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『NHK100分de名著 三木清著『人生論ノート』』
2018/10/30(Tue)
 岸見一郎著『NHK100分de名著  三木清の『人生論ノート』』 を読みました。
 NHK出版より、2018年(平成30)10月第1刷で、定価524円+税です。
 これは、11月の「NHK100分de名著」で放送される作品のテキストです。じつは昨年4月にも放映されて、テキストは2冊買ったことになりました。もちろん、その時その時用に、表紙にアンコール放送と書かれてあったり、次回予定などが違っていますが他は一緒です。
 残念なのは、昨年4月にもテキストを読んだ形跡があり、録画もしているのに、しっかり失念して、新鮮な気持ちで読んだということでした。しかし、昨年はブログに読んだ記録は書いていませんでした。この度はぜひとも書こうと思いました。読み終わったあと、つねにこのテキストを思い起させる、馴染みの小泉八雲の「ある保守主義者」を読み、もう一度比較しながら考えてみたくなったからです。

 『人生論ノート』では、「死」「幸福」「懐疑」「習慣」「虚栄」「名誉心」「怒」「人間の条件」「孤独」「嫉妬」「成功」「瞑想」「噂」「利己主義」「健康」「秩序」「感傷」「仮説」「偽善」「娯楽」「希望」について書かれてあるということです。
 放送の最初の回では、三木清の人となりとその生きた時代と、「希望」「幸福」「成功」「娯楽」に触れて書かれています。三木清は1897年に生まれ、1945年9月26日、48歳で亡くなりました。この死についてウィキペディアでは、  ≪GHQは三木の獄死を知り大きなショックを受けた。敗戦からすでに一ヶ月余を経ていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。≫のように述べられており、その最後を想像することができます。
 幸福論を抹殺するファシズムの中で、「幸福」の要求が、すべての行為の動機の出発点で、今日の良心として復権されなければならないのに、時代は「幸福」について考える気力を失わせているといいます。彼は、「幸福」とは人格であると云い切ります。≪誰しも「幸福」でありたいと願い、「希望」を持って生きたいと考えています。三木は人が人として存在することが、そのまま「幸福」であり、それは「知性」で考えることによって理解されるものだと語っていました。≫とあります。この、「知性」で考えることによって理解されるものが何であるかについては、テキストの最後に、項目には有りませんが、彼の宗教への思いの説明で解き明かされているように感じます。頷けるのは、≪成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福がなんであるかを理解し得なくなった。≫といい、また「娯楽」は人生を楽しむものであるのに、「娯楽」が幸福の代用品になっていることを憂いています。
 本来、道徳や正義は人間が「幸福」であるための手段であるはずと、語るところでは、「幸福」ということの深い意味を知ることになります。
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『おんな城主 直虎』 1~4巻 
2018/10/27(Sat)
  森下佳子作 ノベライズ豊田美加 『おんな城主 直虎』 1~4巻 を読みました。
  NHK出版より、2017年(平成29)9月30日第1刷で、定価1400円+税×4です。

 いつも一緒に裏山に登っているUさんが、一週間横浜に行かれました。その前に、思いがけなくも、この本4冊を貸してくださいました。

 久しぶりの歴史小説です。全くの現代語小説ですから、思ったより早く楽しく読めました。
 最近は何でもネットで検索できるので、読みながら、まずは直虎の生まれた井伊谷がどこにあるのか、しょっちゅう出てくる舞台、井伊家の菩提寺龍潭寺など調べながら読むのが今時の私の読み方ですが、この度は久しぶりに、小説の流れにのめり込んで、知らないことはそのままで、井伊家の直虎とそれを取り巻く人々の考え方、そういったものに驚かされたり、感心したり、共鳴したりする、ネット時代以前の読み方に浸っていました。
 この記事を書くにあたって、ノベライズ豊田美加のノベライズとは何?と調べてみて、たとえば、大河ドラマで放映したものの脚本をこのように、小説にするという意味のことだということがわかりました。この『おんな城主 直虎』は、NHKの大河ドラマでやっていましたが、ほとんど見ていませんでした。でもこうして延々と1年間もやるものを5日間くらいで読めるのですから、ノベライズされたこの本を読めるのはありがたいことです。これを再度テレビで見ることができたら、楽しく見ることができるのではないかと思われます。これまでは原作を読んだことのある大河ドラマは大概熱心に見ていたように思いますから。

