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「聖なる樹々」(上)・(下)
2019/08/31(Sat)
 牧野陽子著 「聖なる樹々」(上)・(下) —ラフカディオ・ハーン「青柳物語」と「十六桜」について― を読みました。
 これは以前、夫がインターネットから印刷しておいてくれたものです。(上)16ページ(下)19ぺージの論考です。本箱を片付けていて見つけたので、このたびそれぞれの作品「青柳物語」と「十六桜」とともに改めて読み返したものです。

 この論考の、「一、樹霊の物語」では、ラフカディオ・ハーンの晩年の再話作品集『骨董』(1904年)にある樹木にまつわる話「青柳物語」と「乳母桜」と「十六桜」の3作を取り上げ、ハーンが日本の樹木に強く感じる、ことさらの美しさについての思いが述べられています。
 「二、「青柳物語」—樹齢のいざないー 」では、≪「青柳物語」は、人間である男が柳の樹の精と結ばれる話である。≫と、「雪女」を彷彿とさせる説明から始まります。しかし、物語のあらすじは、ほかの怪異譚とは打って変わって、登場する人物それぞれが、始めから終わりまで、お互い誠意をもっていざない、信頼しあう関係で終わります。異性への愛も恥じらいのなかにも清純をつらぬき、和歌や漢詩を通して心を伝え合い、信頼しあっての結婚をむかえます。そして、5年間の幸せな結婚生活のさなか、妻の死によって彼女が樹の霊であることがわかると、男は剃髪して仏門に入ります。諸国を行脚していく中で、丘の頂の柳の木陰の藁ぶきの小家のあった場所にいきあたります。妻の両親の家は跡形もなく、わずかに3本の柳の切株があるばかりです。そこにお墓を建てて経文を刻んで手厚く仏事を営み、貫く愛が語られて終わります。

 牧野陽子氏のこの論考は、「青柳物語」と、原話、浮世草子の『玉すだれ』(辻堂兆風作、元禄17年刊)との比較において、ハーンの再話の特徴を説明しています。さいわい、私が読んでいる講談社学術文庫の『怪談・奇談』は、原文の『玉すだれ』も掲載されているのでこれを読みながら理解を深めることができました。書き出し≪文明の年中能登の国の太守畠山義統の家臣に。岩木七郎友忠と云う者有。幼少の比より才智世に勝れ。文章に名を得和漢の才に富たり。≫とはじまり、友忠が主の一族の細川政元に娘を奪われそうになった時、彼女に送った漢詩を読んだ政元がこの漢詩の出来栄えに感心して彼女を呼び出して友忠に与え、さらにたくさんの引き出物まで与えてくれたということから、『玉すだれ』では、主眼が置かれているのは友忠の詩文の力だと述べています。そして、話の核に流れるのは、詩歌には天地鬼神をも感動させる力があるとすることも述べられています。これを、ハーンは樹霊に主眼を置く作品に仕立て上げているのです。

 また、ハーンはアンデルセンの作品にも感動し、東大での文学講義「散文芸術論」の中でも高い評価を与えているとあり、アンデルセンの作品の中にも『柳の樹の下で』というのがあるとのべてあります。

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第228回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/08/28(Wed)
 8月17日土曜日、第228回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 13名の参加でした。
 開始前の時間に、久しぶりに参加された寺下さんと貝嶋先生が英文についてなごやかに話されるのを聞いていて、ああこれが風呂先生の私たちに残していって下さった人間関係なのだとうれしくなりました。風呂先生が亡くなられて、ぐったり気を滅入らせている私に、夫が「会員みんなの人間関係を残していって下さったではないか。それを大切にしたらいい。」といったことがこれなのだと感じられました。
 このお二人の会話は、会へのかかわりへのそれぞれを思わされます。英語能力の全くない私のかかわりは、ハーンの顕彰をとおして、世界の中での日本を理解するきっかけになっています。その学習は一人で本を読むのもいいのかもしれませんが、このようなお二人の会話を聞くことで違ったニュアンスで感じ取ることができます。

