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『NHK100分de名著 安田 登著『平家物語』
2019/04/29(Mon)
 安田 登著 『NHK100分de名著 平家物語』 を読みました。 これはこの5月6日から放送される予定のテキストです。

著者の安田 登(1956~)は、千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。以降著書など長い紹介が続きます。よく理解できないまま、本文を読んでいると、独特の解説の魅力にひかれます。
 「第1回 光と闇の物語」では、光に生きる貴族と闇を支配する武士が、『平家物語』全体を規定する重要な枠組みだと述べます。
 『平家物語』は、武士である平家が貴族のくらいにとって代わり、身内に天皇までも輩出してゆきます。つづいて、貴族となった平家は、闇の世界に弱くなり、闇を支配する武家の源家に滅ぼされてしまう場面が第2回以降で説明されていきます。光の貴族とは事は明るいうちに行い、未来の事を考えるとき、まず有職故実を記した日記をデータベースとして参照します。本書の著者も、『平家物語』の内容が、史実かフィクションかチェックするときには、『玉葉』や『百錬抄』を参照するようです。この「参照」の照は「照る」で光の世界であることを述べ、それに対して、武士は長い訓練によって直感を磨き、用意の「意」を用いるといいます。当時「考える」は「勘へる」という漢字が与えられているとの説明もあります。こうして光の貴族を闇討ちなどで駆逐するとあります。
 また、第1回では、物語が史実かフィクションかに言及し、登場人物のキャラクター化にも言及します。清盛による平家の悪行を制御し、組織の持続可能性を狙うのが長男の重盛ですが、これがキャラクター化されている疑いです。ここでは最近読んだ、豊臣秀吉に待ったをかける弟の秀長を思い起こします。第3回では、この関係を、これまた滅び行く木曽義仲への乳母子の今井四朗の諫言が語られます。
 おなじ「第3回 衰亡の方程式」のなかで、平安貴族の必読書『文選』の文章、李康の「運命論」によると、運命には「運」「命」「時」の三つの側面があるといい、「運」とは大きな流れ(運び)、「命」とはその人が持って生まれた天命、そして「時」とは流れゆく時間のうちの一瞬をしっかりとつかまえる力をいうと説明し、『平家物語』のなかの盛衰を読み解きます。
 『平家物語』は以後の武士たちへの教訓を与えずにはおかなかったことが語られます。長く続くことのできた江戸時代へのテキストとなったことは充分理解できます。その一端として江戸幕府はかえり忠(主人を変える)的な行動を強く抑制するために朱子学を用い、『論語』のなかの「忠」を主君に尽くすことであるに読み替えて徹底させるなどしたことが語られます。
 最後の、琵琶によって平家の死者の霊を招き、彼らの代わりに懺悔の物語をすることで、その魂を鎮めるところの話では、小泉八雲の『耳なし芳一』が取り上げられます。この感想は今まで目にしたことのないものなので、ハーンの会員の方にも読んでいただけたらと思っています。
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『英語で読む 英知とユーモア』
2019/04/26(Fri)
  橋本 宏・小林堅太郎・丹沢栄一編 『英語で読む 英知とユーモア』を読みました。平成11年11月 丸善ライブラリー発行で760円+税です。
 早稲田大学で中西秀男先生に学ばれた橋本 宏氏・小林堅太郎氏・丹沢栄一氏の三人が、平成8年3月30日に95歳で亡くなられた中西先生の遺稿を整理して出版された作品です。

 内容は西洋の文人や著名人の残した名言、気の効いた発言、記憶に価する文章が列挙されますが、まずは英文で、そして訳例、一部語句の発音、意味、語法などの説明があり、引用文の謂れや時代的背景、作者の紹介、関連事項などがあります。
 丹沢先生が4月13日開催の「風呂先生を偲ぶ会」にお出で下さる前夜に、とにかく英文のことは考えずに読み返そうと読み始めたのですが、それでもこんなに時間がかかってしまいました。

