FC2ブログ
『寂聴 般若心経 生きるとは』
2019/01/29(Tue)
 瀬戸内寂聴著 『寂聴 般若心経 生きるとは』 を読みました。
 中央公論社間より、1991年(平成3年)10月初版で、1998年(平成10年)3月7版の文庫本で、定価590円+税です。
 何度か手に取るうち、カバーが何度見ても美しいのに気が付きました。それもそのはず上村松篁の「蓮」でした。途中からもったいないので外して読みました。

 大きく分けて、般若心経法話13ページ~248ページと、『般若心経』について249ページ~320ページがあります。
 ≪般若心経法話は、自分のお寺の寂庵に、修行道場のサガノ・サンガをつくり、そこで毎月十八日、集まってくれる人たちに法話を続けてきた。その中で般若心経をとりあげた。昭和六十二年一月から十二月までに、みんなに話したことをここにまとめてみた。何とかわかり易く聞いてもらいたいと念じて話すため、重複が多いが、あえてそのままにした。・・・・終わりにつけた「『般若心経』について」は、たまたまその頃から発行しはじめた寂庵の月刊新聞「寂庵だより」に、般若心経についての法話の内容をまとめてのせたものである。≫と「はじめに」にあたる「仏縁のあかしに」に前置きされています。
 最初の月では、「仏教とは―お釈迦さまの教え」ここではキリスト教との比較をしています。わかり易く説明するとそうなるかもしれませんがちょっと・・・・と思うふしもありますが、まずはわかり易くということでしょうか。
 つぎからは、講和の中、時々の話が半分と少しくらいあって、つづいて六百巻ある『大般若経』を二百六十六文字に約めた「般若心経」を、少しずつに分けて説明していきます。サンスクリットまたはパーリ語の読みを伝え、その訳を伝え、解説を加えられます。
最初、題に「摩訶般若波羅蜜多心経」とある。「摩訶」はサンスクリットの「マハー」に、漢字をあてたもの。大きいとか偉大なとかいう意味。あとの「『般若心経』について」では、≪天竜寺の平田精耕老子は、「マハー」は常識を超えた比較対照の出来ない世界、すべてを包み込む大きさと説いていられます。≫と少し集中して丁寧な説明になっています。この説いているというのを読むと、改めてどう説いて話すかについて考えさせられます。
 これ等の解説が、大乗仏教の経典だとはいえ、中村元氏が、何度もインドにいってサンスクリットを勉強して翻訳された、南回りの小乗仏教と根本的には変わりなく理解されます。
 中村元氏の話の中に、「自らを灯明とせよ」といった意味の言葉も、サンスクリットでは、「自らを洲、又は島とせよ」と書かれているが、これは、雨季の洪水の時、洲や島に身を寄せて命を守るインドの自然状況での生活から出た教えであるが、日本人には灯明の方がしっくりくるのでこのように訳したという言葉などもその例で、ほんとうに悟った人でないと訳せないとの感を抱きます。それらの研究成果がすでに法話の基本になっていることを感じました。

