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第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(2)
2018/08/30(Thu)
 会の初めに情報交換があります。そのとき私は2点伝達しました。
 1つは、7月23日の中国新聞コピーです。
 現在、平和公園の原爆資料館が建っているところに、原爆が落ちたときあった町並の一部に、陸上選手の山縣亮太選手と私たち夫婦の知り合いの今中圭介さんの家があったという図面の記事のコピーを配布しました。
 今一つは、以前回覧された『石仏』の記事で紹介された向井ゆき子さんの『合志義塾 明治三十九年塾生のノート』と合志市が発行した『「カタルバの樹」シンポジウム記録報告書』と、『「カタルパの樹」と合志義塾展図録』が送られてきたので紹介し、3冊とも回覧させていただきました。災害によって発見された、この塾生ノートが一級資料であることを会員のみなさんに伝えました。

 わたしは、かって発表とか、情報提供なるものをしたことがなく申し訳なかったので、不要の傘をリホームして作った水をよくはじいて軽―い腕抜きを縫ったのが登山仲間のあいだで人気だったので、あれでも発表しようかと夫婦で笑ったこともあったのでした。 でもちょっと思い返してみると、風呂先生がおられたとき、会に参加するときは、私は早く行っていろんなものをこっそり先生に見せびらかして自慢していたのでした。なかでも先生が「この写真、一枚わしにも現像してもらえんか」といわれた、庭で撮影したイシガケチョウの写真や、山で見つけたハーモニカの形をした蜂の巣の写真など。「これはいい本じゃ、儂も欲しい」といって注文され、すでに売り切れだったのに、この六月に可部プリントで再販すると聞いて墓場で残念がっておられると思った本。「みんなにも見せてやれーやー」といわれた、なんでも鑑定団にハーンの会へ入会以前に出演したときのDVD・・・。
本当は今日の情報だって、いちばんに風呂先生に見てほしいのに・・・。

 このたびは、早く来られていた田中先生や、貝島先生、そして隣の席の三島さんにも聞いていただきました。でもいまそう書いていて気が付きました。そういえば他の会員の方も、先生のところにいっては、みんなこそこそ先生と話をしておられたのです。それぞれ一人一人がみんな私と同じように、自分のそんな情報をまずは風呂先生に聞いてもらっておられたのです。でも先生はもう亡くなられた。この数ヶ月間、何にでも興味を持ってじっと聞いてくださる先生がなくなられて、皆我慢していたのでしょう。それが今日一気に皆の前で、情報として、発表として噴出したのでしょう。だから、発表も、情報交換も多くなって、時間を大幅に延長し、それでも誰一人帰らず、聞き入って聞き役もみんながしました。貝嶋先生がいっそうの工夫を凝らして『ある保守主義者』の翻訳の勉強の準備をしてくださっていたのに、それができないままになってしまうほど・・・・。思い出すと涙が出てまた書けなくなりそうです。
つづきは第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(3)でまた報告します。
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第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(1)
2018/08/27(Mon)
 先月の7月7日が215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」の予定でしたが、最大級の警報が出たために急遽中止になり、このたび8月25日が215回になりました。
 2014年3月末日65歳で定年退職をして、5月11日に165回の会に初めて出席させていただき、ちょうど40回目が初めて中止になりました。
 このたびの参加者は新しく参加された方を含めて12名でした。

 このたび貝嶋先生が、会の進行のレジメを作ってくださり、ぼーっとして参加している私には、なにか会の柱ができたようで大変うれしく思いました。

 会の始まる前に、三島さんが、お願いしておいた紙芝居の本を配布してくださいました。あとで持ち帰って、次の日の日曜日、朝6時40分に家を出ての避難訓練にいく直前にパラパラめくっていて、(からむし会)というところに目が行き、昨年古文書で、『理勢志』を解読しているとき初めて「からむし」という植物を知って、太田川の河原に夫と探しに行った「からむし」のことではないかと、ネットで検索していてみました。じつはなんと著者の錦織明さんというかたは、紙芝居いがいに、いろいろと大変なことをしておられる方だということが分かってきて、腰を抜かしそうになったことでした。

『理勢志』は、広島藩の16の郡の風土などが、どちらかというと藩政的な視点から記されているものですが、当時、高宮郡と称した、わたしのいま住んでいる処の産物のなかに、鮎や、漆、柿、などといっしょに麻苧と記されており、これは何と読む?なんのこと?といろいろ調べているうち、これが繊維のもとになる植物の一つで「からむし」だということがわかりました。いちどこれから繊維を取り出してみたいと思うようになり、それからは「からむし」を見かけるたびに気になっていたのでした。

  そんな錦織明さんの活動の記述を尻目に、キューピーコーワゴールドとリポビタンDを飲んで避難訓練にでかけたのですが、集合場所には1番につき、それからさらに消防士さんに先導されて徒歩で中学校まで行き、地獄のような1日となり、今現在被災されておられる方々のご苦労を思い、そのご苦労に気が遠くなりそうでした。

 あっ!避難訓練の記録になりそうになったので、それにまだ疲れもとれていないので、「広島ラフカディオ・ハーンの会」の本番については改めて参加記録(2)として記録したいと思います。


