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『海辺の光景』
2020/01/31(Fri)
 安岡正太郎著 『海辺の光景』 を読みました。
 筑摩書房の 『現代日本文学大系90 島尾敏雄・小島信夫・安岡章太郎・吉行淳之介集』に収録されたものです。やはり伊藤眞一郎先生からお借りしたものです。

  角川書店の 『鑑賞日本現代文学 28 安岡章太郎・吉行淳之介』に収録されていたものについては、作品の半分以上が梗概でしたが、大量の解説でだいたい理解できたどころか、大変勉強になったつもりでいました。
 そうはいってもと、この本で収録されている全文を読んでみると、東京から高知の精神病院まで、母を見取りにいった9日間の世界に入り込むことができ、作品のよしあしに関係なく、全体のことがわかっているだけに部分々でいろいろ考えてしまいました。
 主人公信太朗には、このような病気を発症した親族がいなかっただけに、その原因についても考えます。先生に聞いたりしてみますが、はっきりしたことはわかりません。どのくらいの人がこんなことになるのかを尋ねても、受診をせず、家族が隠して閉じ込めてしまう時代でもあることが分かってきます。
 亡くなるのは昭和32年ですが、私が小学2年生のころです。我が家には年寄りがいなかったので、母がお寺づきあいをしなくてはならず、末っ子の私を連れてよくお説教を聞きにいっていました。お説教は、親の因果が子に報うというような話のときだったと思われますが、気のふれた娘を蔵のようなところに閉じ込めて、その娘が異様な声を上げるので、近所の子どもが石を投げこんだり、蛇を投げ込んだりするという話をされました。帰る道すがら、母にこのことを聞いてみると、母は、そのような人が家族に出たら、家族の人は、世間の人にばかにされないように、一生懸命がんばって働くから、お金持ちになるんよ。といったので、特別大きな家の蔵には意外と気のふれた人がいるかもしれないなどと思った時期があったように思います。
 そうだそのころはきっとそれぞれ各家で対応していたのだが、これを読むと、精神病院に入ってもいい面悪い面平均して、ほとんど変わらなかったのではないかと思われもしました。淡々と描いているように見えますが、実際せつないつらさがあっただろうと思います。しかし、この病院での出来事がこうして書かれていることは、とても大切な記録にも思えます。

 そういえば昨日、我が家に、精神病院に入っておられる方のお姉さんがカステラを持って挨拶に来られたようです。私の家の向かいの家の裏側の家が、空き家になっています。そこに住んでおられた男性が精神病院に入られていて、もう30年近くになりますが、風が強くて雨どいが大きな音を立てるので隣の人が我が家の主人に連絡してくださいと言われ、実家らしき人に連絡しただけなのだそうです。30年間ではじめての接触です。
 それにしても我が家の向かいの家におられた若いご夫婦は子供が生まれて、引っ越していかれました。後年ぐうぜんその奥様に出会って、どうして引っ越されたのですかと聞いてみると、裏の人の異常な声で怖がって子どもが泣くので、引っ越さざるを得なかったそうです。この家も空き家になり、今では物置にしておられ、駐車場は使ってくださってもということで、我が家に来た客人のなかには当たり前のような顔をしてそこに駐車する人もいます。我が家の前の家の持ち主にこのカステラは食べていただいた方がいいのではないかとも思われてきます。

 そんなこと、こんなことを考えていたら、わたしにも小説が書けそうな70年の人生です。
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『私説聊斎志異』
2020/01/30(Thu)
 安岡正太郎著 『私説聊斎志異』を読みました。
 この作品も、伊藤眞一郎にお借りした、角川書店の「鑑賞日本現代文学」28安岡章太郎・吉行淳之介に収録されている5作目のものです。

 この作品は、今までとは違って、蒲松齢著『聊斎志異』から、中国の1600年代のころ書かれた話をもとに、書いたものです。
私は、5作のなかでは特別すばらしいと感嘆しました。

