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 『中島敦全集 第三巻』
2019/11/25(Mon)
 文治堂書店 昭和48年7月第6版刊行の、 『中島敦全集 第三巻』を読みました。
 ここでは
 「プールの傍で」、「無題」、「虎狩」、「光と風と夢」
 「南洋譚」 幸福・夫婦・鶏、
 「環礁」 寂しい島・夾竹桃の家の女・ナポレオン・眞晝・マリアン・風物抄、
 「日記(昭和16年9月10日より昭和17年2月21日まで)」、「書簡(Ⅱ)」、「餘禄」
が、収録されています。

 「餘禄」には、生前発表されずにいて、現存する原稿、下書きなどからの作品について、その保存状況などの説明がなされています。

 「光と風と夢」だけは、他の本で読んでいたのでこのたびは読みませんでした。

 最後の「書簡(Ⅱ)」は、昭和8年4月に生まれた、長男の桓に昭和16年にあてた手紙や絵葉書がほとんどで、読みやすかったのは言うまでもありません。また、文字が読めるかどうかの次男にも、かわいそうだからと絵葉書を送っています。文面からは、深い愛情が見て取れます。

 いろいろの作家の、書簡や日記を読む機会はよくありますが、中島敦の短い作品のなかに、日記に、書き留めておいたものの中から、あるいは、日記と並行して書いたのではないかと思えるものが垣間見えて、双方への理解が深まっていきます。また、見聞きしたことを、どのように作品にしていったのかという、その過程にも少しふれられたようにも思えて、興味がそそられていきました。

 ラフカディオハーンが、浦島について書いていますが、中島敦も浦島に触れた部分があり、南洋での見聞や、生活が、まるで、浦島の体験に重なっていると思えるところも感じられました。

 また、いわゆる植民地経営の実態に、仕事がら、生で迫らざるを得ない立場でもあって、その仕事への失望も感じ取れます。
植民地での体験を描いた「虎狩」は、南洋からは離れた、朝鮮半島での子供のころの体験がもとになっている小説と思えます。
タイトルからも大変興味をそそられました。
 父親の転勤とともに内地から転校していった主に日本人が多くいる学校で、最初にできた友達が、朝鮮半島の趙大煥という子供でした。彼は、日本語が大変たくみでしたが、自分が半島人であるということに大変屈折した思いを抱いていました。植民地での日本人学校といえば、内容はすっかり忘れましたが、以前、台湾のキルーンでの日本人学校のことを描いた、女性作家の作品を読んだことを思いださせます。
 その屈折した趙が、父親と行くという虎狩に誘ってくれます。両親に親せきに行くと言って嘘をついて駅で待ち合わせて、彼と父親とその友人と下僕、で出かけ、さらに猟師二人、勢子5,6人とが加わっていよいよ虎狩に出かけます。途中、趙は虎に襲われた人が顔半分を虎にそぎ落とされた話などをしてくれます。怖いながらも、そんなことを目撃することへのドキドキ・ワクワク感も確かに自分にもありました。夜を山の中の松ノ木二本に高さ4メートルのところに渡された即席の桟敷で過ごし、明け方、虎の出現があり、真正面に出くわした勢子が大きな恐怖の声を上げたところで目を覚まします。虎は、他の猟師に撃取られます。その気絶して動かなくなった勢子の身体を、趙がけり返しながら、「チョッ!怪我もしてゐない。」といった言葉に彼は驚きます。
 趙の父親が息子が勢子をなぶるのを止めもしない。
 ≪ふと私は、彼等の中を流れてゐる此の地の豪族の血を見たやうに思った。そして趙大煥が氣絶した男をいまいましそうに見下してゐるその眼と眼の間あたりに漂っている刻薄な表情を眺めながら、私は、いつか講談か何かで讀んだことのある「終わりを全うしない相」とは、かういうふのを指すのではないか、と考へたことだった。≫
と趙のことを語ります。
 この驚く趙大煥の言動に相反する彼の気持ちが主題だと思っていたのですが、
ネットで、木村一信氏の『「虎狩」論(その1)――作品の構造をめぐって――』を読ませてもらい、(その2)が読めないのが残念ですが、もっと屈折した部分をも読み取ることがなかった自分を感じました。
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続 『司馬遷』―史記の世界― 
2019/11/18(Mon)
 武田泰淳著 『司馬遷』―史記の世界―を読みました。
 講談社1965年第1刷1975年第13刷発行のものです。