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『算法少女』
2018/08/22(Wed)
 遠藤寛子著 『和算少女』 を読みました。
 2006年8月10日第一刷発行の、筑摩書房よりのちくま学芸文庫本です。
 図書館に、その時ある遠藤周作の文庫本をすべて借りてきたつもりでしたが、すべての中によく見ると、この遠藤寛子という人の本が混じっていたという縁で読んでみました。

 まずこの作品のタイトル『算法少女』についてですが、これは、著者の遠藤寛子氏が付けたタイトルではなくて、江戸時代の安永年間(1772年から1781年)出版された本で、作者は、三上義夫の研究で、千葉桃三という医師らしいこと、あき(章子)という娘が、父をてつだったのではないか、ということに落ち着いたといいます。

 その娘のあきが主人公の作品です。
 ある稲荷神社に、水野三之助が算法を説いた絵馬を奉納するところに、ちょうどこのあきが、女の子の友達といあわせて、この答えは間違っているのではないかと呟いたところから話しが始まります。この呟きを聞いた人から、ちょうど娘の算法指南役を探していた、久留米藩二十一万石の大名、七代藩主有馬頼憧(よりゆき)につたわり、指南役にとの話があり、父親の千葉桃三の友達の谷素外がこの話を伝えてきます。
 町中のうわさになり、皆が祝ってくれるのですが、娘の宇多を指南役にと思っていた、召し抱えられている関学派の藤田貞資がこれを知り、殿様に流派が違うと異議を申し立てます。殿様に、あきと宇多が呼び出され、その場で問題を出されます。これは二人とも直ぐにできたので、殿様は持ち帰って誰に教えてもらって教わってもいいが、そのことをよく理解していたものを採用することにしました。その答を、出すのに難癖を付けられたので、あきの方から指南役を断ります。これへの応酬もあってか、谷素外は、費用は出すからといって親子で算法の本を出版することを勧めるのです。

 父親の千葉桃三は医師でしたが、貧しくて困っている人を診察して助けるのでお金にはならず、母親はいつも困っています。あきは父親を手伝って、患者のところへの使いをしているとき、木賃宿の松葉屋に行き、そこに宿泊している子どもたちと仲良くなり、九九も知らないことを知り教え始めます。それを聞きつけた町の子どもたちも教えてほしいと言ってくるようになり、その保護者が、お礼をしてでもということに発展し、お金が入ってくるようになりました。いろんな人を知るようになり、そのなかのひとりが追われていて、あきに、書面を頼みこみます。それは、久留米藩の国元で一揆がおこり、それで、捕えられている人の赦免を藩主に要求する書面でした。

 そのことを知って、それまで算法の本の『算法少女』を殿様に差し出すよう谷素外に勧められるのを断っていたのですが、あきはその書面を本の間に挟んで差し出すことにしました。
 谷素外につれられて屋敷にいってみると、手毬を持っている宇多に出合い、手毬の大好きな宇多と気持ちを通じ合わせ二人で手毬で遊んでいると殿様に呼ばれ本を差し上げます。殿様は書面が挟まれていることに気付き急用ができたといって席を外し、あきと宇多は茶菓に預かり、のち、捕えられている人をおいおい赦免することが言い渡されるという話です。

 この作品のなかには、算法の歴史について書かれているところがあります。
 万葉集の時代時代にはもうすでに九九があったということで、「しし」と読ませるところを十六と書いているのがあったりするというので、山部赤人の長歌
 やすみしし わが大君は
 み吉野の あきつの小野の
 野の上(え)には 鳥見(とみ)すえおきて
 み山には 射部(いめ)たてわたし
 朝狩りに 十六(しし)ふみおこし
 夕狩に 鳥ふみたてて 
 馬なめて みかりぞ立たす
 春の茂野(しげの)に
( わが大君は吉野のあきつの小野の野のあたりに鳥見を配置し、山には射部を一面に設け、朝の狩では、猪をふみたて、夕の狩では鳥を追いたて、馬を並べて狩をなされる。それは春のしげった野のことである)
の例が挙げられています。

 また、中国では四五〇年ころ、祖冲之(そちゅうし)という学者が、3、1415926まで精密な数を出していたことや、 現在のような表記法は、安永年間のころオランダを通して伝わってきたこと、などとても興味深く読みました。
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『協奏曲』
2018/08/19(Sun)
 遠藤周作著 『協奏曲』上を読みました。
 昭和54年5月15日、講談社発行の文庫本です・
 えっ! 恋愛小説!!
 と、その裏表紙の
 ≪かっての恋人で、今は外交官夫人になっている女性を忘れられず、再会を期してフランスへ渡る中年作家。また、海外取材という名目で、この中年独身作家の後を追う、天衣無縫に生きる若い女性アナウンサー。二つの世代の恋愛とその心理的葛藤を、同時並列の映画的手法で描く長編。≫
という説明を読んでびっくりしました。