 解説に、太宰治もこの『聊斎志異』をもとに、1941年に『清貧譚』という小説を書いているとありましたので、我が家の筑摩書房の『太宰治全集4』に収録されているその作品を読んでみました。話の筋に惹かれて読みすすみ、それはそれで面白かったのですが、私は安岡章太郎の作品によりつよく惹かれました。
 太宰治の『清貧譚』は、『聊斎志異』という作品のもつ神仙、幽霊、妖狐などにまつわる怪異譚の再生といったものです。貧しいにもかかわらず、菊づくりを楽しむ才之助という主人公のところへ現れてくる三郎とその姉が、才之介の物置小屋に住んで、畑の半分を借りて菊づくりをし、それをお金に換えることを才之助に蔑まれながらも売って大金を稼ぎ、立派な家を建て、才之助に姉を嫁にもらいうけてくれるよう頼み、三人で桜を見にいった席でお酒をたくさん飲んで酔いつぶれ、みるみる三郎のからだが溶けてなくなり、姉はそのままで、おたがい想いあう生活をつづけるという話です。

 安岡章太郎が元にした話は、「李司鑑」という話をもとにしています。
 永年の挙人(科挙の郷試に合格し、進士の試験を受験する資格を得た人)李司鑑は妻を撲殺したために取り調べを受けることになっていました。李司鑑は、それとは知らず城隍廟に駆け込んで、神様に自分の行状をとがめられ、その命に従って、耳と指と陽物(男性の性器)を、肉屋の棚からとってきた包丁でつぎつぎと切り落とし舞台の下に投げて失神して倒れます。
 ≪時の総督朱雲門は、李の殺人をきくと上奏し、弾劾して身分剥奪の上、罪を裁定しようと、聖旨をうけていたが、すでにそのとき司鑑は神罰に伏していた。――以上は官報による。≫
 これらの記事をかいた蒲松齢の心情に思いをいたします。じっさい、中国全土の官僚が李司鑑と同じような神罰を与えられたなら、その耳や手や股間から流れる血で、黄河の水も真っ赤に染まるほどではなかろうか。≪隍廟の舞台の上に血まみれになって倒れている李司鑑のむくろは世間の悪人たちへの見せしめの犠牲にささげられたようなものであろう。いや、犠牲は何も見見せしめのためばかりではなかったかも知れない。血塗られて転がっている体はじつは上司の犠牲になった男が自らを切りさいなんだとも考えられる。
 ここまでいうと、加計友問題や、桜を見る会で自殺した人のことを考えないわけにはいかなくもなる。そして、このことのあった年には、前年科挙制度が変更し、それは1年で元に戻った年でもあり、という説明はこの度の共通テストの事件も思い起こされそうです。
 このように、もとの話は多少妖気を含んでいるとはいえ、1600年代の中国でも、安岡章太郎がこれを書いた昭和50年ころの日本でも、現在でも、そして、彼の若かった戦時でもこの作品を現実のこととして鑑賞させるのでした。

 それ以上に、学生時代、学校を退学すれば、そく徴兵されるとわかっていて退学してしまった小森君、何処か自己処罰の衝動に取りつかれた李司鑑に似たところがあると思っていた小森君への思いにも不思議な魅力に取りつかれます。
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『家族団欒図』
2020/01/29(Wed)
 安岡正太郎著 『家族団欒図』を読みました。
 この作品も、伊藤眞一郎にお借りした、角川書店の「鑑賞日本現代文学」28安岡章太郎・吉行淳之介に収録されている4作目のものです。