 「風呂先生を偲ぶ会」の前夜には、以前シールをはさめた〔115〕をまず読みました。
 ジョルジュ・ルオーの
 《訳》私にとって絵画は人生を忘却する一つの手段なのだ。闇の中で立てる悲鳴であり、咽喉を絞められて発する笑なのだ。
の解説に、
 ※小泉八雲(ラフカディオ・ハーン 1850-1904)は己の身を食い潰しても鳴くことを辞めなかった「草雲雀」に芸術家魂を投影させた。またシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の次の言葉、No one can understand the joy or sorrow of others (他人の喜びや悲しみは誰にも分からないものだ)
という項目でした。最初に※が編者が多少手を加えた部分との注意書きがありますので、この画家、文学者、作曲家の制作への生みの苦しみを述べた部分は丹沢先生の関連事項の注釈だと直ぐに思いシールを挟めたのだと思い当ります。

 明治になって、西洋文学に初めて触れた日本の作家となった人たちの作品には、多くその影響を受けたものがあることを感じます。その一つの例ですが、〔80〕の関連事項にイギリスの作家サキ(Saki 1870-1916)の短編に「トバモリー」という猫がものをいう話があって、彼はこのとっぴな架空の物語によって、人生の虚偽を嘲笑しているのだ。の解説に、漱石の『吾輩は猫である』を連想しました。

 面白かったのは、〔177〕 オスカー・ワイルドの《訳》ファッションは実に醜いものだから6ヵ月毎に更新しないわけにいかない。でした
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『ん』
2019/04/23(Tue)
 広島文芸誌 『ん』 №、20を読みました。
 通史会で知り合った松井さんが貸してくださいました。
 いつも自分の寄稿した冊子はくださるのですが、これは一冊しかないので・・・と大切なのに貸してくださったのです。

 この文芸誌は1ヶ月くらいして、もう一度読み返しました。
 最初の読後感としては、
 松井さんの属されている会の人びとの力に圧倒されたというのが一番でした。

 「ドクトル宇平」・「濡れたグッズ」・「へにがおちらいや」「おめかけさん」「鬼畜米英」三篇エッセイ・エッセイ「美しい着物」・「ジビエ」・「ジャズフェスティバルのある一日」・「修験者が来た夏」・「栞」・「夜霧の果てに」・「人生の忘れ物」・「異端児異聞」・「迷い犬」・紀行「漱石の書斎」・「あとがき」と15の作品があります。

 まず最後の 円卓子著『紀行 漱石の書斎』が、松井さんの寄稿作品でしたが、最初に読ませていただきました。彼女が昨年、漱石の足跡を訪ねて東京に出かけられたことはお聞きしていました。その時の紀行文です。
 彼女のテンポの良い文章にびっくりしました。軽妙な洒脱さは平成の漱石ともいえそうです。彼女は、いつもメモを取っておられます。そのメモされる習慣がこのような作品を生むということに思い当たり、そのことにも敬服いたしました。

 二度目に読ませていただいて、この本からの情報だったのだと思うところに行きつきます。このところ、何冊かの本を並行して読んでいることが多く、どこで読んだ話だったかなーと思うことがよくあります。「人生の忘れ物」という作品でした。
 こころに引っかかっていたのは、3月の末実家の義理の姉が末期癌ということで大慌てで三次中央病院に駆け付けることがたびかさなっていることからです。患者本人はいたって御機嫌がよくいつもの愛想のよさです。どこも痛くないのだといいます。大柄で体格の良かった義姉は体が薄くなり、ただ実家の敷地に咲いている花木の花が見たくて兄が写真に写してきたものを大喜びで見せてくれます。義姉の母はまだ生存中です。長命の家系で生まれたのに、私の実家に嫁いだばかりに無理がたたったのではないかと思ったりします。大きな声では言えませんが私は5年生のころから父にカブバイクに乗らされました。義姉も嫁いでくると父に免許をとりに行かされたのです。「幸ちゃん、お父さんにゆうてーや」と余程運転免許を取りにゆくのが嫌だったようです。「いいじゃない、ゆっくり練習させてもらっていっぱいお金を使っちゃりんさい」としか言えませんでした。
 この作品のなかでも末期がんの友人の話が出てきます。この度の東京オリンピックが決まってからのことなので医療事情もさほど違いはありません。病気のことよりもその娘二人と患者である母親との冷淡な人間模様がテーマです。じっさい子どもの数も少なく、子どもは働き盛りであり、それに病んでから長生きときた日にはどこにでも起こる問題です。
 この本の作品の舞台は広島がほとんどです。年齢も私に近い人ばかりです。身の回りで起こる問題にあふれていて、しかもしっかり描かれているので、他とは違った読書体験となりました。


