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「名人伝」
2019/09/30(Mon)
 中島敦著 「名人伝」 を読みました。
 角川文庫より、昭和43年9月発行、平成30年5月改版76版発行の、『李陵・山月記』弟子・名人伝 です。価格は476円+税です。

 中島敦などにしっかり魅了され、出かけたついでに、もしやと思って本屋に立ち寄り、買ってきました。カバーは今風で、文学部もなくなっていきつつある今どきの青年たちも読むのかとなんだかうれしくなりました。

 中島敦の作品は、「李陵」・「光と風と夢」につづいて3作目です。どれも短い作品ですが特にこの「名人伝」は7ページです。彼の作品はすばらしいし、おもしろいのですが、なかなか読み進めません。この作品も、今風の文庫本ですがやはりなかなか読めませんでした。毎朝一緒に裏山に登る人たちが、大掃除は正月前よりもいまの季節がいいと話されているのを聞いて、なるほどなるほどと思い、少しの掃除も大掃除風にやるので、汗だくです。やってみると、やっと、隣近所の整然さに近づいているというほどのことです。それでなかなか読めないというわけではないのですが・・・・。

 この「名人伝」は、
 ≪趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌ははるばる飛衛をたずねてその門に入った。≫
 から始まります。
 この師の課題の二つを5年で極め、そのあと5か月くらいで射術の奥義秘伝を乗(あます)ところなく授けられ、もはや師から学び取るものはなくなりました。しかし、師の飛衛がいては、天下第一ではありません。彼を殺すことにしました。早速出会って師に矢を打ちますが、師も打ち返して、ちょうど真ん中で二つの矢が当たってともに地に落ちました。つぎつぎつがえて打ちます。師の矢が尽きたとき師は野茨の先端の枝を折り取り、それで鏃を叩き落しました。紀昌は師への道義的慚愧の念に気づき、師の飛衛は自分の伎倆についての満足で憎しみは消え、二人は師弟愛の涙にかきくれます。このふたりのとんでもない道義感については時代背景の説明があります。
 しかし、このようなことが二度とあってはならないと、飛衛は紀昌に次なる目標を与えるべく、もっと偉大な甘蠅(かんよう)老師のもとに行かせます。
 ここでは、「不射之射」を教られます。9年かかって「不射之射」を会得し、弓も打ち捨てて顔つきまで変わって帰ってきます。雲と立罩(たちこ)める名声のなかに、紀昌は老いてゆき甘蠅(かんよう)老師のもとを去ってから以後40年で亡くなります。

 以後、邯鄲の都では当分の間、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の弦を断ち、工匠は規矩(きく=定規とコンパス)を手にするのをためらったという話です。

 最初の5年間の課題とその克服の様子は書かれていますが、「不射之射」の極意については伏せてあります。


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『光と風と夢』
2019/09/29(Sun)
 中島敦著 『光と風と夢』 を読みました。
 角川書店より、昭和29年4月発行の、日本文学全集35 中島敦・武田泰淳・田宮虎彦集に収録されている作品です。
 この日本文学全集は、昭和29年の出版というだけあって紙の質は悪くすでに茶色くなっていて、活字旧字体では小さく、虫眼鏡で読むところも多々あります。

 中島敦は、33歳(昭和17年)のとき、3月17日南洋より帰り、南洋庁を辞任、小説家として立つべく決心し、体力衰えと発作に苦しみつつも創作に専念し、「文学界」5月号にこの『光と風と夢』 を発表して、その12月に亡くなります。

 この『光と風と夢』は、ロバート・ルイス・バルフォア・スティーブンソン(1850年11月13日―1894年12月3日)についての作品です。作品のおおよそ半分は、1890年12月から亡くなるまでの間の日記といった形式で書かれています。

 スティーブンソンは喀血への保養のため、1889年のおわりごろサモアのアピアに着港しました。アピア市外に400エーカーの土地を買い入れ開墾と家屋の建築を土人に頼んで、いったん英国に帰るつもりでシドニーにでかけます。しかし病の悪化のためそこで1年とどまり、再び熱帯のサモアに帰り、開墾と白人建築家による建築と執筆活動を始めます。ここでの日記ですが、太平洋の眺望を持つこの地で自分の力で一つ一つ生活の基礎を築いてゆく喜びが感じられるこのような生活を≪ロビンソン・クルーソー、或いはウオルト・ホイットマンの生活≫に例えています。