 もともと井伊家は、私のなかでは、徳川の家臣のなかでも中心的な家臣であって、江戸時代相当な家柄になっていった。というイメージでしたが、井伊家と徳川との縁について考えることもありませんでした。
 この作品のなかでは、井伊家が徳川の家臣となる一代前のおんな城主直虎を主人公に描きます。しかし、不運が続き、井伊家の城が今川から徳川に寝返った近藤康用に明け渡されてしまいます。後、直虎の後をついで当主となるべきだった虎松が、松下家の養子に迎えられて育っていたものの、井伊家を名乗って徳川に仕官します。そして虎松は家康のために励み、直虎も陰に日向に虎松を助け、家康によって万千代と名を改め功を立て出世してゆきます。時代は本能寺の変の後の頃に、直虎が労咳で亡くなるところで作品は終わります。享年46歳でした。

 今少しの古文書などを基に、これだけの小説が書けるということを思うと、それぞれ、地域の古文書から、ドラマチックに小説を書ける人がいたら、すぐにでも地域おこしが出来そうな気がしてきます。

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『虞美人草』
2018/10/21(Sun)
 夏目漱石著 漱石全集第5巻 『虞美人草』 を読みました。
 岩波書店より、1956年(昭和31)10月27日第1刷、1979年2月5日第7刷発行で、定価900円です。
 この小説は、厨川白村の『小泉先生そのほか』の一部分を読んで、白村に興味を持ち、『虞美人草』の小野君のモデルが白村であると書かれてあったので、がぜん読む気になったのです。

 しかし、この『虞美人草』についての評では、難解で読むのに骨が折れる、という評が一番当たっているという作品です。これを書いた漱石も一番骨が折れたようです。読み始めて、めんどくさくなって、ところどころ飛ばしました。それでもずいぶん時間をかけて読んで、287ページまで読み進んで行って、突然まるでサスペンス物のように、どんでん返しが起こり、一気に読み終えました。

 それまで、宗近君、甲野君、小野君と出てくる中で、宗近君は外交官の試験に落第しているのに、活動的に遊びはするが、勉強している様子はまったく描かれていません。甲野君は哲学科を卒業したが、病気と称して職にも就かずほとんど寝転んでいます。宗近君と甲野君はしょっちゅう問答をして日を暮している様子が描かれています。その点小野君は、宗近君と同窓で大学は首席で卒業して銀時計を頂いて、博士論文を書くために忙しくしています。さらに小野さんは優しく、ものに逆らわぬ、気の長い男です。そういう3人がずっと描かれています。

 宗近君は世話好きの和尚である父親と家庭的な妹の糸とみんなして明るく暮らしています。甲野君のうちは資産家で、外国に勤務していた父親を亡くし、その父親の後添えの母親と、美しいその娘の藤尾さんと暮らしています。≪小野さんは暗いところに生まれた。ある人は私生児だとさえいう・・・・京都では弧堂先生に世話になった。先生から絣の着物をこしらえて貰った。年に20円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。…≫という境遇で、一人東京に出てきて5年後、世話になった弧堂先生が娘の小夜を連れて彼を頼って東京に出てきます。

 宗近君のお父さんと、亡くなった甲野君のお父さんの間では、藤尾と宗近君との結婚は約束されていましたので、宗近君もその気でいました。また、弧堂先生は、小野君と娘の小夜を夫婦にしてやろうと願い、小夜は小野君を5年間ずっと想い続けていたのでした。