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続 『可部町史』 2
2019/04/20(Sat)
 2の「第五章 第八節 神社と寺院」は、861ページから
≪幕藩権力によって政治的に従属させられていた仏教・神道などの諸宗教は、明治新政府の成立とともに大きな変動に見舞われた。江戸時代においては、神道よりも仏教が権力によって保護されたが、天皇制国家の確立をめざす新政府は、神道を保護・利用し、国民の精神構造を統一していく方向をとった。≫
から始まるが、最後の871ページで
≪このような明治以来の宗教政策にもかかわらず、また真宗門徒の地域でありながらも、民衆の信仰心というものが多様な側面を持ちつづけ、それがたやすく変化するものではないということが言えるであろう。≫
と締めくくられます。

 明治新政府では、明治4年3月に神仏分離令を出します。このことが廃仏毀釈運動に発展したところもあるが、この地域は仏教とくに真宗勢力が強固なためにそれはなかったとあります。
 明治5年2月には「復古之際に当たり不都合」ということで、神社の額に何々大明神と書くことを禁止し、何々神社と改めさせました。
 明治4年、社格制度を設け神宮・官弊社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社の7段階の社格を決めます。風呂明神社は無格社です。
 7月には神社の氏子調べが命じられます。江戸時代の寺請制度からの変更です。、社格が村社の氏子になるよう意図したようだとあります。広島県では武一騒動があったので12月26日に布令を出したとありますが、このように各県の事情も様々だったのではと思われます。この制度は明治8年の戸籍制度によって中止されます。
 明治5年9月、神社の最高位にあたる天照皇太神宮(伊勢神宮)にたいする崇拝の念を浸透させるため、全国民に遥拝させ、各戸に大麻を配布して強制的に初穂金を徴収しました。
 祭礼費用は勿論、神官の給料まで村民の負担となった。
 新政府の布告には、このような村民の負担がある反面、明治初年の広島藩の郡制改革では、村民の負担を軽減するものがかなりあります。

 民衆の信仰心がたやすく変化するものではないということが言えるであろうという部分では、無格社にも入れないいろいろな山の神なども民衆の信仰心によって維持されてきた例を挙げています。また神社の合併命令を受けた神社も分祠して再建したりした例も挙げてありました。

 3の「第七章 第一節 3 信仰集団」では、「同行」という集団について書かれています。「同行」とは同行二人などとお遍路さんなどが輪袈裟をかけているので知った言葉ですが、信仰集団を表す言葉であることはここで初めて知りました。ここでは、人間社会の理不尽な強要を受けるがゆえに、さらに信仰というきずなによって生きるのだと改めて思ったりもします。また、さだまさしの本だったと思うのですが、同行三人と書いて歩いている人がいて、業務上過失で死なせてしまった人をも交えて三人で歩む気持ちを同行三人としていると書かれてあった話なども思い出し、償いを求める姿もあることを思わされます。

 風呂先生はご夫婦でこの神社を訪れられたと伺っています。可部町域の神社事情の中で生を受けられた風呂先生ご夫妻との同行三人の考察でした。
 でも風呂先生はきっとそんなこと考察済みだよとおっしゃるでしょう。だって、可部古文書同好会の『三次稲生物怪録 解読ノート』について話した時も怪談話知らんわけないじゃろうって言われてしまいました。

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『可部町史』2
2019/04/19(Fri)
 『可部町史』は、広辞苑のように時たま引いてみる読み物なのですが、このブログで取り上げるのが初めてではない気がして、少し辿ってみると、昨年3月に「三業惑乱」について調べているときにも記録しているので、いちおうこのたびは、『可部町史』2にしました。
 そのブログでは、昭和51年にやっと発行されることになった『可部町史』が、広島大学の松岡先生の基本方針が、「的確な資料を集めて権威ある町史を作るという高い理想」でできあがったいきさつを、わたしも若いとき古文書の解読現場でその作業現場に立ち会ったような気がして感慨深く読んだことも書いています。

