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『風の十字路』
2018/07/31(Tue)
 遠藤周作著 『風の十字路』 を読みました。
 遠藤周作は、幼少時代を満州で過ごしました。また、1950年にフランスのリヨンに留学しました。以後、小説の取材旅行などで、何度もヨーロッパを中心にいろんなところを旅していて、ここではそのことが中心に書かれています。
 いわゆる名所旧跡を訪ねたというより、自分がこだわっているところを中心に旅をしたと述べています。
 先に読んだ『老いてこそ遊べ』は、自分が死をも考えるような大病を何度か患い、そのことで得たことについて書かれていました。ここでは、訪ねた地方ごとにそこで感じて得たことを12章にわたって述べていますが、やはり、ヨーロッパと長崎への旅が彼の主要テーマだったのではないかと思わされます。
 ヨーロッパでは、自分が終戦後初の日本からの留学生だったことに端を発したこだわりがありました。そのことから、日本で最初にヨーロッパに留学した人のことを調査されたようで、
 ≪一番最初の留学生は切支丹時代で、名前は分からないけれども、洗礼名がベルナルドという男であることが分かってきました。日本最初の宣教師だったフランシスコ・ザビエルが、この鹿児島県生まれの青年にヨーロッパの文化を見せたいと思って、ゴアまで送って、ゴアでインドの青年と一緒にヨーロッパへ行かせたのが最初です。≫
とあります。
 彼は、ローマの今でいうグレゴリオ大学で勉強をし、病気のため、ポルトガルに戻ってそこで亡くなりました。死因は多分マラリアではなかったかと書かれています。
 なんといってもポルトガルやスペインの宣教師が日本に最初に来て、日本のことをいろいろ紹介したことについてはルイス・フロイスの『日本史』やジョアン・ロードリゲスの『日本協会史』などがあり、ここでは翻訳されたものは半数くらいで、まだ未公開のものがあるといいます。私はこれらの内容をずっとあと、おおくは井上ひさしの本でかなり詳しく読んだ気がしています。そして、つい最近は南方熊楠の書簡集の中でこれらの情報を興味深く読むことができました。
 敗戦後最初に留学した遠藤周作は、それなりにいろんな思いを抱いて海を渡ったことでしょう。しかし帰国以後、何度も留学先を尋ねたくなるほど、愛情深く大切に迎えられたことをいろんなところで述べています。また彼がのち小説家になって、それがいろんな国の言葉に翻訳されて世界中で有名になったことを自分の事のように誇りに思ってくれていて取材協力にもかかわってくれたりすることもうれしいことでした。
 いちばん心に残ったのは、
 ≪もしヨーロッパを本当に知ろうと思うなら、まずイスラエルへ行って、その次にギリシャへ行って、それからローマへ行って、その後パリに入るのが一番良いコースだと私は思っています。そうすれば、最終的にはパリで、イスラエル、ギリシャ、ローマの三つの要素がどういうふうに集約されて残っているかということが具体的な形でわかってくるからです。≫と、自分なりのこだわりから編み出した解答のみつけかたを提示できているところだと思いました。


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『老いてこそ遊べ』
2018/07/30(Mon)
 遠藤周作著 『老いてこそ遊べ』 を読みました。
 いつのころだったか、彼が狐狸庵と称して、次々本が出ていたころ、北杜夫や曾野綾子・三浦朱門などにサルトルやカミュ、そんな本ばかりを読んでいた時期があったように思います。そのころは何を思って読んでいたのか全く思い出せません。ただ、狐狸庵が私の両親と生まれ年が同じだと思って読んだことはなかったように思います。

 このたび読んでみようと思ったのは、ラフカディオ・ハーンの『ある保守主義者』との対比を試みようと思ったからです。
 それまでの地位や縁を断ち切ってまでキリスト教に回心したハーンの描くある保守主義者。一方、縁あるままにキリスト教の洗礼を受けて、何か借り物の服を着せられているように感じていたという遠藤周作。その信仰を確たるものにしようとフランス留学をした遠藤周作。この二人を通して、日本人の宗教観を探ってみてはと思ったのです。