 で、さきに解説を読みました。大方あらすじが書いてあるのかと思えるほどの内容と、
 ≪だが、作者はエロスの情熱的作家ではなく、精神的なアガペ(愛)の作家である。アガペとは本来、愛餐、つまり“ともに食事をなす、共に聖餐をなす”というキリスト教的な意味を持つ言葉のようである。アガペについて作者はエッセイ「芸術交流体について」のなかで、“ともに食事をなすような共同、交流、伝達を基とする愛”であるとし、さらにアガペを秩序と共同を基盤とする共同的愛だとしている。このエッセイは昭和32年1057年に書かれたもので、この考え方はキリスト者遠藤周作氏の人生観、芸術論であり、今日まで氏をつらぬく原理だと思われるが、「協奏曲」の中年の恋愛も、この原理、作法から逸脱してはいない。≫
と、そんな女性への恋情を解説しています。

 彼の思いを代弁する作品中の千葉については、誠にそうで御座りますか。と思えるのですが、これが、十何歳も年下の天衣無縫に生きる弓子に、私を好きになってください。体を“あげてもいい”というアナウンサーという職業を持つほどの積極的な気持ちに含羞の醜さを感じるのですが、作品の中では、、彼女の将来を考えて上手にいなします。

 ここを読んでいて、ふと我が娘が大学生の時、海と島の博覧会のスタッフのアルバイトをしていたときに、帰って私に話したのを思い出します。このアルバイトは、期間中だけではなくて、それよりかなり早くから行きはじめて、期間への準備をするようです。ガイドに採用されてきた女性への教育をする人が東京からやってきて、化粧の仕方、お辞儀の仕方、言葉遣いなどの教育をし、加えて、いたずらっ子の処理の仕方、酔っ払いの男性や、冷やかしの男性などがからんできた時のいなし方なども教育するのだと面白おかしく話したので、私も子供を見る仕事をしていたので、ちがう職種ですが、一度聞いてみたいと思ったものでした。

  読後感としては、恋愛の事もさることながら、「金高かおる世界の旅」という番組の人気をうけて企画された、ヨーロッパ旅行を利用してひそかに千葉と会おうとする弓子とスタッフのその旅行の経過を、知らない地名を地図を広げって追っていき、いろいろ想像できる気分になり、素敵でした。

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『宿敵』上下
2018/08/17(Fri)
 遠藤周作著 『宿敵』上下 を読みました。
 昭和六二年九月初版発行の角川文庫上下二巻です。
 ≪――天正十年六月二日の早朝―≫ から始まる歴史小説です。
 天正十年とは1582年で、宮本武蔵の生まれた年です。しかしこのお話は、宮本武蔵と、佐々木小次郎の話ではなくて、本能寺の変からはじまる、小西行長と加藤清正の話です。関ヶ原の戦いで宮本武蔵も一行ほど出てきますが。
 わたしにとって、歴史小説でも一番よく読んでいる戦国時代の話なので、この本を読んでいる間中楽しくて、読み終わったいまでは、まるで、同窓会に行ってきたような気分を味わっています。
 「まあ、小西行長君はキリシタン大名で、加藤清正君は城作りの名人であの強固な城を作ったことはよく覚えていたけど、二人は宿敵だったの?」といった感じです。
 「遠藤周作君は、キリスト教だったから、『沈黙』で、キリスト教でいうところの神の存在や、信仰のあり方を問い続ける作品を書いたけど、それは、よく考えてみればもちろん戦国時代の話だったのだけれども、戦国時代の、いわゆる国が統一されていく流れを描いていたのではなかったから、あまり戦国時代の歴史小説という気がしなかったのに、このたびは、本能寺の変の日の早朝から始まり、1600年の関ヶ原の戦いで敗走した、石田光成君と小西行長君と安国寺恵瓊君が捕えられて、家康君に京都六条河原で斬首され三条大橋に首をさらされ、その6年後加藤清正君が病死するところで終わるという話だったため、戦国時代の皆にあえて、同窓会のような気分になったのよね。」という具合です。

 今まで読んだ本との読み合わせで思い出して、より確認できた部分を、2・3書き記してみたいと思います。
 少し前、南方熊楠が品川弥次郎が商業組合は西欧化によってできたもののように思っていることを非難して書いた書簡を読んだのですが、ここに、小西行長の生まれた堺の会合衆だった小西家について書かれた部分で、堺は戦国時代には一種の自由都市だったため、ある学者は堺をルネッサンスのヴェニスにたとえていて、切支丹宣教師ヴィレラが故国に書き送った手紙に「堺はヴェニスの如く執政官たちによって治められている」とかかれており、執政官というのが会合衆であったと説明されています。これは、加藤清正の出自と比較して、もともと、小西行長には同じ九州大名でも、加藤清正のように武人としての実戦的な能力はなかったが、頼る大きな経済的バックボーンがあり、培われた交渉能力があったり、面従腹背的な生き方ができる部分では、ある意味加藤清正は、そういった商業自治については全く知識がなく、言い換えれば明治の品川弥次郎のような性格だったともいえます。

 また、ずっと以前三浦綾子の『利休とその妻たち』で、利休は「狭き門より入れ」という言葉から、躙り口(にじりぐち)を考えたとか、茶の湯の作法をキリスト教からヒントを得た部分について書かれていましたが、ここでは、カリス(杯)と布から、茶器と袱紗のヒントを得たことが書かれてあります。

