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『可部町史』
2018/03/29(Thu)
 昨日、交通安全協会定例会議に出かけ、くたくたになって帰ってきたところ、夫が、三業惑乱のいい資料が見つかったよ!と、印刷してくれていました。
それがこの『可部町史』でした。
 この『可部町史』は広辞苑を小型にしたような本です。

 昨夜は、三業惑乱に関するところを読みました。三業惑乱について、ローカルな出来事としてではなく、浄土真宗の歴史的な法難として、織田信長によるものと、この三業惑乱の二つを挙げ、織田信長によるものは、物理的な法難であったが、三業惑乱は法意の根本的なことにかかわる出来事であったことが語られていて、グローバルな視野からの記述でした。しかも、可部町に存在する寺院の江戸時代のある時期の個別の門徒数の記述などもあり、これらの数字の示すものからの考察もできるのでした。また、全体的には日本人の宗教観というものについて考えさせられるというものであったように思います。
 今朝は、裏山に登る前、編集後記を読みました。昭和43年4月に可部町史編集事業が発足し、昭和47年(1972)広島市との合併に伴い事業は広島市に引き継がれます。町時代に古文書目録などもできていて、かなりめどが立っていたようですが、執筆するにあたって、中心人物としての広島大学の松岡先生の基本方針が、「的確な資料を集めて権威ある町史を作るという高い理想」であったため、利用し得る資料を残すところなく把握するため、以後さらに古文書を掘り起し集めるために町職員などの甚大なる協力を要するとともに、先生にはその間大学で学生運動などが起こりそれに忙殺され、さらに、モスクワで開かれた第13回国際歴史学会議に日本の代表として発表することが決まったり、翌年9月から12月にかけて在外研究員として欧米各国に再度出張が決まったりで、編集作業の渋滞のやむなきなど紆余曲折を経ての51年9月13日発行になったことがわかりました。
 そして午後、第四章近世の可部の第五節災害・救恤と町民生活を読みました。
 目次をみていて読めない文字「救恤」を辞書で引いていて(きゅうしゅう)であることを知り、その事柄に興味を持って読んだのでした。これも、『可部町史』が理想とした「的確な資料」によっての考察ができていることが確認できます。勝円寺の資料を用いて、檀家の人の死亡人数の統計をもって災害や飢饉があった年の検証をその数字とともに考えることができるのでした。勝円寺は町内の中心地にあり、檀家数も多くその統計が使われていることも、よく知っている地形であるだけに状況が想像できやすいのでした。
 『可部町史』は、他の町史との違いについても、充分味わって楽しめそうです。
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お見舞い
2018/03/20(Tue)
 古文書の解読を教えていただいている加川さんが、7日水曜日に入院されてしまいました。
わたしがそのことを知ったのが13日でした。6日の火曜日に古文書を教わりに行って、次の12日の火曜日いつもの3時に行くと留守で、2時間置いて5時に行くとやはり留守だったので、隣の知人に尋ねて分かったのです。
 それから、今日が3度目のお見舞いでした。
 起きあがってベットに座って、持って行った夫の手作りのヨーグルトを2度に分けて美味しいといって食べてくださいました。ほとんど寝たきりでまったく歩いておられないので、背中や肩や首、足などを40分くらいさすってあげました。何だか涙が出そうでたまりませんでした。

 わたしが昨年末体調を崩して、夫に古文書のやり過ぎだと注意され、しばらく古文書を休んでいました。2月の終わりに、『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』を出してこられ、「これを・・・」といわれ、一緒にやろうと導いてくださっているのだと、借りて帰ってばらして、夫の体調のいい時にパソコンに入力してコピーを取ってもらいました。108ページと135ページの2冊でその作業は大変でした。そして、体調を考えて教わるのは1週間に火曜日の1回に決めて、6日は2ページわかるところだけ解読していったのですが、5ページまで助けられながら読まされてしまいました。そうなると、次の週までに5ページの復習と、5ページの予習が必要と、またまた、苦心惨憺の解読が始まりました。そうこうしているうちに内容の重要さに気づいてきたので、夫の忠告を尻目に毎日毎日辞書をめくっての勉強が始まりました。