 4年間のそこでの日記は、侵入しているドイツ、イギリス、アメリカから受ける、島民の苦悩の歴史を語ることにもなります。その語りは、決して他人ごとではなく、心理的な島民の酋長間の勢力争いや、ドイツ、イギリス、アメリカの統治抗争などで、自分も巻き込まれそうになることもあります。そのことは、かれの病気をより重くさせたり、執筆の妨げになったりもします。しかし、当時のサモアの様子や風土にふれながら楽しく読むことができます。

 、スティーブンソンは、15歳の時から作家になるべく自分は生まれついていると自覚しました。≪「我々の中にある我々の知らないものは、我々以上に賢いのだということ」を知っていた。そうして、自らの生活の設計に際しては、その唯一の道――我々より賢いものの導いてくれる其の唯一の途を、最も忠実、勤勉に歩むことのみ全力を払い、他の一切はこれを棄てて顧みなかった。俗衆の嘲罵や父母の悲嘆をよそに、彼は此の生き方を、少年時代から死の瞬間に至るまで続けた。・・・・彼はほとんど1日として物を書かずには過ごせなかった。それは最早肉体的な習慣の一つだった≫という彼は、肺炎などで絶対安静の時でも仰臥のまま、ささやき声で「ダイナマイト黨員」を口述して妻に書かせたといいます。かれのこのような生き方、生き様はこの作品を書く中島敦と重なります。

 スティーブンソンは墓碑銘とすべき詩句をポケットにしのばせていて、「星影繁き空の下、静かに割れを眠らしめ。楽しく生きし我なれば、楽しく今は死にゆかむ」とあったといいます。

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『李陵』
2019/09/26(Thu)
 中島敦著 『李陵』 を読みました。
 角川書店の昭和文学全集35 昭和29年4月発行です。
 最初、武田泰淳のものを読んだ後すぐに、おなじ集英社の日本文学全集88での『李陵』を読みかけていたのですが、読みづらいので、読みさしにしていました。今日ふと片づけをしていて、この昭和文学全集にも『李陵』のあることに気づき、最後の氷上英廣という人の解説を読みました。それで、やはり難しくても、時間をかけて読むことにして読み始めました。
 時間をかけて読むということについては、ハーンの東大での講義録の「読書について」で学んだためです。このハーンの文章を読んだ後、20日に杉良太郎の講演の手伝いに行かされました。朝早くからの手伝いでくたくたでしたが、イベント最後の講演は、読書するような気持ちで集中して彼の話を聞くことによって、会場の誰よりも彼の話を集中して聞いたような気持がして、誰よりも深く理解した気持ちになれたことは収穫でした。
 ですから、司馬遷の運命を変えたこの李陵のことも集中して丁寧に読むことにしたのです。