 ところが、藤尾と小野君が結婚しようとするほど仲良くなってしまいました。そのために、小野君は、世話になった弧堂先生にお金の援助はするが小夜との結婚は博士論文が忙しいので断ると浅井君を介して伝えます。ところが、弧堂先生は、小野君の態度に怒り、小夜は泣きます。浅井君はそのことを宗近君に伝えました。
 ここからの話が、どんでん返しになるのです。
 宗近父子が間に入って、小野君に真面目になれと言い聞かせ、小野君は小夜と結婚することに決めます。そのショックで藤尾は亡くなります。甲野君の母親と藤尾が悪者になってこの話は終わるのです。
 小泉八雲は、日本で見聞きする話の再話作品がほとんどですが、漱石など、西洋文学をよくした人も、西欧文学の再話を交えた作品が多いのではないかとこのところ思うようになっていました。作品中、最後の甲野さんの宗近君への手紙について、鈴木三重吉宛の手紙の中で、漱石は「イギリスのメレヂスの踏襲をしたと評されても仕方がない」と言っているところを解説で読むとやはりそうかという気がします。

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『小泉先生そのほか』
2018/10/16(Tue)
 厨川伯村編 『小泉先生そのほか』 を読みました。
 積善館より、1919年(大正8)2月20日第1刷、2月25日第2刷発行で、定価1円70銭です。

 厨川伯村は、本書の趣旨について、
 ≪私が今わざわざ禿筆を呵して先生(小泉八雲)の事を書くのは、・・・・私が14・5年前先生の講筵に侍した頃の大学の講義が、一昨年あたりから順次米国で出版せられ、それが彼国で非常な好評を博している近来の好著である事を、唯だ一言したいからである≫
と述べています。

 小泉八雲にじっさいに講義を受けひとが、自分も英文学者として学生に講義をしている身で、
彼の講義の魅力についてについて語る。これは小泉八雲の資料として、まじめに読み始めたものの、読めば読むほど面白いのです。実際には、彼の言わんとすることは、国語や英語が極端に苦手で、勉強したいなと思ったことのない私のような人間には、対象外の話ですが、読むととても面白いのです。なぜかと考えてみると、厨川伯村は、小泉八雲の声の美しさ、話し方の魅力、評論能力の素晴らしさを散々述べているのですが、ハーンの風采の悪さや、自分には興味のない分野の作品の評論で、迷惑に感じる講義についても正直に述べているからです。
 教師にどんな講義を望むか、またどんな話は迷惑かというのは人それぞれだと思う中で、厨川伯村が偉い人だなと思ったのは、 ≪私は図書館で一寸調べれば直ぐ解る様な事を、教室でわざわざ筆記させてもらいたくはないと思う。≫と述べているところです。私は、中学の頃、そこのところを正確にきっちり話してほしいと思っていました。しかし次に厨川伯村は、他の先生がしてくれるそんなことよりも小泉先生の講義の特徴である≪飽くまで自己を発揮して、先人の道を踏まない丈の独創性を有しておられた小泉先生は、先生の口から出なければ聞かれない多くの事を語られた。≫ということが、すばらしい講義であったと言っています。私は先生が作品について自分の思いを話されると、それぞれ人は違うのだから、そんなことはわざわざ言ってもらわなくてもいいと、厨川伯村とはまるで反対のことを思っていたものでした。私は先生のことをこのように思っていたのですが、本屋さんなどもない山奥の学校で学んでいたのに、父がよく町に出かけたときドリルを買ってきてくれ、それが先生の試験と同じだったために国語の成績はよかったので先生はよくほめてくれました。でも、国語が理解できると思ったことはありませんでした。
 こんな時、痛切に英語ができて、講義録が読めたらいいのにと残念でなりません。

 今日公務員は、公務以外で収入を得るような仕事をすることは許されていません。私が30歳で短大の国文に入学したとき、祝いにご自分の日本文学全集を下さり、教育委員会に勤務しておられた先生が、後には子ども文化科学館建設を市長に提言して、初代の館長になられたのですが、若い頃、ペンネームで新聞にカープの野球評論を書かれていて、それが知れて、批判を受けたことがあるというのを聞いたことがあります。これと同じようなことが、小泉八雲や夏目漱石にあったことが、書かれてあります。≪文章は人格である。筆の尖の芸当ではない。苟も一枝の筆を以て天下人心を動かすほどの人には、その人格に何處か必ず強烈なる特異の色彩があって、平凡とは到底妥協調和の道なき者である事は云う迄もない≫とそのようなことを残念がって書かれています。
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第216回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/10/14(Sun)
 早めに、7号館4階の部屋に行ってみると、すでに田中先生が準備された資料の配布を終えられるところでした。
 挨拶をして、資料を少しづつ読ませていただきました。小泉八雲のアメリカやイギリスでの出版物に対する評論を日本人でありながら、やはり英文でアメリカやイギリスに向けて発表し、さらに、日本語でも発表したというヨネ・ノグチこと、野口米次郎(1875~1947)という人の資料でした。