 やはりずっと以前、井伏鱒二の『神屋宗湛の残した日記』では、本能寺の変の日に、神屋宗湛は織田信長に招かれて、本能寺に宿泊していて、事が起こるや、床の間にかかっていた信長自慢の掛け軸をまいて腰に差してさっさと逃げたと書かれてあったことが印象に残っていましたが、ここでは、5年後の天正15年、秀吉に北野での茶会に招かれて九州から駆け付けたとあり、やはり、博多の豪商も権力とうまく付き合っていたことがあげられ、いつの時代も貿易と政治は切っても切り離せない重大なことのようです。

 この作品では、豊臣秀吉の老後の変様について、その原因がわからないとしていますが、つい最近読んだ、 童門冬二著 『信長・秀吉・家康の研究』 では、秀吉の弟秀長の死によって、秀吉が変様したことが述べられていました。そのことを思いながらこの本を読んでいくと、一人一人の人間には誰でも限界があり、体の弱かった秀長の死は日本の歴史を変えたかもしれないとの思いも致します。

 歴史小説と言えば、まずは司馬遼太郎ですが、関ヶ原の陣形について、遠藤周作が、司馬遼太郎に聞いた話を書き添えているところは、遠藤周作の人となりについて考えさせられました。

 最後の泉秀樹という人の解説に、小西行長のものであったとして伝えられる「千羽鴉の鞍」と呼ばれている鞍がいまにのこされてあり、行長が鴉に何か心情や思想を象徴させているのではないかと考えたとして、ポーの『大鴉』(THE RAVEN)の「心訝り 衆生悉皆の夢せぬ夢を夢みつつ」(日夏耿之介訳)を思い出したことを述べています。
 なるほど、関ヶ原の後、小西行長が逃亡して、谷に一軒の農家を見てたちより、「ただ、一椀、湯づけなど所望できぬか」とたのみ、馳走になり、落ち延びるよう説得されても、「あとは役人に引き渡すがよい、そして小西摂津守を捕えたと申せ」という場面を連想 させます。
 また、いつだったかラフカディオ・ハーンの会で風呂先生が、このポーの『大鴉』の話をしてくださり、夫婦でこの日夏耿之介訳の本を購入して読んだことも思い出しました。

 この読書で、加藤清正と石田光成の確執が、じつは、小西行長との確執の方が大きかったと思えるようになり、小西行長と小西家について少し詳しくなった気がしています。(何時まで記憶に残るか自信はありませんが・・・)
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『沈黙「あとがき」』
2018/08/14(Tue)
 昭和41年3月30日、新潮社の純文学書下ろし特別作品の1冊として発行された、『沈黙』の初版本の「あとがき」です。
 新潮社の純文学書下ろし特別作品の何冊かは、若いころ、夫が買い揃えていたものです。しかし、『沈黙』は誰かに貸してそれきりになったとのことです。
 このたびは 同じ本がネットで買えず、違う本で読みました。
 同じ本は図書館に予約しておきました。届いてみると、 書下ろしのこの本には、著者遠藤周作の「あとがき」がありました。
 この本は、神の存在や信仰の在り方に新たな疑問を投げかけたことから、出版当初教会の一部で禁書扱いになりました。
 せっかくなので、図書館に返す前に、この「あとがき」を全文記録しておくことにしました。

≪   「あとがき」

 数年前、長崎で見た磨滅した一つの踏絵――そこには黒い足指の痕も残っていた――がながい間、心から離れず、それを踏んだ者の姿が入院中、私のなかで生きはじめていった。
 そして昨年一月からこの小説にとりかかった。
 ロドリゴの最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかしこれは私の今の立場である。
 それによって受ける神学的な批判ももちろん承知しているが、どうにも仕方がない。

 次にこの小説のモデルである岡本三右衛門について少し書いておく。本文の岡田三右衛門ことロドリゴとちがって彼は(本名、ジョゼッペ・キャラ)シシリヤに生まれ、フェレイラ神父を求めて一六四三年六月二十七日、筑前大島に上陸し、潜伏布教を試みたが、ただちに捕縛され、長崎奉行所から江戸小石川牢獄に送られた。
 ここで井上筑後守の訊問と「穴吊り」の刑をうけて棄教、日本婦人を妻として切支丹屋敷に住み、壱千六百八拾五年八十四歳にて死んだ。彼と共に布教に渡日したアロヨ、カラッソの二人も皆、拷問の後、転んでいる。小説中のロドリゴやガルベと史実のキャラとの違いのためにこの点を指摘しておく。
 また、第九章中の「長崎出島オランダ商館員ヨナセンの日記」は村上博士訳の『オランダ商館日記』から、「切支丹屋敷役人日記」は『続々群書類従』中の査祅余禄から抜粋し、書きなおしたことをここに附記しておく。
  昭和四十一年二月二十日  著  者 ≫

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『イエスの生涯』
2018/08/14(Tue)
 遠藤周作著 『イエスの生涯』 を読みました。
 ≪・・・・。もちろん私はこの「イエスの生涯」の俯瞰によってイエス自身を捉えられたとはつゆ思ってはいない。我々は自分の人生を投影してこの人を考えるからである。少なくともこの人の生涯には我々の人生を投影してなお摑みがたい神秘と謎があるのだ。私もまた生涯のいつの日か自分の人生の蓄積でふたたび「イエスの生涯」を書きたいと思う。そしてそれを書き終えた後も、更に「イエスの生涯」にあらたに筆をとる気持ちを失わないであろう。≫
でこの作品は終わります。