 加川さんも本当に和歌を作ることが大好きで、ほとんど1日中、パソコンが手元に置かれている机に向かっての生活をしておられました。1日2回訪ねてこられるホームヘルパーの方たちも親切で、静かに落ち着いた生活の中に変化を見つけての短歌づくりでした。古文書は、やめられて10年のち、私に乞われて教えてくださるようになり、私に合わせて解読しやすいものから少しずつ読み返すことで昔の趣味がよみがえってきていたのでした。

 今にして思えば、古文書を読むことで、日本に生まれ、古く日本に生きた人たちの筆の跡をたどることで、自分の来たったところを加川さんに導かれてなぞり、そのことが、魂の救いにもなっているように思えてくるのでした。
 
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『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』
2018/03/18(Sun)
 これは、私が今読んでいる古文書のタイトルです。
 ≪学頭智洞 邪義相顕安心致惑乱吟味記 
    享和三年癸亥七月京都二条御公儀
    西奉行所において御尋奉答上筆記≫ ※享和三年癸亥とは1803年
という三行の説明があってから、
 ≪一九日御奉行様直御尋と云う
「問」藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮とは其方欤 「答」左様で御座います≫
というように続いていきます。
 読み下したと思う文字が、実はおおいに間違っているかもしれないと思いつつこのように、原稿用紙に書き込んでいます。
 この三業惑乱について、ウィキペディアで検索してみますと、1762年に功存という人が自立的な三業帰命説という立場を唱え、さらに1797年智洞も唱えたことから在野の安芸の大瀛(ダイエイ)らがこれを批判しました。この論争が各地に広まり、美濃国大垣藩の門徒の百姓たちが一揆のいでたちで本山に詰めかけようと河原に集結するというような事件がたびたび起こり、藩主の戸田氏が事件を江戸幕府に届けたことから、江戸の築地御坊の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行・脇坂安董の役宅へ呼び出され事情聴取されたのです。幕府は従来寺社に対して教義や宗門の紛争は黙認する方針でしたが、事態が一向一揆に似た不穏な状況になったため介入せざるを得なくなったとあります。
 脇坂安董が、1802年本願寺派本山に対して警告書を突き付けたため、本山は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになり、1803年三業安心派の僧侶や門徒が、安心にかかわる権限を学林に一任するよう槍を持って門主の室近くへ侵入する事件が起きたといいます。
 本山のなかに教化部門があってその長が学林能化あるいは学頭というのかと思っていたのですがどうもこの辺がよくわかりません。とりあえず、三つ巴になった様相です。そこで本山がこの措置に窮して京都所司代に訴えたというのです。本山が訴えたのに、尋問を受けるのが藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮の大瀛(ダイエイ)であるということも不思議です。ようするに、本山が、宗旨の論理がしっかりしていなかったために、学頭が自分流の教義を布教してもそれを糺せなかったというのが見えてきます。
 古文書を読み解いていくうち、この問答の中で、おもわずこの尋問を受けている廊亮(カクロウ)こと大瀛(ダイエイ)が、すごいなと思われて、あるいは浄土真宗の真髄を言い当てていると感動して涙が出そうになるところとか、説明をするにあたって、いまの私たちでさえも分かるように理路整然と答えているというところに深くその学識に驚嘆させられる部分について書き記してみたいと夜中に目覚めて思いついたのですが、事件の概要の概要で終わってしまいました。

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「無頼の絵師」 公事宿事件書留帳
2018/03/15(Thu)
 澤田ふじ子著 『無頼の絵師』のなかの、「無頼の絵師」を読みました。
 6つの作品が収録されている。公事宿事件ばかりを扱っているシリーズの一冊と言えます。
 このシリーズは、京都の東西の奉行所の周りにある、弁護士事務所ともいうべき公事宿を舞台として、そこに持ち込まれる様々な事件が、公事宿に居候している田村菊太郎を中心に人間味あふれるタッチで描かれています。
 奉行所の周辺には25・6件の公事宿があったのですから、そのうちにはたしかにこのような公事宿もあったかもしれません。
 シリーズのなかでも、この「無頼の絵師」は、このところ、古文書でおなじ京都二条御奉行所での、公事の「宗意問答」を読んでいて、その奉行所の仕組みが、小説の中で丁寧に説明されているので、ここに書き記しておくことにしました。