 漢の武帝の天漢2年9月、李陵は志願して、辺塞から歩卒5千を率いてたびたび侵入してくる匈奴の征伐に出かけます。11月、老将の博徳が李陵を迎えると、その下についての援護軍となることを嫌がり、相談もせず勝手に武帝に戦略変更の上奏をしたため、武帝は李陵に怒って、李陵に直ちに単独で漠北へ進軍するよう命令しました。
 李陵に信頼を寄せる精鋭の部隊とはいえ援護軍もなく、膨大な数の騎兵隊を主力の敵との戦いのなか、味方の敗走者の裏切りもあり、李陵は激戦でおおくの敵におおくの撃たれ気を失って倒れてしまいます。9月に北へ立った5千の漢軍は、400足らずの敗兵となって辺塞にたどり着き、その敗報は長安に達します。
 武帝は、李陵はそのとき死んだものと思っていました。漢の都では匈奴討伐軍の問責裁判が行われます。漢の武帝は強大な力を持っていましたので、武帝の顔色をうかがう者ばかりです。李陵に同情を寄せながらも黙して語りません。その問責のなかにただ一人彼をかばったのが太史令の司馬遷でした。司馬遷はそのことによって武帝の怒りを買い宮刑を受けることになります。死罪は覚悟していたもののよもや50歳にして宮刑の恥辱を受けようとは思ってもいませんでした。司馬遷に死を思いとどまらせたのは、「史記」編纂への情熱でした。「史記」130巻が完成するのはそれから8年後でした。
 一方、匈奴の王は、李陵の立派な戦いぶりに感動し、生け捕られた李陵を看護して、彼を客人として大切に扱います。しかし、李陵は、なんとか漢に逃げ出せる方法を見つけるべく日を送っていました。そのうち匈奴の王子に慕われるようになり射術を教え友情も芽生えます。妻をめとり匈奴の生活にも慣れ、野蛮人と思っていた彼らの生活が、そこの風土にかなった暮らしぶりであることに気づいてゆきます。ここのところでは災害の多くなった日本でも考えられていいことではないかと思える部分です。
 漢からさらなる遠征軍が繰り出され敗走した漢軍によって、李陵が匈奴軍に味方していると、ほかの李将軍と間違えて伝えられ、李陵の家族は殺されてしまい武帝への怒りを覚え漢への義理もなくなりました。しかし、勝手自分を信頼して死んでいった5戦の兵のことを考えると漢を迎え撃つ匈奴軍に加わることはできず葛藤します。
 そんなとき、先に匈奴に捕らわれていた漢の武将蘚武に会いました。以前同僚であったこともあります。酷寒のバイカル湖のほとりで冬は鼠を食べて命をつないでいました。
 李陵は自分が匈奴に降伏したことを、やむをえないことだと思っていましたが、蘚武が長年誰に知られることもなく自分の運命を全うして生きている姿に冷や汗をかく思いでした。李陵が武帝の亡くなったことを蘚武に知らせると蘚武は慟哭しました。彼の心に、理屈を超えた純粋な漢の国土への愛があることを知ります。
 その後平和的な捕虜交換で、李陵は匈奴訪問中のかっての同僚から漢に帰ることをすすめられますが李陵はそれを受けることができませんでした。
 蘚武は帰ることになり、李朝は、「点はやはり見ていたのだ」との感に打たれます。李陵は別れの宴を設けます。李陵は一遍の死を読みながら、声が震え涙が止まりませんでした。

 著者の中島敦は、昭和17年「文学界」2月号に『古譚』を発表、5月に『光と風と夢』を発表、文壇デビューを果たし。おなじ昭和17年12月4日、33歳で病死しました。
 短い作家活動のあいだの作品は、「読み終えてよかった。」の一言に尽きます。

 この作品について、
 ≪・・・・現在つねにかれの評価の際に云われる漢籍の教養などということは、かれの精神的宇宙の一隅の花壇のようなものに過ぎない。先日も中島夫人と話したのであるが、かれはふだん何もとりわけ漢籍を研究していたわけではなく、オー・ヘンリーやアナトール・フランスを読むように史記や左伝を読み、白秋やゲーテを読むように杜甫や高青邱を読んでいたのである。ただ彼は儒家の生れであって、漢文的な空気には幼少のころから馴れ親しんでいるところはあり、それがおのずと物を云っていることは否むべくもないが、決してそうした世界にのみ跼蹐していたのではなく、たまたまかれが物を書いたきわめて短い期間に、中国古典に取材した数個の佳篇を生み出したおとで、かれの全貌を限ることはできない。・・・・≫
と氷上英廣による解説にあります。
 他も読みたい!の思いです。


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『小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』
2019/09/21(Sat)
 池田雅之編訳 『小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』 を読みました。
 角川ソフィア文庫から、数日前の2019年8月25日発行です。
 夫がネットで注文してくれて、この本が家に届いたのは17日でした。

 内容はハーンが明治29年から明治36年までの期間に、東京帝大でおこなった講義の講義録です。この講義の行われたそのころの講義室を連想して読んでいくと、将来の日本の文学を担うかもしれない学生たちにたいする、ハーンの期待と愛情がひしひしと伝わってきます。例えば、「文章作法の心得」249ページでは
 ≪日本文学はいまだ古典主義的な状態にあり、過去の世紀の因襲から解放されておらず、日本語のもつ十分な可能性を現代作品のなかに生かしきっていないと思われる。日常会話や民衆の言葉で作品を書くことは、いまだに卑俗だと考えられている。
 いつの日か、みなさんがそれらの因襲に大胆に戦いを挑んでくれることをあえて望みたい。この挑戦は、絶対に必要なことであると思う。民衆の本当の言語で書くことを恐れない作家が現れるまでは、新しい日本文学は生まれないであろう。すなわち、生き方や考え方や国民性に影響を与え、文学的共感を生み出すような文学は生まれない、と私は信じているのだ。・・・・≫
 この趣旨をさらにわかりやすく畳みかけて丁寧に説明していきます。これを読むと、明治38年1月に『ホトトギス』で発表された漱石の『吾輩は猫である』を思い起こします。この作品は、高校生の私をも夢中にさせました。最近では、吉川英治の『三国志』でさえ難儀をして読んで理解できたかとどうかうかがわしく思っていたのに、貝塚茂樹の『史記』はとにかく楽しく読めたことは、アカデミックな人のわかりやすい文章によって、それよりずっと古い何百年も前の時代の人々の考え方を身近に堪能でき、中島敦の『李陵』への関心も膨らんだのでした。

 また、英語で話されたこれらの講義をこのようにノートに記録を残した学生たちの英語力と熱心さにも感動します。
 30歳のころ漱石の『文学論』を読んだことを思い起こします。ある部分の登場人物の性格と動きと起こった事柄とを数式で表していたあの『文学論』のことです。漱石は建築家になりたいと思っていたことがありましたが、小説を図式化して計算式で表していたように感じました。ハーンは文学作品を大工職人に例えているところが面白いところだと思えます。これには、文学作品を設計して構造計算をする人と、実際に建物を作る人との違いも感じられてきます。

 これらの講義は、当時文学を志す学生たちにとっては神の啓示のようにも聞こえたのではないかとさえ思えました。
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第229回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/09/16(Mon)
 9月14日 土曜日、第229回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 8月の参加者と同じメンバーで、13名の参加でした。

 教室に早く到着したので、築島裕という元東大教授の『古代日本語発掘』という古い本の続きを読みました。この本は、まず、何について書かれているのかよく分かりません。なぜなら、ここで取り上げられている、古訓点にかんする学問が、すこしの成果とか、意義とかがわかる前に消滅の一途をたどり、今や全く地球上から消えてなくなりつつあるからでしょう。ほかで、弟子の東大教授の月本雅幸氏(1954年―)も、研究対象の9割を占める経典の写真撮影が許されず、相手の都合に合わせての書写による研究も今日の状況では限界があり、引き継ぐ学生や研究者もほとんどいないことを縷々述べられています。

 こんな学問もあるということがわかってくると、きょうこのハーンの会で、ハーンが東大で講義した内容を、学べるということが、なんだかとても意味があることに思えてきます。

 私自身、縁あってハーンの顕彰をする会に在席させていただいてハーンの作品に親しんでいますが、それまで、とくに小泉八雲の作品を読んでみようと思ったことはありませんでした。
 おそらくそれは、池田雅之氏の言及されているところの、ハーンの二面性のうちの一面のみのイメージしか持ち合わせてなかったからで、
 ≪彼の存在の重要性と意味とを読み解くための文脈を発見できずに今日に至っているというのが偽らざる実状である。・・・・ハーン全体像の正当な見直しは、依然としてわれわれの今後の大切な課題の一つとして残されたままであり、・・・・≫と述べられるところの、あとの一面に対してのイメージがなかったことに思い当たります。
 そして、その課題への挑戦でしょうか、今年、2019年8月、池田雅之の編訳で 『小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』 が、角川ソフィア文庫より出版されたことを貝嶋先生は寺下さんが購入持参してこられたこの本を手に報告してくださいました。大いに期待して読みたいと願うところです。

 今月の会合では、興味深い資料が多々ありました。
 とっさに感動したした資料は、9月8日(日)の『山陰中央新報』の「ハーン来松の縁示す文献」という新聞記事のコピー資料でした。
 ≪八雲より前に英語教師として着任するはずだった米国人エドウィン・ベーカー(1853~1933)が、直前で採用を白紙にされたことを示す文献が見つかった。≫というのです。
 少し前に、ハーンの会のメンバーとともに松江に「出雲かんべの里」を訪ね、親しくお話を伺ったの錦織館長が兵庫県姫路市の図書館で5月に発見されたということに本当に感激しました。また機会があったら、錦織館長に詳しくその資料についてお話をお聞きしたいとも思います。



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『樹木希林 120の遺言』
2019/09/13(Fri)
 樹木希林著 『樹木希林 120の遺言』 を読みました。
 宝島社から、定価1200円+税で、令和元年2月発行、令和元年月第6刷 の本です。
 
 夫が買って、読んだ後、「読んでごらん」 というので読みました。
 きっちりした装丁の本ですが、テレビも見ながら気軽にあっという間に読める本です。
 何の抵抗もなく理解できるような気がするところは、少し残念でした。
 夫にそんな感想を言って、「結構私と似ているのかね?」というと、「そっくり!!」 と言われてしまいました。
 人生の経験値は天と地ほどの違いがありますが、物や人への感じ方は結論として同じように思えてきます。
 これでもう40万部売れているとは、世の中が、飾り気がなく寂しくなるような気がして残念です。

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『「愛」のかたち』
2019/09/05(Thu)
 武田泰淳著 『「愛」のかたち』 を読みました。
 昭和43年6月発行の日本文学全集79武田泰淳集の第1作として収録されている作品です。

 『史記』の最後、著者貝塚茂樹の「読書案内」という項目があり、そのなかに、司馬遷の歴史観の文学的解釈としては、武田泰淳『司馬遷―史記の世界』と紹介されていました。それで、日本文学全集のなかからこれを探しだそうとこころみたのですが、この中にそれはありませんでした。しかし、武田泰淳について知りたいと思い、最後の埴谷雄高による「作家と作品 武田泰淳」を読みました。そのなかで武田泰淳について、
 ≪1、仏教的基盤。それは、もちろん、彼が一寺院に生まれ、若き僧としての修業をも積んだことに由来する。
  2、時代の子としての左翼運動体験。そして、父の勧告による転向、挫折。 
  3、中国文学研究会。人間に始まり人間におわる広大な中国的世界への接触。
  4、出征。中国大陸における具体的な戦争体験。 
  5、外地上海における敗戦体験。
  6、戦時下の上海に始まり、敗戦後の東京に至る多角関係の恋愛体験。≫
 など30ページあまりにわたっての掘り下げた解説があります。
 武田泰淳のこれらの特徴は、今の私にはとても興味を引くものばかりでした。
とにかく、彼の作品に触れてみたいと、この本の6作品のうち、最初の 『「愛」のかたち』 を読んだのです。

 『「愛」のかたち』 は、主人公の光男は、光男からも町子からも先生と呼ばれている野口という夫のあるその町子と肉体関係も何度かある付き合いをしています。町子はそのまえには日本に病気の妻と子供がいるMとも同じような付き合いをしていました。その時には、光男は野口のことをうらやましく思っていたのですが、町子に誘われて関係を持つことができるようになったのでした。野口もMも光男と住まいを訪ねあったりしている知り合いです。三人の男性とかかわる町子は、はっきりとは表現されていないのですが、体が普通の体ではなく、テクニックによるしか男性を満足させられないという悩みを持っています。そのことで夫の暴力を受けたりするのですが、容姿も美しく、優しく気の利く女性としての魅力を感じさせる人なのです。
この四人の成り行きを読んでいると、不思議な気持ちになります。戦後に生まれた私にとっては考えられないことですが、戦中戦後、ましてや外地で終戦を迎えたりしてそれぞれが先の見通しもたたない、自分自身がたよりなく、つらく淋しい時代にあって、ぼんやりした倫理観をも感じながらも、男と女が誰かれとなくその場で身を寄せ合い、心を通わせ、暖めあうというようなことがあってもそれは仕方のないことで、だれにも責められることではないような気がしてくるのです。
 また本来人間はそのようなものであったのではなかろうかとも思えてくるのです。

 武田泰淳が自分の経歴の中で、興味あることを述べている部分を埴谷雄高が引用しています。
≪私は芝の増上寺で加行して、従軍したおかげで二階級特進し、位ももらったのに、途中で寺を逃げ出してよからぬ読物を書く身の上となった。・・・・ととにかく、坊主でありつづけることが苦しかった。苦しかったという個人の体験を、ご参考までに申し述べる。・・・・まず最初に悩んだのはお布施の問題だ。・・・・おシャカ様は、王位も金銭も邸宅も愛妻も父母までも棄てて出家された。『出家』とは、たった一つの真理のために、すべてを捨て去ることだ。・・・・ブッタは乞食しても恥ずかしくなかったのだ。ほとんど何一つ棄てようとはせず、むしろより多く欲しがっている私には、乞食者となる権利がない。・・・・≫
仏陀の本を読んだことのある人はだれ一人としてブッダについてこのことを知らないはずはありません。真っ向からこれを真摯に語る彼のまっとうな倫理観に驚きました。

 また、司馬遷の『史記』のなかには、李離(リリ)という春秋時代の晋国の裁判官の話が出てきます。
≪李離は、ある訴訟事件において判決を誤り、無実の被告を死刑にしてしまった。後で気が付いた彼はみずから獄に下り、自分で自分に死刑の判決をした。それを聞いた晋の文公は、「下役人が誤りがあったからで、君の責任ではない」と言って遺留したが、李離は「私は部下に地位を譲ったこともなく、また部下に俸給を分けてやったこともありません。それなのに罪を部下になすりつけたら、どういうことになりましょう」・・・・剣に伏して自殺した。≫ 
武田泰淳は『史記』をとおしてこの部分を読んでいると思います。このような倫理観に接していくなかで、彼が本物だと感じる倫理観にたどり着いたはずです。そのようなことが、町子をめぐる男女間の思いになっていったのかもしれません。

 実際には、読み終えて本を枕元に置いた瞬間、この、『「愛」のかたち』は、宦官である司馬遷自身の気持ちを語ったのかもしれないとふと思いました。でもそれではあまり突飛すぎるので、裏山をのぼりながら、あるいは交通安全教室のお手伝いをしながら、上記のような屁理屈も考え、その部分を本の中から一生懸命探して書きこんだのでした。

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『史記』 中国古代の人々
2019/09/03(Tue)
 貝塚茂樹著 『史記』中国古代の人々 を読みました。
 昭和38年5月25日初版、昭和48年11月1日37版の中公新書です。

 少し前に読んだ吉川英治の『三国志』は3巻もあって、しかもわかりづらく、よく理解できないところもありながらなんとか読み終えることができたという感じでした。今度は、さらに古い時代の『史記』で、もっと取っかかりにくく、また著者の貝塚茂樹といえば子供のころから京大の大先生と知り、緊張して読み始めました。

 第九章まであるなかで、「第一章 ある死刑囚にあたえる手紙 —宦官司馬遷の真情」の途中まで読んでくると、友人が死刑の宣告を受け,執行を待つ間に、その友に司馬遷がやっと自分の心情を伝える手紙を書いていることが理解できてきます。今になってタイトルを読むと、なんでそれが?という感じですが、司馬遷が書き記した『史記』を読むのに、なぜ司馬遷の手紙が??と思うと訳が分からい気持ちになっていたのでした。
 こうして、最初は躓きの読書でしたが、読み進むにつれて、特に項羽と劉邦の戦いなどは楽しくてたまらない読書になり、そして孔子の教訓なども状況を得て語られる部分では胸に伝わってくるものがあり感動の読書となります。

 「はじめに」で、著者が、自分が初めて史記にであった三七年前を思い起こして、我が国の一般読者のために史記をどう読んだらいいかを史記の本文をパラフレーズ(ある表現をほかの語句に置き換えてわかりやすく述べる)しながら説明しようと考え、史記130巻の目録つまり菜単から、己の好みに合わせて、わが国の顧客の口に合いそうな逸品を選んで差し上げた。願わくは存分に味わっていただきたい。というようなことを述べられているのですが、本当においしく頂かせていただいたのでした。

 第1章、第2章の手紙にしても、司馬遷が、この中書謁者令という役職ことになったことで、友人にやっかまれて皮肉を込めた手紙を受け取って2年間返事を書けずにいたのが、その友人が死刑を待つ身になって、はじめて自分が辱めを受けている身を、そして宮刑に処せられ辱めを受けるに至るた言うにやまれぬ心理を理解してくれられるだろうと送ったものだということがわかるのでした。

 宮廷に努める宦官が、去勢した男性であることは知っていましたが、その去勢されたことへの本人の感情について考えたこともありませんでした。二つの手紙や、関連の記事のある第6章の記述によって初めて知ることができます。

 紀元前145年に生まれたという説もある司馬遷が、それまでの記録を読んでその歴史を論評したものや、他の人の手になる史書をも読み合わせて、更に貝塚茂樹が評論し、著者の解釈にあわせて読者につたわるように書かれたものは、現代の米中関係や。EUに対するイギリスの状況や、日米韓の状況、その他の国際問題など現代の国際状況を思い起こさせずにはおかない読書となりました。

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 『NHK100分名著 大江健三郎『燃えあがる緑の木』』
2019/09/01(Sun)
 小野正嗣著 『NHK100分名著 大江健三郎『燃えあがる緑の木』』を読みました。
 これは、9月2日月曜日、明日の夜から放映される作品です。

 30日に人間ドックにいくとき、少し読めるかもしれないと鞄に入れて出かけたのですが、それどころではありませんでした。疲れ果て、翌日31日は気分を取り直し、ひさしぶりに福王寺山の駐車場まで登りました。早めの昼食の後、町内会の文化祭の準備のため亀山小学校の体育館にいき、担当の絵画の展示の手伝いをしました。かえって家の片付けや掃除をして、夜すこし読み始めて眠りました。夜中ひどい頭痛で目が覚め、あの理解不可能な冊子を読んだからだと気づきロキソニンを飲んで寝ました。今朝、この冊子をもって7時過ぎからまた体育館に出かけました。絵画展示のパネルの横に観客席がたくさん準備されていましたので、パネルの番をしながら集中して読むことができました。

 『燃えあがる緑の木』のある場所が愛媛県の内子町だと理解しました。そういえば短大に学んだとき、クラスに内子町の出身の人がいて、おとなしい人なのに、大江健三郎を熱く語ってくれたことを思い出しました。もちろん話の内容は覚えていません。
 ですが、今日読んで、彼の作品には、彼の実際の体験が織りなされていることが大変多いということと、ほかの文学作品や芸術作品との関係において小説が書かれている。それに、彼がこの『燃えあがる緑の木』を書く以前の彼の作品ともリンクしているということもわかってきました。
 彼の自己体験ということの中には、障害を持つ彼の息子光との親子関係が主流のようです。
 また、ほかの文学作品との関係ということでは、おもにイェーツ、ダンテ、ドフトエフスキー、アウグスチヌス、シモーヌ・ヴェイユをあげています。
 以前の彼の作品ともリンクしているということでは、直前の『懐かしい年への手紙』が特に多いのではないかと思わされました。
 我が家では、ハーン関連で、イェーツやエドガー・アラン・ポーの本を何冊か購入しましたが、よく読めていません。大江健三郎の作品を読むことで、同時にこれらの理解も少しできるような気がしてきます。(直前の『懐かしい年への手紙』では、エドガー・アラン・ポーとの関係における記述が多い)
 大江健三郎を読んだことがなかったので夫に尋ねると、高校時代からずっと大学病院での入院生活の多かった夫は、入院していた時、大江健三郎氏が取材に来て、医師や『ヒロシマ・ノート』では、どういう名前で書かれていたのか覚えてないけど、同室のヤマナさんという人の話を取材しておられた。医師と話すときは、大江健三郎氏は非常に緊張しておられたことを覚えていると話してくれました。
 この作品では、登場人物で両性のサッチャンがこの作品の結末というか、主題といったものを語るようです。
 私もサッチャンと小さい時から呼ばれて育ちました。意外なことですが、以前職場で、私の担当ではなかったいつも聡明で活発な児童がスカートをはいてやってきました。びっくりして挨拶をすると、彼女は私の心の中を見透かすように、「先生!サッチャンのこと男の子と思っていたんでしょう」と笑いをこらえるように言いました。その子のボールを投げる時などの身のこなしは、活発な男の子そのものでしたから、すっかり男の子だと思わされていたのでした。そんなことを思い出しての読書でもありました。
 
 


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