 『薔薇の館』は、いつものように、ぼーっとして読んでいて、とうとうまた読み返しました。
 この作品もやはり読み返すだろうと思いながら読んだのですが、最後のこの文章に出合って、ああ、これはいま読み返さなくても、私もまた生涯のいつの日か読み返したいと思うかもしれないと思ったのでした。

 私たちは、仏教については、ぶったが生まれた時代背景とか、彼の教えのその時代への意味などについて、いろんな本で触れていて、なにかしら仏教について自分なりのイメージを抱いているように思います。
 キリスト教については、復活されたイエスキリストであるとか、救いたもうイエスキリストなどという言葉から知っていったために、それを敬虔に信仰されている人にとっては大切でなものなので、私たちもその敬虔な信仰に対して敬意を払うけれども、自分にはよくわからないものでした。
 しかし、この作品を、西暦紀元28年1月ころに端を発した、ガリラヤという、小国ユダヤの更に小さなパレスチナの田舎に育った30歳くらいの大工だった男性(イエスキリスト)の短い生涯を歴史小説として読んだのは初めてでした。
 是を読んでおくことは、少なくとも、敬虔な信仰に対して敬意を払うなどと言ってるものとしては、てとても大切なことであったと、イエスキリストについての話を物語的にとらえるばかりで、その理解がなかったことへの無念を思いました。

遠藤周作は、この男性について書かれたものが種々あるため、それらを読み合わせながらも、できるだけ不合理のない部分を取り入れて描くよう試みています。
そして、様々に描かれたこの男性を取り巻く出来事については、事実よりも真実をつかもうとの姿勢を貫くことを信条にしていることを何度か述べ、、彼の見つめたものが、信仰の対象としての彼の価値を見出そうとしています。
 信仰の対象としての彼の価値とは、「人間の魂が欲した真実の世界」と述べています。

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『薔薇の館』
2018/08/12(Sun)
 遠藤周作著 『薔薇の館』 を読みました。
 薔薇の館とは、軽井沢の小さな教会のことで、ここの司祭館が舞台の、三幕八場面の戯曲です。
 第一幕は、昭和17年4月の教会の司祭館が舞台です。
 進学した東京の大学の春休みを利用して、高志という青年がトシという女の子と復活祭のための紙芝居の練習をしています。
 そこへ、13年前、夫がイギリスへ外交官として赴任するときついて行った岩下夫人が、外務省での仕事が亡くなった夫と別荘に戻ってきており、別荘の管理をする役場勤務の田端と登場します。
 さらに、スイス人で日本に来てまだ2か月という修道士のウッサンが花作りのための畑仕事着の格好で登場します。そしてブルーネ神父がネズミ退治の白い薬を手にして、療養所から帰ってきます。夫人は彼に夫からブルーネ神父に祖国へ帰った方がいいとの伝言を伝えます。
 夫人の忠言を受け入れなかったブルーネ神父は18年2月抑留所送りになりウッサンに、自分を棄てて他人に奉仕すること、司祭館に続いている空家に清岡さんという気の毒な夫婦が来るので頼むと言って連行されていきます。
 19年9月、高志は学徒兵として徴用されることになります。それで、修道士のウッサンに聞きます。
 ≪じゃあ、ウッサンさん。教会って一体なんです。日曜ごとに、盗むなかれ、姦淫するなかれ、殺すなかれという言葉を、唱えさせるくせに・・・・。僕だけじゃない。たくさんの信者の人が赤紙貰って支那やフィリッピンに出征するのに、戦争というのは、結局人と人とが殺し合うことだと心じゃ百も承知しているくせに、神父さんも日本の教会も、見て見ぬふりをしている。・・・でも、今、ぼくにもすこしずつわかってきたぞ、日本の教会は日本人のことを少しも考えていなかったんだ。そのくせ、まるで日本人の苦しみがわかっているようにうつくしい言葉で説教をしていただけなんだ。≫と疑問をぶつけます。
 またウッサンに、夫が外交官だった岩下夫人も、夫が連行されたが、明日は東京の憲兵隊司令部に送られるだろうから、長野の司教様からドイツかスイスの大使館に釈放を働きかけてくれるよう頼んでくるのですが、長野の司教からは断られてしまいます。
 そして、高志が入隊の日見送られて汽車に乗り、途中の駅で飛びおり帰って来たため、警察に連れていかれ、5日後3階の取調室から飛び降り自殺をしてしまいます。トシは以後頭がおかしくなります。それに、岩下夫人の夫は連行された先で病死してしまいます。そしてウッサンは保護疎開という名目で留置所に送られることになり、その迎えを待っている間にネズミ退治の薬を飲んで自殺をしてしまいます。直後天皇陛下の終戦宣言がラジオで流されます。
 8カ月後、抑留生活で凍傷になり左足を切って義足をつけたブルーネ神父が帰ってきます。
 ウッサンの亡くなった部屋にひとり行き、ウッサン一人に重い十字架を背負わせたことに後悔します。そして、空き家に住まわせた夫婦で、それまで信者をからかってばかりいた夫が、信仰告白をするところへ、新しい修道士が訪ねてきて来て、幕となります。
 