 6月8日の中国新聞に、呉の民家で見つかった元就と隆元の椙杜(すぎのもり)氏宛の書状が発見されたと、その書状が大きく解説とともに掲載されていました。この書状を解読したいとひたすらそれにこだわり、辞書や原稿用紙をとりだすのが私ですが、古文書に興味のない人は現代文の活字での解説のみを読みます。ハーンの会においては、この解説だけ読んで終わるのが私です。半減するといえばそうなのですが、能力外のことなので致し方ありません。

 一方で、現地に行ってみることで理解を深めるという方法もあります。古川さんは、ハーン遍歴の地域でのイベントなどに参加して、映像でそちらからの発表もしてくださいました。

 貝嶋先生の講義は1925年発行『life and Literature by Lafcadio Hearn』です。著者は田部隆治です。その「序文」を訳しながらの解説でした。ハーンが1850年8月27日に生まれてからの略歴が記されているようです。この中で、彼と小泉セツの結婚の記述などについて発言がありました。私は、彼の来日してからの年表をハーンの会に初めて入った時風呂先生にいただいた西野影四郎氏のもので、12月23日はじめ、諸説ありと読んだのが最初でした。はっきりした何月日を知るまでもないと勝手に思っていたのですが、三島さんの几帳面さに驚きました。さすがハーンの研究家です。

 横山さん提出の資料「生きて」は、ハーンの会から帰った日と今日と二度よみました。イエッツーの研究者で、アイルランドに住むいろいろな出自の人びとへの理解を深められている藤本黎時氏、最後の
 ≪懐疑主義者として、戦後の平和な時代も、いつまた逆にひっくり返されるるんじゃないかという不安は常に持っています。≫のことばに、山岡荘八の『吉田松陰』で、≪泰平を願う者は泰平のために倒れ、武に偏するものは武のために倒れる。これは恐ろしいほどの確立をもった自然の理法です。これを極めるのが学問です。≫、の言葉を思い出し、自分自身が、泰平ばかりを願ってきたことを思い、考えさせられました。
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『吉田松陰』 ⑶
2019/08/21(Wed)
 360ページ ≪幕府は、無断で条約に調印したばかりでなく、宿次奉書で届け捨ての非礼を敢えてしたと聞かされたのだ。「天皇御震怒!」 その知らせを受けた松陰の心情が、どのようなものであったか察するにあまりあろう。このおりの松陰は権謀術数をこととする政治家でもなければ軍学者でもない。日本の国柄の中に、人類の理想と真理を体認して、その前に生命を投げ出している一個純粋な真人であり教育者なのだ。≫
 松陰の養子に行った吉田家は家学教授の家です。十一歳のとき明倫館で藩主敬親の前で講義をして以来、敬親にかわいがられてきた松陰です。脱藩していても、重臣を通して藩主敬親に手紙で意見をしていました。幕府に従わなければならない藩主敬親に、毛利家の皇国の臣であることの大切さを訓えなければならない立場です。ですから、その間に立って松陰の煩悶が極度に達してゆくところです。
 ラフカディオハーンの作品の中に「神国日本」という作品があります。この『吉田松陰』の中でも、神国日本という言葉が始終語られます。ハーンは神道には教義がないことを述べていますが、松陰が納めるべき学問はこの神国日本ということを理論づけることです。徳川憎しのための神国日本の主張であってはいけないのです。そして読書に読書を続けて、その教義を作り上げていきます。
 それがのちの尊王攘夷論に発展していくのです。しかし、411ページの「対談解説」での、松村剛氏との対談で著者の山岡荘八も述べていますが、松陰の中には開国論への道を開かせる要素は多分にあったと思います。アメリカの艦船に乗り込んで漂流しようと考えたのは、中浜万次郎への政府の対応を知ってのことです。日本国内の海岸警備を見て回る仕事もさることながら、敵を知らなければどうしようもないという考えが心中に強くあったのです。

 405ページ 松村剛氏との「対談解説」中 ≪松村  道徳性が明治維新の一つの特徴ですが、そこで出てくる大きな問題は、やっぱり天皇ということですね。天皇制は大変複雑な問題ですが・・・・。 山岡  しかし、これは大きな問題ですね。理屈ではともかく、現実に大きな力を持っていることは否定できないのですから。たとえば、今度の第二次世界大戦でも、陛下が出られなければ、戦争は終わらなかったでしょう。本土決戦、一億玉砕というところまでいったかもしれません。 松村 そこまでいったでしょうね。  山岡 そうなってたら、ほんとうに日本という国は、どうにもならない。それこそベトナム以上に悲惨だったでしょう。三分の二の人間は死んでますよ。それが死ななくてすんだし、マッカーサーの占領政策に手心を加えるような考えにさせたのも天皇なんです。ほかのだれでも、こんな力はありません。今後だってこの力は消えないと思うんです。・・・・。≫ 確かにほかの敗戦国のその後のことを考えるとそうかもしれないとも思えます。
 
 作中語られる松陰の天皇についての位置づけは、仏教の仏という概念に似ていったように思えます。宇宙に生命を与えられたことへの感謝をする対象としての象徴が日本国では天皇であると考える。というふうに理解されていくのです。

 読了後、ふと國學院大學はどのようにできたのだろうかと思い始め、ネットで調べてみました、
 國學院大學は、明治15年8月23日明治天皇の聖旨によって、最も信頼を寄せられていた有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、有栖川宮から令旨が報じられた山田顕義内務省高官ら数名の国文学者が専ら国典を講究するために設立された皇典講究所が前身でした。この山田顕義伯爵は松陰の塾生でした。



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『吉田松陰』 ⑵
2019/08/21(Wed)
 107ページ 長崎の様子を≪市全体が長州とは別の体臭をもって生きている。町で見かける唐人の姿も多すぎたし、町人たちの風俗の派手さもひどく気になった。たいていの若者ならば、これを異国情緒といって珍重するところであろう。が、彼は彼の魂を包みなおしていたわってやりたいような孤独を感じた。≫ これはラフカディオ・ハーンが長崎を訪れたときの記録をおもい起こします。

 131ページ ≪君、君たらずとも臣は臣たり。上下の名分を正してゆくにも二つの道がある。いつの時代にも上によい明君ばかりが現れるとは限らぬ不明の君があった時こそ、一心に下から真の奉公をせねばこの世が闇になろう。・・・・」≫ これは、228回のハーンの会の時、寺下さんと貝嶋先生が話されていたとき、いつの時代にも上によい明君ばかりが現れるとは限らないといった意味の貝嶋先生の言葉と同じでした。

 154ページ ≪考えてみると、学問はつねにこの「絶対の―」の答えを求めて歩いている。しかし、人間の現実の生活の中に、果たして絶対などという潔癖な、純粋な生き方があるのだろうか? あるいは信仰の場合にはそれに似た境地があるかも知れない。それを世人は狂信者と呼んでいる・・・・宮部鼎蔵は「狂になろう!」と、別れぎわに念を押した。≫ 「それを世人は狂信者と呼んでいる」では思わず笑ってしまいましたが、まさしく狂信者の生き方を読んでいくことになりました。

 192ページ ≪我が国の仇討は決して他邦で行われている感情的な復讐や私刑と同じ内容のものではない。これは人間のつくりなした法の立場を超えたところで、人命の犯すべからざる所以を訓え、且つこれを守りぬこうとする厳粛な正義の追行なのだ。この「仇は討たざるべからず」と言う武士の間の鉄則とも言うべき習慣の裏には、理非の如何を問わず、日常生活の中で他人を殺してはならないのだぞという、反語的な原則が秘匿されている。≫ とあり、仇討に対する社会的な意味が分かっていなかった私にとっては、なるほど・・・。でした。しかし、四十七氏の仇討は先に刀を振り上げたのは浅野内匠頭でその裁決に恨みがあるのなら吉良上野介が相手なのかという疑問もわいてくるのですが。やはりまだよくわからない気がします。

 309ページ ≪「獄中、夢の中に神人が現れて、自分に一枚の札を与えた。見ればこれに、二十一回猛士と記してある。・・・・」≫ 二十一回猛士と名乗ったのは野山獄に入ったとうじの1854年10月頃のことであることがわかりました。身を捨てての日本国を救うのために事をなす決断をしたときのことでした。

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『吉田松陰』 ⑴
2019/08/20(Tue)
 山岡荘八著 『吉田松陰』 を読みました。学習研究社出版の、昭和43年12月初版、44年11月第6刷です。
 この本も、裏山登りでいつも出会う秋末さんが貸して下さった本です。

 読んで大切と思ったり、印象深いところに、シールをはっておくことがありますが、この本では最初、29ページに、≪「では、幕府に政治をご委託なされただけで、日本国の主は、やはり天子さまでございますねえ」・・・・「毛利家の者が、そのくらいのことを心得ないで何とします。言うまでもありませぬ。ですから今でもお殿様や家中の者は、正月、必ず一度は集まって、関ヶ原を忘れるなと戒めあうのを家例にしています」≫ 
 松陰の母親が娘時代にたしなめられた部分ですが、これは昭和時代、私も聞かされていたことでした。

 37ページは、≪父は畑に着くとふところから、先ずその日、子供たちに教えようとする素読の教材を取出して、兄に渡す。最初の教材は、当時の習慣どおり四書五経であった。四書とは、大学、中庸、論語、孟子を指すのであり、五経とは儒学で尊重する、易経、詩経、書経、礼記、春秋を指す。このうち百合之介は真っ先に論語の素読を教えだした。≫ 39ページには、≪こうして四書五経の素読が一応終わっていくと、たいてい唐詩選にすすむのが当時の学習の慣わしだった。≫ これは、通史会での具体的な参考となるので明記する必要がありました。

 69ページ ≪泰平を願う者は泰平のために倒れ、武に偏するものは武のために倒れる。これは恐ろしいほどの確立をもった自然の理法です。これを極めるのが学問です。≫ これは、藩主の教育係の吉田家に養子に入った松陰に兵学と経学(政治学)は物の表裏で別々のものではないことを松陰に教える言葉です。

 71ページ≪「我が日本に勝目はない・・・・しかもその原因は平和を愛し、泰平を願ってきた・・・・その願いと方針の中にあった・・・・」≫ 幕末、四方を西欧やロシヤの艦隊に囲まれてのまさに四面楚歌の状況を迎えるほんの少し前のことです。

 93ページ ≪そこには立派に通った条理があった。「こちらも他国のことには干渉しない。代りに、彼等の干渉も受けない」 ところが、こちらで如何にその不干渉主義を厳しく守っていても、相手が同じ道徳基準でそれを守るものとは限らなかったのだ・・・・「斬り奪り(きりとり)強盗は武士の習い」といった無教養な戦国時代への逆行ではないか。≫
 長い泰平の時代を過ごしてきた日本人の慌てぶりが見て取れます。
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『大名廃絶録』
2019/08/16(Fri)
 南條範夫著 『大名廃絶録』 を読みました。新人物往来社より出版の、昭和51年2月初版、53年3月第3刷です。
 この本は、裏山登りでいつも出会う秋末さんが貸して下さった本です。この本を借りて、すでに1か月が過ぎましたが、借りるとき、『三国志』を読み始めたばかりだったので、長らく借りることになることを了承してもらっていました。

 『大名廃絶録』は、「徳川幕府の大名廃絶策」から始まって、廃絶の具体的な例が12作掲げられています。最後に付録として、347の「廃絶大名一覧」がありますが、これは慶長5年から慶応元年までのことです。慶長8年(1603)が徳川幕府開幕ですからそれ以前のことも記入されているということです。
 最初の、「徳川幕府の大名廃絶策」は、この作品の総論といっていいようです。当然、大名家の廃絶ないし除封減封は、幕府の大名統制策の中でも最もきびしい政策の一つですから、それを吟味することは、長期にわたる江戸幕府の性質をよく理解できる糸口になります。断絶の理由としては大きく分けて、⑴世嗣断絶によるもの、⑵幕法違反によるもの、⑶乱心その他疾病によるものです。そして、家康の開幕から綱吉時代の終わりまでの105年間に除封削封191家であるのに対して、家宜以降慶喜退陣まで160年間はわずか46家であることも述べています。

