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『三国志(一)』
2019/07/28(Sun)
 吉川英治著 『三国志(一)』を読みました。
  講談社より、吉川英治全集・26として出版された、昭和41年8月第1刷 昭和45年9月第22刷 の書です。
 志村建世氏がブログで、東京国立博物館で「三国志・特別展」が、「平成館」全体を使って大規模に展示されているのを見に行ったことを記されていたのを読み、思いついて読み始めました。
 志村建世氏は1933年生まれですが、高校生の時、吉川英治の「三国志」を読んだと書かれていました。
 我が家のこの本には、夫が、裏表紙の内側に昭和46年2月10日購入と書いていましたので、私もそのころ読んだものと思われます。この本を読んで以降、大きな川のほとりに立つと、劉備玄徳が黄河のほとりで、幾千万年もこうして流れているのかと思われる悠久の流れを見つめていたのを思うようになっていました。
 読み始めると、分厚くて重く、読むには骨が折れるのと、なんといっても広い国土、いろんな地域の武将のそれぞれの動きが描かれていますので、筋立ての理解の一助にでもなればと、人名をメモしてみたり、地名をメモしてみたりとずいぶん面倒な読書にもなりました。1800年前にそれよりずっと以前からのことが書かれたものを皮切りに出来上がった「三国志演義」が底本とあります。それへの興味を失わせない吉川英治の筆に、眠くなれば家事をしたり、庭に出て草を引いたり、ゆっくりゆっくりと読みました。
 吉川英治が、序のなかで、
≪中国大陸へ行って、そこの雑多な庶民や要人などに接し、特に親しんでみると、三国志に中に出て来る人物の誰かしらきっと似ている。或は、共通したものを感じる場合が縷々ある。
 だから、現代の中国大陸には、三国志時代の治乱興亡がそのままあるし、作中の人物も、文化や姿こそ変わっているが、猶、今日にも生きているといっても過言ではない。≫
 と述べていることが、頭の片隅にあることで、中国を知らない私にとっては、中国民族の願いというようなものへ思いを忍ばせます。
 巻も終わりに近づいたころ、著者が、2行下げて
 ≪=読者へ   作家として、一言ここにさし挟むの異例をゆるされたい。劉安が妻の肉を煮て玄徳に饗したという項は、日本人のもつ古来の情愛や道徳ではそのまま理解しにくい事である。われわれの情美感や潔癖は、むしろ不快さえ覚える話である。・・・・・≫と述べて、さらにこのことへの理解に対する思いを縷々述べています。
 このことを、吉川英治が述べているように理解していくことができるようになることが、この三国志を読む意味でもあるように思える今回の読書です。
 すでに本箱から『三国志(二)』を取り出してきました。この暑さの中、1週間で読めるでしょうか。
『三国志』は、吉川英治全集・28(三)までありますので、これから半月はじゅうぶん楽しめそうです。
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「永遠に女性的なるもの」
2019/07/10(Wed)
 小泉八雲著 仙北谷晃一訳 「永遠に女性的なるもの」を読みました。
 この作品を読む前に、7月6日(土)第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したとき、貝島先生から配布されたハーンが東京大学で講義したときの講義記録、「文学と世論」を読んでいたために、いぜん読んだときよりいっそう作品の主旨が理解できたように思います。
 ただ、日本の学生を対象に語るのと、西欧の読者に向けての発信との違いはありますが、国民が他国民をより理解できるのは文学ではないかとするハーンの主張が述べられているのは同じです。

 ハーンは、「先生、イギリスの小説にはなぜあんなに恋愛や結婚のことがしょっちゅう出てくるのですか、そのわけを教えて下さい――私たちには奇想天外のことに思えます」という一生徒の質問に答えるために、西欧での一般的な国民の美意識の神髄をなすものは何であったかということをあらためて考えざるを得なかったとともに、なぜ日本の生徒がそれを理解できないのかということを考えなければならなかったということが発端の作品でした。
 ハーンはその生徒への説明にはたっぷり2時間以上かかる始末であったと述べています。

 ≪われわれの社会を描いた小説で、日本の学生が本当に理解できるものはまずないと言っていい。理由は単純である。イギリスの社会は、日本の学生の正確な理解を全く超えているからである。実際、何もイギリスの社会に限らず、広く西洋の生活全般が、日本人には謎なのである。親に対する孝行が道徳の基盤となっていないような社会、子供が自分の家庭を築くために親のもとから離れていくような社会、自分を生んでくれた人よりも妻や子を愛することの方が、自然でもあり当然でもあると考えられているような社会、結婚が親の意思とは無関係に、当人同士の気持ちだけで決められるような社会、姑が嫁の従順な奉仕を当然のものとして受け入れられないような社会――このような社会は必然的に日本人の眼に、空飛ぶ鳥、野に棲む獣とほとんど変わらない生活状態、よく言ってもせいぜい一種の道徳的無秩序としか映らないのである。≫
から始まって日本の生活と思想が語られます。
 ≪公平な立場から東洋の生活と思想を研究しようという人は、同時に東洋人の見地から西洋の生活や思想を考究してみなくてはならぬ。こうした比較研究の成果は、当の研究者に少なからぬ反省を迫ることになるだろう。要は当人の人柄と理解能力の問題だが、多かれ少なかれ東洋の影響を受けるのは必定である。それに伴って西洋の性のあり方が、徐々に新しい、夢想だにしなかった意味を帯びて見えてきて、従来慣れて来た古い観方のすくなからぬ部分が姿を消してゆくだろう。≫
とのべて、西洋のことの考究において、
 ≪永遠に女性的なるものの理想が道徳的価値を有する、という確信のごときはそのもっとも顕著な例であるだろう。≫
と、述べるごとく、西洋にある支配的な理念「永遠の女性という理想」について語られます。


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「夏の日の夢」
2019/07/09(Tue)
 小泉八雲著 仙北谷晃一訳 「夏の日の夢」を読みました。
 7月6日(土)第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したとき、末国さんが、秋月悌次郎についての話題を紹介されました。そして、会津藩と長州藩の関係に話がおよびました。ふと、熊本大学小泉八雲研究会著『ラフかディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』に、当時、第五高等中学校に入学していた生徒の出身地の表があったような気がして、山口県の人が何人くらいいたかなと、開いてみていると、それは見つからず、気まぐれに本文を読んでいると、西成彦氏の「西洋から来た浦島」のなかに、「夏の日の夢」からの引用文として、
 ≪ついに別離の日がやってきた。その女性は泣き、いつかくれたお守りの話をした。決して決してなくしてはならない、いつでも帰ってこられるからと言うのだった。しかし私は一度も帰らなかった。年が過ぎ、ある日ふと気づいてみたら、お守りはなくなっていて、私は愚かしい齢を重ねているのだった。(『東の国から』)≫
 とありました。私は、「浦島」にこんなところがあったかと、あらためて「夏の日の夢」を読みかえしました。

 読んでみると、そのお守りとは、解説のとおり、ハーンの母性喪失体験になぞらえられていることがわかってきました。たとえば、母親はハーンのもとを去ってゆくとき、レフカダの住所を書きこんだものをお守りとして教えこんでいたのかもしれないなどと。

 私はこの作品を最初に読んだあとしばらくして、宇土半島への旅をしました。三角西港に立ち寄り、ハーンが明治26年7月22日に泊まったという「浦島屋」でひと時を過ごしました。この建物は、ハーンが泊まって、明治38年に大連に移築されたため、写真をもとに復元された建物でした。そのときは、ハーンのように女将に出会えなかった分、海岸の三角西港の埠頭を、夫に解説してもらいながら波打ち際を散歩しました。
 港の後方の高台には、旧宇土郡役所や、旧簡易裁判所、旧警察署があり、たずねていくとそれは明治時代往時にひきもどされ古き日本の郷愁を十分にあじわうことになりました。
 そこから熊本への道は、ハーンが干ばつのための雨乞いの太鼓の音を聞いたその音を描きながらの旅になりました。

 そんな体験の後の再読は、忘れっぽいせいもあってか、初めて読むような感じで作品が立ち上がってくるようでした。

 また、西成彦氏の「西洋から来た浦島」の解説には、
 ≪明治半ばの日本では、せいぜい神仙思想の延長線上にあるエロチックな物語として「浦島」を解する程度が関の山であり、むしろ文明開化の一般的風潮の中では、この伝説を大人の手から子供の手に譲り渡すために、教訓譚として読み替えることに知識人の主な関心は向かっていた。ハーンの「浦島」解釈は、同時代の日本人の作家のそれより一歩も二歩も先んじたものであった。≫
 とありました。私などは、ここでの道教的な神仙思想解釈など思いもよらず、「助けた亀に連れられて~♪」と、もっぱら亀など他の生き物をむやみにいじめたらいけない。まさか、恩返しなどは求めもしないけれども、命あるものへの慈しみの心が大切との教育譚として読みました。
 ハーンがもとにした、チェンバレンが子供のために書いた美しい挿絵付きの『日本お伽話集』は、どんな話だったのだろうと思われてきます。



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第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/07/07(Sun)
 7月6日(土)第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 12人の参加です。
 朝、目覚めたら5時過ぎで、5時30分にやっと起き上がることができました。
 台所に行くと台所を片付けずに眠っていたことに気付きショックを受けました。家事がそんなにあるわけでもないのに、こんな状態で今日は出席できるのかなーという気持ちでした。朝食を済ませると、ビタミン剤やドリンクを飲んで、とにかく台所の整理をして8時30分から裏山に近所の方々3人で登りました。ひどい暑さなのに、二人ともわたしより年長者で、腰痛のためコルセットをしておられました。持病を悪化させないようにと歩かれるのですが、病院に行くために歩かれない日も増えてきました。私も朝から用事があったりしんどかったりして休む日が増えました。区民文化センター方向から登る人も九品寺方面から登ってくる人もだんだん少なくなってみんな弱体化が急激に進んでいるのかいままでとは状況が変わってきました。
 帰ると、早めの昼食をすませ、横になって休んでからハーンの会に出かけました。
 いつもより遅く出かけたのですが、誰もまだ来ておられませんでした。それでも貝嶋先生は充分に準備してくださり、お湯もすでに沸いて、ご自分の机の上には配布物などもきちんとならべられていました。
 つぎに、新しく入会を希望されていた伊藤秀輔氏が来られ、自動販売機がありませんかと聞かれたので、お茶でよかったらと差し上げました。外は大変な暑さです。先に来ていてよかったと思いました。

 会が始まると、貝島先生が、今後の予定についてのおすすめを発表してくださり、皆さんの同意もあって、ハーンが東京大学で講義したときの講義記録、「文学と世論」に決まり、それではと、資料をコピーしてきてくださいました。これは、漱石のように、自分が講義したものの記録ではなく、講義を受けた学生の記録だそうです。
 昨年の5月、『石仏 くまもとハーン通信 №25』 熊本地震復興記念号で紹介され、送ってくださった向井ゆき子氏のお父様の明治39年合志義塾での学習ノートを思い起こします。
 それはさておき、いま、貝島先生がコピーして配布してくださったこの翻訳文を読んでこの講義に感心しています。何に感心しているかといえば、学生たちが英文で講義されたことをよく聞き理解して書き起こせるほどの丁寧な講義がされていたということです。学生の優秀さにももちろん敬服の至りですが、ハーンが、国民が、他国民を理解する状況について、私のような無学な田舎の初老にも間違えることなく理解できるようなわかりやすい講義がなされていたということでした。確かにこの講義を聞いた学生は、ハーンがここに提示する問題を充分理解して真剣に考えたと思えます。
 最近文学部は金にならないとの政府の考えか、この可部の広島文教大学でも文学部をなくしました。一瞬、そうか、金にならないか。との思いもありましたが、このハーンの講義ほど、文学の効用について他の側面からその大切さを語った文章を見たのは初めてのように思えます。
 最後に添えられた、池田雅之氏の、ハーン全体像の正当な見直しが、今後の私たちの大切な課題の一つであるとのことばを、この講義記録を読んであらためて思わされます。