 これはあとで、資料説明のとき説明もありました。難聴のため、上手に聞き取れたか不安です。帰って、もう一度資料を読み返しました。
 そして、ネットでも資料があるということでしたので、まずはそのなかの都留文科大学大学院紀要 第22集(2018年3月)「英字新聞The Japan Weekly Mail にみるヨネ・ノグチの姉崎正治論考」を読みました。野口米次郎は詩人であり、その他、田中先生の資料で紹介されたような作品によって西欧に知れ渡っていたようですが、姉崎正治も、おもにハーバート大学、その他いろいろな大学において宗教学などの講義を受け持ち、熱心な日蓮宗でありながらアカデミックな教授法での宗教学講義に定評があったようです。姉崎正治の日蓮宗との出会いについて述べてあるところでは、我が家にある『文は人なり』という本が紹介されていましたので、改めて懐かしくこの本も開いてみました。明治44年の12月31日の初版で、この本は大正6年10月第50版発行と、ずいぶんよく版を重ねて読まれている本です。明治44年の作とはいえ、やはり「たとい」というのに、「設令」という文字が当てられているなど、「くずし字用例辞典」を引きながらでないと読めない文字もあり、若い頃、まったく理解できず、わかったつもりになっていたのかしらんと思いながら、やはり、をあちこち、飛ばしながら、わかったつもりの読書になりました。。

 その他にも、皆さん沢山の配布物を用意されてくださり、帰ってさらに丁寧に読み返しました。読んでいるうち、聞こえなかった情報が少しわかったようにも思えるのがうれしいことです。
 古川さんの資料からは、松江の石地蔵から荒川亀斎の作品に感動し、1896年のシカゴ万国博への出展を勧め優秀賞を取、世界の亀斎へとならしめたことへの詳しい情報を得ることができます。

 また。鉄森さんの風呂先生への追悼文では、広島ハーンの会ができる以前から、
先生の亡くなるまでのお話を個人的なつながりをも交えながら知ることができ、この追悼文を通して、ハーンの会の歴史を作られた先生の偉業ともいえる記録をしっかり心にとめることもできて、私たちにもより深い追悼となりました。
 
 貝嶋先生の資料は、厨川伯村の『小泉先生そのほか』でした。
資料はともかく、ハーンがなぜ東京の文科大学を去ることになったかなどについて、話してくださいました。ハーンを顕彰する者にとっては、言い古された理由のように思って聞いておりましたが、少しずつ視点を変えて話してくださいました。
 趣旨は違いますが、そのことを念頭に置いて、都留文科大学大学院紀要 第22集「英字新聞The Japan Weekly Mail にみるヨネ・ノグチの姉崎正治論考」や、それに伴う姉崎正治編『文は人なり』、それに、厨川伯村の、引用文の45ページ≪『十八世紀文学評論』の第5編ポープを論じた1章を通読せられよ≫という言葉に従って漱石全集の19巻を読んでいると、その時代の世界情勢や、空気といったようなものがより理解できて少し深まっていくように思われました。

 最後に、貝島先生が『ある保守主義者』のチャプター7までを、流暢な英語で朗読され、日本語訳を読み上げてくださいました。
 
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 『千の花びら』 (3)
2018/10/13(Sat)
 病院通いと裏山登りが続いています。
井野口慧子著 『千の花びら』 の「燕石」の、身だしなみということについて考える時間が十分あります。なにかしら豊かな時間を過ごしているような気分です。

 待ち時間では、相変わらず『良寛』を読んでいます。どうして良寛を読むと、「燕石」のなかの身だしなみについて考えてしまうのでしょうか。

 良寛の出家への思いと、それからの人生、後年をたどっていくと、「燕石」のなかの、
 ≪「重苦しい世情に浸らなくとも いつでも その真ん中に私たちはいます その重圧に負けない あっけらかんとした みだしなみも必要だと 痛感しております」≫
 そのものの人生ではなかったかと思えてくるのです。