 遠藤周作は、洗礼に至ったいきさつについて、
≪協会では子供のための公教要理の時間があって兄と私とは一度はそこに出席したのである。
 退屈だった。面白くもなんともなかった。私がそれをさぼらなかったのは母に叱られるのがこわかったのと、神父さんがくれる飴と、話のあとで皆とやるベース・ボールのためだった。
 一年たった復活祭の日、私や兄は他の子供たちと一緒に洗礼を受けた。正直言えば何かを信じたからではない。皆が洗礼を受けるから私も受けたにすぎない。
「神を信じますか」「主イエズス、キリストを信じますか」次々と言われる問に私たちは一人一人、「信じます」と答え、私も「信じます」といった。
 そして私はまがりなりにも信者になったのである。何も信じない信者。基督教のことを何もわからぬ信者。≫
と述べています。
≪あれから40年の歳月が流れた。私に人生にもいろんなことがあった。・・・・あの頃、子供ながら祈っているふりをしている自分の偽善が辛かった。・・・・今度もこの教会の内陣に座り、私の胸中を去来した思いは同じ恥ずかしさであった。・・・・≫
ここでは、彼が、他のところで述べている、作家としての遠藤周作と、一方、生活者としての自分を弧狸庵と称している。ということについて、それが、宗教や哲学を考えるうえである意味大切だということに気付かされます。そういった意味では、母親の手の中にあって、母親がよかれと願う信仰に従うのは、人類皆がよきことと思うはずです。
 この生活者としてのキリスト教者という感覚は今の西欧人の感覚と変わらないのではないかと思えます。

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『かたつむりちょうじゃ』のつづき
2018/07/28(Sat)
 おひゃくしょうさんは、しかたなくちょうじゃさんのところへいってたのみました。「だれかうちのむすこのよめになってください。」するといちばんしたのむすめさんがいいました。「わたしがおよめになります。」
 
 かたつむりのおよめさんになったむすめさんは きがやさしくて どこへいくときもかたつむりを きもののたもとにいれてくれました。あるひ、はたけにでかけたら、てつぼうをくわえたおおきなへびが いしのうえにすわっていました・

 それをみて たもとのかたつむりがいいました。「あのてつぼうをとってきてくれ。」むすめさんはこわごわへびのところへいき、てつぼうをとりました。「てつぼうで おらをたたけ。」かたつむりがたもとからとびだしました。

 あいてがかたつむりといっても だいじなおむこさんです。たたくなんてとんでもありません。むすめさんがこまっていると、かたつむりがさけびました。「さあ、はやくたたけ!」むすめさんは てつぼうをふりあげ、かたつむりを たたきました。

 そのとたん、からがわれ かたつむりはみるみるおおきくなって にんげんのわかもののすがたになりました。わかものはむすめさんのてをにぎり、「ありがとう、おらのよめさん。」といいました。

 わかものとよめさんは おとうさんやおかあさんをたすけて いっしょうけんめいはたらきました。やがて、かたつむりちょうじゃとやばれる かねもちになりました。

                            おしまい

 人間のむすめが人間以外のものと結ばれる昔話。全国にあるらしい「たにし長者」の昔話。でもこれは、広島県に伝わる昔話からとった作品だそうです。

 いや、いま、プラトンの『国家』の上下、上の172ページ、まだ上の半分にも達していません。それで一休みして、小さくてかわいい絵本「かたつむり長者」を読みました。そして、あいだにもう一つ、NHKテキスト8月号新着の若松英輔の「走れメロス」の解説書を読んでいます。
 そのなかに、・・・・「王」が変われば、その「国」のありようも変わってきます。・・・
という一文があります。太宰治はこの作品は、古代ギリシャの神話とシラーの詩「人質」から着想したと述べているそうですが、その文脈にプラトンの愛弟子ディオンが登場します。
 ああ、やっぱり現実にもどって、プラトンの『国家』を読み進もうの思いに立ち返りました。


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『かたつむりちょうじゃ』
2018/07/27(Fri)
 文・西本鶏介 『かたつむりちょうじゃ』

