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『松陰逸話』
2019/05/30(Thu)
 香川政一著『松陰逸話』を読みました。
 山口県萩市西田町第51番 藤川書店より昭和10年2月第1刷で定価金30円です。この本は昭和32年第7版です。
 値段が30円だったのは第何版のときのことなのか疑問です。

 この本は何十年も前実家から持ち帰った本です。
 先日、風呂先生を偲んでの会の後の懇親会で、会員の横山さんが、松陰のおじさんに玉木という人がいたことを話されました。(よく聞こえなかったけどそうだったように思いますが)それで、この本が玉木という叔父さんが出てくる本だったと思って開いてみたのがきっかけでした。
 7ページに≪(松陰神社)社前を右に廻りて椎原の新道といふのを爪先上りに上って行き、右に伊藤博文公の舊宅、左に玉木文之進先生の御宅など有るのを併せ訪ひつゝ、右に折れて坂路を登れば、松柏その後方を擁護して、山禽枝に囀づるの一區に達します。これ實に松陰先生の生れられたる杉家の舊居樹々亭のありしところで、先生が後に屢々山屋敷といっていられる處であります。≫
 松陰の父親は杉家からこの家の村田瀧子と結婚し、父の弟である文之進は玉木家を相続したのでした。
 78ページには≪松陰先生の叔父玉木文之進翁に、一子彦介といふがありました。安政二年に十五歳に達するを以て、加冠の吉禮を舉げようといふに當り、先生特に翁から頼まれて、為に名を正弘、字を毅甫と選ばれ、これが説を作りて、「士は任重くして道遠し、惟毅以て天下の至重に任すべく、惟弘以て天下の至遠を致すべし」と言っておられます。このとき先生又彦介のために士規七則を作りて之を送り、後に門人等の為にも、之を書いて與へられたので、士規七則は遂に村塾の遺訓ででもあるかのやうになりました。
 この玉木彦介は、慶應二年春、長州の正義派と俗論派とが対立し交戦になったとき彦介は正義派で傷を負いそれがもとで正月二〇日行年二五歳で亡くなりました。その後、玉木文之進翁には嗣子がなく、長府から乃木大将の弟真人を貰い受けて養子としたとあります。
 また、文之進は後年乃木将軍を薫陶したことで有名になったとあります。

 松陰の叔父といえば母親の実兄で鎌倉で瑞泉寺の昌筠和尚となっている、その叔父を1853年5月の終わりペリー来航の直前ですが24歳のとき訪ねてゆきます。翌年3月下田へ再度来航した米艦隊への「踏海の擧」破れ下獄します。
 松陰の諱についても記されています。寝るでもなく起きるでもなくウトウトしていると白衣の神人が現れて「松陰、松陰」と呼んで「二十一回猛士」という一刻文を見せたというのです。そこで、杉家の杉は二十一、吉田も二十一回、自分は弱いので猛る人を目標にという意味にとり、「以後二十一回猛子」と名乗ったとあります。
 この本には、品川弥次郎と、松陰の聞くも涙の物語があるのですが、この書を読んだときには我が家に品川弥次郎の書があることに気付かづ、その部分の記述が心に響いていなかったようで、全く新しく出会った資料のようにおもえました。
この本が、戦後に書かれていたなら、松陰の評価も違っていただろうと思うと、近代思想が戦前までだったことを感じます。
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「風呂崎神社」
2019/05/22(Wed)
 今日午後、用事を済ませて、夫婦で「風呂崎神社」に行ってきました。
 以前「風呂明神社」について記録したことがあります。そのあと、この「風呂明神社」について調べるために『可部町史』のなかの神社関連の記事を『可部町史』2 と続『可部町史』2 として記録しました。そのなかに、
 ≪1の「第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠」533ページ~549ページまで、寛文五年(1665年)幕府が「諸社神主禰宜法度」を出して、寺院と同様に全国の神社を統制しようと試みて各神官は自分が支配する神社・小祠を書き上げて藩に呈出させましたが、文政3年(1820年)神社や小祠をそれぞれ支配している神官の名とその抱えの村名を表と地図で示してあり、その間の変遷が述べられています。≫
 それが、≪2の「第五章 第八節 神社と寺院」は、861ページから≫の文章では、≪明治4年、社格制度を設け神宮・官弊社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社の7段階の社格を決めます。風呂明神社は無格社です。≫
 となっていることを記録していますが、このなかの村社に社格付けをされた神社の中に「風呂崎神社」というのがあったのです。