 遠藤周作の保守主義は、キリスト教で教えるところの、離婚をしない。堕胎をしない。自殺をしない。そして神を見捨てない。を守ることだとどこかで述べていました。
 そのために彼は、作品の中で、繰り返し繰り返し、キリスト教に疑問を投げかけています。
 そして、自分の信仰を納得いくものにしようと試みているように思います。



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『影法師』
2018/08/07(Tue)
 遠藤周作著 『影法師』 を読みました。
 昭和五十三年九月発行の、新潮社現代文学41に収録されている作品の一つです。
 収録されている作品は、
  『沈黙』
  『あまりに青い空』
  『私のもの』
  『四十歳の男』
  『影法師』
  『薔薇の館』
  『イエスの生涯』
  解説・年表
 です。
 いま、 先に年表を読んで、『薔薇の館』 を少し読み始めたところです。
 私が先に年表を読んだのは、『あまりに青い空』・『私のもの』・『四十歳の男』・『影法師』それぞれが彼の生い立ちと思える部分があちこちに組み込まれているのではと、思ったからでした。
 遠藤周作は、両親の離婚により昭和8年、大連から日本に帰り、伯母の家に同居する生活が始まります。そして昭和9年には叔母や母に勧められあまり関心のないままで、他の子どもたちと洗礼を受けました。
 彼にとっては、どういういきさつで、どういう心境で洗礼を受けたのかということを、それぞれの作品で何度もえがいているように思います。
 この『影法師』という作品は、かって幼い時に、母や伯母に連れていかれた教会で、お世話になった神父を、後年小説家になった彼が渋谷の小さなレストランで見かけたことから始まります。
 彼は強くたくましく、神父として布教活動や神学研究を情熱的に怠りなくやり、全く非難の余地のない人でした。
 しかし自分は怠惰で、体も弱く彼の指導についていけず、いつも彼に叱られてばかりで、あっる時は飼っている犬を棄てられたり、寄宿舎を追い出されたり、つらく悲しい思い出しかありませんでした。
 そんな強い意志の彼が、聖職者でありながら日本人の一人の女と限界を超えた交際をしているという噂を聞くようになりました。その噂はまちがいだろうと思っていたのですが、自分が結婚式を挙げるために、彼女に其のお願いに行かせたとき、彼女が噂どおりのことを目撃してしまうのでした。
 彼は、その後英語の会話学校で教鞭をとったり、スペイン語の個人教授をして生活して、日本人との間に子供ができたことなどもだれかに聞きました。
 彼について長い間、考え続けます。彼はもはや、自信と信念に充ち人生を高みから見おろし裁断する強い宣教師ではなく、捨てられた犬と同じように悲しい目と同じ目をする人間になったことを考えます。
 そして、考えた末、≪・・・彼のかって信じていたものは、そのためにあったのだとさえ思う。・・・・貴方はボーイが一皿の食事を運んできた時、他の客に気づかれぬよう素早く十字を切ったのだから。≫
で終わる処は、私には、煩悩について真面目に自己と向き合った親鸞を思い浮かべる処でした。


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『生きる勇気が湧いてくる本』
2018/08/05(Sun)
 遠藤周作著 『生きる勇気が湧いてくる本』 を読みました。
 途中『沈黙』を読んで、途切れたのですが、この作品は、それまでの彼の作品集38冊の中から、選ばれたアフォリズム(箴言)が次々とあり、何度も読んだことのある箴言に出合うので、親しく気楽に読めるものでした。

 『沈黙』のところのブログ記事でも記したように、この作品が編集され、タイピングされるあいだ、遠藤周作は入院していて、退院祝いをしようなどと話し合っているうち様態が急変、入院生活は引き伸ばされ、あげく亡くなってしまいました。

 『生きる勇気が湧いてくる本』最後の作品には
 ≪・・・・。毅然として死ねない人よ。それでいいではありませんか。人間をこえた大いなる天、大いなる命は毅然として死ななくて  もそんなことは問題にしないのだ。
 私の友人で司祭である井上洋治神父は、
 裏をみせ 表をみせて 散る黄葉
 という句が好きである。
 神 ― 大いなるものは表だけでなく、我々の裏の裏までも御承知なのである。≫
 というところで終わる箴言が引いてあります。

 遠藤周作のその人や作品をよく知る編集者が、この箴言を引いていることで、『沈黙』のクライマックスの
 ≪その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで泣いた。≫
 という部分と符号をするし、彼が、キリスト教にずっと感じていた、合わない洋服を着せられて違和感を感じていて、それを何とか自分の身の丈に合うものにしたいと、カトリックの本場に留学し、ぎゃくに違和感や距離感を感じるようになっていたのが、2年余りの入院生活の中で、何度も神に問い続ける苦しみの中で得ることのできた神の声とも符合してくるのです。