 作品は、第一篇 司馬遷傳、第二篇は「史記」の世界構想、の二篇で、このたびは第2篇 「史記」の世界構想を読みました。
 司馬遷傳のみでは、歴史家の人物としての司馬遷に肉薄できないために、彼の作品である「史記」を読み取っていく手法をとっています。ページ数で言えば、第一篇 司馬遷傳は、35ページですが、第二篇の 「史記」の世界構想は、142ページですから、直接ではないにしても、作品の解説・評論の方が十分に司馬遷その人をくみ取って伝えていると思えます。
 構成は、歴史を動かす政治的人間が世界の中心となるので、そのために「十二本紀」がつくられたとあります。政治的人間は分裂する集団となるということで、「三十世家」が作られ、政治的人間は独立する個人となるために「七十列傳」がつくられたとあり、司馬遷が歴史を書く基準としたものについて述べます。じっさいに読みすすんでいくと、「三十世家」と「七十列傳」のあいだに「表」があります。この「表」は、私たちの考える歴史年表のようなものとは違います。年代順に事件を書き連ねる形のように一表ではすまないのは、それぞれの問題をとらえての表なので、空間的な表となっているのだと説明されています。10ページを使って説明されていますが、一度読んだだけでは、私にはよくわかりません。武田泰淳に言わせれば、≪時間による変化、栄枯盛衰、生者必滅的な意味を感じ取ることはなく、かえって世界全体という一つの空間を、物理的に眺める感が深い。何よりも世界全体の空間的な構成に心が惹かれて、時間の流れを詠嘆する気は少しも起こらない。≫と言っています。
 「本紀」と「世紀」、「列伝」は当然、絡み合って成り立っています。政権だけではなく、「世家」に」取り上げられたものに、「孔子世家」などもあります。彼は「喪家の狗」を自認する国を持たず天下を周遊する人だといいますが、そういった国亡き人も「世家」につらねました。
 後の、竹内好の解説に、武田泰淳について、≪彼は見かけ以上に、他人に托して自己を語ることにすぐれた才能の持ち主である。そしてこの系列のその頂点に位するのが「司馬遷」である。≫と述べています。この系列というのは、武田泰淳の作品を大きく二つの系列にに分けて、一方を「蝮のすゑ」で、一方を中国の歴史人物を扱ったものとしていることによるものです。
 司馬遷の「史記」にとりあげた司馬遷への思いをくみ取り、それへの思いにいちいち、解説評論をなにげなく加え、そこに武田泰淳その人の基準が、すっと入っているといった作品でした。

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「山月記」僻見
2019/11/17(Sun)
 木村一信著 「山月記」僻見――「欠ける所」をめぐって――は、『鑑賞日本文学17 梶井基次郎 中山敦』に添えられていた「月報14」にあった評論です。

 作品を読み流して終わることがほとんどで、その作品への解釈についてはあまり勉強する機会がありません。この本は伊藤先生にお借りしているので、傷めないようにおさめておいたのを取出して、昨夜これを読んで、記録しておこうと思ったのです。
 この作品は教科書にも載っていると、伊藤先生も言っておられたのですが(私は本は人並みに読んでいるように思うが、学校では国語には熱心でなかったのか全く覚えていない)、先日公民館祭りで出会った方が、中島敦は教科書で出会って好きな作家だと言われ、なるほどと思ったところでした。
 その教科書の、昔通りの設問に対する解答に、疑問を投げかけ、異論を唱えておられるのが、この論評です。
 教科書の設問にあるくらい、問題の部分については、研究の面においても論じられることが多かったにもかかわらず、いまだに十分に説明されていないとの見解です。
  「山月記」は、李徴という、官吏登用試験にも合格したほどの優秀な人が主人公です。彼は、賤吏に甘んずることを潔しとしないで、しばらくして、人と交わることはしない山中で詩作にふけるようになります。数年の後、妻子も養えなくなり、詩作にも自信を無くし、一地方の官吏の職に就き、昔、鈍物と思っていたのに今では出世した同僚のものの下命に拝する身となり。自尊心は傷つき、一年後、公用で出張したとき、汝水のほとりに宿った時とうとう発狂して闇のなかに駆け出しそのまま虎になってしまうという話です。
 その虎が、お供の者を大勢連れて通りかかったかって昔の同僚だったことのある袁傪に、それとは知らずにとびかかり、慌てて闇に戻って「危ないところだった」とつぶやいた声に、袁傪は李徴の声と気づき、会話が始まります。最後に李徴は即興で詩を読み袁傪は下吏に書き取らせます。
 この詩について、李徴の思いが述べられます。
 ≪長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓一、一読して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠ける所があるのではないか、と≫
 
 教科書に出てくる設問とはこの「欠ける所」とは何かということで、「愛の欠如」であると解答されているのだそうです。しかし著者は、説明を十分に述べながら、
 ≪袁傪は李徴の「詩」に対して、公平な認識者としての立場にいるし、李徴は己に失するあまり、自分の「詩」そのものへの相対的な目を持たないところに位置すると言える。≫
 と結論付けています。
 たしかに、その対象となる、三十篇の詩が作品中には書かれていないのですから、漢詩に十分な鑑賞能力のある先生方にしても、それは「答えられない」とするのは当然ともいえますが、ここに、著者中島敦の心情をも考えてこのように判断された事にもうなづける一文でした。

 このブログのように、日記というような自身のメモ的なものではなく、著作によって名を挙げるという目的を持つ詩である以上必要なことなのかもしれません。


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『司馬遷』―史記の世界― 
2019/11/16(Sat)
 武田泰淳著 『司馬遷』―史記の世界―を読みました。
 講談社1965年第1刷1975年第13刷発行のものです。
 この講談社の名著シリーズより以前、昭和17年、23年、27年34年にも他社から出版していて、それぞれのときの序があります。  
 昭和17年は戦時中ですから、時勢の影響を受けた部分もあることを多少考慮に入れる必要もあると思われる解説もあります。

 作品は、第一篇 司馬遷傳、第二篇は「史記」の世界構想、の二篇です。
 第一篇の司馬遷傳は、中島敦を読んでいる間に、参考に何度か読みました。この度新たに読んでみると、改めて、中島敦では中国の古典に出てくる人物たちになりきってに語られているようなのに対して、武田泰淳は、自然と人間とが混然として神話が生まれ始めてくる頃から、人間だけのできごとを歴史に記録することを始めた頃、そこでの記録の主体は何かということから、考えを深め、その実行の困難さに苦悶する司馬談とその子の司馬遷をじっくり見つめながら語っているように思います。

 しばらく、私事を考えました。交通安全協会の二つの支部の事務局を昨年度からやっていて、6月に総会の資料に事業報告も作りました。自分では、前年の記載が端的で、それを踏襲して作成し二人の支部長に見てもらいますと、二人の提案が違いました。そんなことから、何を書くべきで、何は書く必要がないか、考えさせられます。助成金へは会計報告だけの提出のようです。相互が了解していればそれでいいのではと思えるのです。とりあえずいつでも引き継ぎできるための資料作りだけは頑張っています。

 実際にはこのような枝葉末節のことではなくて、先日来の令和天皇の即位式。この日本の国土に生じた風土文化の平安により、天皇を象徴と決めた国体にあって、その天皇が代替わりしたことを報告し、より国土の安寧を祈り、国民の幸福と発展を願われる儀式とも重なります。そのような儀式に近い、漢王朝の「封を建てる」祭事に司馬談は呼んでもらえなかったのです。これを記録することは彼にとって重責と考えている役割だったのにもかかわらずです。 
 このこと自体が、漢王朝の国体の乱れにも通じていることに司馬談はその無念から命を絶つのです。その時の遺言と、李陵への庇いだてからくる刑罰が、その後の司馬遷を生んだことが述べられていきます。


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『志賀直哉集』 ⑵
2019/11/14(Thu)
 日本文学全集 『志賀直哉集』 の 「暗夜行路」を読みました。
 集英社の昭和42年初版、45年12版です。

この「暗夜行路」を読む前に、家の本箱をていねいに探しました。
ありました。緑の旺文社文庫の 『暗夜行路』 です。解説は、高田瑞穂「人と文学」、谷川徹三の「人間弁護の書」、武者小路実篤の「志賀直哉」 です。これらの解説はどれも、目当てとしていた、彼の作品と、小泉八雲の作品との関係を述べられていず、残念でした。

 本文は、読みなれた集英社の日本文学全集 『志賀直哉集』 で読みました。『暗夜行路』の構成については、旺文社文庫の「目次」が参考になりました。

 この『暗夜行路』は、志賀直哉の唯一の長編であり、前後17年の歳月を費やして完成されたというので、書かれた時期が作品に大きく影響を及ぼすのではと思いましたが、読み進んでいくと、一つの作品として、そのあたりのことは感じません。
 ただ、主人公である時任健吉の、体験による心の移り変わりの過程が、これほどリアルに的確に描かれることについては、彼にはこれだけの期間が必要であったのかもしれないと思えます。

 彼が尾道に行く途中、横浜から船に乗って、乗り合わせた西洋人もいて富士山を見る部分の描写がありました。
 ≪夕方の曇った灰色の空に富士山がはっきりと露われていた。それが、海を手前に、伊豆の山々の上に聳え立った具合がいかにも構図的で、北斎のそういう富士を憶ださした。喫煙室では下手なピアノが響いていた。そしてそれが止むと若い外国人がそこから出てきた。その男は「初めて富士山を見た」と満足らしく言った。≫84p

 また、この『暗夜行路』である、計画の長い仕事に取り掛かった時のこととして、
 ≪それで彼は自分の幼時から現在までの自伝的なものを書こうとした。彼は父が海外留学中に生まれた児だった。・・・≫92p
母親が、子育てに不注意だとして、祖父母に育てられた自分の経験を、作中の父親の留守中、母と祖父との不義の子であったという主人公の経験に生かせる設定です。

 尾道にいた時、どうにも情緒不安定になって四国に旅に出ます。とちゅう、象頭山を見て
 ≪彼はそれだけの頭を出して、大地へ埋まっている大きな像が、全身で立ち上がった場合を想定したりした。それから起こる人間の騒ぎ・・・・≫100pは、この小説中。最も面白いところでした。

 初めて小泉八雲が小説中に出てきます。鳥取から、大山に行く途中、景色のよい湖山池を見て、その伝説を思い
≪この辺の伝説をよく書いた小泉八雲の物にこれはないかしら――そう言えばハーンの物を少し持って来ればよかったと彼は思った。≫286pとあり、そして、伊藤先生が、ハーンの「ある保守主義者」の最後の部分の富士山の描写で思い出された、≪・・・謙作はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映していることに気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上がって来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、ちょうど地引網のように手繰られてきた。地を嘗めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを稀有のこととし、それから謙作はある感動を受けた。≫315pとなります。

 286pの赤崎の地名は赤碕の間違いだと気が付きました。和文タイプを仕事としていた時、この赤碕に中国地方建設局から何かの工事が発注され、「碕」という活字がなくて、一本5円の活字を熊平金庫に買いもとめに行ったことを思い出します。志賀直哉は「原文のままで載せてくれない新聞雑誌には書かぬことにする」と言っていたそうなので、志賀直哉の間違いでしょうか。


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『志賀直哉集』 ⑴
2019/11/11(Mon)
 日本文学全集 『志賀直哉集』 を読みました。
 集英社の昭和42年初版、45年12版です。

 「暗夜行路」、「或る朝」、「網走まで」、「剃刀」、「清兵衛と瓢箪」、「范の犯罪」、「城崎にて」、「好人物の夫婦」、「小僧の神様」、「真鶴」、「雪の遠足」、「灰色の月」、「山鳩」、「朝顔」 と、14作品があります。「暗夜行路」だけが長編で、この本のほとんどの部分を占めています。
 その「暗夜行路」は、最後の部分の19章と20章だけを読み、そして、あとの短編すべてと、最後の尾崎一雄の「作家と作品」を読みました。
 ラフカディオハーンの「ある保守主義者」関連の資料として、広島ハーンの会の横山さんの紹介してくださった、郭 南燕著 「志賀直哉におけるハーン文学の受容」への理解に役立てばと、とりあえず、この全集を手にしたのでした。
 伊藤先生の趣旨からいえば本文を読むのがよいとは思ったのですが、てぢかに志賀直哉に触れてみようと長丁場になりそうな『暗夜行路』の本文を割愛したのでした。そのために、いちおう表題を 『志賀直哉集』 ⑴ としておきました。

 短編は、タイトルはどれもよく知っていて、過去に読んでいると思えそうですが、実際読んでみると、初めて読む心持で、読んだことがあったかどうか、実際のことはわかりません。「小僧の神様」が、特に印象深くよかったなと思われました。
尾崎一雄の「作家と作品」は、私には、あまりいい解説には思えませんでした。ただ、最後に、

 ≪この小説には文章がない!と驚いた。作者の言うこと描くことがそのままじかにこっちにくる。間に何もはさまっていない。邪魔ものがないのだ。――文章というものは、完全にその機能を果たした場合、それ自体は姿を消すものだ、というようなことを考えたのはもっとあとになってからだが、とにかく私は驚愕した。≫

 という部分については、そうなのかもしれない。とも思うし、だから、彼の作品から受けた日本人的な、もっといえば、「自らを灯明とせよ」との仏教的な感覚だけが、私の心を充たし、再度読んでも、その文章を読んだことがないと思わせたのかもしれないと思わされました。

 何はともあれ、この解説には、志賀直哉が、小泉八雲に影響を受けたことについては一言も触れられてなかったのが残念でした。


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「文字」
2019/11/07(Thu)
 中島敦著 「文字」 を読みました。
 文治堂書店発行の『中島敦全集第4巻』、のなかの作品です。

 時は、紀元前650年以前で、アッシリアのルイ14世ともいうべきアシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の初夏。場所は、ニネヴェの王立図書館の広間です。
 たまたま落ち合った三人の博士は、ナブ・アヘ・エリバ(大王の師傳の碩学)、ナブ・イクビ(王室天文台長で老人)、イシュディ・ナブ(年下で新進の史官)です。
 ナブ・アヘ・エリバは、粘土板に刻み付けられた書物にむかって、シュメール語とアッカアド語で書かれた祈祷文の比較校訂作業をしています。
 話題は、最近の王様の捕虜に対する酷い刑罰に及びます。そして陥落させたバビロンの市内の酷いようす。さらにバビロン王の最後のようすへと。
 そのうち、イシュディ・ナブ(年下で新進の史官)はこれらのことをどのように書き残すかについて、大王から何か仰せがあったかどうか聞かれます。それについてはまだ何も聞いていないと答えますが、彼の、このところの疑問を尋ねてみます。その疑問とは、真実の歴史と、仰せられた歴史とどちらが正しい歴史なのかわからなくなってくるというものです。
 ≪「・・・歴史って結局、昔在った事柄をいふのでせうか。それとも粘土板の上に誌されたものをいふのでせうか。」「そりゃ、昔あった事柄で且粘土板に誌された事柄を言ふのさ。両方同じことじゃないか君。」と呆れ顔をした天文台長が答へた。「イヤ待て、まて」と年長の賢者が言った。「君の質問の中には何かしら、まちがった所があるようだよ。獅子狩りと獅子狩りの浮彫とをごっちゃにしているやうな所が、どうもハッキリは口でいへぬがね。」それには構はず歴史家は天文学者に聞いた。「でも書洩された事柄は?」「書洩らし? 冗談じゃない。書かれなかったことは、無かったことだよ。」・・・・≫
 結局、文字の守護者ナブウ大神の御威徳について諭されます。ところが、これがナブウ大神の祟りにまで話が進み、その祟りで、文字を多く読むようになって、目に埃がよく入るようになった。蝨が取れなくなった。頭の毛が薄くなった。獅子よりも、それを表す文字の方が先に心に浮かんで、実際の獅子が現れてもそれに応じることができず、食われてしまう。字は知っていてもそのものを知らない。などなどと。
 いろいろ話していると、
≪その時、突然、彼等から少し離れた翼牛(何のことかわからない)の陰から、小さい咳ばらひが聞こえた。三人はハッと顔色を変へた。≫
 ということがあって、ナブ・イクビとイシュディ・ナブは牢獄につながれ、ナブ・アヘ・エリバは老人には骨の折れる遠方への使いに出され、やはり、文字の霊による祟りによって、地震の時、文字を刻んだ粘土板の下敷きになって圧死してしまうという話です。

 『中島敦全集第4巻』には、19の作品が納められています。どの作品も興味深いので、ブログに記録してきました。「文字」は、最後から2番目の作品です。これら最後の4作品は、草稿に分類されています。あとで読むと、これらは、最後の余禄に、≪使用済みの原稿用紙の裏や、女学校での生徒の答案用紙の裏にみとめられているものである。大きな文字で書いてあるので読むのは楽であったが、文章が何処へつながるのか判らない所が2・3あった。≫と書かれています。
 そのせいか、読み始めるとすぐ、これは、「文字禍」の作品を書く前に書いていて、推敲したものが「文字禍」になったのではないかと思いました。
 さて、どちらが優れているかということは、私のようなものには見分けがつきません。
 しかし、「文字禍」は、大変面白く、しかも、私たちが歴史で習ったメソポタミア文化というようなものがどんな文化であったのかというときに、このようであったと思うには適しているように思えます。それにたいして、この「文字」は、読み終わって顔を上げた瞬間、『源氏物語』が本歌取りしたという作品群の一つ、「世の中は 夢のわたりの浮橋か うち渡りつつ物をこそ思へ」という和歌が浮かんでくるような作品です。


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第231回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/11/06(Wed)
 11月2日土曜日、第231回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 参加者は15名でした。うち1名は、広島ハーンの会員には大歓迎の、島根大学ラフカディオ・ハーン研究会事務局長の横山純子氏の参加でした。
 横山純子氏は『島根大学ラフカディオ・ハーン研究会ニューズレター第11号』をみんなに配布してくださいました。アンソニー・ケリィー氏の『ハーンと2019』は読めていませんが、あとは、この記録を書く前に、興味深く読ませていただくことができました。

 開始直前、貝嶋先生が、大学の所用があって30分席を空けられるということで、『広島ラフカディオ・ハーンの会々誌』「ある保守主義者」論考集について、「お互い観想なり意見なりを出し合う時間が持てたら」という意見を尊重し、それを推し進めるという提案をしておいてくださいました。
 私も、このような提案もあった事から、前の晩から一応すべて読み返していたので安心しました。
 早速、伊藤眞一郎先生が司会・上野原さんが書記となって、冊子掲載の順にすることとし、伊藤眞一郎先生の論考から始めて頂きました。
 「はじめは、何について書くべきか、四・五日考えていた。そして、最後の富士山の部分での感じとおなじような作品に思いがいたった。その作品、志賀直哉の『暗夜行路』との比較において、あるいは、自然と向き合った時の日本人について感じたことを書いた。あとで宮沢賢治の、『岩手山』についてもと思ったけれど、紙面がなくて」など話されました。『暗夜行路』を改めて読み返していなかったこと、さらに、『岩手山』については読んだことがなかったことが残念でしたが、皆さんからさまざまな感想が述べられ、大変勉強になりました。
そして、次の浮田さんの論考にも多くの観想が述べられました。特に、ハーンや雨森、そして風呂先生も大切に思われているアイデンテティーについての思いが多く述べられました。
 貝嶋先生が戻ってこられたので、上野原さんが、おられない間の様子をまとめて発表してくださいました。貝嶋先生も最後の富士山への部分について感想を述べてくださいました。
 当日は、私にとっては、三か所出席しなければならないところを、ハーンの会に出席したので、気ぜわしい参加となったのですが、終始、本当に有意義な時間を過ごすことができました。

  ※  帰って三島さんが持ち帰ってくださった『湖都松江』をぱらぱらと見ていたら、、外谷久人という中海漁業協同組合の組合長さんが、「中海産アカガイ復活ものがたり」で、語っておられる記事が目に留まり、驚きました。
 昨年「公民館祭り」で、松江藩が、浜辺に流れ着いた朝鮮の人を長崎に送り届けるために、可部を通った時の接待料理献立のレシピの古文書を展示しました。そのレシピを以前広島文教女子大学の食物栄養科が作った写真も同時に展示しました。ところが、その写真にアカガイがないために、この料理だけは作れなかったとの説明があったのです。
 ご苦労があって一定量の供給ができるまでに育成することができるようになったとのことでした。

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