スポンサーサイト



この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『滝口入道』
2019/01/27(Sun)
 高山樗牛著 『滝口入道』 を読みました。
 角川書店より、1958年(昭和33年)2月発行で、1968年(昭和43年)9月15版の文庫本で、定価60円です。
 ラフカディオ・ハーンの『ある保守主義者』をより解することができたらと、先週以来、棚から仏教に関する本を選び出して次々と読んでいました。中村元編 『世界古典文学全集』の重たいのからあれこれと、枕元が大変なことになったので、いったんすべて片付けて、掃除をし、文庫本の棚から この薄い『滝口入道』1冊にしました。
 この本は、おそらく建設会館に勤務していた20歳の頃に買って読んだ本の一冊と思えます。その頃は、毎日のように仕事で出合う記者クラブの人が本の紹介をしてくださっていて、私にとって買った本に当たり外れがあまりありませんでした。暇な職場でしたので、仕事を終えたあと、本通りで岩波の星ひとつくらいの文庫本は立ち読みで済ませていましたが、この本は立ち読みで済ませられなかったので買ったのかもしれません。
 仏教書に浸っていた矢先、この本を読んだのは、まるで「岩にしみいる蝉の声」さながらでした。
 この度仏教書を読んでいて、とても不思議だったのは、中村元先生方がサンスクリットの仏教の経典を翻訳して、その経典の起こった地域の地理や歴史や風俗などをもとに現代の日本人が理解できるように訳された解説と、全く違うルートから日本に伝わり、さらに鎌倉仏教として多くの宗派に分かれた仏教の教えも根本的なところまで行くと、みんな同じという思いがしたことでした。
そんなことを考えていると、さらに昨年末やはり『ある保守主義者』関連で読んでいたキリスト教(カソリック)関連で知った遠藤周作と同じ年に留学したカトリック司祭の井上洋治は、テレーズ著『小さき花』から、≪「神さまはそんな迫ってきたり、裁いたり、猥談だけで地獄に落とすとかそんな方ではないんで、どんな大きな悪いことをしていても、罪を犯していても、そのまま申し訳ないと思って、その懐に飛び込んだら、必ずそれは迎えてくださる方であって、人間は弱かったり、ダメだったり、罪深かったりすればするほど、その人を神さまは大切にしてくださる」と。これは私はたまらないんです。「そうか!」と思ったわけですね。「もし懐に飛び込めば、罪や悪は、みんな神さまが愛の光や炎ですぐ燃やしてくださるんだ」とこういうわけですね。だから大切なのは、父親の腕の中に微睡(まどろ)む幼児の信頼だ。父親だ。ああ、そうか、と思って、じゃ、このテレーズのそういう生きた世界を自分も生きてみたい、と思ったわけです。≫とNHKの放送の中で述べられています。
 日本人の宗教観は、キリスト教にあっても、風土のなせるわざか、このような思想に貫かれているかの思いがしてきます。
 恋の迷いから逃れるために、君や親への忠考を離れて出家した斉藤の滝口時頼 、唯一信頼していた清盛の長男重盛の維盛を頼むの願いを受けて、高野山に落ち延びてきた維盛と家来の重盛を説諭して最後自分も腹を切ってはてます。文末、≪嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、斉藤滝口時頼が、まことの浮世の最後なりけり。≫
というところでは、いかに出家したとしても、人間はすべからく非僧非俗をつらぬくのが精いっぱいだということを示唆しているようにも思えます。

※ 最後の塩田良平の解説がよくて、最後時頼が自決するところについて、≪悟ったはずの時頼が最後に自決するのは、却って煩悩を脱しきれないことで、法界への契りは、親子主従以上のものであり、自決は俗界への執着を意味するものであるが、作者が最後に主従の義理を強調したところに、彼の保守性が見られないことはない。・・・・≫、
 

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『おんなのことば』
2019/01/17(Thu)
 茨木のり子著 『おんなのことば』 を読みました。
 童話屋より、1994年(昭和64年)8月発行で、1994年9月2刷です。

 さくら
ことしも生きてさくらを見ています
ひとは生涯に何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

 昨日いきいきサロンに出席して、佐々木さんが5日に亡くなったと聞きました。わたしは12月の31日まで裏山にずーっと登りました。最後の日は一人で登り始め、展望台でみんなと出会って駐車場まで一緒に登り、亀にお参りをしたあと、また展望台まで降りてからは彼と二人で下山しました。「よいお年を!」と別れたのが最後でした。わたしは新年を迎えて未だ裏山に登っていません。彼は3日に登っていて、5日に自宅で亡くなったというのでした。佐々木さんは安佐北区市民部地域起こし推進課主催の「あさきた里山マスターズ」事業への参加を勧めてくださり、友達を集めては39の里山を登る事業への達成に協力してくださいました。里山はどんなに低い山でも結構急傾斜地が多く、里山だけに道にも迷いやすいのですが、事業以外の登山も含めて、定年退職後、佐々木さんに連れられて本当にたくさんの山に事故なく登ることができました。佐々木さんが、もう高齢すぎてしんどいので、羽柴さんに頼んでおいたからと言われるまでずっと一緒に登ってくださいました。登山途中一緒にいろんな草花を見たり、いろんなものを分け合って食べたり、以前登ったときの話をしてくださったり、・・・この詩を読んだとき、≪死こそ常態 生はいとしき蜃気楼≫、≪死こそ常態 生はいとしき蜃気楼≫、≪死こそ常態 生はいとしき蜃気楼≫・・・わたしにもよくわかります。春には展望台には下から伸びた大きな桜の木の花を目の前に見ながら街の景色を眺めます。今年は桜の花に佐々木さんを見るでしょう。