 このたび読んだのは、「風呂明神社」についてです。この『可部町史』にどのような記載があるかとの思いから、本を開いたのでした。
 1、第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠・・・・・533ページ
 2、第五章 第八節 神社と寺院・・・・・・・・・・・・861ページ
 3、第七章 第一節 3 信仰集団・・・・・・・・・・・948ページ
と3カ所、目次から見込みをつけて読みました。

1の「第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠」533ページ~549ページまで、寛文五年(1665年)幕府が「諸社神主禰宜法度」を出して、寺院と同様に全国の神社を統制しようと試みて各神官は自分が支配する神社・小祠を書き上げて藩に呈出させましたが、文政3年(1820年)神社や小祠をそれぞれ支配している神官の名とその抱えの村名を表と地図で示してあり、その間の変遷が述べられています。この変遷が神官や禰宜(可部町域では三入八幡宮の末田氏と白石山八幡宮の末田氏)の勢力あらそいや江戸時代のもつ事情を物語っているといえます。おもに、小祠が百姓・町人の抱えとなって祭りは末田氏が行うという風呂明神社をも含めた小祠が増えることがわかってきます。風呂明神社は大和重工の南東に下の浜明神社があるのですが其の200メートルくらい南にあったものが移築されたと風呂明神社の看板に説明されています。川船の交通安全の守護神である市杵島姫命を祭っているのはそのせいですが、それがいま現在、山のふもとにあるというのも理由は分からないというのですが不思議な気がします。

                                 つづく
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「風呂明神社」
2019/04/16(Tue)
 「風呂明神社」、これは、いつものような本のタイトルではありません。
 我が家の近くにある明神社のことです。
 4月16日、毎月第3火曜日の午前中は、「いきいきサロン」のある日です。近所の主婦の女子会です。今日はホウサン団子作りで私は何時になく頑張りました。作業は40分くらいで終わったのですが、それからお昼までおしゃべりです。その時間は私にとっては、裏山登りを辞めて捻出された時間ですので、ちょっともったいない時間の過ごし方でした。
 
 帰って昼食をいただき、運動不足を補うために図書カードをもって区民文化センターに歩いてゆきました。
 もちろん途中にあるこの「風呂明神社」にも立ち寄りました。
 なんだかこのたびこの「風呂明神社」に立ってみるとは、風呂先生の御霊前にたっているような気持になりました。
 立ち去り難くなってしまい、ちいさな境内の草引きをすることにしました。こんなとき、大きな草から順に100本抜いて帰るか、1メートル四角きれいにして帰るか決めるのが私の癖です。
まずは、寄り付きから1メートル四角きれいにして、去りがたく、さらに目立つ草引きもすることにして作業を続けていると、通りすがりのおじさんが、「やー、お世話になります。」と声を掛けられました。「あー、いえいえ、ご近所の方ですか?」というと、「エーその下の者です。」といってくださり、どうして私が草を引くことになったかお話をしました。「えー風呂さんという人がいらっしゃる? 」と驚かれ、神社の昔について話してくださいます。謂れ等については、丁寧な立て看板に詳しく説明されているのですが、「この神社より上はすべて山だった、下に4・5軒あっただけで、その4・5軒で神社を守っています」という情報は、おじさんならではのものです。じつは今現在は、神社の道路向かいの広場以外は所狭しと住宅だらけなので意外なのです。
 立て看板に、「風呂明神社」は、以前は「阿保明神社」と言われていたとありますが、縁というのは不思議なものだと思いました。パソコンにまだウインドウがなかった頃、「阿保(アポ)」さんという人に会ったことがありました。パソコン関連の話をしたのでよく覚えているのでした。この「阿保」が「あお」となって、このあたりは「青」という地域なのです。可部では「青古墳群」は有名です。そのおじさんは苗字を水田だと教えてくださいましたが、子どもの頃古墳を掘って遊んでいたと話してくださいました。
そんな時、偶然友人の苗代さんが通りかかり、おじさんも苗代さんを知っておられたので、「社の中を見られましたか?」と聞かれ、見ていないというと上がって扉を開けて、二人にすべて見せてくださいました。御神体は、以前風呂先生が作られた耳なし芳一の像に似ていました。何だか感動しました。奉上棟の札が新旧二枚あります。この社を造られた方のお名前もあり、むかいの虹山団地のふもとの両延神社の末田さんが地鎮祭をされたようです。
 市杵島姫神(イチキシマヒメ)が御祭神で、宮島の7月19日の管弦祭の日に夕刻6時に祈祷して頂いてお酒を酌み交わされるようです。11月の終わりころには注連縄作りもされるとのことでした。
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第224回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/04/16(Tue)
 第224回「広島ラフカディオ・ハーンの会」は、4月13日土曜日に、昨年2月26日に亡くなられた風呂先生を偲んでの、『風呂 鞏 先生 を偲ぶ集い』として、視聴覚室で開催されました。