 出家については、若い良寛が互いに後生までと契り交わした女のことに深く思いつめたあげく、心定めたのであろうか、「みづから髪剃りて」一夜を明かし、家族の者が驚き歎き、問いかけるのにこまやかな答もせず、ただ笑って「自分の心まかせの生き方をする、家督は弟にこそ」といいすてて、寝所に入り、まもなく身支度はかねて用意していたように、ねずみ色の衣を着、鉢の子の手をとり、隣家より誦経しながら家を出てゆきます。途中、衣の袖をとってすがり泣くかの女性には「むつかしき世の、かからんことすらさうさうしうおもひさりとて、すがたをさへかへまほしく、としごろねんじわたりて、いまこそとげたれ。」と別れ去っていきました。 (女性も世の無常を感じてついに髪を下してしまったとのこと。)

 良寛を晩年擁護した木村元右衛門は熱心な真宗信者だったということです。歴代神仏・祖霊を崇める念あつく、良寛を深く敬愛したといいます。良寛の生れた橘屋は代々石井神社の祠官であり、菩提寺は真言宗円明院であり、彼の修行は曹洞宗です。彼には何宗何派の偏執など毛頭なく、般若心経も、阿弥陀経も、正法眼蔵も、さらに法華経も大祓詞も、論語も源氏も、すべて人間養素の糧として、等しく尊い古典であったとあるのです。
 ≪・・・門閥相承のやかましい封建社会にあって、超宗派の宗教をめざし、学問芸術の普遍性を身につけるということは、どれほど高い精神を必要としたことであろうか。≫
 と述べられています。
 このような身だしなみ。これが今に望まれ続ける身だしなみではないかと、井野口慧子著 『千の花びら』 の詩、「燕石」を通して、良寛が、これまでとは違った風采として見えてくるのでした。

 ものを持つことのめんどくさい私も、良寛さんを読むたび、ゆったりした気分になれます。
 ずっとむかし、誰かが、
 ????や裏も表も無き手前ただまぜくって呑む茶のうまさよ(?は思い出せない)
という歌を教えてくれたことがあります。我が家の作法もこの通りで、この作法で昨年末には、偶然にも茶室「百草亭」で松江の市長さんともお茶を頂き、新聞社の方に写真撮影もしていただいたのでした。

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『千の花びら』 (2)
2018/10/11(Thu)
  井野口慧子著 『千の花びら』 の「燕石」について。
 歯科医院へ通院しています。
 かかりつけだった安佐南区の共立病院では、長い間お世話になっていたのですが、通院のリスクを考えて、知り合いの通院している近くの歯科医院へ変わりました。
 歩いて30分のところで、初めての日は車で行ったのですが、次から国道だけでなく、いろんな道を歩いての通院で楽しめています。
 昨日は、宮 榮二著 『良寛』 をたずさえて行き、待合室で読みました。
 この中の、良寛の享年について語る中に、伝遍澄筆の74歳と記した、一幅の懸け軸風の絵に良寛像があります。
 この絵の良寛の僧衣を見たとき、井野口慧子さんの詩集。 『千の花びら』 の「燕石」にある、
≪「重苦しい世情に浸らなくとも いつでも その真ん中に私たちはいます その重圧に負けない あっけらかんとした みだしなみも必要だと 痛感しております」 宇和島の詩人Sさんからの寒中見舞い 見ないふり 聞こえないふりをしないで すべてを淡々と受け入れることなど できそうもない あらゆる重圧に喘いでいる世の中で あっけらかんとしたみだしなみ一どうしたら私も そういうものを身につけられるのか≫
へと思いが通じていきました。

 服装などでいう身だしなみについてはまったく無頓着なわたくしですが、改めて考えてみると、娘が高校生の夏、広島県教育委員会主催の「少年の船」に参加することになりました。何を着ていこうかと娘に問われました。たとえ千円の服しか買えないとしても襟のある服を着ていく方がいい。襟を正す場面に出くわしても正す襟がなくてはどうにもね。と思いを伝えました。偶然とは・・・。娘が帰ってきて、講演があって、講師の方が同じことを言われたよ。と言ったのを聞いて、通じる人もあるものと思ったものでした。
 たったこれだけが私の身だしなみの基準と言えば言えるものかもしれませんが、案外それだけで日本国内ではあっけらかんと生きていけると信じているのです。