この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/01/16(Wed)
1月12日(土)、第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
参加者は13人です。
 最初に貝嶋先生が2月は16日、3月も16日で、4月については大学のオリエンテーションの都合で、日程が決められないことを話してくださいました。
“ Believe me, if all those endearing young charms”を歌って、新年の挨拶を一人一人述べられました。わたくしは欠席するとメール連絡のあった寺下さんに、斉藤孝著 『学術論文の技法』という本を読んでいますと返信を送ったら、著者の斉藤孝先生に教わったエピソードを楽しく返信してくださいましたので、ここでもついこの話をしました。
 三島さんがいつものように松江からの連絡をしてくださいます。わたしは、松江市文化協会発行の 『古湖松江』 と、一力堂の「ハーンの羊羹」をいただきました。羊羹は大切な羊の文字が3つも入った文字であらわされるお菓子なので久しぶりに夫へのプレゼントにします。
 つづいて田中先生が 「L.ハーンが教えた五高生たちのカリキュラム」 と題して6枚の資料を話題提供として配して説明してくださいました。第五高等中学校設立に関するエピソードや、最初の入試など、詳しく熊本大学小泉八雲研究会出版の本で読んで興味がありましたが、田中先生と席が離れていて聞こえないので、資料を読ませていただきました。第一高等中学校を手本に創るとはいえ、西南戦争から10年、県をあげての事業の一端だったかもしれません。広島からの受験生もいたようでした。
 その後、貝嶋先生のある保守主義者の翻訳説明のつづきのⅥからでした。
 そのあと活発な質問があり、わからないことは確かめておこうという会員の会話がつづき、すこしづつ内容を深め合うことができてよかったと思いました。貝嶋先生が新たに翻訳されるのが、なんだか広島の会からの翻訳といった感じで自分は英語がちんぷんかんぷんなのにとてもうれしい気持ちがします。
 今月、NHKの『100分de名著』で『風と共に去りぬ』をやっています。新たに翻訳をされた鴻巣友季子さんが解説をされています。もちろん他の人の翻訳も十分読んでの翻訳をされているのですが、一読者として、この作品の今日的な意味をよくとらえて解説してくださるのが面白いと思います。南北戦争の後の再建時代について、南北戦争を経て奴隷制度が亡くなったことは絶対的によいことで、多くの人にユートピアが訪れた。しかしミチェルは、南北どちらが正しいかを言いたいのではなく、反面統制や管理が行き過ぎると抑圧される人々が出てきて負けた南部は管理・監視社会となり、政治汚職や不正選挙、略式裁判での処刑が横行する。どんな国家・どんな共同体でも、人の集まるところにはこのようなディストピアの社会機構に陥ってしまう危険性が常にあるということが言いたかったのだと解説します。また、今日ちょっと本屋で、ヘルマンヘッセの『車輪の下で』をパラパラッとめくってみました。やはり新しく訳されたものですが、翻訳者は、昔読んだときは主人公の気持ちに迎合して読んだけれど、このたび訳すときは、母親の気持ちになっていて、どうしてこの子はこんなに不器用なんだろうとイライラして読んだことを打ち明け、さらにタイトルもこれまでの『車輪の下』を『車輪の下で』に変更したとあり、その方が車輪の下敷きになって人生を苦しんで生きていることがよく伝わると述べていました。今年は新しい年号にもなります。新しい読み方で、今日的な問題に置き換えて読むことを学ばなければと思い始めています。
 
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『「フリーメイソン」―西欧神秘主義の変容』
2019/01/14(Mon)
 吉村正和著 『「フリーメイソン」―西欧神秘主義の変容』 を読みました。
 講談社より、1989年(昭和64年)1月発行で、2004年12月28刷の新書です。