 むかし むかし こどものいないおひゃくしょうさんがいました。あるひ きのえだのかたつむりをみて「どんなにちいさくてもいいから こどもがほしい。」 といったら、かたつむりがいいました。「おらがこどもになってあげる。」

 おひゃくしょうさんは よろこんでかたつむりをつれてかえると、はこのなかにあおいはっぱをしき、そのうえにのせました。
「かわいい!」おかみさんもよろこんで、まるでじぶんのこどものようにそだてました。

 あるひ、げんきにはいまわっていたかたつむりがいいました。「うまにまきをつんで おらをのせてくれ。まきをうりにいく。」おひゃくしょうさんはうまをひぱってきて まきをつみそのうえに かたつむりをのせてあげました。

 すると どうでしょう。かたつむりは「はい、どう どう。」と、いいながら うまをじょうずにあるかせていきます。おひゃくしょうさんもおかみさんもかんしんして「きをつけていくんだよ。」と、いいました。

 かたつむりはみちにでると、うたをうたいました。うまはそのうたにあわせて、しゃんご しゃんごとすずをならしました。それをみて、たんぼにいるひとたちが ふしぎそうにいいました。「だれが うまをひいているのかな。」

 かたつむりは うまを ちょうじゃさんのやしきのまえにとめていいました。「まきはいらんかのう。」でも、そこにいるのはうまだけ、「たいへんです。うまがまきをうりにきました。」やしきのひとがびっくりして ちょうじゃさんをよんできました。

 すると かたつむりがくびをふり、つのをふっていいました。「おらのまきをかってくれ。」「こんなかたつむりはみたことない。」ちょうじゃさんは かたつむりをてのひらにのせました。「よしよし みんなかってあげよう。」

 それをきくと かたつむりは てきぱきとめいれいしました。「まきをおろして、うまにみずをあげてくれ。」そこへ ちょうじゃさんの三人のむすめがやってきました。かたつむりはむすめさんのひとりを よめにほしいとおもいました。

 「なんてりこうなかたつむり。」むすめさんたちも、このかたつむりがきにいりました。かたつむりは おかねのふくろといっしょにうまにのせてもらうと、また うたをうたいながらいえへもどっていきました。

 かたつむりはいえにかえるなりいいました。「おらに ちょうじゃさんのむすめさんをもらってくれ。」 「とんでもない。だれがおまえのよめになんぞきてくれるものか。」いくらきかせても、かたつむりはききいれません.。
                                 
                      つづく
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『見残しの塔』・『破落戸』・『二枚目』
2018/07/22(Sun)
 朦朧とするような暑さがつづいています。
 このような中での、被災地の方々の体力に思いを馳せます。
 此度の災害では私の住まう団地が襲われるのではと思っていたので、明日は我が身、紙一重といった思いがよぎります。無理をしないでいただきたいとの思いがつのります。

 久木綾子著『見残しの塔』、諸田玲子著『破落戸(ごろつき)』、松井今朝子著『二枚目』、三作とも、裏山登りで出合う方々が貸してくださった本です。
初めて出会う作家ばかりです。
 それぞれの作品の帯に書かれている文章を読んで、ああそうだったと思い出すのがやっとというので、列記しておきます。
 
 『見残しの塔』では、時は室町中期。宮大工を志願して九州の隠れ里から出奔した青年左右近(さうちか)。一方、若さの国から母を尋ねて旅に出たのは、新田義貞の血を引く清らかな姫・初子。国法・瑠璃光寺五重塔建設に賭ける番匠たち、そして塔の下で交錯する誇り高き人々の運命を描いて日本人の魂に爽やかに響く、傑作歴史長編の誕生!解説・桜井よしこ

 『破落戸』 文化人を弾圧し悪名高い「天保の改革」。瓢六は弥左衛門やお奈緒らと陰に陽に立ち向かうが、やがて圧制者たちも決して一枚岩ではないことに気付く。「妖怪」こと鳥居耀蔵の裏切り、それによる水野越前守の失脚と復活。一方瓢六は勝家の若き当主・麟太郎と親交を深める。時代はうねり、活劇シリーズいよいよ佳境へ。解説・大矢博子