 初期においては、旧豊臣系大名の整理、徳川一門内の反宗家分子の削除を追行し、そのほか、幕府の権威を確立増大するために、果断過酷な大名廃絶政策をとる必要がありました。とくに、旧豊臣系大名の戦功者には、まだ大坂に秀頼のいたとき、ひとえに、彼ら(前田、福島、加藤、浅野、細川、山内ら)の歓心をかって徳川方に懐柔しようと、封地の石高を多くしておきました。このあたりの家康のビジョンには驚かされます。また、徳川のお家騒動的な要因分子となるような自分の第6子の忠輝をも遺命を残して秀忠によって廃絶にします。 

 この忠輝の廃絶については、「松平上総介忠輝」と題して、また秀忠の次男忠長も兄の家光によって廃絶、つづいて切腹を申し渡されたことについては「駿河大納言忠長」で詳しく述べられています。

 旧豊臣系大名の整理の廃絶については、「福島左衛門大夫正則」や、「加藤肥後守忠広」で詳しく述べられています。福島正則については、ほかの人を主人公にした歴史物で読むくらいで、彼についてこれほど念入りに書かれたものを読むのは初めてでした。とくに、今年、2019年が、浅野家入城400年という記念の年でもあり、浅野家入城の同じ年のつらい出来事の物語としてとても印象に残りました。

 しかし、240件に及ぶこれら廃絶にただの一家もこれに対して武力抗争をしなかったことについて。武士道の中核を全く失っていたと述べています。最後に
 ≪長州藩が初めて幕府に対して厳然と抗争しようと、決意を固めたのは、実に開幕後260年を経て、幕府の実力全く地に堕ちたりと見えた後であった。≫と述べています。
 子供のころ、正月に毛利家では必ず毎年打倒徳川幕府の評議が行われたという話を父親から聞いていたことを思い出す一文でした。


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『NHK100分名著ロジェ・カイヨウの『戦争論』』
2019/08/12(Mon)
 西谷修著 『NHK100分名著 ロジェ・カイヨウの『戦争論』』を読みました。
 これは、8月5日から放映されているものです。

 5日はこのテキストを読むことができず、予備知識がないまま、「第1回 近代的戦争の誕生」をテレビで観ました。
 「人間にとって戦争とは何か?」ということを人類学的に考える。という視点には興味を持ちましたが、具体的には戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間の心と精神とをいかにひきつけ恍惚とさせるかを研究したものだとあり、ちょっとびっくりいたしました。

 それはさておき、原始、戦争はまず縄張り争い的なものとして始まったものとかんがえられます。それが封建社会になると、階層化され専門化された貴族階級の機能としての戦争になったといいます。そして、自由と平等と博愛を旗頭のフランス革命以後、徴兵制のもとでの国民軍が立ち上がります。それは、王家のために集められ武芸の訓練を受けた兵ではなく、自分たちの自由を守るための軍隊であるため強力な軍隊となりました。なによりこの間、武器の様相の変化もあり、すべてにマスケット銃があたえられたために、訓練されていなくても誰でも敵を倒すことができるのです。
 自分にも国民の防衛のために働くことができるという、自覚を持つこともできたところでテレビはつづきとなりました。

 読みづらい『三国志』を読んでいる最中に、第1回を観たことで、疑問に思った勝敗の決め方などで、理解が具体性を帯びてきた部分もありました。

 また、仁徳をイメージさせる玄徳や孔明や関羽が、次から次へと攻め込まれたり、攻め入ったりと、戦闘を繰り広げる内容に、どうしてこんなに戦闘ばかりするのかとの感はいなめませんでしたが、やはりロジェ・カイヨウの『戦争論』で、戦争が人間の心と精神とをいかにひきつけ恍惚とさせるかを研究したものだとある部分にやはりそうかもしれないと共感もします。それに、いったん落ち着ついて戦争をしなくなると、ほとんど実力を発揮できない側近は、国主などに出世のための賄賂を贈ったり、甘言を用いたりして栄華を誇らせ、もとの大義名分はどこへやら、骨抜きにしてしまいます。そして国政を顧みなくなり、危機が迫っても決断にかけ、国が衰退していくというパターンに陥っていくのです。

 『三国志』とこの『戦争論』のクロスで、記録はあらぬ方へとそれたのですが、この『戦争論』が戦争のいきつく先は、現代では仕掛けた方も仕掛けられた方も跡形もなくなるためにこれはできない。国家は、テロリストと断定した者だけを、公に、或いは秘密裏に殺傷できるということになるのでしょうか。

 印象に残ったのは、30年戦争の後の「ウェストファリア条約」によって作られた「ウェストファリア体制」なるものの存在を知ったことです。これは、主権国家間秩序というようなもので、この時以来、相互承認システムによる主権国家が、「宣戦布告」によって戦争を始め、第三国つまり非当事国が設定する「講和会議」によって戦争を終えるというルールができたということでした。これに付随して、
 ≪付言すれば、日本は西洋型の近代国家を作るために、江戸時代の幕藩体制から明治の中央集権体制に移行しました。ソレハウェストファリア体制による西洋の国家間秩序の下に入るためのプロセスでしたが、当初は正式メンバーとしては認められなかったのです。その表れが不平等条約で、条約改正には、1854年から1911年まで、実に50年間以上もかかっています。その間に日本はどう変わったのかといえば、1894~95年の日清戦争によって台湾を獲得し、1904~05年の日露戦争によって朝鮮半島や南満州の権益を得て、1910年には韓国を併合します。それによってようやく日本は西洋から対等な国家と認められ、国家間秩序のメンバー入りを果たしました。日本は対外戦争によって近代国家になったのです。≫
という解説もありました。
 この文脈からいうと、韓国や北朝鮮は現在休戦状態でもありますし、一体・・・・?という気もしますが。

 しかし近代国家はこの構造を「全体戦争」(トータル・ウォー)がこの構造を根本的に変えるといいます。

 さらに、ふたつめの「全体戦争」が終わった後、被爆直後に広島に入ったアメリカのジャーナリストの『ヒロシマ』は、ヒロシマの惨状を被爆した人々の証言によって冷静に伝え、欧米の市民に衝撃を与えたといいます。
「全体戦争」のもたらしたものは、≪破壊しつくされた街に生き残った人々が、剥き出しになった「世界の無意味」の中をさまようという不条理な状況≫でしょうか。
 ≪戦時には人は人を殺すことができ、また殺さなければならないが、平和時には殺人は最大の罪とされ≫ます。しかし、国家権力の殺人が許される場合があります。それは国家がテロリストだと疑いをかけた人です。

 この『戦争論』も、私にとっては究極の世界観のうかがえるテキストだったように思えます。
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『三国志(三)』
2019/08/09(Fri)
 吉川英治著 『三国志(三)』を読みました。講談社より、吉川英治全集・26として出版された、昭和41年8月第1刷 昭和46年3月第17刷 の書です。
 『三国志(一)・(二)』を続けざまに読んで疲れたのか、目はかすんでくるし、頭痛はひどくなりで、二日と少し寝込んでしまいました。普通は寝込んだ時こそ読書するのですが、このたびは読書で疲れて寝込んだために、できるだけ糖分をとってテレビをみたりしてひたすら寝ていました。症状が落ち着いてからもゆっくり読みました。

 その間、NHKの超三国志「徹底解明!英雄たちの真実」という番組を、三国志に出て来る戦争の時に使われた武器が再現されているという前触れで、期待して観ました。本当によく再現されておりなるほどと思う反面、書にはもっとたくさんの兵器が登場し、鉄砲とか、地雷とか、曳光弾、硫黄焔硝などという武器などについても知ることができればと思いますが、図面の記録のあるものだけの扱いだったのでしょう。3時間番組にしては、もっと情報が多くてもいいのではと思わされましたが、それはちょうど三国志を読んでいた私の感想で、とりあえず東京国立博物館で開催中の「三国志・特別展」へ出かけた人のブログなどによると誰でも必ずもう一度行きたくなるほどの人気のようです。
 また、とちゅうテレビで、テキストは読めないまま、100分de名著のロジェ・カイヨウという人の『戦争論』を観ました。これは戦争を人類学的に考察しようとする作品のようです。 この三国志の中身は戦争ばかりです。中国のことゆえ大げさな表現があるにしても戦争で数えきれない人が命を失っていく様子が描かれていきます。戦争論によって、それへの見方が変わってくるのは当然といえば当然です。
 三国志では後漢の王朝が弱体化してきて、地方の豪族が群雄割拠しはじめ、小さな小競り合いからだんだんと魏・呉・蜀が鼎立してくる。そして、この三国志のメインキャスト的な孔明が亡くなったぐらいのところで作品が終わるのですが、この間、統領にしろ、武官にしろ、民衆にしろ、いろんな立場の人が、攻めていきもせず、攻めても来られない状態が長く続いていると、「倦んでくる」という表現が多く出てきます。これは、もちろん吉川英治その人が参考にした三国志演義をはじめ多くの歴史書に出てきたのであろうことを思うと、この「戦争論」の論ずるところの考察にも興味がわくところです。