 この作品も書き出しは
 ≪年ごとに私は父親に似てくるそうである。母親が生きているころは母親がそういったし、いまでは女房がそう云う。・・・・・≫
 そうして結末は
 ≪「え」といった瞬間、おもわず正面のガラス戸にうつった人の影にギクリとした。親ぢがこちらを向いて立っている。―――そうおもって見たのが私自身の姿だったからである。猪首の肩をまるめた私は暗いガラス戸のなかから、何とも言いようのないほどマゴついた顔つきでジッとこちらを見つめているのである。≫
 実家である高知県にいた父親が、母親が亡くなってその後片付けも終わり、身辺の整理がついたら自分と同居するために上京してきます。
 狭い家でありながら、父親が狭い庭で鶏を飼い始めたりするなかで、書き物ができないために、妻と子と父親を置いて、しばらく外へ泊まりこみで仕事に出かけることにします。
 一と月は無事にすぎたのですが、妻が父親の再婚を勧めた方がよいというようになって、それから一年ぐらいたって目黒の中華料理店で父親の結婚式を迎えます。それを終えて中華料理店の玄関に出てきたところが、ガラス戸にうつった自分に気づく結末となります。
≪私は、まるで里子に出してあった大きな子供を家につれもどして育てているような気持で父親のすることを眺めていたが、いざとなると子供のように簡単には扱えないところもある。・・・・誰が何と言おうと、この家の主権者はオレなんだぞ。≫
そんな戸惑いのなかで、父親への思いがなんとなく冷淡になることへの罪悪感があったりするのですが、自分の心のなかで、これは妻の提案だと、人のせいにする自分にも気づいています。
 この作品は父親について描いた作品です。じっさい、昭和32年に母親が亡くなり、34年に父親は再婚します。それは彼にとってほっとする出来事だったと述べているといいます。

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『海辺の光景』
2020/01/29(Wed)
 安岡正太郎著 『海辺の光景』を読みました。
この作品も、伊藤眞一郎にお借りした、角川書店の「鑑賞日本現代文学」28安岡章太郎・吉行淳之介に収録されているものです。
作品は、前略、中略、で終わっています。よって本文は8ページです。解説その他が12ページです。
 そのことは、いま次の作品『家族団欒図』と、その解説なども読みおえて気が付いたことで、自分では作品全体を読んだような気持ちになれるほどに、その二つの解説で感じています。

 【鑑賞】の冒頭に
 ≪小説は主人公信太朗が父信吉とともに重態の母を見舞いに行くタクシーの中から始まる。片側の窓に、高知湾の海がナマリ色に光っている。という書き出しは、結末の海辺の光景と響き合って、小説の枠を作っている。小説の中で進行する現在は、これから始まって母の死までの九日間である。≫
 と概略の説明があります。書き出しと、結末が響き合って小説の枠を作るという手法は、これまで覗いたわずかの作品ではみなそのようです。

 たまたま去年、浅野家来広400年ということで、それをテーマの絵画展があり、出品した孫が入選したというので、返してもらったのを見ると、お茶を習っている縮景園の丸い窓から見た庭の絵でした。評に構図がおもしろいと書かれてあったのだそうです。絵は上手には見えませんが他にない構図によって入選したようです。

 いえいえ、安岡章太郎の作品がまずいというのではありません。やるせなく心もとない気持ちを描きながら、起承転結、きっちりなっているのが驚きです。新聞などの連載作品のように、どこへ向かって行くのやらではなく、結論へ向けて形になっているところは、同じ短編でも正宗白鳥とはまるで反対のようにも思えます。

 母親は精神病院で亡くなります。
 作品では描かれていませんが、安岡章太郎は軍人の子どもとして生まれます。軍で、人間より馬の方が大事という獣医だったのです。当然母子の関係は強いものになります。昭和19年、24歳の時入営。翌年の春病気のため内地送還になります。そして、さらに正岡子規と同じ脊椎カリエスになります。カリエスの悪化するなか、翌年の昭和21年5月父親が南方から復員してきます。父親の実家である高知で母親が亡くなるのは昭和32年です。作品中、母親は父親が軍の獣医で出征中、理由は述べられていませんが、軍医であることを近隣の人に隠していたといいます。

