そののち、それらの作品をすべて否定して、此れこそ本当の文学だと、1881年『人はなにによって生きるか』、1885年『小さな火だねでも大火事になる』・『イワンの馬鹿』、1886年『人にはたくさんの土地がいるか』・『受洗の子』民話を書き始めます。『イワンの馬鹿』は発表当時はかならずしも好評ではなかったけれども、トルストイ自身は大変気に入っていたそうです。

 この本は、読んでよかったと思いました。
 私が、今までロシア文学で読みきることができたのは、ソルジェニーツインの『収容所群島』だけです。
 ロシア文学作品を、若い頃何度か手に取ってみたのですが、その中の固有名詞を読むだけで疲れてしまって、読み切ったことがありませんでした。それなら映画でもと、『戦争と平和』を2度も見に行ったのですが、おなじところぐらいで寝てしまうしまつです。
しかし、もともとこれらの作品は、トルストイが、子どもたちに自分の考えていることを知ってもらいたいと思って書いているということで、とても読みやすくわかりやすい作品ばかりでした。そして、とくに『イワンの馬鹿』では衝撃を受けるとともに、とても感動しました。
 キリスト教について、どのような分派があり、それぞれどのような教義を持っているのか正確には知りません。解説には、後年トルストイはトルストイ一流の神への信仰をもったと書かれていますが、「神は愛」である、「愛のなかに神がいる」という思いが徹底してどの作品にもつらぬかれています。

 解説のあとに、「イワンと私と太郎と」という松谷みよ子のエッセイがあります。仕事の関係から、松谷みよ子の作品には数多く触れてきました。ラフカディオ・ハーンの作品などもほとんど彼女の作品を通して知っていきました。その松谷みよ子は、『イワンの馬鹿』を幼い頃に読んで、頬でもびしっと打たれるような衝撃を受け、『人はなにによって生きるか』による激しい問いかけに、矢で貫かれるように心を刺したとのべ、これらの作品が生きてきた時代や道の風景とともにあったといいます。
 私がこの作品に年老いて出合いましたが、図書館で借りたこの本は、子どもたちに多く読まれた形跡があり熱いものが胸をよぎります。
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『十二夜』
2018/02/03(Sat)
 小田島雄志・文 シェイクスピアジュニア文学館物語5『十二夜』を読みました。
 この読書記録には、小田島雄志氏が最初「『十二夜』について」という文章を書いておられるので、ほとんどそれを引用します。

 ≪『十二夜』(1601年頃)は、ウィリアム・シェイクスピア(1564年―1616年)が円熟期に描いた喜劇の傑作です。「十二夜」とは、クリスマスから十二日目の夜、つまり1月6日の夜のことで、東方の三博士がキリストの生誕を祝うために訪れた顯現日(エピファニー)にあたります。その夜は、ダンスや演劇などでにぎやかに祝うのが、シェイクスピアの時代の慣例でした。だから、このロマンティック・コメディーは、祝祭喜劇ともよばれます。
 ここには、だましだまされるための仕掛けが三つ用意されています。ヒロインの変装と、双子の登場と、にせのラブレターです。日常の世界では、女性が男装してもみやぶられることがあるだろうし、男女の双子がいくらそっくりでも、また手紙の文字がいくら似ていても、取り違えることはそうないでしょうが、演劇の世界では、そのまま信じることが約束事なのです。
そこで、たとえば偽のラブレターで、伯爵令嬢が召使である自分を愛している、と信じ込む男が出てきます。彼は、他人に騙された被害者にすぎないのでしょうか。そうではなくて、騙される前に、自分はお嬢様に愛されているとうぬぼれているのです。つまり、他人に騙される以上に、自分で自分を騙しているわけです。そう思うと、「真の恋をする者は、みなおれのように恋をする」という侯爵も、喪に服して男性を寄せ付けないと誓った伯爵令嬢も、結局はうぬぼれによる自分への思い違いがあるようです。そういうところに、この喜劇は、ただ面白おかしいだけでなく、「人生の味」が感じられるのかもしれません。≫

 本文を読み終わって、再度この文章を読むと考えさせられます。
 この本には、ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳 となっておらず、文・小田島雄志とか、作者小田島雄志となっています。
 この作品のなかに日本語だからのダジャレが頻繁に出てきます。英語で書かれているはずのものに日本語だからシャレになる言葉がいっぱい出てくるのが不思議です。ですから、喜劇としての筋立てはシェイクスピアでも文は小田島雄志のものです。そのことでは、本当に感心いたしました。

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