 何時も風呂先生のことを思っている私は、この「風呂崎神社」というのがどこにあるのかきになって、ずっと人づてに探していました。可部町の古いことを知っておられそうな人々にももしご存じならとお願いしていたのですがどうにもわかりませんでした。
 ところが昨日、夫のすでに亡くなった弟の連れ合いの和子さんから電話がありました。レザー細工仲間との会合の場からの電話で、山本さんという人が変わって教えてくださいました。その人は、バス停に「風呂崎神社前」という停留所があると教えて下さったのです。

 行ってみて分かったのですが、この神社には夫婦で行ってみたことがあったのでした。ですが、その神社の名前が「風呂崎神社」であるということは二人ともまったく覚えていなかったのです。

 安佐北から「安佐動物公園」へ行くために安佐南区へと太田川橋が架かっているのですが、その橋を渡らずに、飯室方面にほんの少しさかのぼったところに、道路と太田川との間に集会所があります。その集会所のあった場所に昔は小学校があったのです。その小学校ができるまでは、川向うからの「渡し」があったのです。私たちはその「渡し」について調べるためにその集会所に行き、そこら辺りを散策したのでした。今日確認したところ、その「渡し」から、真っ直ぐ山を登ったところに神社があるのです。山を登るといっても、大きな屋敷があちこちにありますから、それへの道路を曲がりながら、位置的にまっすぐ上になるように歩くのです。間に加計線の廃線の後が草原になって長く伸びていますが、このたびはそこに車を置きました。線路のすぐ上にはさらに大きな屋敷跡があります。「渡し」で往時には豊かだったことが伺えます。神社へのいよいよの参道は細いのですが石畳風です。境内はそんなに広いわけではありませんが、大きなイチョウ、カヤノキ、スギ、クスノキなどがあります。鳥居は宮島さん風ですが社の屋根は出雲風です。地域の人びとに大切にされていることが伺えます。

 風呂先生の名字である風呂というのは大変にめずらしい苗字と思えます。しかし、町内に風呂の付いた明神社や神社があることも珍しいのではないでしょうか。
 「風呂明神社」には何度か通って、境内をきれいに草引きをして掃除をすませやすらかな気持ちになりました。
 そしてまた大きな木々の木漏れ日の境内中に立つこの「風呂崎神社」を見上げながら、本当に安らぎながらも不思議な気持ちになるのでした。


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『二十歳の炎』
2019/05/19(Sun)
 穂高健一著『二十歳の炎』を読みました。
 ㈱日新報道より2014年6月第1刷で定価1600+税です。
 
 このところ忙しくて、というか気にしなければいけないことが多くて・・・。
 せっかく興味深く読めたのですが、なかなかブログに書き込みができませんでした。そのうち読後感もだんだん大雑把になっていき、さらにいま読んでいる香川政一著『松陰逸話』を読んでいくうち、長州にもより思いも深まりこの時代のどうしょうもない思考回路を思わせられてもいくのです。
最初書きかけていた部分から読みかえしながら書き足していきます

 ≪芸州広島藩を知らずして、幕末史をかたるべからず 150年封印されてきた歴史の謎がよみがえる 英雄・高間省三は二十歳にして死す≫
表紙にこの文字が大きく帯のように書かれています。
まったく長州戦争の時、広島藩はどうだったのかといことについては、長州から見て、あるいは幕府から見てのことが、いろいろなところで、カット写真のように感じるところはあったような気もしますが、読み進むと私のなかでも、やはり広島藩の様子は謎だったのだということが逆によくわかってきます。