 母親の心のなかの病気については、これこそ「悪い時代」ということを考えさせられます。
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『悪い仲間』
2020/01/28(Tue)
 安岡正太郎著 『悪い仲間』を読みました。
この作品も、伊藤眞一郎にお借りした、角川書店の「鑑賞日本現代文学」28安岡章太郎・吉行淳之介に収録されているものです。この本では、この小説の後半三分の二ほどが掲載されているのだそうで、実際には三分の二ほど読みましたと言うべきでしょう。

 読み終わって、最近社会問題になっている、学校・職場などでの「いじめ」の現象のその中にある心理についても理解が深まっていく作品のように思えました。

 しかし、解説では、佐古純一郎という人が、「『悪い仲間』という小説の題を、『悪い時代』と書き換えてもよいような」といっていて、それに同調しています。この作品の背景になっている時代は、小説の書き出しで、
 ≪シナ大陸での事変が日常生活の退屈な一と齣(コマ)になろうとしてゐるころ≫
 となっており、さいごが、
 ≪・・・・そのとしの冬から、また新しい国々との戦争が始まった。≫
 とあり、昭和16年の夏から冬という時代を背景に進んでいるのだと述べてあります。
そういえば、
 ≪世の中も僕らに劣らず奇妙に気分的な動き方をしていた。国民全体が「新しい」時代のモデルにもとづく様々の架空な行事で 悩まされていた。・・・・学校はどこからかなにかの支持をうけるらしく、そのたびに生徒はあわただしく運動場にあつめられて、学園長から訓示された。・・・・≫
 訓示の内容など、子どもたちには意味不明で、滑稽に受け止めていたが・・・などの描写のことであったことに気づかされます。

 いまの時代はどうなのでしょうか?テレビのニュースなどを見ながら考えます。
 この作品をよむまえ、安岡章太郎や、それら作家社会の傾向などの解説のなかで、「ビーダーマイヤー的様式の優勢」とか、「ストイシズム」という言葉が出てきます。この言葉の意味は、誠実であるが事なかれ主義で俗物的な小市民。克己、禁欲、義務を重んじ、感情にとらわれず毅然として運命を感受する。と広辞苑にあります。まさしく私たちの成長期に、主流であった作家たちから私たちが受けた環境だったとつくづく思いました。
 しかし、昨今の大規模災害、伝染病。インフラのなかでのみ生きて、清潔をモットーに抵抗力を弱体化させ、抗生物質で抵抗力を失った身体、何が起こるかわからないという思いで、保険だけがなんとなく頼りの・・・・の気分です。

 しかし、いまでいう登校拒否をしていた安岡章太郎と、どんなにつらくても学校へ行かないという選択をしたことのなかったという正宗白鳥。いま双方の作品について考えさせられています。
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『遁走』
2020/01/27(Mon)
 安岡正太郎著 『遁走』を読みました。
 角川書店の「鑑賞日本現代文学」28安岡章太郎・吉行淳之介に収録されている作品です。この本も伊藤眞一郎にお借りした本です。正月明けて学校が始まったのに学校に行かないという子どもの話をきいて、不登校で作家になっている安岡章太郎を読んでみたいと思ったのでした。

 読もうとした目的はどこへやら、本にはさんであった月報の、橋本迪夫著「安岡章太郎氏の思いで」のなかに「首切り話」・「流離譚」に土佐藩の参政吉田東洋の暗殺事件のことが書かれてあるところを読んで、このような話に触れられるとは・・・との思いでさっそく開いてみますと、鳥居邦朗の手になる安岡章太郎の生い立ちのなかで、安岡章太郎の三代前、安岡嘉助は、藩の重鎮吉田東洋を斬って脱藩し、のちに天誅組に加わって捉えられて処刑されていることや、「流離譚」の初版の付録「安岡家系譜」には、寺田虎彦の名前も出てくることなどが書かれてありました。