他にも彼の思いの詰まった箴言も多々ありました。その中から、一つ

 ≪私がキリスト教の洗礼を受けたということは、自分で選んだのではありません。いわば、母親から無理やり吊るしの洋服を買わされて、それを着たようなものです。(略)が、そういう動機はどうでもいいことで、そのあと、自分が受けたものをどう持続するかということが信仰だろう、というふうに考えるようになりました。≫
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『沈黙』 (2)
2018/08/05(Sun)
 遠藤周作は、この作品のなかで、私たち日本人がもつ疑問について悉く提示しているように感じられます。
一神教に対する疑問については、本文中、
 ≪(しかし、万一・・・・もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば・・・・)これは恐ろしい創造でした。彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウのなんと滑稽な劇だったか。多くの海をわたり、三か年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。≫
 と自問自答する部分があります。

 また、日本では、西洋からキリスト教という宗教が伝わったために、多くの殉教者を出しました。西洋からのキリスト教が本当に必要だったのでしょうか?本文中、
 ≪私の長い間の想像は間違っていませんでした。日本人の百姓たちは私を通して何に飢えていたのか。牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中には初めてその足枷を棄てる一筋の路を我々の教えに見つけたのです。仏教の坊主たちは彼等をこの生がただ諦めるためにあると思っているのです。≫
 とあり、必然性について述べられています。確かに今日でもこれだけの災害がありながら、お寺に避難したというような報道をまったく見聞きしないのも不思議なことと思えなくもありません。

 そして、日本人はキリスト教をどのように受け入れたのかという疑問については、
 ≪もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さい十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。そうした物は船の中にみな置いてきてしまったと言うと非常に悲しそうな顔をするのです。私は彼等のために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてわけてやらねばならなかったのです。こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかしなにか変な不安が起こってきます。彼らはなにかを間違っているのではないでしょうか。≫
 これは偶像礼拝の事を言っているのではないかと思えます。彼は自分の身に何か起こるとイエスキリストに起こった出来事の似た部分を思い起こし、自分が想像するところのキリストの顔や気持ちを思い、自分を重ね合わせて至福を感じ敬虔な気持ちになるのでした。
 もう一つといった時の後の一つは、彼が転んだとき、≪自分は布教会から追放されているだけではなく、司祭としてのすべての権利をはく奪され・・・≫というところの組織内での権利への執着といったようなものです。

 また、私たち日本人が受け入れることができる宗教とは、どのようなものなのか。
 仏教は、今ここにこうしてある自分へのありようの認識だということもあり、これは宗教ではなく哲学だと言われることがよくあります。しかし、哲学ばかりでは割り切れないのが人間です。生き物はたいてい必ずほかの生き物を食べることによって自分の命を支えています。私事でいえば、私の母の南無阿弥陀仏は、たとえば一鍬打つごと土の中の生き物を殺めていることへの南無阿弥陀仏でした。最小限の殺生で生きていくことを誓う南無阿弥陀仏だったのかもしれません。
 遠藤周作は、この作品の前に読んだ3冊の作品のどこかで、保守的ということばで、キリスト教の自殺の禁止、堕胎の禁止をあげていたように思います。人間が誕生することとその生を長らえるということだと思います。
 すると、この作品でロドリゴが踏み絵を踏まなければ、自分もほかの信者も殺されるというときに、踏み絵を踏むことは、「転び」ではあっても棄教ではないというのが、彼の考える神であり、私たちの受け入れられる宗教であると思えるのです。
 この作品の文脈からいうところの、踏み絵を踏んでしまうという考え方は、仏教でいうところの親鸞の考え方と思えます。
またほかの作品で、遠藤周作が死ぬまでこの男(キリスト)と妻を棄てない決心をしたと述べているところがありました。この作品は、病気でもう助からないと感じたとき寄り添ってくれたこの男(キリスト)と妻をどのようなものだと考えるかによって自分が生きていけるかということを考え抜いたうえでの作品だったと思います。
 彼が考えた神という概念は、キリスト教の信者の方々と深くわかりあえ弱きもの同志として理解できていきます。


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『沈黙』 (1)
2018/08/04(Sat)
 遠藤周作著 『沈黙』 を読みました。