 『二枚目』 人気狂言作者・並木五瓶の弟子拍子郎は、今日も”町のうわさ”を集め、師匠のうちにやって来た。材木問屋の祟り、芝居小屋での娘の神隠し事件、吉原の女郎あがりと大店に勤める手代の心中事件・・・・・・・・。拍子郎は遭遇する事件の真相を、五瓶とその妻の小でん、料理茶屋のおあさ、北町奉行所に勤めている兄を巻き込んで、次々と明らかにしていく。江戸に生きる男と女の心の機微が織りなす、粋で心優しい捕物朝の
傑作シリーズ第2弾。(解説・安部譲二)

 読んだ順に難しかった。という印象です。とくに、『見残しの塔』は難しく、私は、此の中では、塔がどのような工法で立ち上がっていくのかを興味の対象にして読んだのですが、なかなか分かりにくく、かといって、著者の意図として何を中心に読めばいいのかよくわからなかった作品と言えます。
 やっぱり暑さのせいかしらと思うばかりです。
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『夏目漱石を楽しむ』―木曜会―
2018/07/11(Wed)
 伊藤秀輔・編集 『夏目漱石を楽しむ』―木曜会― を読みました。
 木曜会という会の会誌のようです。
 木曜会会員の松井卓子さんに頂きました。

 まずは頂いた松井卓子さんのエッセーから読ませていただき、あとは本の全容を目次などにて知ります。前書きに、昨年10月に亡くなった横山先生が、話題に出てくるところでは、えっ!横山先生の講座から端を発してできた会なのかとびっくりしました。
 横山先生は、広島文教女子大学の国文で近世の文学を指導されていたのですが、私が入学すると間もなく、広島大学付属病院に入院され、ほとんど講義を受けたことがありませんでした。どういういきさつか記憶がないのですが、私は其の大学病院へ一人でお見舞いに行ったことを覚えています。もともと青白い顔色をされていたように思うのですが、見舞いに行くと昏睡しておられて、その顔色が蒼白だったので、もう長くないのではと思ってそっと包みを置いて帰った記憶があります。
 一コマでも講義を受けたわたしは横山先生の事はよく存じ上げていたのですが、2・3年前、夫と先生の御自宅を訪ねたときには、私の事はご存じありませんでした。それでも先生からは大連の大学のことなどいろんなお話を伺い、その時のことはこのブログにも書き記しています。しかし、このような会についてお話を伺うことはありませんでした。

 あらためて、区民図書館の読書会からこのような本が出版されたことについては、その企画の素晴らしさに感心しました。
 本のタイトルにもなっている『夏目漱石を楽しむ』というそのことを、研究する会員もこの作品を読む人も、楽しみながら漱石に接することができるという意味では、ほんとうによくできた作品です。
 64ページの講演「現代日本の開化」まで読み進んでいきなり脇道にそれ、持っていた漱石全集の中からこの「現代日本の開化」の本文と解説を読み、解説にこの内容に関連することを述べている作品の紹介から、『吾輩は猫である』、『虞美人草』の一部と『三四郎』を、全文読み返しました。そして、私が勝手に関連づけた小泉八雲の「ある保守主義者」、『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』と読み進んでいき、際限なく、読書が進んでいきました。
 そうなると、この本は漱石を楽しむためのダイジェストとして、親しんで横における本になりました。

 そして、このたび漱石とこのように親しんで、私と漱石の関係がずいぶん変わってきました。
以前の私は、旺文社文庫の特性版『吾輩は猫である』をトロトロになるほど読み込んでいますが、印象としては、漱石の作品はこれと『坊ちゃん』以外いいものはないと思ってきました。
 そして、長野県の教育委員会に頼まれての公演記録「教育と文藝」のなかで、ロマン主義と自然主義のバランスについて述べているところは読んで以後、私にとって、世の中を見る時の振り子のような役割をするようになったことも印象的です。何となく高校を卒業してから、大学に行けなかった私は何かにつけて社会教育ということに焦点を置いて生きてきたのですが、この社会教育という言葉が文学者から語られているのを最初に知ったのはこの講演記録でした。
 文学論に数式を用いているのも印象的でした。新聞連載の作品などは、この数式に従って書いていくというスタンスが貫かれているように感じられるという印象をもって長年過ごしてきました。
 子育てをしながらの短期大学での卒業レポートは「漱石と漢詩」というようなタイトルで書きましたが、これは大いに失敗しました。今考えると当時は何をやっても失敗しただろうと思います。ただ、当時親しくしていた教育原理の先生に漱石の則天去私の話をしたところ知り合いの方に書いてもらったからと言って則天去私とかかれた色紙をくださいました。このまえ部屋の模様替えをしているときこれが出てきて懐かしく思ったことでした。
 私が長年抱いてきた漱石像はこんなものでした。

 このたび、すこし古文書の解読作業したあと読んでいくと、漱石の文章に使われている漢字と、それに添えられているルビの読みについて、漱石がこのような小説を書いていた明治40年代から110年の間に、ずいぶん日本の読み書きする言語が変わったという印象を受けます。古文書で読めなかった「暇令」という文字に「たとえ」とルビがあったりして日本語の複雑さを改めて考えます。しかし、逆に漱石はこう云った複雑な言語を上手に使って小説を書いていると言った感じがします。その余裕によって成り立っているようにも思えて、その余裕を充分に感じられる読み方ができるというところが以前と違った感想と思えてきます。

 「木曜会」同人のエッセーは楽しく2回も読ませていただきました。宮崎とし子さんのエッセーの中に、子どもの頃、カバヤ文庫を読んだとありましたが、2・3年前岡山のカバヤに、そのカバヤ文庫を見せていただくために夫婦で訪ねたことを思い出し、岡山の県立図書館でもこの文庫の痛みがひどいので探している様子もうかがってきました。山奥で育ったわたしはカバヤ文庫については知らなかったのですが、ここでは、楽しく読まれた人もあったことを初めて実感致しました。

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『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』
2018/07/03(Tue)
 小泉八雲の「ある保守主義者」を読み終わって、ふと、南方熊楠はこのあたり、どう感じていたのだろうかと、寝物語に、少し前古本屋で買っていた平凡社の『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』を読んでみました。
 読んでみましたと言っても、上下二段の464ページに時候なしの書簡がびっしり、これでも、見つかったもののなかで、熊楠のものは3分の1は紙面の都合上省いたといいます。
 ≪彼は面識のない人物の訪問を極端なまでに嫌いながら、一方で書面での問い合わせには、実にこまめに返事を出している。顕微鏡を使ってする粘菌類などの写生を途中でじゃまされたくなかったという事情もあろう。しかし、南方が書簡という形式をかりてもっとも率直に自分の学問や人生観を吐露することができた最大の原因は、やはりその性格に求めるほかはないだろう。≫
 ということは、出会って話すより、これを読むほうが、彼の本心により近づけると思いきや、彼が大切にしていた民俗学の当時最新と言える資料に近づけると言った方が適切です。ですから。「ある保守主義者」の参考になる部分には・・・・の思いでしたが、研究の方法論にまで言及しなければならなくなった大正元年12月8日午後2時に書き送った書簡に
 ≪ついでにいう。わが邦の学者は、何ごとも欧人の踏んだ順序を追わねば開化にならず、学問にならぬように思い、また思わずとも自然そのように成り行くは惜しむべし。東西を参考して一飛びによき物を採るの聖旨に戻れり。これは今に始まったことにあらず。熊沢蕃山など勤王の嚆矢のごとくいわる。しかるにその書いたものには、・・・・。このごろは、西洋には何が何より来ると、世界中の事物みな一源より出でしごとくいう説は、すでに多分過去のこととなりおるに、邦人は今にその旧轍を襲い迂回するは、主として書を購い、書を読むの費に乏しきお蔭と嗟嘆仕り候。これは学者の上に止まらず、維新のとき商業組合をつぶし(日本の商業組合は日本にてできたるものなり。スペイン人、オランダ人などの書にもこれを称揚して書きたり。もしこれを欧州に真似たりといわば、足利氏の世より泉州堺に政庁ごときもの武力を具したるをすらドイツのハンセアクチク・リーグ(ハンセ団)にまねたりとせんか、鑿のはなはだしきものなり)、さて後に欧州に組合あるを知り、品川子ら大周章して組合を作成せり。その他神社合祀といい、魚林の乱滅といい・・・。≫
 そのあとは、自分の運動についての説がつづくが、やはり
 ≪西洋がせでよきことをして、それを聞きかじって真似て、西洋がそれを悔いて復興すればまたまねて復興する。≫
 と一々もっともな御説。
 たしかに子爵とはいえ長州の足軽の子である品川弥次郎農務省大輔には、堺に武力を備えたギルドのようなものが存在し、かっては海外貿易で巨万の富を築いたことなど、御存じなかったかもしれないことは頷ける。