 「首切り話」も「流離譚」もこの本には収録されていないのですが、
 ≪軍隊時代のことを書いた小説「遁走」(昭31)の主人公を安木加介と名づけたときにも、安岡家の有名な先祖嘉助のことが念頭にあったようである。≫
 ということで、先ずはこの『遁走』から読み始めました。

 この作品は、彼が昭和19年に東京入隊したときの経験をもとに、,第6部隊に入営、満州第981部隊要員として北満孫呉へ連れていかれ、胸部疾患で入院する羽目になるのですが、翌日、部隊はフィリピンへ移動。レイテ島で全滅。翌年3月に内地送還されたときのことをもとに書かれた作品でした。
 考えることをさせないために、とにかく殴るという軍隊生活のなかで、自分の体内にある血管や腸などの内臓だけが自分の体のなかで、上官の思惑とは関係なしにそれぞれの意思で動いていることに執着する様子は、軍隊の異常さを表現して余りあるものがあります。と同時に、タイトルを「遁走」とした、このフィクションがすごいと思わされます。そう感じさせてくれるのは、月報の橋本迪夫著「安岡章太郎氏の思いで」の最後のところで、書かれている、「首切り話」と「遁走」についての考察です。この読みには深い感銘を覚えました。

 この角川書店の「鑑賞日本現代文学」は、文学研究書で、収録されている作品は、ときどき本文を省略して、梗概を載せています。 『遁走』も、【中略部分梗概】・【後略部分梗概】となっています。

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 『正宗白鳥』
2020/01/27(Mon)
  正宗白鳥著 文芸春秋発行の現代日本文学館12『正宗白鳥』を読みました。
 伊藤眞一郎先生にお借りした本です。
  目次
  正宗白鳥伝 伊藤整/塵埃/何処へ/微光/入江のほとり/根無し草/近松秋江/人生恐怖図/人生の幸福/ダンテについて/内村鑑三/注解/解説/年譜
となっています。
 1月のハーンの会で、正宗白鳥による小泉八雲についての資料を読んで、こんな身も蓋もない文章を書く人がいるのかとちょっとあきれました。正宗白鳥は評論家だと思っていましたが、文学作品があるとすれば、どのようなものであろうかとそのような興味がわいてきました。
長い時間かかって読み終わり、くり返して読んでもいた最初の方の作品の内容なども思い出せません。改めて最初の伊藤正の「正宗白鳥伝」での
≪小説らしい形をととのえることを狙わず、自分の感想と思い出とをないまぜにして、感想風な気軽な文章を書いて、作品とする方法であった。これが後に白鳥的な作品と言われるものの原型である。つまり努力をせず、自分の気持ちのおもむくままに、成心を持たずに書く方法である。しかし一面ではそれはあいまいな叙述、くり返しの現れることが多かったので、白鳥の書くものが一般読者の目に魅力のないものに見える原因になった。しかし白鳥を愛好する人にとっては、いつも白鳥その人に接するような流露感の強いものに思われ、白鳥の立場を狭くはあるが不動のものたらしめた。≫
と述べている部分を読むと、まったくさもありなんと思わされるのでした。
小泉八雲の『ある保守主義者』で述べられている、雨森信成とおなじ横浜バンドの植村正久によって1897年18歳の時、受洗してキリスト教に入信し、22歳で棄教したという経歴にも興味があります。これらのいきさつへの心境についてはいろんな作品で多く語られていました。(ついでに、雨森から20年あとの文学者などの入信者の事例も多く語られています。)それから考えると、彼の葬儀が植村正久の娘の植村環によって執り行われたことは異様に感じられるところです。
 最初は読むのに時間がかかりましたが、読み進むにつれてだんだん身内と話しているような気持になってきます。彼が生育歴のなかで感じたり思ったりしたことを述べている部分では、自分もそういう風に思っていたとおもうことがいくつかあり、なんだか私自身が随分時代遅れの人間なのではないかと思えてくる作品でした。
また、『根無し草』のなかで、聖書のめくら読みという言葉が出てきますが、私も全くそうだろうと思いながらも、『ダンテについて』は真剣に読んでしまいました。中山昌樹氏が日本のダンテ学者随一と述べています。