18歳の高間省三は武具奉行を父に持つ、三の丸にある藩校「学問所」の最も若い助教です。一つ年上の綾という許嫁がいますが、婚約を先延ばしにしています。「わが国の最大の権威は天皇である。天皇を奉じてこそ大義。徳川家は天皇から政権を委託されている」との考えから、彦根藩が長州を責めるため江波港に上陸した朝、幕長戦争をやめさせるため、広島に来た征長総督の老中小笠原壱岐守を暗殺しようと考えているところから話は始まります。
タイトルから見ても。表紙のフレーズから見てもそれから二年後の二十歳で亡くなった高間省三という人物の物語のように思いがちです。しかし、原爆などで大部分を失われ残り少ない古文書などの資料から、幕末から維新への働きかけが、薩摩・長州・土佐藩によってなされたように語られている史観に相違があることが分かってきます。
じつは広島藩が広島藩・薩摩・長州・土佐藩との連合の道筋をつけたり、大政奉還を幕府に申し出たのも広島藩が土佐藩より10カ月も早く申し出ていることなどをあげていく過程が語られます。その先鞭をつけておきながら、土佐の後藤象二郎や大村益次郎などに約束を反故にされたり、欺かれたりするのです。土佐藩や長州藩は、幕藩体制持続派・皇国派と藩が二分する状況になっているため、藩内で調整するため他藩を裏切らざるを得ないこともわかってきます。
頼山陽の『日本外史』などを中心とした皇国史観を学ぶ学問所での思想を中心とした若い人たちの佐幕への情熱が、常に悔しい思いをする故に、最後の方は、手柄をあげようと意地になっているとしか思えない行動をとるように見えて少し残念な気持ちで読み終わります。
 この本は「通史会」の友達が「すごくいい本よ!!」とかしてくれた本ですが、広島の古文書に少しでも触れたことのある私としても、頼山陽の『日本外史』などを中心とした皇国史観が、維新を推し進めるにあたって、当時の人たちにどのように解釈されたかについて考えるためにも手元に置いておきたい1冊です。


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『絵のない絵本』
2019/05/10(Fri)
 アンデルセン著 山室静訳、味戸ケイコ絵『絵のない絵本』を読みました。
 ㈱サンリオよりサンリオ・ギフト文庫として1975年12月第1刷です。

 初めて読む本です。この本をぱっとめくったとき、桑本仁子さんに贈ろうと思って購入した中古の、松谷みよこ著『黒いちょう』の原型を見たような気持になりました。

 この、アンデルセン著『絵のない絵本』は、序章の次第一夜から第三十三夜まで、月が夜に見たことを語ってくれた話ということで書いています。短い話で2ページのものから9ページくらいのものです。じっさいには退屈な話でなかなか読み進めませんでした。

 ところが松谷みよ子の『黒いちょう』は、
 ≪お日さまとお月さまは、ときたま出あうと、世の中のいろいろなできごとをはなしあいます。ある日お月様が・・・・。≫とお日さまとの語らいになります。
 ≪ところが、ある日。お月さまが、山のかげからのぞくと、お日さまがぎらぎら光りながら、しずもうともせず、お月さまを待っていらっしゃるではありませんか。「どうなさいました。」お月さまは、いそいで声をかけました。お日さまはまっかにもえ雲のいろどりもただならぬありさまだったのです。「わたしは、きょうははらがたってならないのです。」お日さまははげしいいかりで声がふるえていました。「あの山を見てください。あの山に今ひとりの子が死んで横たわっているのです。しかし、その子の村ではまだそのことを知りません。それなのにわたしは沈んでいかなくてはならないのです。「なぜです。どうしてその子は死んだのです。」御月様はせきこんでたずねました。・・≫
 そしてお日さまは、その子が今日どうして死んでしまったかを話します。
 その話を聞き終えたお月さまは、涙を流していいました。
 ≪わたしが、その子のそばにいてやりましょう。あおい光をその子に一晩じゅう降りそそいでやりましょう。もし村の人たちがさがしに出たら、どんな小さな道も明るく照らしましょう。」お日さまはこみあげてくるおえつをこらえながらうなずくと、さいごのかがやきを、その山になげかけ、がっくりとしずんでいきました。そして、お月さまは、やさしい白い顔をきびしくひきしめて、だんだんふかくなっていくゆうやみのなかを、しずかに、しずかに、のぼっていかれたのでした。≫
で終わります。
 横たわった男の子のシャツの上には黒い蝶が止まっている静寂な絵が描かれています。

 私は桑本仁子さんのおじい様が、本のタイトルに、『黒い蝶』とつけられたことに考えを及ぼします。物語の印象として作品の中に登場する黒い蝶が読者の心にそっと立ち上がってくるので、作品がよりいっそう忘れられません。そして山道で黒い蝶を見るたびこれらの作品のことを思い浮かべるのです。


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「君子」
2019/05/09(Thu)
 小泉八雲著 平川祐弘訳「君子」を読みました。
 講談社より、学術文庫として1990年8月第1刷2001年4月第15刷、で、定価1100円+税です。