 彼の 『生きる勇気が湧いてくる本』 を半分くらい読んだとき、やっとネットで注文していたこの『沈黙』が届きました。
 『生きる勇気が湧いてくる本』は、遠藤周作が死の床にあったとき、それとは知らずに、このタイトルにふさわしいエッセイを集める作業を任せられてワープロに打ち続けていた加藤宗哉が「前書き」で、彼の死の間際について書いています。 最近風呂先生の最後を思っている私も、これを読むとまたまた悲しみで、文字がにじんでいたことでした。
 そして、この『沈黙』も延宝9年(1681年)7月25日、パーデレのセバスチャン・ロドリゴ(岡田三右衛門)の死によって終わります。
 日本に布教に行った教父フェレイラが、日本でひどい拷問にあい、棄教したという知らせのをうけ、その存在と運命とを確かめるために教え子のセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルぺとホアンテ・サンタ・マルタが、インド艦隊でタヨ河口から出発したのは1638年3月25日でした。ここからこの物語は始まります。
、途中のマカオの布教学院のヴァリニャーノ氏は、船で日本に近づく事さえ危険だというのですが、病気になったホアンテ・サンタ・マルタをおいて、マカオにいた日本人キチジローを案内人に出かけます。
 キチジローにはずるい人間だという印象を受けるのですが、頼るしかありません。闇夜に陸に就くや、船は危険なので離陸してすぐ引き返します。
 ここが日本かどうかも分からないとき、信用できにくいキチジローが一人離れて、集落全体がかくれ切支丹であるところのトモギという漁村の、1633年10月以来パードがいなくなった後パードレの代わりをしてくれていたじいさまを連れてきて合わせます。
 村人たちは二人を山の奥に潜ませ、よろこぶ村人の告悔をきき祈りや教えを言い聞かせます。
 他の島の信者も彼らのことを知りそこへもこっそり出かけていくようにもなったころ、それらのことが嗅ぎつけられ、皆が口を割らないためじいさまが連れて行かれます。翌日はさらに人質としてキチジローを含む3人を連れて行きます。キチジローは直ぐに転んでしまいましたが、あと二人は、海の中に杭に縛り付けられてほおっておかれるという拷問を受けながら殉教しました。
 こうなると、今までのところにおれなくなり、二人は分かれて潜伏することになり、ロドリゴは森をさまよう途中でキチジローに合いキチジローに銀3百枚で売られてしまい引っ立てられていきます。
 ロドリゴは棄教するよう説得されるのですが、それを交わすことで、またほかの村人が拷問にあい海に捨てられます。そしてガルベはそのものを追って海の藻屑となりました。
  棄教を勧めるために、なんとその消息を知りたかったフェレーラにも会わされます。
 そしてフェレーラも本気で棄教を勧めます。
 とうとう村人の犠牲に耐えきれず、ロドルゴも棄教し、岡田三右衛門となのらされて、江戸の牢屋で、三十四年を過ごして六十四歳で病死しました。



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『ほんとうの私を求めて』
2018/08/01(Wed)
 遠藤周作著 『ほんとうの私を求めて』 を読みました。
 この本は、「もう一人の私の発見」・「もっと豊かに もっと自由に」・「付き合い上手 生き上手」・「私の人生膝栗毛」にそれぞれ、10個から5個の随筆があります。

 タイトルの、「ほんとうの私を求めて」とは、人間夫々には自分の中に自分でも気づいていないにもう一人の自分がいることを述べています。その無意識のなかにある自分というものは、社会によって抑圧されていたり、自分自身によって無意識のうちに自分の内におしこめていたりするもので、誰にでもあるとの認識を促しています。読者が女性が多いということを充分意識して、とくに女性へ向けてのメッセージです。これらの無意識の自分と上手に付き合うことで、より豊かに自由に生きていこうと呼びかけています。
 無意識の自分と云えば、ユングや河合速雄の研究分野です。ですから、それらのことも途中から述べられていますが、これらのことを考慮に入れながら、カソリック信者としての彼の思いがわかりやすくつづられているように思えます。
 しかし、この部分について言えば、遠藤周作の考え方には、69歳の私から見れば少しぎこちないものを感じます。このぎこちなさが遠藤周作ならではとも思わされます。
 彼は、フランスのカトリック信仰を理解するために、何度もヨーロッパを訪れ、先の本の記録にも書いた、
≪もしヨーロッパを本当に知ろうと思うなら、まずイスラエルへ行って、その次にギリシャへ行って、それからローマへ行って、その後パリに入るのが一番良いコースだと私は思っています。そうすれば、最終的にはパリで、イスラエル、ギリシャ、ローマの三つの要素がどういうふうに集約されて残っているかということが具体的な形でわかってくるからです。≫と、述べ、≪私にとって決定的といってもいいくらい大きな心象風景になったのは、やはりイスラエルのユダの荒野とイエスが布教して回ったがリラや地方のガリラヤ湖です。・・・≫と述べるほどにカトリックの理解に努力を惜しみませんでした。自分の信仰のもとをたどろうとするのは当然と言えば当然かもしれません。
 そのことは逆に、特別宗教に深い関心を持っていないとしても、日本仏教の環境の中で育った日本人女性の読者にはなかなかしっくりくるのは難しいのではと思えます。
 仏教も日本で起こったものではなく、日本にたどり着くまで、いろんな国を経ています。日本人の仏教理解は、中国の仏教とも朝鮮半島のそれとも違うはずです。日本神話や日本の風土や、公家社会が武家社会になった日本の歴史の変遷などによっても変化し、さらにキリスト教にもいろんな意味で影響を受けて現状の日本の仏教になっていると思えます。たとえば西洋のように、個性を重んじる中での本当の私について考える人もいれば、私自身は宇宙のあらゆるものと同化してあると考える私もあるかもしれないと思えるからです。
 これらの無意識の自己が極度の抑圧を受けているならば心理療法上、緩やかに開放しようと呼びかける遠藤周作の呼びかけは本当に参考になると思えます。

 「ある村の小さな歴史」では、幕末のかくれ切支丹について書かれ、その村の歴史が語る意味に思いを致す随筆で、遠藤周作が、歴史上キリスト教信者になったがゆえに苦しんだキリスト者の巡礼者のように思えて感動しました。

 ※文中、木蓮の葩とあり、木蓮のハナとるびがあったので、特記。


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