式次第
 1、 司会者の挨拶 (浮田)
 2、 開会の辞 (貝嶋)  ・ご挨拶 ・ご紹介
 3、 黙祷
 4、 会歌 「春の日の花と輝く」
 5、 〈第一部〉 講演 丹沢栄一氏
 6、 ティーブレイク
 7、 〈第2部〉 演奏会 風呂哲州様 加奈靖子様
 8、 閉会の辞 (鉄森)
 9、 司会者の挨拶
10、 全員で写真撮影と懇親会の連絡

    懇親会 「モーリー・マローンズ」

お天気も良く、そよ風に桜の花びらもそよそよと青空と地上とをなごませるようなお天候にも恵まれ『風呂 鞏先生を偲ぶ会』に参加することができました。
 毎月第2土曜日、第4土曜日に参加している通史会で知り合った松井さんから紹介を受けた、木曜会の伊藤様も参加してくださり、初めてご尊顔を拝しました。名刺をいただきました。あらためて日本山岳会広島支部会長をされていることに驚きました。昨年10月比婆山に登って以来、1月に高陽町の二ヶ城山に登ったきり山に御無沙汰でした。名刺を拝見しながら山頂を目指す足遣いを思い出しています。

 風呂先生の奥様と出会うと涙が出そうで困りました。
 風呂先生はいつも会費も取らず、ひたすらハーンに関する情報を集め、丁寧な資料作りをして提供してくださり、広島のハーンの会の私たちの研究研鑽への協力を惜しまれませんでした。そのため、月1回の勉強会ではありましたが、いつも私たちは毎回知識欲を十分以上に満たすことができ、さらに新たな課題に向かうことができました。そんな先生を家庭で支えてくださった奥様があればこそと、心の底から感謝の念でいっぱいになります。
 ゆっくり休んで豊かな老後を過ごしていただきたいと願うばかりです。

難聴で充分に行事をくみ取り協力できるということができない私ですが、こんなに役立たずの私をも含めながらも、浮田さんが行事の企画実施の指揮を執ってがんばってってくださったことに感謝の一日でした。
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『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』
2019/04/10(Wed)
 中島岳志 島薗進著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』を読みました。
 集英社新書で、定価780円+税で2016年2月に発行された本です。

 本通りに行ったとき、この本を求めようと本屋を探したのですが、何軒かの本屋さんがなくなっていることを知り、結局夫が中古品をネットで買ってくれました。
 著者の一人中島岳志については、NHK番組の『日本人は何を考えてきたのか 大本教 民衆は何を求めたのか~出口なお・王仁三郎』とシリーズ深読み読書会「井上靖“敦煌”」、そして寺元さんからお借りした『日本主義と親鸞』と『保守と大東亜戦争』 で知りました。 彼の考えが活字になったものが我が家に一冊もないというのでは、落ち着きませんが、これで安心しました。いつでも彼の思想を振り返って確かめることができます。

 中島岳志については、その保守主義の、単なる現状肯定も、理性を過信した設計主義も退け、人間は不完全な存在なので、誤ることもある。だからこそ、長年かけて作り上げられてきた良識や慣習を大切にしながら、変えられる部分から漸進的に変えていこうという考えに基づいた論が展開されていきます。
 島薗進については初めてですが、宗教学の専門家として、民衆の生活思想や宗教集団に注目して、その変化の中から、戦前のナショナリズムへの回帰を含んだ今日の世相を嗅ぎ取り、それを避ける方向への思索がこの対談の中で示されてゆきます。