 目安:訴状・・出入物(でいりもの)として扱われる
 返答書:訴状に対し公事宿が書いて奉行所に提出するもの
 お白洲:糺問所(きゅうもんじょ)のことで、白い砂は清廉潔白を示す。お白洲の正面は二段。上段は吟味方与 力組頭(裃姿)、脇に与力二名と、小机を前にした書役が着座する。大きい事件は町奉行が座る。
 糺(ただす):審理
 公事人:目安被疑者の弁護人
 宿預け:奉行所の牢に収監されていたが、簡単な取り調べの結果、逃亡の恐れがないと判断された人が公事 屋の座敷牢にお預けになること。
 同心:罪人の疑いでお取り調べを受ける人を警護してお白洲に連れてきた人、この役の同心は、とくに突這(つくばい)同心という。
 公事宿の主:罪人の疑いでお取り調べを受ける人に付き添ってきた人
 小者:突這(つくばい)同心の後ろに控えている
 例繰方(れいくりかた):これまでおこった犯罪を、どう審理してどんな裁許(判決)を下したのか罪の軽重を記録した膨大な判例を調べる役職
 ※古文書では、前例、古例、旧例とかいう言葉で書かれていました。

 この作品は、扇問屋「布袋屋」の定助が、丸山応挙の「龍門鯉魚図」、雪舟の「山水楼閣図」の贋作を多く書いたとして、織物問屋「鈴村屋」の庄兵衛に目安状で訴えられたことによる物語です。
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「人形の家」
2018/03/13(Tue)
 小泉八雲著 田代三千稔訳『日本の面影』のなかの、「人形の家」を読みました。病院での診察の合間に「生と死の断片」と2作読めました。2014年ハーンの会に入って次々にハーンの作品を買って読んでいたころ一度読んでいるのですが、双方とも初めて読むようで、何も覚えていないのが悲しいところです。「生と死の断片」では、心中をし損ねて苦しんで亡くなる兄を貧しさの中、7年間看病した弟の話ですが、最後の
≪わたしたちは、自分をもっとも苦しめるものを最も愛しているのではないかと、疑問をおこしてもよかろう。≫
という一文がひどく心に残りました。
 「人形の家」では、不幸な11歳の女の子へ寄せるハーンと万右衛門の優しい心情が、そのあと読んだ澤田ふじ子の、京都の奉行所に持ち込まれてくる様々な事件に寄せる、公事宿の人たちの心情と同系列に感じられるのが何とも心が和むのでした。
そんな思いがすんなり受け入れられたのは、その2,3日前我が家を訪ねた知人や、その日受診した医師の言葉でも感じたからかもしれません。
 2,3日前にわたしを訪ねた知人、手土産に加えて、「家にいる?」と電話した時のわたしの声がひどかったのでと、マフラーを編んで持ってきてくれたのでした。
 わたしの昨年10月からの声の後遺症のことから、彼女は自分の病歴について話してくれました。なんと私と同じく県病院耳鼻科の福島医師の手術で一命を取り留めたとのこと。わたしは痛みが全くないのに手術をしたので、半月ばかりの入院ですみましたが、彼女は痛みの為に町内の医師に診てもらい、すぐ県病院を紹介され、半年で2度の手術を受け、その後5年通ったといいます。
 わたしがちょうどその日の朝、田部隆二の『小泉八雲』を読んでいて、小泉八雲を明治29年に東京帝国大学に招聘した外山正一氏が明治33年に中耳炎で亡くなったというところを読んだばかりでしたので、中耳炎で亡くなったというのが、今の私たちには二人の経験からなんとなくそれがどういう経緯で死に至ったのかが想像できるようで、福島先生だったら治せるのにね。と言いつつ、「真珠腫という病気は頭がいい人がなる病気だってことがわかったね」と大笑いして慰めあったのでした。
 このたびは、彼女がその県病院に行きつくまでの話から、わたしも町内より他の耳鼻咽喉科に受診しようと思い立っての受診でした。「もし私の声が治らないというのなら、世間にこんな声の人に一人くらい出合いそうな気がするんですが、出会わないのであるいは他で治療を受ければ治るのではないかと思いましたので」と医師に告げると、のどの写真を撮って、これはこのまま普通にしゃべっていれば自然に治りますよと説明してくださいました。受診料を取るのも申し訳ないといった様子でした。