 タイトルの「燕石」については、広辞苑では、(燕山からでる石の意)玉に似て玉でない石。まがいもの。転じて、価値のない物を宝として誇ること。また、才のない者が慢心すること。とあります。 
 文中の「腕足貝」は「腕足類」があって、触手動物の一綱。二枚の殻をもち、二枚貝に似るが、二枚貝が体の左右に殻があるのと異なり、殻が体の前後に位置する。シャミセンガイ・ホオズキガイなど、とあります。
 ネットで調べると、詩の様子どおりの写真があり、腕足動物は「生きている化石」としても有名で、約5億年前の地層から現代の種類とほとんど形が変わらない化石が見つかっています、とあります。これは不思議な生物で、この世にこのような生物もいるのかと。しかも5億年昔の地層からも同じ化石が見つかっているとは。世の移り変わりも激しく多様な価値観の現代にあって、このようなものを手にしての思いは・・・と、井野口慧子さんの安らぎが伝わってくるようで、目には見えない遠くを見つめます。
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 鳥帽子山・比婆山登山
2018/10/09(Tue)
 10月10日、久しぶりに山に登りました。
 朝6時15分に羽柴さんが迎えに来てくださいました。
 毎朝のように一緒に裏山に登っている4人で乗り込ませてもらって安佐北区民文化センターに集合です。
 そこから、15人で、4台の車で出発しました。
 広島北インターで、高速に乗り、庄原のインターでおります。
 私は、お弁当とジュースやお茶を持っていきましたが、朝が早いので、途中のセブンイレブンで皆さん全員がお弁当や飲み物を買われました。
 西城に進みますが、どこまでいっても西城という感じで奥へと入って行き、最後、広島県民の森の公園管理センターの前の広場が駐車場です。駐車場には、小さなクリがいっぱい落ちていました。あまり小さいので拾う人もいません。団栗より小さいのです。公園管理センターでトイレをすませ、前の広場で柔軟体操をすませていよいよ出発。しばらくは清流を左下に見ながら、

広島県民の森の公園管理センター→出雲峠→鳥帽子山(1225M)→大膳原分岐→比婆山(1264M)・御陵→池の段分岐→スキー場分岐→広島県民の森の公園管理センター

と、徐々に山道といった順路でゆっくりゆっくりを心掛けて、昼食時間30分を含む約4時間、8Kの路を歩きました。
 昼食の時、なんといっても、ここで昼食をとる登山客も多く、場所探しにも一苦労です。やっと場所を鳥帽子岩の前の狭い場所に決め、皆とは離れて4人で食べました。
 青空の下、体調もなんとか、日程の調整もついて4人とも参加できたのが本当にうれしいことでした。昼食で充分栄養補給ですが、夫の炊いてくれていた栗おこわと、きんぴら人参、野菜サラダといっぱいの錦糸卵、しっかり噛んで充分身体に栄養を行きわたらせます。おやつ交換などもありましたが、ミカンを頂いて、お腹いっぱいで、おやつはもう入らず、リュックにしまって、お茶を飲んで元気が出ました。
 少しいくと、イザナミ(伊邪那美)の御陵とされる巨岩があります。小さな祠にもお参りいたします。たくさんの登山客にお参りされて、昔も今もここに眠ってその信仰を集めています。また、イチイの巨木群も、囲って大切に保存されています。ふもとでのイチイの木では、穴の開いた美しい赤い実をつけていましたが、ここでは実を結んでいないようでした。
帰りに、先頭の車を運転される水野さんの思いつきで、熊野神社に行きました。
 先日、早くに夫を亡くした友達と合い、亡くなった夫と行った熊野神社のことをよく思い出すと言っていたのを思い出しました。私は、比婆山もこの度初めて訪ねたのですが、熊野神社も初めてでした。
 友達も言っていたように、霊気を感じる奥深い神社で、ゆっくり散策して、杉の巨木に見とれる仲間から離れて、急いで神社全体をぐるっと見て歩き、写真に収めました。
 事故もなく帰宅でき、運転の皆さんにも感謝の登山でした。