 この本は今月12日の第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に出席したとき、土屋さんが貸してくださった本です。
 フリーメイソについてこのように学術的に書かれた本は初めてでしたので夢中で読ませていただきました。学術的とは言いながら、著者は「あとがき」で≪フリーメイソンに関する情報は、すべて参考文献に挙げた資料に基づいている。ただ、その資料の信憑性を確認するための原資料は手元になく、常識的な判断に頼ることになった。≫とありますが、充分頷ける気がします。
 もともと小泉八雲の作品「ある保守主義者」のモデル雨森信成(1858年~1906年)について考えていて、ふとしたことから中浜万次郎は(1827年~1898年)は、どうだったのだろうかといつもの明後日へ飛んでいきました。彼の書を2・3読んでいるうち、もしかして彼をアメリカで育ててくれたホイット・フィールド船長はフリーメイソンだったのではないかと思い始めたとき、中浜武彦著『ネバー・ギブアップ ジョン万次郎』(平成30年5月初版)の最初に、三角定規とコンパスを持った万次郎の銅像のことが書いてあったのを読んで、「あっ!万次郎はフリーメイソンになっていたのだと確信しました。そして家の本箱から関連の本はないかと探し出し確認できたのでした。
 家の本では、日本人のフリーメイソンについてかなり書かれてありましたが、この作品では個人のプライバシーに関することでもありますから、公然とされている、のちに開成所の教授になった西周と津田真道の紹介とあと二人の記載があるだけです。彼等がオランダでフリーメイソンになったのは1864年です。明治以来、フリーメイソンのロッジに日本人が加入することが許されなかったとありますが、家の本では1897年(明治30年)ごろ「フリーメイソンは日本人と接触しない、日本人を加盟させない、日本人への宣伝活動も行わない」との密約があったとあります。もしそうなら、以後日本人で1950年までにフリーメイソンになっている人は外国で入会したものだと考えられます。
 まずフリーメイソンの起源と歴史、入会の儀式、入会後の位階、組織の拡大の道筋などについて述べ、さらに時代の進歩に伴うその変遷について詳しく述べられているのがこの本の特徴ですが、とくに18世紀のフリーメイソンと宗教についてみていきます。1772年ウィリアム・プレストン著『フリーメイソン解説』で、≪人は誰でも自分の周囲のものを注意深く観察すると、「自然」の業(わざ)を称賛し、そのような素晴らしい営みを演出する「最高存在」を賛美する十分な理由を見出す。無限の知恵だけがそのような驚くべき業を計画し、無限の力だけがそれを仕上げることができることを、彼は確信するだろう。・・・・≫と「自然」を「神」へとつなげる「理性」によって、「自然」を「神性」へと読者をいざなっていきます。その「自然」の調和から出発して、自己自身の調和、すなわち徳性の涵養、そして最終的には社会の道徳的な完成に目標を置くこととありましす。

 著者は最後に、フリーメイソンの下支えで建国したアメリカはいま、物質的な繁栄を誇る社会でそこに目を奪われがちですが本質的に「宗教国家」だと述べます。

 フリーメイソンのたくさんの偉業の中では、多くの慈善事業もさることながら、特に1728年に百科事典を初めて作ったことが印象に残りました。あらためて百科事典について調べてみると、250年続いて、今は絶版になったエンサイクロペディア・ブリタニカの初版本は1768年でした。この英語ばかりの高価な百科事典を夢のように眺めたのは、ど田舎から広島に出てきた18歳のころでした。なんといっても百科事典を作ろうという発想がすごいではありませんか!




この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「脂肪の塊」
2019/01/06(Sun)
 モーパッサン著 青柳瑞穂訳 「脂肪の塊」 を読みました。
 新潮社より、1951年(昭和26年)4月発行で、1972年12月32刷の文庫本です。

 『脂肪の塊・テリエ館』が本のタイトルです。少し気晴らしに「脂肪の塊」だけ読んだので、記録しようとは思っていなかったのですが、「ある保守主義者」を読み返していて同じ雰囲気の記述があったのでそこのところ記録します。
「ある保守主義者」では、
≪そしてイギリス国民は、今日でもその先祖たちと同じく、略奪人種であると知った。英国がもしかりに1ヵ月であるにせよ、他の国々や他の人種に対する強制が利かなくなり、自国民を養えなくなった暁には、いったい数千万のイギリス国民の運命はどうなるかと考えた。彼は世界の最大の都会ロンドンで夜の生活を恐ろしいものにしている淫売と泥酔の実情を見た。そしてそうしたことを見て見ぬ振りをする因襲的な偽善や、現存の状態にもっぱら感謝の意を捧げる宗教や、・・・・≫

「脂肪の塊」では、
 ≪もうブール・ド・スイフを待つだけになった。そこへ当人が現れた。きまりが悪いとみえて、少し気おくれがしているらしい。おずおずしながら、仲間の方へ進んで来たが、こちらは一斉にそっぽを向き、見て見ぬ振りをしている。伯爵は、もったいぶった様子で妻の腕をとると、彼女をかばうようにしながら、この汚物から遠ざけてやった。
 肥った娘は、呆気にとられたらしく、立ち止った。でも気をとりなおして、木綿問屋の細君のそばへ行くと、いかにもしおらしく、「奥様、お早うございます」小声でこう挨拶をした。相手は、とんでもない人に挨拶されたと言わんばかりの顔をしながら、胡散臭そうに、頷いてみせただけだった。誰も彼も忙しそうな格好をしている。・・・・≫