 ハーンの会の柴田さんが、メールで知らせてくださった浅尾さんの「ある保守主義者」の感想文に、
 ≪最終的にそのアンソロジーには、『心』の中の一篇である『君子』が採用されることになったのだった。書籍編集にまつわるささやかなうら話≫
 とある部分を読んで、読んだはずの「君子」の内容が思い出せず気になっていたので読み返したのでした。

 貧しさゆえに頼っていった君香という人に仕事のコツを仕込まれた君子は、夜の世界ではその美しさと、節操を持った器量の良さで人気者でした。君香にお願いした君子の母はすでに亡くなり、妹も良縁に恵まれ安心した頃、君子は姿を消します。 
 君子は自分なしではと自殺をもしかねない男性の家に行ってしまっていたのです。男性の家族も結婚を了承してくれていたのですが、君香は結婚を先延ばしにしていき、この家からも手紙を残して出ていきます。手紙には、この家や男性にふさわしい奥方は自分ではないとありました。男性は君子を探し回りますがとうとう行方が知れず、後年結婚をして息子を得ます。その息子が口づたいにお話ができるようになった頃、君子は尼となってその家の門口に立ってお坊ちゃまから施し物を受け、父親に「お父さん、この世でまたとお目もじできぬ者が坊ちゃんを見させて貰うて嬉しいと申しました」と言わせるように教えて子どもの頭を撫でて足早に立ち去る。という話です。

 読みながら石井妙子著『おそめ』という本を読みさしているのを思い出しました。しかも、友達が何気なく貸してくれた本です。定価も1800円+税です。
 栞は308ページに差し挟めたきりです。あと50ページで終わりです。表紙には、
≪伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生≫
 とあり、いま内容を思い出してみると、おそめは京都で芸妓から身をおこし、お客さんの勧めや支援で京都に店を持ち、銀座にも支店をだし「エポワール」という店と客を二分するという繁盛ぶりになってゆきます。もちろん一元さんはお断りで著名な作家や文化人がお得意さんです。それらの作家の作品にも彼女を描いたものもあります。そのおそめの男性関係がまた独特です。おそめにも相思相愛の彼ができ一女をもうけます。本人は結婚したつもりでしたが、のち彼にはれっきとした妻子があることがしれました。しかしおそめは関係を解消せず、自分と彼の家族を結果的に養っていくことになりますが。彼女はお金には無頓着なぶん、彼が彼女の裏方として活躍しているからこその生活でした。
 その彼というのは作品にはありませんが、のち任侠映画のプロデュースで有名な俊藤浩滋となるのでした。本妻との娘は富司純子、孫には寺島しのぶや尾上菊之助です。
 ハーンの会員でありながら「君子」への記録が『おそめ』の記録も兼ねることになるとは・・・。風呂先生に叱られそうです。

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『天空海闊 東湖と象山』
2019/05/06(Mon)
  高橋淡水著『天空海闊 東湖と象山』を読みました。
 下村書店より、大正11年(1922)3月第1刷、1926年3月第3刷で、定価壱円八十銭でだいたい文庫本と新書版のあいだの大きさの本です。
 夫がこの前、市内の古本屋で見つけて買っておいたものです。

 355ページの本ですが、34文字の10行ですからそれほど多い情報量ではありません。しかし、大正11年の文章ですから、古文書の解読原稿のような言い回しと漢字使いのため、見たことのない漢字や音で意味を連想します。さらに一人の人間が幾通りもの名前で登場するので一瞬なにのことやらと思います。そのため読み終わったときには古本故バラバラになりそうです。

 それにしても、さきに読んだ『神仏分離』で、標的にされた水戸藩の藤田東湖・会沢安・徳川斉昭のことですから、とても興味深くなります。
 読み進んでいくと、東湖がというより水戸藩がなぜこれほどまでに神仏分離を深刻に考えたかについては水戸学の基礎を作った水戸光圀にさかのぼることがわかります。光圀は彰考館を作って『大日本史』の編纂事業を起こしました。
 いがいなことに、水戸光圀も、徳川斉昭も東湖も熱心な仏教徒です。それに加えて、神国日本の基となる神を大切にすることは我が国にとっては必要不可欠なものとの考えが基礎にあります。双方を大切に思っています。

 しかし、『大日本史』の編纂という文化事業は、大変な費用と人材の育成を必要とします。そういった中で多くの義人が生まれますが、一方、武士の世に太平楽の世が続き、風紀は乱れ、讒言や賄賂などによる立身出世をたくらむ人が重臣になり、財政は衰えて、窮民は飢寒に泣くというありさまです。
 斉昭は藩主になった暁に、
 ≪これまでの弊政を一新するには先ず奸侫の重臣を淘汰し、奢侈の風を改めなければ、甘(うま)く往かぬ≫
 との決意をしますが、この、奢侈の風のなかに、僧侶の生活もありました。そのため庶民の寺院への負担も増すばかりです。仏教に熱心なだけに許せない状況でもあります。一方神社の禰宜は祈祷やお祓いはしますが、教義もなく修行もありません。そんな中で、神道は仏教に飲み込まれぎみで、僧侶が祈祷やお祓いをしてお金もうけをする始末です。その傾向が真言宗にとくに多かったのかおおくは真言宗のお寺が始末の対象になっています。
 おりから夷敵の脅威も迫ってきます。国防を幕府よりも、どの藩よりもより大切と考えるのも儒教中心の水戸学の特徴の一つです。東湖も、父の命で藩のため国のために落とす命ならの覚悟は充分です。
 海岸への備えの大砲を作るのに、貧窮する庶民から税をとるよりは、僧侶の風紀を正すためにも、お寺のの鐘楼などを鋳直すことを考えるのは十分考えられることと思われるのでした。
 水戸藩のことに少しふれた本を読むことはこれまでにもあったことと思いますが、水戸藩の内情にこれほど触れた本は初めてで、とても興味深く読みました。
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『神仏分離』
2019/05/02(Thu)
 圭室文雄(たまむろふみお)著『神仏分離』を読みました。
 株式会社教育者より、1977年10月第1刷、1982年2月第4刷で、定価600円の新書版です。
 「どうだったのだろう?」という課題が頭の片隅にあることがあります。
 古文書の解読作業をとおして出会った『三業惑乱』、一昨年前から課題になっていた小泉八雲の「ある保守主義者」、通史会でテキストになっている「人別送り一札」などのことを考えるうち、神仏分離や、廃仏毀釈などが民衆に及ぼした影響などがどんなものであったのかという思いでした。

 加川さんがこの3月6日に亡くなられて、加川さんの御子息から古文書関連の書類と関連の書物を引き継いでほしいとの言葉を受け、我が家の整理もしないままとにかく関連のものを自宅に運びました。「古文書」の会や「通史会」を辞められて13年たっていたので、その間それらの会の方々の依頼を受けて資料をさしあげられ、とくにそれぞれの古文書を加川さんが解読された原稿はほとんどありません。これから学ぼうとする者にとっては手立てを失うことになるのですが、それほど加川さんの解読原稿がこれまで学んできた人々に信頼されてきたことを思います。
 しかし、未整理の資料の中にふとこの新書をみつけびっくりしました。なにはさておき「はじめに」で、
 ≪民衆にとっての神・仏に対する信仰は合理主義的思想で割り切れるものではない。むしろ信仰は不合理性ゆえに存在するのである。神仏分離政策を通じて実に多くの文化遺産が灰燼に帰した。…。また神仏を分離して民衆の信仰を藩や国家の手で統制し得たかといえば、否である。信仰の実態を充分にとらえることができないのが「政治」の宿命であるといっていいと思う。むしろそうであるから民衆の信仰に支えられた宗教は命脈をたもっているともいえよう。≫
 を読み、私が疑問に思っていたことへの解答がこの中にあることを確信しました。そして読み進んでいると、神道、仏教、あるいは混交の姿が見えてきます。神仏の関係のありようから始まって、いくつかの藩政による統制や、それを受け継いだとも思える明治新政府の方針の具体的な資料と数字が民衆の思いと共に浮かび上がってきます。
 静かに考えてみると、自分は仏教から多くを学んだ気がします。なにかしら仏教を信仰して生きているのではないけれど、仏教の教えによって、感謝の日々を送れることが多い。我が家にある仏教関係の書物や仏壇や、私の手作りの仏具がなくなっても変わらないような気がします。
 「おわりに」では、
 ≪寺取調類纂などの検討も緒に就いたばかりで、すべてこれからといってよいと思う。また各地に残る資料の発掘もしていかなければならないと思う。≫
 と述べられていますが、とりあえず、私の住む可部町界隈の資料は『可部町史』で見ることができ、少し気が晴れた気分でいます。

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