 それに、財布の貧しい私も、2000円で昭和51年出版のこの本を、ようよう平成28年ころ古本屋で700円で購入し、今やっと、大正元年の熊楠の御高説をたまわった身です。帰国しても『ネイチャー』などの科学雑誌に投稿を続けていた熊楠様に叱られても仕方ありません。

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「ある保守主義者」
2018/07/03(Tue)
 小泉八雲著平川祐弘訳「ある保守主義者」を読みました。
 「ある保守主義者」をより広く理解できたらと、その比較として、漱石の講演録「現代日本の開化」を読み、その趣旨が彼の外の作品でもあらわされていると言われる、『吾輩は猫である』や、『虞美人草』・『三四郎』とその部分らしきところを読み返して、改めてこの「ある保守主義者」を読み返してみました。
 なかなか以前のように、スラスラ読めないのが不思議です。
 漱石の「現代日本の開化」やその他を読んでいると、「義務」という言葉が多く出ているのに気付かされます。改めてこの「ある保守主義者」を見ると、
 ≪口がそろそろ利ける年頃になると、子供はまず次のように諭された。すなわち、この世で一番大事にせねばならぬものは義務である。≫
 ≪秀れた人士はその出所進退に際しては、正義を正義自体のために愛するの念と義務を普遍的な法と認めるの念以外の利己的な動機によって心を左右されるべきではない、という教えである。≫
 私たちは子どもの頃、義務教育である小中学校に通いましたが、私たちには学ぶ権利があるだけで、子供に教育を施すという義務は国にあると理解させられたように思います。このように、私たちは、働くようになって、給料に見合う働きというほどの義務を担った記憶しかありません。雇用主が税金は差し引いていましたので税金についても義務という感覚も薄かったように思います。
漱石は、そういった私たち昭和の人間に近い感覚の人だと思っていましたが、ここで述べられている「義務」というものの意味するものと同義語に「義務」という言葉を使っていることに気づかされました。

 また、漱石の「現代日本の開化」などには、「内発的」 という言葉も多く用いられています。「ある保守主義者」でも、
 ≪真宗はパリ大学やオックスフォード大学で教育を受けた自派の学者たちをすでに誇りとするにいたっている。というのもそうした日本の仏教学者たちの名前は全世界のサンスクリット学者の間であまねく知れ渡っているからである。たしかに日本は信仰について中世的な形態とは違ったより高度の形態のものを必要とするだろう。しかし、こうしたものは旧来の形態からおのずと進化発展したものでなければならず、内側から湧いて出るべきであって、けっして外から来たものであってはならないのである。西洋科学によって強固に武装された仏教こそ日本民族の将来の数々の必要に応ずる宗教であるに相違ない。≫
 とあり、内発性に重きを置いていることは、日本人以外のハーンから見ても重要だったことをうかがい知ることができます。

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『独房で見つめた“自由“』
2018/07/02(Mon)
 NHKこころの時代~宗教・人生~『独房で見つめた“自由“』 を見ました。ミャンマーの医師で作家のマ・ティーダさんへの取材番組です。
 1988年、医学生だった彼女は、アウンサンスーチーさんとともに、軍事独裁に抵抗する民主化運動に立ち上がり抵抗運動を続け、1993年27歳になろうとしていたころに逮捕され、6年6カ月6日間の独房生活を余儀なくされます。すべてのことが許されない独房生活のなかで、「囚人の私は本当に何もできなくなってしまったのだろうか」と自問自答します。そして「運命は変えられないかもしれない。しかし、それをよくするのも悪くするのも自分自身の選択次第だ」と考え、毎日一日20時間近く瞑想をはじめます。それにより、深く自分自身を見つめることができ、やがて、自分の自由は刑務所でも奪えないということがわかってきます。 自由は自分の中にあるもので、外から与えられるものではないとわかるのです。