 「脂肪の塊」は、1870年7月~1871年5月までの普仏戦争の間の話です。モーパッサンがこの作品を書いたのが1880年です。雨森信成が洋行を始めたのが1882年です。同時期の雰囲気を描いたこの二つの作品の状況の著し方にとても興味を覚えます。「脂肪の塊」は、普仏戦争中、フランスの負けがあらかた感じられて、プロイセン軍が侵攻しはじめたルーアンで、大勢が侵攻してくる前に馬車で早朝そこを逃げ出そうと、金持ち3組の夫婦と、二人の尼さんと、民主主義者の男と、闇の女ブ-ル・ド・スイフ(脂肪の塊)と言われている娘の10人が乗り合わせたのでした。ところが、あわてて昼食をみんな忘れてきてしまって、プロイセン軍を恐れて店は開いておらず、お腹がすきまくっているところ、ブ-ル・ド・スイフという脂肪の塊と言われている娘が、籠に一杯の食糧を持ってきていたため、10人が全部を御馳走になったのでした。夜、やっと宿屋の前で馬車が止まります。宿ではドイツ仕官がおり、旅行者の姓名・人相・職業の記入された、移動許可書を提出させます。食事前宿屋の亭主がドイツ仕官の使いでブ-ル・ド・スイフを呼びに来ます。彼女は会って断ります。ところが、彼女が断ると旅を続けさせてくれないことがわかり他の9人が相談して上手に説得します。の引用文は、そしてやっと出発できる朝の様子です。伯爵や愛国者や尼さんがいて、この様子がなんとも「ある保守主義者」の記述を彷彿とさせるのです。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『探偵ガリレオ』
2019/01/01(Tue)
 東野圭吾著 『探偵ガリレオ』 を大晦日から、元旦へかけて読みました。
 文芸春秋より、2002年(平成6)2月第1刷で、2,008年1月36刷 定価514円+税です。

 解説が佐野史郎となっていて驚きました。著者の東野圭吾が、このミステリィー小説の刑事のアドバイザー的な存在として登場する、帝都大学理工学部物理学科第十三研究室の湯川という三四歳の助教授は、佐野史郎をイメージして書いたというのです。それが彼がこの解説を書いた所以だと述べています。読む私としても湯川を佐野史郎のイメージで読むこともできるというわけでした。
 この中には、「燃える(もえる)」、「転写る(うつる)」、「壊死る(くさる)」、「爆ぜる(はぜる)」、「離脱(ぬける)」の五話が掲載されています。

 そのなかで、「爆ぜる(はぜる)」という作品について印象に残ったことを記録します。
 湘南の海水浴場でビーチマットに上半身だけを載せて、波に浮かんでいた梅里律子が、轟音と共に黄色い火柱となり燃え上がり、彼女が死んだという事件がありました。
 つづいて、独身男性の藤川雄一という独身男性がアパートで殺されて発見されました。かれは、会社に辞表を出して辞めていました。
 藤川雄一という男性が、二年前に卒業した帝都大学理工学部エネルギー工学科第五研究室での大学時代に、三年生の段階で受講すべき重要な木島教授の単位を取得していなかったために、本来進みたかった木島研究室に、進むことができなかったことに由来することが分かってきた。藤川雄一は学生課に提出する受講プロゴラムに記入するのを忘れていて、提出期限後、訂正を希望したが認められなかったのですが、その処理をしたのが、梅里律子だったのです。彼は、直接、木島教授にも頼みますが受け入れられませんでした。彼はそのために思う研究ができず、思う仕事につけなかったことを恨んでいたというところに、このふたつの事件の接点がありました。
 藤川雄一は誰が殺害したのか、その犯人は帝都大学理工学部エネルギー工学科第五研究室の助手松田だった。そのことから、藤川雄一が梅里律子を殺したということが確証されました。

 この事件に興味があったのは、私も草薙刑事以上に理系音痴で、さらにいまどきの世情にうといせいか、この事件を通していろいろ考えさせられたからです。
 原子力工学科が、プルトニュウムを燃やす原子炉から、ナトリウム漏れ事故があって原発見直し以後、関連企業、関連の研究者が影響を受けることになった。関連の研究をしていたその蓄積が無駄になり、出世も遅れる。ましてやナトリウムを使った殺人事件などが起きるということをほおっておけなかったということでの犯行の背景についてでした。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン |