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「妖雰録」
2019/10/31(Thu)
 中島敦著 「妖雰録」 を読みました。
 文治堂書店発行の『中島敦全集第4巻』、のなかの作品です。

 夏姫という妖雰な女性にまつわる話です。
 夏姫は、陳の大夫御叔の妻です。同時に陳の霊公、上卿の孔寧と儀行父とも関係を持っていました。
 洩治というものが霊公にそういうことを辞めるように直言しました。翌日、その洩治と夫の大夫御叔も妙な死に方をしました。
 夏姫の息子は、自分が、誰に似ているのか取りざたされたりすることから、霊公を殺します。そのために孔寧と儀行父は楚の国へ逃げていきます。
 陳の霊公が殺されたということで、楚の荘王は陳の都に軍を率いて入り、夏姫の息子を車裂の刑にします。荘王は凱旋の時に夏姫を連れて帰りました。
 巫臣というものが、荘王に、夏姫を入れれば、逆臣を誅するという大義が、淫を貪るためだと思われますよと、諫めます。荘王は諫めを入れます。
 夏姫は連尹の襄老に与えられました。ところが翌年晋・楚が攻めてきたとき、襄老は戦死し屍は敵に取られてしまいます。夏姫は襄老の息子の黒要といい仲になります。
 先に、荘王を諫めた巫臣が実は夏姫を手に入れたいと思っていたのです。老練の策謀家で、鄭から祖国に通知を送って、さきに楚で戦死した襄老の屍を晋から鄭に送るので、夏姫は鄭に来て夫の屍を迎えよと言ってきました。夏姫にはもとより巫臣の意は通じてあったので、「夫の屍が手に入らない間は帰りません」と言って出かけていきます。
 結局、巫臣は夏姫を室とします。もちろん夏姫を息子に取られてもいけないので、息子も国外にやっています。そしてようやく落ち着いたように見えます。
 巫臣は夏姫を得て、落ち着いてみると、愕然とします。
 ≪巧みな術策によって競争者を出し抜き、うまうまと手に入れたと思っていたが、手に入れたのは果たしてどちらだったのか?自分はもう夏姫を欲してはいないのだと思う。・・・・如何に自分の運命がこのものの為に高い價を払わねばならなかったかを巫臣は初めてマザマザと感じた。思わず慄然とし、だが、次の瞬間、なぜか知らぬが、訳の分からぬ妙なおかしさが込み上げてきた。・・・己の一生の無意味さが他人事のように眺められたのである。・・・彼はしまりもなくげらげら笑いだした。≫
 という結末です。
 どうでもいい話でしょうか?



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「章魚木の下で」
2019/10/31(Thu)
 中島敦著 「章魚木の下で」 を読みました。
 文治堂書店発行の『中島敦全集第4巻』、のなかの作品です。

 中島敦のエッセイと言えるような短い作品です。

 中島敦は、昭和十六年六月二十八日、横浜高女を辞め、パラオ南洋庁国語教科書編修書記として、横浜を出港します。
そして、翌十七年三月十七日南洋より出張にて帰京します。
 遠く南洋群島に行っていて、華の東京に帰り、戦時下になった東京で、章魚木の下にいるような、まだ南洋ボケのしている状況のなかでの感想としての作品です。
 東京に帰ると、風邪をひきこみ、肺炎を起こし、世田ヶ谷区世田ヶ谷の父方で病を養い、六月に恢復したとありますから、作品には、病中の感覚もあるかも知れません。

 南洋群島の土人の間で仕事をしていた間は、自分に課せられた実務が目下のところ第一の急務で、内地の新聞も雑誌も一切目にせず、文学についても考えることはなかったようです。その間に戦争になり、ますます文学について考えることはなく、ほとんど忘れていたといいます。

 ただの数か月、東京を離れていただけなのですが、気候ばかりでなく、周囲の空気が一度に違っていて面食らったと述べます。
 このことは、
 ≪思えば、南洋にいた時には、書くもののなかに時局的な色彩を盛ろうと考えたこともなく、まして、文学などというものが国家的目的に役立たせられ得るものとは考えもしなかった。≫
 ≪種々な微妙複雑な問題の氾濫にすっかりびっくりしたのである。成程、文学も戦争に役立ち得るのかと其の時初めて気が付いたものだから、随分うかつな話だ。≫
 にも見て取ることができます。
 ≪文学がその効用を発揮するとすれば、それは、斯ういう時世にともすれば見逃されがちな我々の精神の外剛内柔性――或いは、気負い立った外面の下に隠された思考忌避性といったようなものへの、一種の防腐剤としてであろうかと思われるが、之もまだハッキリ言い切る勇気はない。≫
 と自分なりの時局への考えを述べながらも、基本的には、無理に書斎に噛り付いていることはなく、
 ≪宜しく筆を捨てて何らかの実際的な仕事に就いた方が、文学の為にも国家の為にもなろうと思うのである≫
 そして、
 ≪、戦時下の国民の一人として、戦争遂行に必要な実務にたずさわればいいのではないか≫
 と述べます。

 17年の時局について、ネットで少し調べてみると、 
 ≪昭和17年6月8日、日本政府によって、明治以来の東京帝国大学を頂点として成り立ってきた西欧起源の最高学府ではなく、東洋文化を根源とする初の国策最高学府・「東亜工業大学(後の千葉工業大学)」が設立され、第1回の入学式が挙行される。≫とありました。

 読んだ本についてはすぐに忘れるのですが、偶然今年の2月5日のブログに
 今 日出海著 『三木清における人間の研究』を掲載していました。この中島敦の作品と読み合わせると、彼の立場をより鮮明に受け止められるように思いました。
 ≪昭和16年11月国家総動員法による徴用令第10条により、文士、画家、牧師、写真屋といちおう報道作業に必要な人員を徴用し、比島方面、ジャバ方面、仏印、マレイと開戦前に南方作戦の報道班員を密々編成して徴用された時のことです。参謀本部の思いつきで始まった報道班の編成は、隊長や軍人がどう扱ってよいかわからず、仕事らしい仕事が与えられない状況に、翌年3月に突然第2陣が到着します。
 そのなかに、三木清がいたのです。哲学や評論の筆を執っては当代一流の名を謳われた人を必要とするような用務も無ければそれを利用できる人もいないのに一片の徴用令書で戦地へ送り込むことの愚巨に憤りを感じてもいました。それに、徴用された時から、第1陣は待遇が良く、第2陣との間に確執が生まれます。
 文士どうしの気遣いなどでだんだん良くなってはいくのですが、三木清は評判がよくありません。徴用期限は1年と決まっているのに、返してよいのか現地の部長も参謀部でも判断がつかず、自分は参謀部から9月の終わりに内地へ連絡帰還して明らかにしてくるようにと命令を受けて飛行機で飛び帰ることになりました。帰還してみると予定どおり徴用解除の手続きはほぼ完了しているので、せっかく帰ったのだからもうマニラにいかなくてもと言われます。友のことを考えるとそうもいかずマニラに行きます。すると、マニラで問題が起こっていました。自分たちに嫌疑がかかっていたのでした。映画班への嫌疑で、班管理の生フィルムをひそかに比島にいる邦人に売っているという嫌疑でした。数日して嫌疑が晴れました。ある有力な徴用員が部長へ密告していたのだということが分かったのですが、それが三木清であったということだったのです。密告を受けた部長は勿論それが誰かを知っているのですが、その部長が徴用解除に先立って左遷されたのでした。
 解説によると一緒に徴用されたのは尾崎士郎や石坂洋次郎で、石坂洋次郎も別なところで三木清の偽悪的な側面を書いていたことがあるといいます。第二次の派遣部隊は三木清、火野葦平、上田広、柴田賢次郎、沢村勉らであったといいます。≫
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「木乃伊」
2019/10/30(Wed)
 中島敦著 「木乃伊」 を読みました。
 文治堂書店発行の『中島敦全集第4巻』、のなかの作品です。

 ペルシャ王カンビュセスがエジプトに侵入したときのことです。
 きかの武将にパリスカスという人がいました。
 この、パリスカスが主人公です。

 パリスカスは、相当な地位にあるにもかかわらず、どこか夢想的なところがあり、人々の嘲笑を買っていました。
この遠征で、ペルシャ軍がいよいよエジプトの地に入ったころから、彼の様子がさらに異常さを増してきました。エジプト軍の捕虜が、陣中に引っ張られてきたとき、彼等の話す言葉がどうやら理解できます。
 エジプト軍には、ギリシャ人の傭兵なども交じっているので、その捕虜が何人か尋ねさせ、エジプト人だとわかると、今までエジプトに来たこともないのにと、ぼんやり考えこんでいました。
 都メムフィスに入城すると、そのはずれにある方尖塔のまえで、そこに書かれてある文字を読んで、その碑を建てた王の名とその業績を読んで聞かせますが、誰も彼がエジプトの文字が読めて歴史に通じていることを聞いたこともなかったので不思議に思います。
 カンビュセス王もそのころから、次第に狂暴になって、エジプト王を殺し、さらに先王アメシスの屍を辱めようと、部下一同に、その屍を、くらまし隠してあるアメシスの墓所のあるサイスで探し出すよう命じます。
 部下は、一つ一つ墓地を暴いて改めて歩かなければなりません。

 捜索を始めてから、何日かたったある午後、同僚や部下とはぐれたのか、パリスカスはたった一人で、ある非常に古そうな墓室にいました。棺の蓋は取られたままで、すでにペルシャ兵の他の者に調べられ略奪された後だとわかります。無意識に奥へ五・六歩進むと、躓いた足元に木乃伊(ミイラ)が転がっています。もう何日も何日も見続けてきた木乃伊(ミイラ)でした。
 しかし、行きすぎようとしたしてその木乃伊の顔を見た途端に、彼の背筋を冷熱どちらともいえないものが走りました。もはや長い時間、その顔から視線を話すことができませんでした。それまでのもやもやした不安な気持ちが、安らかな気持ちに代わりました。
彼は思わず、「俺は、もと、此の木乃伊だったんだよ。たしかに。」と、彼の魂がこの木乃伊に宿っていた、遠い過去の記録がよみがえってきたのでした。さらに美しく優しかった彼の妻のこともよみがえってきます。そして、家族に囲まれた、死の瞬間のような情景も浮かんできて、彼の過去の記憶はぷっつり切れていきます。

 それから幾百年間の意識の闇が続いて、気が付いたときは、ペルシャの軍人として、木乃伊の前に立っていました。
 翌日、彼は固く木乃伊を抱いたまま、古墳の地下室に倒れていました。発見されて息を吹き返したが、凶器の兆候を見せて、エジプト語でうわ言をしゃべりだしたということです。

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「狐憑」
2019/10/29(Tue)
 中島敦著 「狐憑」 を読みました。
『中島敦全集第4巻』、それまで、中島敦の作品で、ほかの本で読めていない作品を順に読んでいきます。

 先に打ち明けると、この作品は、文字もなく、もちろん詩人とか小説家とかいなかった時代の話です。
 湖上民のネウリ部落のシャクに憑ものがしたという評判が立ちます。
 ギリシャ人は、この未開人は特に変わっていると思っています。
 シャクが変になり始めたのは、北方から攻められ弟が死んだころ、妙なうわごとを言い出しだといいます。
 一時は弟デックの魂が忍んで入ったと思われた時もありましたが、彼に関係のない動物や人間どもの言葉を言うようになりました。みんなは珍しがってシャクの話を聞きに来るようになり、シャクも多くの利き手を期待するようになります。自分の想像でほかのものに乗り移ることに面白さを感じるようになり、もともと平凡なシャクの作り話だとしても、あんな素晴らしい話を作らせるものは確かに憑きものでしかないと、シャクもみんなも考えます。
 若い者たちがシャクの話に聞き惚れて仕事を怠るので、部落の長老たちはいい顔をしなくなります。それで、彼等はシャクの排斥を企みます。
 シャクの物語は、周囲の人間社会にも材料をとることがだんだん増えてきました。あるとき、長老のことに材を得てはなし、それがみんなに大変受けたので、その内容を聞いた長老がついに怒って、シャクが部落民としての義務を怠っているというということに注意を向け彼を非難しました。そのうち、春が来て皆が外へ出て働くようになったころ、シャクは話をしなくなり、話を求めても、以前の蒸し返しの話しかできなくなり、勤勉に働かなくなってしまいました。以前の聞き手たちは、彼に冬に食物を分けてやったことにも後悔をするようになりました。部落にとって有害無用と一同から認められたものは、協議のうえでこれを処分することができますので、処分することが決まります。次の日、湖畔の焚火を囲んでの盛んな饗宴の大鍋には、羊や馬の肉に交じって、シャクの肉もふつふつ煮えていて、皆に供されたのです。
 ≪ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱ひ出すよりずっと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了ったことを、誰も知らない。≫
 で結ばれています。

 現在の小説家が、面白い作品をたくさん書いてくれて、私たちはそれを文字で楽しむことができるのですが、たしかに、文字のない時代の小説家は憑き物がついていたのでしょう。へへ・・・。
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「文字禍」
2019/10/27(Sun)
 中島敦著 「文字禍」 を読みました。
『中島敦全集第4巻』、それまで、中島敦の作品で、ほかの本で読めていない作品を順に読んでいきます。

  これは、アッシュール・バニ・アパル大王の治世大20年目のころの話です。いつのことかと調べてみると、なんとそれは紀元前248年です。中国でみると、秦の始皇帝が即位して2年後です。
 ニネヴェの宮廷の図書館で、毎夜ひそひそ怪しい話し声がするといううわさが流れます。調べて、これはどうしても、書物ども、文字どもの話声だということになりました。大王はナブ・アヘ・エリバ博士を召してこの未知の精霊について研究を命じます。彼は文字に霊があるかどうか自分で確かめることになります。その結果、文字の精霊は地上の事物の数ほど多いことが分かります。 次に文字の霊が人間に及ぼす作用について調査し、その結果が出ました。人は文字を覚えるようになって、体のいろいろなところの働きが悪くなり、頭も働かなくなっていることが分かってきました。人々はもはや書き留めておかないと、何人も覚えることができない。ある博学の書物狂の老人は、ツクルチ・ニニブ1世王の治世第何年目の何月何日転向まで知っている。しかし、今日の天気は、晴か曇りか気が付かない。この老人にはこのようにいろいろ問題があるが、うらやましいほどいつも幸福そうにしている。これは不審なことではあるが、霊の媚薬のごとき魔力のせいだとみなしました。

 ある日、この老人に、歴史とは昔あった事柄をいうのか、それとも、粘土板の文字を云うのかととたずねました。老人は、歴史とは、昔あった事柄で、かつ粘土板に記されたものであると答えます。
 書き洩らしは?と聞くと、冗談ではない、書かれなかったことは、無かったことじゃ。芽の出ぬ種は、結局初めからなかったのじゃわい。歴史とは、この粘土板のことじゃ、といいます。
 時の為政者に都合の悪い事実を書いたために、殺された歴史編纂者はたくさんいましたから、この歴史書制作についての見解への苦悩は、司馬遷の生涯をも思い出します。
 こうして、文字の霊について研究しているナブ・アヘ・エリバ博士もだいぶん前から、文字の霊のゆくという病に罹ってきていました。文字がいくつかの線に分解して見え、同じように、あらゆるものが意味のないものに分解して見えるようになってしまったのです。これ以上はできないと、あわてて文字の霊についての研究報告を終わらせます。文字の霊がこの報告を気に入るわけもなく、アッシュール・バニ・アパル大王に博士は即日謹慎を命じられ、最後は自宅で地震により書架が倒れ、思い粘土板が落ちかかり、亡くなるという結末でした。

 あらすじらしきものを書き記してみるとそうでもありませんが、この作品は大笑いして、ときには近くにいる夫にも読み聞かせして、さらに大笑いしながら読みました。
  そして、読み始めから、以前村上春樹を読んでいたころ、出会った作品は、これにヒントを得たものではないかと思ったことでした。図書館で本をずっと読んでいる人が美味しくなるといった作品だったような・・・。なんという作品だったのか、いま一度読んで比べてみたら楽しいのではと思ったことでした。
 読みながら、あまりの文字による禍を示され、読み終わると、しばらく我を忘れてぼーっとするしかありませんでした。

 アッシュール・バニ・アパル大王について調べたとき、この大王は、古代オリエントの研究をして、彼が残した図書館の資料がその解読に大きく依存されているということでした。




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「斗南先生」
2019/10/26(Sat)
 中島敦著 「斗南先生」 を読みました。
『中島敦全集第4巻』の最初の作品です。

 「斗南先生」とは、中島敦の叔父さんのことです。「斗南」という名前は、会津藩が、戊辰戦争で降伏して禁固刑となり、家名存続が許されて、明治2年、陸奥国に藩を立てます。その名前が斗南藩でしたので、親しんでいましたが、その意味をこの度、調べて知ることができました。「斗南」は、北斗七星より南の意。転じて、天下のこと。とありました。作品中ではそのことには触れられていなかったのですが、中島家が撫山と号した祖父の時代から、儒学に親しんだ家だというからには、それなりの思いがあったのではと思えます。

 この作品は、自分に一番似ていると言われていた、斗南伯父さんと自分について書かれたものです。濱川勝彦という人が、この作品について
 ≪斗南先生」とは、撫山の次男の端(戸籍名・端蔵)のことで、一生放浪にあけくれ、家庭も持たず『支那分割の運命』(大正1・10・15、政教社)、『斗南存稾』(中島竦編、昭和7・10・1、文求堂)の二著書をのこして、逝いた人物である。この伯父との交渉を敦は「創作のつもりではなく、一つの私記」として書いたのが「斗南先生」である。彷徨を好むことをはじめ「気質」の上で自分と似た伯父・斗南をひはんすることは、即ち自己嫌悪であり、また、克己をも意味していた。最後の床に横たわる伯父を眺めながら、伯父の保守的な意思、没理性的な感情の激しさ、移り気等々、伯父の性質を数え上げて行くうちに、我儘だが、没利害的に純粋だったことを見極める。そうして伯父への意地悪い批判は「余りに子供っぽい性急な自己反省」であり、同時にそれこそ「自分が最も嫌っていたはずの乏しさ」であることが分かってくる。それにもかかわらず『斗南存稾』の「作字漫題」の句、「不免蛇身」の不気味さと竦の書いた跋文の「狷介善罵。不能仮人。」云々の表現とによって示される伯父の姿――斗南狂夫として人を罵り、また自らも世に入れられなかった伯父の生き方が、中島敦の心を重く圧したのである。伯父・斗南の中に己を、己の血を見たからである。≫
 と、「斗南先生」の作品解説をじゅうぶんに語っています。これをほかの本で読んだ後、作品を読んだのでした。

 敦のお父さんは10人兄弟です。この伯父・叔父たちみんなが、幼少より祖父の撫山に厳しい教育方針のもとに父兄に儒学の教えを受け6歳のころより白文の『論語』素読から初めて、十三、四歳では漢文で作文せしめたといいます。そのような伯父・叔父や、その子供の従妹たちと比較され交渉するなかで、自分を見つめるというだけでも、たいへんな経験だと、思わされます。

   あが屍 野にな埋めみそ 黒潮の 逆巻まく海の 底になげうて

 昭和6年、臨終前に認められた斗南先生の色紙の句です。

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「狼 疾」
2019/10/24(Thu)
 

 中島敦著 「狼疾」 を読みました。
 『中島敦全集第4巻』の過去帳に、「カメレオン日記」とともに掲載されているものです。

 「狼疾」を手元の漢和辞典で引いてみると、①心が乱れ反省できないたとえ。ふだんは反省できる狼も、病気になると反省できないという。②致命的な病気。とあります。

 過去帳に、「カメレオン日記」とこの作品があるのがよくわかりました。「カメレオン日記」では、主人公が「私」として語っているのですが、この作品では、「私」が「三造」として同じ女学校の博物学の教師として書かれています。
 その三造が、映画館で、未開の原始的な蛮人の映像を見たことで、久しく忘れていたある奇妙な不安が、いつの間にかまた彼の中に忍び込んできているのを感じた。それは、運命の不確かさ、必然という言葉の周囲をどうどう廻りしては引き返す、睡眠など、人間の自由意志の働き得る範囲の狭さ、などについてとめどもなく考えます。自分のこのようになった原因の一つに、小学4年生の時、受け持ちの先生が、地球の運命について話し、いかにして地球が冷却し、人類が滅亡するか。我々の存在がいかに無意味であるか繰り返し話したことで、世の中のあらゆることが、意味がないと考えるようになったことを挙げています。「みんな亡びる。みんな冷える。みんな無意味だ」、との恐怖から、冷や汗をかき、立ち止まってしまう。ひょいと気づくと、自分の周囲にはやはり人が往来し、電灯があかあかとつき、自動車が走っていて、ああよかったというのがいつものことだったと説明されています。このことについては、(註1)(註2)があり、成長につれ、このことがどのように考えられていくようになるかが、一段と小さな文字でおおかた2ページ半にわたって説明されています。これが、三造の 「狼疾」と呼ぶ自分のどうにもならない症状のようです。

 女学校では、職員室のみんなから馬鹿にされている事務のM氏がいます。そのM氏に誘われて、何か自分でもよくわからないうちにおでん屋に行きます。そこで説明の下手なM氏の話を聞きます。最初は言っていることがよくわからないのですが、よくよく聞いてみると、モンテニューでも言いそうな内容であることがわかってきます。そのことは実は日頃彼が言っていることでもあるように思われてきます。自分たちに、彼の言葉を解釈する能力と根気がなかっただけのように思えてきます。自分たちと彼とに価値の上下をつけることが不可能になってくることを感じ取ります。このM氏の例を類推の線に沿うて考えれば、他の生活形態の必然さを身をもって理解することができるのではないかと考えるようになります。
 余談になりますが、このことは中島敦の作「李陵」のなかで、李陵が北狄を徒歩で攻めいって捕虜になり、それでもその戦いの勇敢さに丁寧に扱われて暮らすうち野蛮な生活だと思えていた暮らし方が、ここでは、この方法がいいのだと感じいる様子を描いていたことを思い出します。
 そして、狼疾的なことを考えることについて、
 ≪そういう概観によっては、決して、大きくも、深くも、美しくも、なりはせんのだ。逆に、細部を深く観察し、それに積極的に働きかけることによって世界は無限に拡大されるんだ。≫という気持ちになってゆきます。


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「わが西遊記」が影響した2週間の記録
2019/10/20(Sun)
  10月7日、月曜日の朝はひさしぶりに、約2時間半かけて裏山の福王寺山の展望台から、さらに駐車場まで登りました。
 下山途中、ふと見るとアサキマダラが、ひらひらと、朝日のなかを美しく上へ下へと舞っています。
 ひらひらとあぶなげに、遠いみちのりを舞ってここまできて、また沖縄のかなたまで舞っていくアサキマダラ。

 「わが西遊記」を読み終え、胸にふつふつとわいていた思いが一瞬で決意に代わりました。
 本ばかり読んでいないで、沙悟浄に見習って、「行動しよう」と、思い立ち、早めに昼食を頂き、3キロくらい191号線を奥に行ったところの団地の駐車場に草引きに出かけました。
 ところが駐車場に行く前に、その団地にある、親戚の和子さんに挨拶しようと、数か月ぶりに立ち寄り、お茶を頂いたり法事の予定について話したりして疲れ、駐車場へ廻って様子だけ見て帰ることにしました。駐車場にはなんとこの日照りの夏を過ごしたというのに、塀を超える高さの草がしっかり生えそろっています。

  翌日は朝から、準備万端整えて出かけ、まず、一種類、背丈の高い草を全部抜いて、40センチの長さに切りそろえ、土嚢袋に詰め込みました。次はドクダミ草ばかり残らず抜いて、という風にして、8・9・10日と3日間通いました。

 4日目、11日の金曜日、駐車場に行って草を抜きかけると、隣のHさんが来られて、話しかけられ、聞こえない聴力で聞くので草引きをしながらというわけにはいきません。5時間話して、草取りができなくて悪かったねと、散々謝って帰っていかれました。
 このHさんは、長年看護婦をしておられ、医療にはすこぶる詳しく、また、退職後は、神戸の「じゅんこ先生」のところにしょっちゅう行って、勉強されています。「じゅんこ先生」というのは、どこか大手化粧品メーカーの販売員を教育する先生だったのですが、「内面から美しく」の教育が人気となり、全国の小中高等学校のPTAの講演などを頼まれるようになり、この団地でも、一時、高校の教師をしておられるお宅で、たまに教室も開かれていたようです。そういうわけで、Hさんは、本当に聡明で内面が美しく、うっとりします。そして、結局やさしい人なのです。

 12日土曜日、駐車場の契約更新の日が近づいているので、夫が、駐車場を借りてくださっている人に契約書を持っていくから、ついてきてくれというので、ついていきました。いく途中、夫が駐車場がきれいに草が引いてあるのを見て、安く貸りてもらっているかわりに、駐車場の草引きなどはそれぞれ各自でお願いしますと言ってあるんだから、あんたがひかなくてもいいのだと、馬鹿だなと言わんばかりです。
 ところが、6台分4軒の家を廻ってみると、どこの家も家の周りの草引きも、玄関の掃除も行き届いていません。それに、家に付随の2台分の駐車場にも物がいっぱい詰まっていて、仕方なく駐車場を借りておられる家もあります。家の周りがこの調子じゃあ駐車場の草引きまで手が届かないわと思いました。でも皆さんが借りてくださっているおかげで、これくらいの雑草ですんでいると思うとまずは感謝です。

 午後は「通史会」に行きました。7人だけの会ですが、私はハーンの会とダブることが多く、第4土曜日しか参加できないことがおおいのです。この度は参加でき、こともあろうに公民館祭り前です。展示する石碑の複写の内容について、会員がしっかり勉強しておこうということで、広大名誉教授の先生をお呼びするので、何かお聞きしたいことがあれば聞いてもいいと言われていました。終わって、誰も質問する人がいなかったので、あとで個人的に、準備しておいた築島裕著 『古代日本語発掘――古点本の謎をさぐる』 を示して、広大でこのことについて研究されているかどうか尋ねました。狩野先生も築島裕の本はよく読んでおられたようで、私のノートに、漢文訓読の国語学の先生や中国文学の先生、そして安田女子大学の「枕草子」の先生の名前など、丁寧に書いてくださいました。また、先生が学んでおられた真下先生の話をされ、私も学んだことがあることを懐かしく話しました。100歳まで生きて10年前に亡くなられたとのことでした。中島敦と同じ生年だとおっしゃいていたと聞き、中島敦が亡くなってあと、67年生きておられた真下先生を観音様のように感じました。
 この日は夜、夫が町内会の区長会に出席する日でした。

 翌日13日日曜日、孫の運動会に行ったとき、駐車場の草ひきについて娘に話すと、娘の勤める会社の社長さんが、貸しているアパートや家の庭に入って草引きをされるので、いったん貸している屋敷に入っちゃいけないという奥さんと、いつも夫婦喧嘩になるのだと大笑いして話しました。

 14日、月曜日は早朝から、娘家族いれて6人で県立美術館に行きました。浅野家の家宝を見て、縮景園のお茶席に行きました。孫が昨日の運動会での疲れがあるのか、精気なくお点前をしています。行く前、夫が懐紙入れに懐紙を入れて持たせてくれというので私のと準備しておりますと、上田流では懐紙は使わないのだと娘から電話でいわれ、作法の違いを思いました。と言っても中学生の時と建設会館に勤務していた時習っただけで、それもよく覚えてはいません。
 そのあと、縮景園の入り口のお店で遅い食事をして、娘婿に送られて帰りました。

 15日火曜日Mさんが来て、「今日はイキイキサロンの日よ、豚汁を食べる日よ!顔が見えないから迎えに来たよ」と云われ、大慌てで参加しました。ずっと山に登っていなかったので、町内の付き合いを忘れていました。

 午後、親戚の和子さんに誘われて地御前に貝掘りに行きました。いろいろ準備するものや服装について電話でレクチャーを受けていたので、助かりました。少し潮の引くのを待つため地御前神社にお参りしました。
 貝掘りについては彼女は孫悟空のような実力を発揮します。私も教えられ、だんだんコツを覚え、ずいぶんたくさん掘り、塩抜き、毒抜きも十分にして、孫にもたくさん届けました。
 和子さんは、前日は孫と野外活動センターに芋堀に行ってきたといいます。
 今度の休日は君田の奥に別荘を持っている人のところに行って、近所の空き家もふくめて柿を採ってあげなければいけないのだといいます。何年か前の春、ワラビを採りにその別荘に私も連れて行ってくれたことがあり、タケノコなどまでたくさんいただいて帰りました。 立派な別荘のご夫婦も和子さんを心から頼りにしている様子でした。
  ここの別荘には出版社に勤めているという息子さんの図書室もあって、図鑑がたくさんあり、好きに見ていいよと言ってくださったことも思い出します。
 とりあえず、和子さんは、生きるということにこれほど通じている人も他に類を見ない、私にとってはまさに孫悟空のような人です。
 
 16日水曜日は朝から交通指導員研修会のため免許センターに行きました。交通安全協会の人の挨拶があって、交通事故の状況報告があり、野外で、ダイハツの自動車4台に乗りました。アクセルとブレーキを間違えたときに事故が起きないようにする装置付きの車と、装置のあと付けの車でした。次にJAFの方による講習会があり、お弁当が出て、そのあと交通安全教室用のビデオ制作をしているホンダの方が、その放映時の解説についての説明をしてくださいました。私は声帯を痛めたので、やらないのですが、眠らないでしっかり勉強しました。

 その講習会で交流が深まった人が、清掃会社をやっているといいます。建築現場など落成前に清掃する会社なのかと尋ねると、たまにそれもあるが、アパートなどの定期的な清掃、いろいろな自治体の役所の建物などの清掃など・・・・と言われます。これからは墓地の清掃なども職域を広げられるのでは…というと、「石によって洗剤が違い、石を見分けそれぞれに合う清掃をしないと、2・3年たつとその違いがでてしまうので、そのための免許を取りにいかなければいけないのだ」ということでした。その人は、帰りに作業現場に連れて行ってくださいました。なるほど〇〇アパートと書いた建物が多く並んだ場所で、従業員が数人働いておられました。
 古稀を迎えた私には、自分の住んでいる居住場所まわりや、所有している空き地の草引きをしないという時代の到来に、少し違和感を覚えたことでした。

 17日木曜日、我が家では私の仕事になっている、区長会で託された、区の人たちへの配布物を配りながら、いちいち説明したり、赤い羽根募金を集めるなどの使いをしました。少ない軒数ですが、留守も多く、何度か回り、疲れ切ってしまいました。区では今年になって2名の方が年老いて亡くなり、一軒は空き家になりました。淋しくなるばかりです。

 18・19日はひさしぶりに家の掃除をしたり、買い物をしたり、カーテンをやり替えたり、のれんを縫い変えたり、洗濯をしたりでした。

 夫は、前日、孫に着物と、たこ焼きを買って届けてやったのですが、娘にたこ焼きはありがとう。着物は家の荷物が多いので買うのはやめてくれと言われて、おなかが痛くなり、今日、20日は朝から当番医の病院に行っています。

 私は、私が以前、文化祭に出したティシュペーパーの箱カバーを、自分も縫って出したいので見せてほしいとEさんに頼まれていたので届けに行って、大きな大きな栗を6個も拾ってきました。渋皮もきれいに剥いて冷凍しました。

 この2週間で、沙悟浄歎異に少し近づいてきたかな?と思っています。

  あの アサキマダラ 
  いま どこまで行ったでしょうか
  道すがら どんなことを学んだでしょうか



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「盈虚」
2019/10/20(Sun)
 中島敦著 「盈虚」 を読みました。
 文治堂書店よりの『中島敦全集第4巻』に収録の作品です。

 先に読んだ「牛人」に武田泰淳の
 ≪子が父を憎むこと、父が子を恐れること、はては子がその父を殺すこと、これは暗い、ありうべからざるほど暗い事実だ。人間があれほど大切に守っているもの、その中に身を置いて安心し、そこにとじこもって世間を眺められる堡塁のような倫理道徳を、そのいしがきの一つ一つ、その煉瓦の・一片ずつを蝕み、ゆるませ、ホロホロと剥落せしむる事実である。≫
 を引用していますが、この作品もそのひとつです。

 この作品も10ページの作品ですが、二度読みました。二度読まないと私には理解できないという作品です。
 衞の霊公の太子蒯聵がこの話の主人公です。蒯聵は霊公の後添えの妻南子との疑心暗鬼的な関係によって宋から晋に逃れ趙簡子のもとに身を寄せます。
 父の霊公が亡くなり、蒯聵は、あどけなかった息子輒が位に着いたことを知り、造作なく帰れると思い趙簡子の軍に擁護されて揚子江を渡りましたが、それ以上一歩も前へ進めず入国を拒否され13年が過ぎます。
 怒りのはけ口に、頼ってきた息子輒とは異腹の息子である公子疾をかわいがり、また闘鶏戯に夢中になります。
 17年目にして、衞では叔母の伯姫が権勢をふるい始めて、蒯聵は衞の都に帰ることができます。、そしてクーデターを起こして息子輒は出奔、蒯聵が衞の荘公となります。
蒯聵は息子の公子疾を太子に立て、それまでの17年間のうっ憤を晴らすための政治を行います。

 ところが、後半蒯聵は、太子の専横に苦しめられついに逃れ、原に一隅の人家にたどり着き、そこで命を絶たれるという筋書きです。

  漢和辞典を引くと、「盈虚」とは、いっぱいになることと、からになること。みちることとかけること。となっています。
「盈則虧」には月もみちれば必ずかける。転じて、物事も極盛に達すれば必ず衰えに向かう意。〈史記・蔡沢列伝〉となっていて、赤線を引いています。史記などを読むようになってひいたのですから、今年の夏以降のことです。そのときに、盈についての熟語はみな見ているはずですが、すっかり忘れているのがいちいちショックなところですが、仕方ありません。

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「牛人」
2019/10/18(Fri)
 中島敦著 「牛人」 を読みました。
 これも伊藤眞一郎先生が貸してくださった、『中島敦全集第4巻』で、文治堂書店より昭和49年5月第7版刊行で3500円の書に収録されている作品です。

 ≪魯の叔孫豹がまだ若かった頃、亂を避けて一時齋に奔ったことがある。途に魯の北境庚宗の地で一美婦を見た。俄かに懇ろとなり、一夜を共に過ごして、さて翌朝別れて齋に入った。齋に落着き大夫國氏の娘を娶って二兒を舉げるに及んで、會手の路傍一夜の契りなどはすっかり忘れ果てて了った。≫

 数年後、再び魯に政変が起こって、叔孫豹は家族を残して魯に帰ります。魯の大夫となったとき妻子を呼び寄せようとしますが、妻はすでに齋の大夫と通じていたため孟丙・仲壬だけが返ってきます。
 あるとき、魯の北境庚宗の地で一美婦を見た。俄かに懇ろとなり、一夜を共に過ごしたその女が、その時にできた男の子を伴って訪ねてきます。すぐに引き取られ、少年は小姓にしました。
 牛のような顔をしたその少年は小才が利き、長じては賢牛と呼ばれ、叔孫家の家政一切の切り回しをします。叔孫豹の信任は無限にあつかったのですが、その容貌のせいで跡継ぎにしようとは思いませんでした。賢牛もそれは心得ていました。

 後年、叔孫豹が体も弱り足腰が立たなくなって、病中の身の回りの世話から病床よりの命令の伝達に至るまで、一切賢牛に任せられることになりました。
 跡継ぎである長男孟丙の報告や希望を父親に伝えず、父親の叔孫豹の意向や承諾を得ず勝手にやったように見せ、父親の怒りを買って長男孟丙は殺されます。同じように次男の仲壬も父親叔孫豹の弁解を聞き入れられないまま、ひそかに齋に奔ってしまいます。

 叔孫豹の病状はさらに重くなり、跡継ぎのことを考え、仲壬を呼び戻そうと、賢牛に使いを出すように命じますが、賢牛は使いは出さず、非道な父のもとには帰らないとの返事だったと伝えます。
 この頃になってようやく叔孫豹は、賢牛への疑いがわいてきます。
 以後、食も与えられず植えて死にます。

 武田泰淳はこの作品について、
 ≪子が父を憎むこと、父が子を恐れること、はては子がその父を殺すこと、これは暗い、ありうべからざるほど暗い事実だ。人間があれほど大切に守っているもの、その中に身を置いて安心し、そこにとじこもって世間を眺められる堡塁のような倫理道徳を、そのいしがきの一つ一つ、その煉瓦の一片ずつを蝕み、ゆるませ、ホロホロと剥落せしむる事実である。≫
 ≪この懼れは、彼の全作品の底を流れる暗い色調をなすものである。世界のきびしい悪意に対するへりくだった懼れ、それが彼を、これらの古代史実にすい寄せたのであり・・・・・≫と書いています。

 また、≪中島は中国古典に記録されたこれらの事件を、きわめてわずかな修飾を加えただけで、発表している。しかも古代文献の、あの明確痛烈な文体を、よく日本語、ことに中島自身の言葉に改めている。≫との部分では、ハーンの再話との比較を試みる人もあることを思わされます。


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「カメレオン日記」
2019/10/17(Thu)
 中島敦著 「カメレオン日記」 を読みました。
 これも伊藤眞一郎先生が貸してくださった本で角川書店より昭和57年1月初版発行の『鑑賞 日本現代文学第17巻梶井基次郎・中島敦』に収録されています。
 もちろん、これも2度読みました。

 そして、この作品の構成も、
 ≪蟲有蚘者。一身両口、争相齕也。遂相食、因自殺。――韓非子――
  二
 (前略) ≫
 という書き出しで、一はどうなったのかなと思えます。

 ここまで記録して、もしや、とおもって、やはり伊藤眞一郎先生からお借りした『中島敦全集第4巻』を見てみると「カメレオン日記」があり、全文掲載されていることがわかってきました。それで改めて「カメレオン日記」の全文を読むことができました。
 韓非子の一文については、人類が核兵器で世界中の国々があらそう様を連想したのですが、本文を読んでいくうち
 ≪実際、近頃の自分の生き方の、みじめさ、情けなさ。うじうじと、内攻し、くすぶり、我とわが身を噛み、いぢけ果て、それで猶、うすっぺらな犬儒主義だけは残している。≫
 という自分の自己相克の姿をこの一文にて表したのではないかと思えてきました。
 解説では、
 ≪厳格な法治思想が説かれており、・・・・「人臣の事を争いて其の国を亡ぼすの者、皆蚘の類なり」とつづき、結局、臣たる者、互いに争っては国を亡ぼすことになるから仲良くしなさいという教訓になる。・・・・中島は、「蚘」をもって「外に向かって行く対象が無い時には、我とわが身を噛み、さいなむより、仕方がない」と自我内部の相克を指している。≫
と述べられています。

 2度読んだ「カメレオン日記」では、自己相克の部分が多くあり、彼の心の内側を多く語っていて、彼について理解できていくことと、読み手である自分のことも相対化して見つめることができていくような気がしました。ところが、『中島敦全集第4巻』で「カメレオン日記」の全体を読んでいくと、まさに日記として、ある生徒が、中島敦を思わせる、博物学の教師である自分のもとにカメレオンを持ってきたことから始まり、学校で飼育は無理とわかり、自宅で飼育しようと思いますが、これも難しいとわかり、東京から通勤している先生に、東京の博物館で飼育していただくよう頼んでいただくことにします。東京の博物館ではすでに飼育しているカメレオンよりずいぶん大きいと喜ばれ、もし死ぬるようなことがあれば、剥製にしたものを学校に返すと言ってくれるというところで終わります。

 その間に起こる学校の出来事や、自分の病気の症状などによっておこる苦しみなどを中心に自分への問いかけが記されていく作品でした。

 この全集には『ツシタラ 4』というという冊子がそえられていて、その中に「思ひ出――義妹の語る」という一文があります。中島敦が女学校に勤務していたころ、一時期一緒に生活していたという、義妹である毛受貞さんの語りをここであらかじめ読んでいたので、この女学校に勤務していたころを、題材にした作品が大変リアルに感じられました。


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「悟浄歎異」
2019/10/14(Mon)
 中島敦著 「悟浄歎異」 を読みました。
 角川文庫より、昭和43年9月発行、平成30年5月改版76版発行の、『李陵・山月記』弟子・名人伝 のなかに収録されている作品です。
 2度読んだのですが、2度目は伊藤眞一郎先生が貸してくださった角川書店より昭和57年1月初版発行の『鑑賞 日本現代文学第17巻梶井基次郎・中島敦』に収録されているのを読みました。
 この書は、わたしが今迄に出会ったことのない構成になっています。「人と作品」「窓」「研究案内」「参考文献目録」「年譜」それぞれがとても詳しいと思えるところです。それでも、「後記」に、2人集の必然として量的にすべてが二分の一という制約を受けたとあり、当の「悟浄・歎異」も本文の4か所が梗概としてあらすじが記されています。

 驚いたことに、「悟浄歎異」の「本文及び作品鑑賞」での【鑑賞】では、
 ≪「悟浄歎異」は、『西遊記』の四人が揃い、悟浄が他の三人を眺め記録する設定で、内容的には明らかにこちらが後である。≫と述べられた後、しかし、中島の創作は「悟浄歎異」は「悟浄出世」より先に書かれたことが述べられています。

 さらに私には、作品の終わりに「―――「わが西遊記」の中―――」というのはどういう意味なのかという疑問がありましたが、それについては、
 ≪「悟浄出世」の後に「悟浄歎異」が配せられ、ともに末尾に」「―――「わが西遊記」の中―――」との付記がある。中島の企てた「わが西遊記」は、おそらく他に少なからぬ構想があったのであろうが、現在遺されているのはこの二編しかなく「悟浄出世」完成後半年で中島は没した。≫
とあり、それが影響しているということで納得がいきました。

 疑問といえばもうひとつ、「悟浄歎異」の歎異についてでした。ワードに「たんい」と打ち込んでも変換できず、「たんにしょう」と打ち込んで「歎異抄」と変換して「抄」を消していたので、イメージとして「歎異抄」を想像したのが混乱のもとでした。単純に「歎異」と漢和辞典で引くと「素晴らしいと感心すること」とあります。なるほど、悟空と八戒とはただ何となく玄奘法師を敬愛しているだけですが、悟浄の敬愛のありかたはまるで違います。
 ≪三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと貴さをはっきり悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師に在るものは。なるほで、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったん己の位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際、正しく美しい生活を真面目に続けていくことができないに違いない。あの弱い師父の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。≫
 タイトルの意味はこれに尽きるのだと、やっとわかった次第です。


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「悟浄・出世」
2019/10/11(Fri)
 中島敦著 「悟浄・出世」 を読みました。
 角川文庫より、昭和43年9月発行、平成30年5月改版76版発行の、『李陵・山月記』弟子・名人伝 のなかに収録されている作品です。

 悟浄とは、西遊記に出てくる沙悟浄のことです。
 沙悟浄が、唐の太宗皇帝の命を受けて、玄奘法師と悟空猪八戒とともに、天竺国大雷音寺に大乗三蔵の真経をとらんとて赴くのに加わることになるまでのお話です。
 悟浄は流砂河に住む妖怪です。
 悟浄は今までに九人の僧侶を食べた罰で、「自分」に疑いを持つようになり、薬もなければ、医者もない。自分で治すしかない病気に罹ってしまいます。それで、いつも独り言をいっているので、独言悟浄と呼ばれていました。
 妖怪は身体と心がはっきり分かれていないので、このような心の病がただちに激しい身体の痛みとなって現れます。このうえはと考えて、この川の底に住むあらゆる賢人などに次々と会って、自分の納得がいくまで教えを乞うことにしました。
 目ぼしい道人修験者の類はあまさずその門をたたいてみましたが、自分の病に効きそうなものには出会えません。

 5年に近い遍歴の間、おなじ容態に、違った処方をするおおくの医者たちの間を往復するような愚かさを繰り返したのち、悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見出したころ、目指す女偊氏のもとに着きました。女偊氏からも、いろんな教えを聞いていましたが得ることはありません。しかし、彼の気持ちが一つの方向へと追い詰められていき、それが次第にみずから進んで動き出すものに変わろうとしてくるのでした。
 疲れ切って深い眠りの後、いい気持で歩き出し、水底の方からの美しい声を聴きます。起きているでもなく寝ているでもなく聞いた、細々と聞こえてくることばを聞くと、
 ≪・・・・惟うに、爾は観想によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。・・・・さて、今年の秋、この流砂河を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方金蝉長老の転生、玄奘法師と、その二人の弟子どもじゃ。・・・・悟浄よ、爾も玄奘に従うて西方に赴け・・・・≫
 と聞こえます。
 悟浄はひさしぶりに微笑しました。
 その年の秋、悟浄は、大唐の玄奘法師に値遇し奉り、その力で、水から出て人間に代わることができ、新しい遍歴の旅に出ることとなりました。

 「西遊記」についてほとんど知らなかったので、よくわからず、とうとう二度も読み返しました。
 


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第230回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/10/10(Thu)
 10月5日土曜日、第230回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 参加者は14名でした。
 部屋に入ってみると、お茶の準備もしてくださっている机の上に、大きな箱が二つありました。よくみると二つとも『広島ラフカディオ・ハーンの会々誌』のラベルが貼ってありました。
 いよいよ出来上がったのだなーと、一瞬部屋が明るくなったような気がしました。

 しばらくして、寺下さんが来られて、私のこの拙い間違いだらけのブログの中島敦の記事を読まれて、自分も中島敦を気に入っていると話してくださり、感激しました。わたしだけではなかったと天にも昇る気持ちになれました。
 寺下さんは、ハーンと中島敦を比較したものを読んだことがあると教えてくださいました。今、それについてもう少し詳しく聞いておけばよかったと思います。たしかに、ハーンと中島敦、二人の再話を比較してみることには意味があると思えます。角川文庫では、巻末に「李陵」の参考文献として班固の「李陵伝」と司馬遷の「任少卿に報ずる書」、「山月記」の参考文献としてと李景亮の「人虎伝」が載せてあります。これらと読み比べると、中島敦の再話の特徴のある部分が読み取れるとも言えそうです。

 ティータイムに、横山さんも中島敦についての記事を読んでの、横山家の中島敦の話題を話してくださり、うれしく思いました。記事を書くにあたっては、読み捨てにはせず、できるだけ正確を期すために再度内容を読み返したりしながら吟味するのですが、上手に書けないのでそこが少し残念で恥ずかしいところです。でも、同じ作品に思いを巡らしあえるというのはホットな気分です。

  定刻、いよいよ貝嶋先生が来られて会誌の完成について報告してくださいました。3月に、私も「古来稀なり」といわれた古稀を迎え、いちだんと体力・気力の衰えを感じており、この会誌の制作事業に携わってくださった労力のことを考えると、いつも会員の気持ちを気にかけて、忙しい中、お世話をくださる貝嶋先生とそれを助けて下さった伊藤先生や鉄森さんへの感謝の気持ちでいっぱいでした。 貝嶋先生の英語訳は、先月に引き続いて、『小泉八雲東大講義録』第25章の最後の部分でした。当日で、この作品を終わらせるべく集中して翻訳と解説をしてくださいました。
英語はさっぱりの私ですが、この度は、池田雅之氏の『小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』を読んで、これら講義録におおいに感服しておりましたので、より一層理解が増していくような時間を過ごすことができたように思えました。

 家に帰って、浮田さんにお貸しすると約束した本を渡さずに帰ってきてしまったことに気づき、申し訳なく残念に思ったことでした。来月には忘れず渡そうと思っているところです。


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「弟子」
2019/10/03(Thu)
 中島敦著 「弟子」 を読みました。
 角川文庫より、昭和43年9月発行、平成30年5月改版76版発行の、『李陵・山月記』弟子・名人伝 です。価格は476円+税です。

 この作品も短いのと興味を惹かれるのとで、「山月記」の記録をする前、家事に疲れて横になった時に読んでしまいました。この作品を読むことで「山月記」に対する思いもわたしの中では随分深められたように思います。

 魯の卞(べん)の游侠の徒の子路という者が、賢者のうわさの高い学匠の孔子を辱めてやろうと出かけていきました。
 ところが、後世に残された語録の字面などからは到底想像もできない説得力と、自分とはあまりにも懸絶した相手の大きさに圧倒されて、即日子弟の礼をとって孔子の門に入るのでした。
 孔子のすばらしさについて
 ≪もっとも常識的な感性にすぎないのである。知情意のおのおのから肉体の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達したみごとさである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及なく均整のとれた豊かさは、子路にとって正しくはじめて見るところのものであった。≫また、≪子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中にあった。これこれの役に立つから偉いというにすぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するだけで十分なのだ。≫
 と感じます。
 このことは、孔子の側からも、子路に対しても、最後まで孔子の弟子であることで士官の道を求めようとするのでもなく、孔子の傍らにあって自分の才徳を磨こうとすることもなく、極端に求めるものはなく敬愛するばかりで、死に至るまで欣然として従ったものはいないと思わせるのでした。
 そして、子路ほどものの形を軽蔑する男も珍しい。とあるのです。このことを教えることは孔子にとって難事業で、子路が頼るのは孔子という人間の厚みだけであるといいます。

 40年近く教えを受けて子路は亡くなるのですが、この40年間の孔子と子路の師弟関係を読んでいくと、まるで風呂先生とわたしの距離を見ているようで、ときに大笑いをして読んでいる時がありました。


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「山月記」
2019/10/02(Wed)
 中島敦著 「山月記」 を読みました。
 角川文庫より、昭和43年9月発行、平成30年5月改版76版発行の、『李陵・山月記』弟子・名人伝 です。価格は476円+税です。

 この作品も短い作品です。
 隴西の李徴は博学才穎(さいえい)、天宝(742年 唐 玄宗皇帝のころ)末年、若くして官吏登用試験に合格し江南尉に補せられました。しかし、自ら恃むところがすこぶる厚くて、賎吏に甘んずることを潔よしとせず、官を辞します。
 故山に入り人と交わりを断ち、詩家としてその名を死後百年に遺そうと、詩作にふけっていました。
ところが、文名はなかなか揚がらず、生活が貧窮してきます。だんだん痩せて顔つきも険しくなり、登用試験に合格したころの美少年の面影もなくなってきました。妻子を養うために節をまげて、再び一地方官吏の職を奉ずることになりました。それは一方自分の詩業になかば絶望したためであったとも書かれています。こうして、かって歯牙にもかけなかった同僚の下命を拝することになり、強く自尊心が傷つきます。で公用で旅に出て、汝水のほとりに宿ったとき、ついに発狂。ある夜半急に顔色を変えて、寝床から起き上がると何かわけのわからないことを叫びつつそのまま闇の中へ飛び出し二度っと戻ってくることはありませんでした。
 翌年、観察御史で陳軍の袁傪という人が勅命を奉じて商於の地に宿ったとき、人食い虎が出るので、白昼でなければ出発は危ないと注意されます。供の者を多勢伴っているので、それを恃みに早朝出発しました。はたして一匹の猛虎が草むらの中から袁傪に躍りかかろうとしましたが、たちまち翻して草むらに隠れ「あぶないところだった」と繰り返しつぶやきます。袁傪はその声に「我が友 李徴子ではないか!」と言います。それは同年に登用試験に合格したときの、仕官で李徴にとってはたった一人の友人でした。
 袁傪は恐怖も忘れて馬を降り、部下に命じて行列の進行を止め、草むらの見えざる声と話しました。李徴は、悲しみのうちに、自分の話を聞いてくれるよう頼みます。李徴は虎の姿になったことで、死のうと思いましたが、兎が駆け過ぎるのを見た途端、自分の中の人間はたちまち消え、口は兎の血にまみれていたといいます。残虐な行いの後人間の心が返ってくるのですが、そのような時間がだんだん少なくなってくるともいいます。袁傪の一行は息をのんで草原の中の話を聞きます。詩人になり損ねて、虎になった哀れな男の詩をと、即興で詩を作ります。袁傪は部下に云ってこれを書き取らせます。
 最後に、妻子のことを頼み、帰りには自分が酔っている時(虎に還らねばならぬ時)かもしれないので、この道を避けてくれるように頼みます。そして、一行が丘の上に着いたとき、振り返って、二度と遭いたいとは思わぬように自分の姿を見てほしいと頼みます。

 よくあることですが、作品を読んで、2日くらい空いて記録しました。読んでいる時と、しばらく離れて考えていて、これほど読後感の変わる作品も少ない気がします。ある時は、著者の中島敦が死を目前に控えて、鬼気迫る病魔のさなかでの作品ということで、思いを巡らせていました。またある時は、自分の作品についてその評を知ることなく、自分一人で評することの胸の避けるような思い。などなど、いずれにしても私にとっては、獺祭でも飲みながら、ゆっくり思いを巡らすような深淵な味わいのある時間でした。


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