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『千の花びら』 (1)
2018/10/04(Thu)
  井野口慧子著 『千の花びら』 を読みました。
 書肆山田より、2018年5月第1刷で6月第2刷発行で、定価2600円+税の詩集です。
 この詩集は著者の井野口慧子さんより、謹呈として送られて参ったものです。

 私のような者にまで送ってくださったことを心から感謝しています。
 送っていただいてすぐに、一応、読ませていただいたのですが、詩心のない私には、よく理解できないことがわかりました。
 先月末、福岡伸一の本を読んで、疲れ果て、夫に、「今日から本を読むのはやめることにした。」と、自分の気持ちを表明することで、すこし気持ちにゆとりをもって生活をし始めました。
 それで。いつもの2時間と少しの裏山登山と、テレビを見ながらの、樹木希林風の縫い物主体で数日過ごしました。その合間に、もう一度この詩集を読み直しました。そして、昨夜、3度目、最初の「大水青」を読み返しました。

 私は、この本をしばらく私のテキストにすることにしました。
 読書はやめて、のんびりの勉強です。
そう思ったのは、最初の「大水青」という詩にある、式子内親王の
≪ほととぎすそのかみ山のたびまくら ほのかたらひし空ぞ忘れぬ≫
について調べ始めたときでした。
まずは、ブログでお馴染みの志村建世さんから送っていただいてこの数年親しんでいる野ばら社の『百人一首』で、式子内親王について調べます。
≪玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば 忍ぶることのよわりもぞする≫
ここでは、【私の命よ絶えるものならば絶えてほしい。もしこのまま長らえていると、人目を忍ぶ心が弱くなって浮名を立てられ、悲しい結末を迎えるようなことになるであろう。】と約してありました。彼女は賀茂神社の斎院になっていたこともあり、藤原定家の恋人とも言われていたというのです。
この歌はしっかり暗記していた時期もあったように思うのですが、解釈については忘れてしまったのか、考えたこともなかったのか、このたび読んでびっくり。彼女が置かれた立場に依っての、自分の気持ちを、歌の技法を駆使して作ったこんなに素敵な作品を理解しようとしなかったことに愕然としました。
ここではそのほか、式子内親王の4つの歌も紹介されていました。

また、井野口慧子さんが引用されている歌の【ほととぎすよ。その昔、神の館に旅寝したとき、ほのかに語りかけてきたほととぎすよ。あの空の景色を私は今も忘れない。】という意訳や、この歌の技法の素晴らしさについても詳しくわかってきます。

 「大水青」は、チョウ目ヤママユガ科、言われてみればそうでした。
 夜が始まったばかりの山裾。林道脇の電柱に点灯したばかりの蛍光灯に引き寄せられている、大きな緑がかった水色のなんともいえず美しい蝶に気づいた時でしたが、帰って夫に話すと、「山繭の蛾だよ」と教えられ調べたのでした。「米粒のような紋」については、記憶がなく、このたび改めてネットの図鑑で調べ確認できたのでした。また天敵に食虫の鳥類もいることもわかりました。
 また、この大水青の幼虫かどうかわからないのですが、むかし、職場で、「山繭の幼虫!」と言って持ってきた子供がいて、大きな工作机の上に置いて、少し離れたあと、行ってみると、この幼虫が口を左右に振りながら、光る糸を机にくっつけているのでした。こうやって繭を作るのかと思って見ていて、子どもが持ち帰った後、机を拭き掃除すると、その糸が取れず、いつまでも光っていたことを思い出しました。

 こんなことを少しずつ調べたり、思い出したりして、改めて、井野口慧子氏の作品を読み返してみると、なんだかその世界が見えてくるようです。井野口慧子さんがなんだか、そうよ、そうだったのよと、夢見るような顔で話してくださるようでした。
 だから、こんな私の調べたことや思い出したことなど書き記さないで、直に、井野口慧子さんの詩を書いたらよかったのです。
 でも、私が少しでもこの詩の心に触れるにはこれだけの勉強が必要だったのです。

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