 作品が終わった後、著者吉川英治は、「三国志演技」の途中、孔明が亡くなったあと、その遺志を継いだ人々が亡くなるころでこの作品を終えることについての理由と、そのあと周がおこるまでのあらましのいきさつの説明があります。そして孔明を中心とした登場人物についての吉川英治の評があります。これを読んでいくと、私をも含めた20世紀の日本人の思いがよくわかるような気がします。
 なぜ無意味と思われる漢王朝の復活にこれほどまでに多くの戦争をしたのかと・・・・。
 読み終わった後、念のために改めて孔子についてウィキペディアで調べてみました。孔子は孔明に先立つこと700年くらい前の人です。
 ≪有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の士族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ。周初への復古を理想として身分秩序の再編と仁道政治を揚げた。≫
と、これは孔明が追い求めた理想と全く同じでした。孔明が目指したのは孔子の教えだったのでしょうか。
 また、評で、あえて孔子のこの理念に触れてあるわけではありませんが、このことが吉川英治が孔明をまったくの凡人であると述べていることとにつながるのでしょうか。

 昨日、小泉進次郎氏結婚の報道をテレビを見ていると、小泉進次郎氏が27歳で初めて国政に立候補するときに、小泉純一郎氏が「彼は、私の27歳の時よりはしっかりしています。親ばかだと思われるでしょう。このように私も普通の親です。」といった意味の発言がありましたが、彼も吉川英治の孔明評を読んでいたのでしょうか。

 「魏志倭人伝」は、三国志の最後のころの魏が晋にとってかわれられる直前のころ、記録されたと考えます。このたびの「三国志」は、ここからが日本の神話的な有史時代の幕開けになることを思いながらの読書ともなりました。


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『三国志(二)』
2019/08/01(Thu)
 吉川英治著 『三国志(二)』を読みました。講談社より、吉川英治全集・27として出版された、昭和41年8月第1刷 昭和45年9月第20刷 の書です。

 三国志は建寧元年168年劉備玄徳24・5歳の時の話から始まります。しかし、以後、『三国志(一)』では劉備玄徳にまつわる話題は、忘れられたのかと思うほど出てきません。
 舞台は広大です。当時の漢王朝の乱れ、それによる黄巾の乱、強力な地方豪族の勢力争いなどの世情が語られていくなかで、その一部分として、劉備玄徳の動向がでてくるだけです。
 『三国志(二)』では、孔明の巻87ページ、「関羽の千里行」のころから、やっと私にとってはすこし読みやすくなって楽しくなってきました。魏と呉がほとんど定着し、蜀がどのような形で出来上がってゆくのか・・・・。
 三国志を読むようになって初めて読書のために裏山登りをやめ、カープのテレビ観戦も少し減りました。
 広大な中国の歴史物語を読んでいると、中国の政治家が学んできた歴史書の膨大さを思います。一か所、曹操と袁紹の戦いを、ちょうど我が朝の川中島における武田上杉の対戦に似ているといってもいいと述べていますが、それは地勢の按配と双方の力の伯仲していることだけです。あれだけ広大な土地を一つにまとめることの大変さ。日本など小国の比ではありません。
 忠孝、正義や徳、更に打ち破って勝。このことをどういう風に折り合いをつけていくのか『三国志(三)』を楽しみに読み始めます。
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