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第211回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/03/12(Mon)
 1週間前、第211回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録を掲載したのですが、手違いで消えてしまってがっくりきていたのですが、やはり休むことなく参加した記念に書き記しておくことが、自分にとってとても大切なことだと思えますし、生前風呂先生も必ず読んで、時々それに応えてくださっていたことでもありますので、風呂先生にも喜んでいただけるよう拙文ながらしたためたいと思います。
 第211回の「広島ラフカディオ・ハーンの会」は3月3日のひな祭りの日でした。夫が早くから、私が喜んでいただいているからと、その甘酒を用意し、雛あられも準備し、たまたま気づいて買っておいた紙コップと共に持参しました。
 最初に風呂先生が亡くなられたことの報告がありました。私たち夫婦が見舞った2月16日からちょうど10日あとの26日だったと知りました。先生の手を取ると、見舞っている間中、固く握ってくださっていたのが最後でした。
 奥様は気丈に応対してくださいました。私は先生が「会誌」をつくると言われていた「ある保守主義者」のレポートを仕上げていました。仕上げる途中にいろいろ調べるうち、違った考えがわいてきました。それで、そのやり方でも書き上げて2通り書き上げていました。それを読んで大笑いしていただこうと思っていたのに先生の容態は、読んでいただくどころではありませんでした。いままた、別のことを考えています。そのためもあって、古文書の解読を机にしがみついて日々励んでいます。読み終わって、ことの次第がよく理解できなければどのようになるかわかりませんが、可部で育った先生にはこの可部町由来の古文書を通じてのレポートは深く感じてもらえると思えるのです。
  このたび会では、このレポートはゆっくり1年かけて書いてくださいとおっしゃってくださいました。落ち着いて納得できるまで勉強できそうです。

 会では参加者は14人と多く、最初に風呂先生が亡くなったことの報告があり、全員で黙祷をいたしました。
 哈爾濱大学の遺族会の報告や、松江の4月から12月にかけての不昧公イベントの紹介パンフレットの配布、富山のヘルン文庫を訪ねられての発表があり、ちょうど富山文庫ができるきっかけを作った田部隆次の『小泉八雲』を読んで、来日までのラフカディオ・ハーンの人生の側面にも出合って、深く考えさせられていましたので、今思い出すと、ヘルン文庫にスーッと引き込まれそうな心持にもなります。発表者の、とことんハーンに付合ってみようとの心持が伝わってきました。
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『にたり地蔵』公事事件書留帳
2018/03/11(Sun)
 澤田ふじ子著 『にたり地蔵』を読みました。
 やはり図書館で借りたものです。
 この作品の前に読んだ、『恵比寿町火事』と同様、6話が収録されています。
 これまで、2冊で12話を読んだわけですが、よく次々といろんな事件について考えられるものだと感心しておりましたら、最後の「あとがき」に
 ≪この『にたり地蔵』は表題作をはじめほとんどが架空の話ではない。近年、起こった事件に基づいて書いた。「神戸 お地蔵さん誘拐 身代金30万要求 罰当たり」、これが表題作に用いた新聞の見出しだった。「おばばに茶碗」は、わたしの身辺の事実を基にした。「旦那の兇状」「さいごの銭」も、新聞やテレビ・ニュースに克明に目を通しておられる読者なら、ご推察できるだろう。≫
とあり、2002年7月10日第一刷発行となっておりますので、その頃の出来事のようです。
 事件は、いま現代の日々の事件を参考に、設定はお馴染みの公事宿「鯉屋」の居候、田村菊太郎を中心に描かれています。

 『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』という古文書は、遅々としてなかなか読み進めませんが、それでも、これも今読んでいるのが、1803年の京都奉行での吟味方(?)と、藝州高宮郡中野村という、この可部の同じ町内のお寺の大瀛という人の問答なので、この作品中、時々丁寧に説明されている当時の状況が、参考になります。
 まず、京都の東西町奉行所は、二条城の南西にあったといいます。この2つの奉行所が1か月ごとの月番制だったことがわかります。この作品では、その近くに公事宿がずらりと26軒あり、訴訟、当時の言葉で公事(出入物)を訴える人が、自分のお気に入りの公事宿へお願いに行き、目安(訴状)を書いてもらっていたのでしょう。訴えられた方も公事宿に自分で選んでお願いに行ったようです。お金にかかわる民事がほとんどだったようです。もちろん刑事もあります。これらの公事宿仲間の総代がこの作品では万屋平右衛門がやっており、彼の公事宿は、京都に屋敷を持たない大名の宿舎にもあてられていたようです。
 公事宿には、下代(げだい)、手代(てだい)、手代見習い、丁稚などがいます。
 手代見習いは暇を見つけては『公事問答算用衆』などを読んで勉強していたようです。公事宿は世襲制ですが、後を受け継ぐ人がいない場合権利を売り、手代見習いから、手代、下代となった人が権利を買って引き継ぐこともあるのです。
 下代(げだい)か、手代(てだい)だったかが、「問答書」を読んでいたという場面では、「ハイ!!わたしも問答書を読んでいます。」と云いたかったのですが、なかなかそうはいかないのが悲しいところでした。

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「仁吉の仕置」
2018/03/07(Wed)
 澤田ふじ子著 『恵比寿町火事』のなかの「仁吉の仕置」 を読みました。
 今朝、夫と病院の帰りに図書館で借りたものです。

 このところ、古文書の解読をまた少しずつはじめました。
 『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』という古文書です。
 これは、≪享和3年癸亥(1803年)の7月、京都二条御公儀西御奉行所において御尋奉参上筆記≫という文章で始まります。
「問」「答」と、奉行所で聞かれることが、一問一答書かれているものです。
 私たちの住んでいる可部のお寺と本山とが、教義が違うことが発端で起こった騒動で、最後には築地の寺社奉行で裁断がおり、藝州高宮郡下中野村の勝圓寺隠居大瀛が勝訴したという筆記録です。
 この古文書をああでもないこうでもないと一文字ずつ読んでいるうちに、明治時代に速記法が伝わってきたと何かで読んだことがあるのに、どうしてこの一問一答の会話が残されたのだろうと疑問に思われてきました。
 若いとき、勤め先で議事録を和文タイプで打つことがたびたびありましたが、原稿は速記者が清書したものでした。そのことを夫に質問してみると、夫が、江戸時代には公事宿というのがあって、いまでいえば、そこは宿屋でもあるし、弁護士事務所でもあるし、速記録屋でもあったのだといいます。そのことを小説に書いたのが作家の澤田ふじ子だと教えてくれました。
 それで、とりあえず、古文書はそっちのけでこの『恵比寿町火事』読み始めました。これには六話あり、どの作品も、京都東町奉行所同心組頭の田村銕蔵と、公事宿(現在でいう弁護士事務所兼宿泊施設)「鯉屋」の居候で田村銕蔵の腹違いの兄の田村菊太郎、「鯉屋」の主で田村菊太郎を信頼し共に事件を解決する菊太郎の良き相談相手の鯉屋源十郎らにかかわってくるいろいろな事件の話です。
 「仁吉の仕置」は、仁吉という飴細工売りが、もと働いていた油問屋の跡取り息子を出刃包丁で刺すという事件についてです。仁吉は、父親がそこで働いていたのですが亡くなり、母親もなくなりして、この店で育てられ働いていたのでした。油問屋の跡取り息子は小さい頃から仁吉を陰湿にいじめていました。仁吉は、じっと我慢していましたが、そのうち悪いことも言いつけられるようになり、理由をつけて辞めていきます。息子が博打などに手を出して店が潰れ、主人は亡くなり、長男は江戸に出奔してしまいます。奥さんの生活だけは仁吉が見ていたのでした。奥さんのところへ様子を見に行っていたとき、江戸に行方をくらましていた息子が帰ってきます。母親が仁吉をいじめていたことも知っていて、母親が息子を刺します。仁吉はそれを止めに入り、さらに自分が罪を負おうとしたのでした。
 、そんなことをする仁吉ではないことが誰にでもわかっているところで終わるというものでした。

 当然、以後の奉行所の尋問などについてはないのが少し残念でした。しかし菊太郎たちの生活が情緒豊かに語られる部分が大変楽しく読めました。
 
 
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『小泉八雲』
2018/03/04(Sun)
 田辺隆次著 『小泉八雲』 を読みました。
 第4版 1980年1月第1刷1992年10月カイテイ刷発行1500円です。
 ハーンの会の貝嶋先生が貸してくださいました。
 まずは序は、著者の田部隆次、坪内逍遥、西田幾多郎、内ケ崎作三郎の4つがあります。
 田部隆次の序では、この伝記の第一版は大正3年4月に早大出版部から出たとあります。そのときまでに、出版されていた幾冊かの伝記、マックドナールドの好意で長く小泉家に送られていたハーンの著作の批評や生涯に関する通信社からの切り抜き、英国の親戚からの書簡を読み、東京大学時代のことを聞くために当時の関係者数人に何度か会い、ウェットモア夫人その他の海外の人とも文通、マックドナールド氏にもたびたび会割れたとのことですが、最も貴重なる資料は小泉夫人から得たとあります。
 それから十数年後に第1書房から再版するときには、欧米取材に出かけ、ある時はハーンの教え子であるという理由だけでいろいろの人から招待を受けたとあり、英国ではハーンの異母妹やその子女に会うことができ、これらのことが何らかの形で付記されたということです。
 そして、第二版以後のあらたな新事実も付記して、昭和25年ハーンの生誕100年を記念して第三版が出版されたとのことです。
 この時には序を書かれた坪内逍遥、西田幾多郎、内ケ崎作三郎は既に亡くなっておられたのですが、この中で、西田幾多郎のハーン作品に対する評が、
 ≪ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふような神秘思想を抱いた文学者であった。≫から始まって、≪氏はその崇拝するゴーチェのEmaux et Camees の中から、三千年の昔希臘殿堂の破風の石となって白き夢に互いの心をかよはした二個の大理石が二人の愛人の白き肉となり、おなじ母貝の中に育って・・・上述の如き幽遠深奥な背景の上に立つ所に興味を有ったのである。氏はこの如き見方をもって、我国の文化や種々の昔話を見た・・・≫
 のように、私が、ハーンは自分が今まで出会ってきたわずかの著者の世界観と大きく違う部分だと思えるところを余すところなく丁寧に表現してあると思いました。
 昨年、恐羅漢山に登ったとき、頂上から降りていく山中、曲がりくねって何千年もの時を生きてきたような木が、それぞれで話をしているような雰囲気の林の中を歩きました。その時、こんな山中で育ったら、ハーンのような心象になるのかなと思ったりしました。しかし、希臘の殿堂からの思いも・・・とそれなりに納得できます。
 本文中の情報は、多くの人のハーンに関する研究レポートや、ハーンを顕彰されてある文に引用されている事柄がほとんどこれによっているのではないかと思えるほどに、ハーンのバイブルの一冊と言える内容でした。
 また、彼の著書が余さず丁寧に紹介されている部分は、私にとっては大変貴重な情報でした。

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