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『ブエノスアイレス午前零時』
2020/01/18(Sat)

 藤沢周著 『ブエノスアイレス午前零時』 を読みました。
 この前11日にハーンの会に行ったときに頂いて帰った本です。
 パット見て、藤沢周平の作品で、最後の「平」が帯に隠れているのだと思い楽しみにして帰りました。

 家にかえって、落ち着いてよくみると、藤沢周だとわかり、「ふじさわあまね」という人の本だと思って読みました。『ブエノスアイレス午前零時』と、『屋上』という二つの作品が収録されています。二作とも読みにくい本でした。正直、こんな本を読む人がいるのだろうかと思わされました。
 読み終わって、著者の名前が「周(しゅう)」としって驚いたのと、この作品が芥川賞作品だということでさらに驚きました。
 このところ、向田邦子の短編への直木賞で驚き、清水幾太郎のベストセラーで驚き、本と仲良くさせてもらっていると思っていましたが、なんとなく疎外感を感じていたところでした。

 表題作『ブエノスアイレス午前零時』は、雪深い田舎の温泉宿で働く男性が主人公です。温泉宿はダンスのできるコンベンションホールがあるというので常連のダンスのグループが雪深いなかをやってきます。なかに、ダンス会員のひとりが盲目で耄碌した姉を連れてきます。その耄碌もあり、糖尿によって後天的に盲目でもありという、自分の立ち位置もさだかでない状況についての描写が作品全体の空気を作っていることに気づかされます。

 その状況と、この本を勘違いして入手し、名前の読みかたもかってに想像して、内容もよくわからないまま読み終え、それがなんと芥川賞作品??という、読者である私の状況とも似ているともおもえ、そういった視点での自分の職業や、生活を見ていくと誰しもそうなのではないかなどとも思えてくる作品です。

 二作目の『屋上』も、やはり一時代よくあったデパートなどの屋上で子供向けの遊園地で働く若い男性が主人公ですが、かぎられた屋上での毎日の生活への思いへの視点に似たようなものを感じる作品でした。
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第233回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2020/01/16(Thu)
 1月11日土曜日、第233回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
参加者は14名でした。
 わたしは10月のころからか、今まで読みなれていないジャンルの本をたてつづきに読んだためか、ハーンのことはつねに念頭にはおいているものの、ハーンの会のことについては考えられないようなおぼつかない日々を送っていました。そのせいか、心の準備もできないままで出席してしまいました。

 「Believe Me」をうたって始まりました。
 次に資料提供者からの報告をうけます。
 貝嶋先生は、みんなから要望のあった風呂先生の大学院での論文についてと、前回予告してくださっていた怪談の翻訳についての講演の話をしてくださいました。
 三島さんは、「失明しかけた右目かいふくの小泉八雲 診察した医師を神戸の郷土史家が特定」にかかわる情報が、先ずは松江に届いたことについて報告してくださいました。
 伊藤真一郎先生と寺下さんからは、正宗白鳥について資料の提供がありました。
 伊藤英輔さんは、浮田さんに質問され、前回ハーンの会を欠席していかれた鎌倉の修善寺への旅行について話してくださいました。
 夫は前回貝嶋先生の言われた、三滝寺の多宝塔について説明しました。暮れに二人で三滝寺にいったとき、私が古文書の指導を受けていた加川さんの短歌の碑もあって写真撮影したのもつけてほしかったです。