 母から慈愛のこころをまなび、父はとてもリベラルで、彼は民族精神よりも市民精神の方が大切だと思っていて、ミャンマーの完璧な市民だったと言います。有名でもリーダーでもないけれど、父こそ市民のお手本であり、自分のお手本だったと言います。二人が旅行好きだったため、いろんな地方の事情を知り、電気もないよい道路もないと言ったところに住む人たちの事がいつも気にかかっていたと言います。
 おもしろかったのは、自分は英雄でもないし、勇敢でもない、自分は動かずに立っているのに、周りが後ろに下がるのです。それで私が勇敢なものになってしまったのです。英雄などにはなりたくありませんと言っているところでした。
 怖かったのは自分たちが不正義を許し受け入れてしまうことだったのだと言います。最初アウンサンスーチーさんのところでアシスタントにならないかと誘いの話がありましたが、誰か一人の為に働く気にはなれず断ろうと思いました。ところが1988年8月26日シュエダゴン・パタゴでの演説を聞いて、心を動かされたので彼女の屋敷に行ったと言います。

 牢獄での生活は本を読むことも禁じられ、本を読まないことが罪のように感じられていましたが、自分の体と心だけあればできるヴィパッサナー瞑想(物事をありのままに観る)で自分を読むことができ、心が解放され本を読まなくてもよくなったといい、あなたの仏教は刑務所にいた間に成熟したと思いますか?という問いに対して、間違いありません。私を変えたと思いますと述べます。自分にとっての自由の意味を著書で、看守と比較してのエピソードとして、副看守長が「マ・ティーダ、君という人は自由だな。しかし我々は公務員なのだ。分かってほしい」と言われて、看守たちは身体や法的には自由ですが思想や日々の活動では自由がなかった。自分は身体や法的には不自由ですが、自分の考えを現わす自由な意思は持ち続けていると気が付きます。それは瞑想があればこそ得られたことで、そうでなければ自分を保ち続けることは困難で、この瞑想を刑務所で実践できて幸運だった、大きな力を得ることができ、解放されたとき刑務所に感謝しいのりをささげたと述べるに至ったのです。

 お前は共産主義・社会主義、何主義かと聞かれたとき、私の主義は仏教(ブディズム)ですと答えたと言います。私にとって仏教とは「主義(イズム)」原則で、生き方のようなものです。ここのところまで聞いていると、私にも、自分自身を救えるのは自分自身である、ブッダは生きることへのインストラクターのようなものだというブッダの解説書の言葉が理論上はよく理解できます。彼女も、長い間、仏教の言う涅槃「完全な自由」(ニルヴァーナ)ということの意味がよくわかったと述べます。自分はもっともっと放漫で短気だったが瞑想がなければ今ほど心の平静は保てなかったと述べます。当時、現世をあきらめて来世に期待して祈る人もたくさんいたが・・・。という質問に対して、独裁者は政治的存在ですが、宗教的存在でもあり、宗教指導者の中には、社会をよくする方法がわからないため、目的をそらす人たちがいる。祈ったり崇拝することで許されるとか、何か得られるとか、徳が積まれ救われるとか、豊かになるとかこれはブッダの信仰のあり方ではない。ブッダの教えとは、自分自身を教化することで、現世こそが私にとって最上の恵みだと感じていて、自分は来世まで待てないと笑って言います。

 刑務所を出てからの医療や、出版活動によってのコメントは、ミャンマーの事ではなく、日本のことを話しているようにも思えます。じつは世界中の国に当てはまるのかもしれません。これは、人間の思考回路や、行動様式を非常によく観察しているからで、心が解放されているから見えてくることではないかと驚かされます。

 最後に。今を生きるそれが私の指標です。と、問題から逸れないのがすごいと感じました。

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