 2018年が明治維新から150年目にあたることから、その半分の1946年の終戦を折り返し点として、それぞれの75年を25年づつ3等分して、明治維新から大東亜戦争というナショナリズムへ向かう道筋を検証し、戦後から2018年へと向かう政治や民衆の道筋を比較対象的に分析してゆきます。

 何気なく善きものとして心の奥に秘めている親鸞から蓮如へと伝わった佛の教えが、いつのまにかナショナリズムにも迎合してとんでもない方向へ私たちの生活を導いていくことがある。
 また私たちの郷愁の中に存在する村の鎮守の神様への思いが、自分では意識しないまに国家主義へと自分を駆り立てていることがある。といったようなことを感じさせる本です。


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『やわらかな心をもつ ぼくたちふたりの運・鈍・根』
2019/04/02(Tue)
弘中平祐・小澤征爾 プロデューサー萩本晴彦 著 『やわらかな心をもつ』ぼくたちふたりの運・鈍・根 を読みました。
 昭和54年5月創世記より刊行され、この新潮文庫は昭和59年10月発行平成9年4月13刷476円+税です。

 プロデューサー萩本晴彦がお膳立てした弘中平祐・小澤征爾の対談になっている  この作品は、文庫本で344ページの作品ですが、対談の内容を補完するための資料が小さな文字で、ときには2ページくらいも入っているときがあり、辞書を見る時のように老眼鏡をかけてさらに虫眼鏡で読むというたいへんな作品です。
 それでも面白いのと、昭和52年頃、日本やヨーロッパにも時々出かけて仕事をしながら、アメリカで家庭をもって生活するふたりの感想や、お互い国外での自分の感想を確かめ合うことで、自分の居場所を確認しているようなところも楽しめました。
 またお互い、自分の育ちや、家族との生活をはなし、お互いの理解を深めあうといった部分では、まさにお互い友情を深め合う仕合せな会話となっています。

 読書の途中大笑いしたのは、小澤征爾が若い頃、アメリカでの仕立ては高価なので、日本のデパートのワイシャツ部で6着ほど、首を細く長くと、母に言って頼んでおいたのに、帰ってみると襟の高さが少し足りないことから、母親に「僕があんなに云っておいたのに、こんなシャツなんか着れねぇ!」と怒った時、父親が普通はめったに起こらないのに「ばか野郎!」「音楽やめちまえ、音楽は人間がやるものだろう。ワイシャツがやるもんじゃない。ワイシャツの襟が高いか低いかでおふくろに文句言うような奴は音楽やめちまえ!」とメチャメチャに怒ったというのです。その頃やっと指揮者になってたんだよ。かけだしだけど、それで食ってたんだから。僕はそのころ頭がカッカして全然わからなかった、おやじが言っていること・・・・。というと、
弘中 「良い忠告だ」
小澤 その時兄貴がいてね、少し僕の立場になって、「芸術家なんだからしかたがないよ、おやじさん」って中に入ってくれてその時は助かった。兄貴に対してとても感謝した。でも、いま考えてみるとおやじが正しいんだよ。
弘中 そういうこと、おやじでなくて誰が言ってくれる?
小澤 そうだね。・・・・・。
 私はこの部分について、後になって、むかし福屋の近くで県立美術館の館長をされている先生にばったり出会って、いっしょに食事をしたとき、先生が福屋でワイシャツを仕立てたのを取に行った帰りだと言われたことを思い出した。
 後に読んだ『最後の秘境 東京芸大学天才たちのカオスな日常』では、キャンパスは二つに分かれていて右側の音楽学部、左側は美術学部、これらの学生の恰好について語られています。音楽は舞台が命で身なりはとても大切。絵画や彫刻などは、作品が大切で身なりは気にしないという意味のことが書かれてあったように思う。先生は田舎の絵描きで美術館の館長だったのに仕立物のシャツを着るとはこれいかにと思ったことだった。小澤征爾のこだわりもすこし理解できそうな気もします。
 教育について書かれていることにも考えさせられました

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