 前回と今回のハーンの会で、わたくしがハーンの会へ入会以前、風呂先生が取り上げられた作品や事柄について2・3耳にして、あらためて自分自身が学んだことは、ほんの一部であったことを感じるにつけても、再度、ハーンの作品にゆっくり取り組んでみたいと感じています。
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『NHK100分de名著 宮崎哲也著 『小松左京スペシャル』
2019/07/02(Tue)
 安田 登著 『NHK100分de名著 『小松左京スペシャル』 を読みました。 
 これはこの7月1日から放送されている 『NHK100分de名著 』 のテキストです。
 昨日1日の午前中にきづいて買ってきてもらい、第2回を読み終えるのがやっとで録画予約をして眠りました。
 早朝、目覚めるとさっそく録画を鑑賞しました。
 じつは、小松左京が『日本沈没』という本を書いたことは知っていましたが、読んだことがなく、映画化されたものなども見たことがありませんでしたので、本では目新しさに飲み込まれてしまっていましたが、少しの予備知識にはなったのか、録画をみながら、よい読書の復習になったように思います。
 第1回では、『地には平和を』 を取り上げてあります。もし、戦争が終わっていなかったら、という仮想の歴史のもとに小松左京が高度成長期の日本に突き付けたものは何かということを、読み解くのです。
 『地には平和を』は、1963年(昭和38年)に出版された作品です。
 高度成長期は、1954年(昭和29年)~1973年(昭和48年)までの19年間と言われています。出版はまさに経済成長期まっただなかです。そしてそれは、終戦から18年目でもあります。
 小松左京という人は昭和6年1月生まれで、14歳中学3年生の時終戦を迎えたとあります。終戦直前まで、徴兵はだんだん若年化の一途をたどり、かれは、終戦直前まで軍事教練なども受けさせられていて、駆逐米英という目的のために自分たちが戦場に立つ日は近く、武器を持って戦うという確信を持っていたのでした。
 それが、いきなり終戦です。
 のちに沖縄ではじっさい彼と同い年の若者が本土決戦部隊として戦いおおく亡くなっていたことも知ります。
 そしてそれからわずか20年足らずでこの繁栄のただなかにいることの違和感を、自分と同じ年齢の河野康夫を主人公にしてこの『地には平和を』を書きました。
 1945年8月15日その日に予定されていた「玉音放送」が中止になり、不測の事故によって亡くなった内閣総理大臣鈴木貫太郎大将に変わって阿南惟幾陸軍大臣が総理の座に就き、「神州不滅、本土決戦を以て悠久の大義を全うする。国民はいっそう団結し皇室に殉ぜよ」との所信の表明をします。
 再び大空襲ははじまり、康夫は少年志願兵ばかりから成る本土防衛特別隊「黒桜隊」に志願しましたが、10月には隊は全滅。上陸した米軍に必死の抵抗を試みるも敗退して重傷を負い、山中にひとり取り残されます。手榴弾で自決しようとしたとき、「Tマン」と名のる男が現れて、ただしい歴史においては日本は無条件降伏をし、本土は戦場になってはいないと告げます。このような、もうひとつの歴史を作ったのはアドルフ・フォン・キタという天才的な歴史研究者でしたが、「Tマン」に捕縛されます。「Tマン」とは時間管理庁特別捜査局の捜査官で、勝手に時間を改編する犯罪を取り締まっています。改編された歴史の時空は修復され、康夫は妻子と信州に旅行に来ていました。彼には、この美しい光景の現実の一切合財が、そしてこの時代全体が、突如として色褪せ腐敗臭をはなち、おぞましく見えたのです。
 また、小松左京はこの作品とおなじテーマで『戦争はなかった』という作品を書いているといいます。
 同窓会に出席して、戦時中の思い出話をすると、誰も反応せず、「戦争?そりゃ、いったいいつの戦争だ?日本がアメリカと戦争しただって?馬鹿をいうんじゃないよ。お前、夢でもみてるんじゃないのか?どうかしてるぞ、こいつは・・・・。」 何と前の大戦の記憶を保持しているのは男だけだった。彼を取り巻く誰もが、家族すらも口をそろえて「戦争なんてなかった」と言い、しまいには男の精神の尋常をも疑い護送されてしまう。といった作品のようです。
 宮崎哲也は、こういった小松左京の作品は、じっさいの戦争を描いた多くの名作よりも、強烈にメッセージを私たちに届けているといいます。


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