 お茶の後、会誌「ある守主義者」論考集について、末国さんの発表がありました。
 末国さんは、耳の聞こえないわたくしのために前に出て発表してくださいました。この心遣いには涙が出そうなほどうれしく思いました。
 末国さんは、冒頭の、≪非常に重い宿題であった。≫について、これは恨み節でした。と言われたのに考えさせられました。同じような意味のことを、このまえ横山さんからも聞いたような気がします。このまじめさに頭が下がります。わたしは、風呂先生が亡くなったことへのショックも大きいとはいえ、どうせわたくしごときは人の持ってないような参考文献もないし、まともなものは書けないのでと、努力をしません。感想文といったところで終わってしまいます。
 つぎに、末国さんも同じクリスチャンであるということについては、昨年会誌を読んで、末国さんとこのことについて話したあとすぐに、遠藤周作の作品をかなりたくさん読み返しました。そのことは話を伺うのにはたいへん役に立ちました。
 末国さんは、アイルランドにも留学生としていかれていたこともあり、宗教の伝え方、伝わり方ということについて感想を述べられました。
 非常に落ち着いたなかでの自然な改宗経験のようにも思われて、皆さんも質問できやすかったのか、いろいろ質問もあり、本当に有意義な時間を過ごすことができました。
 帰りに夫と、今日ほど有意義にみんなで話し合われたことは今までなかったね。
 とてもいい会だったねと感想を言い合うことができました。


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『思いでトランプ』
2020/01/15(Wed)
 向田邦子著 『思いでトランプ』を読みました。
 かわうそ/だらだら坂/はめ殺し窓/三枚肉/マンハッタン/犬小屋/男眉/大根の月/りんごの皮/酸っぱい家族/耳/花の名前/ダウトという20枚前後の13の短編小説が掲載されています。

 この作品で、向田邦子が直木賞をいただいたということでやはり読んでみました。
選考委員であった水上勉が解説で述べています。連作短編でそのとき3、4作品でたときでしたので、完結を見てからという委員もあったが、山口瞳、阿川弘之両氏と自分が強力にねばったと述べています。その作品のどれをとってもすきまのない仕上がりぶりで光っていたといいます。
 最後に
 ≪若い読者で、短編を勉強したい方があるなら、この『思いでトランプ』の一、二編を写してみられるといい。手頃の枚数だ。私のいっていることがよく理解されるずだ。向田さんはつまり、そういう作品をのこして亡くなった。≫
 というほどの、丁寧な解説がなされています。

 日常の些細ほどこの作者にとって興味のふかまるものはなく、誰もが目にする鍋やヤカンや湯飲みなどをときどきの気持ちを塗りこめながらみごとな人生画帖となっているともいいます。
 この本を読んでいる途中で、誘ってくれた友達と散歩しました。
 なんだかその友達と話している会話のような作品でした。



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『あ・うん』
2020/01/13(Mon)
 向田邦子著 『あ・うん』を読みました。
 これは、最後の山口瞳の「解説」をちょっと覗いて、引き込まれ、読んでみる気になりました。山口瞳は、『あ・うん』は昭和の反戦文学の傑作だと書いたことがある。また、≪自分の愛する人たちが東京へやってくる。その人たちのために、ありとあらゆる心配りをする。この世に生きる人間にとって、こんなによろこばしく、こころよいことが他にあろうか。向田邦子の筆も弾んでくる。≫という、心配りへの賛辞があります。
 そして、
 ≪水田の父の初太郎は、山師であって、私の父によく似ている。水田と初五郎との関係は、私と私の父との関係によく似ている。私は、最初に『あ・うん』を読んだとき、向田邦子は、私のこと、私の家のこと、私と梶山のことを、どうしてこんなによく知っているのだろうかという錯覚に把えられた。おそらく、読者は、この作品を読むときに、私と酷似した感想を抱くのではないだろうか。≫
まったくそんな感想がぴったりです。
 そして、私が読んでいるのは文庫本ですが、この本の表紙の文字は中川一政の書によると書かれています。「僧敲月下」という彼の書が向田邦子宅の玄関にかけられてあったといいます。これは、詩や文章の字句を何度も練りなす意味だと『向田邦子の恋文』にかかれてありました。

 ≪『あ・うん』という小説を一言で約めて言うならば、門倉修造と水田仙吉の奇妙な友情物語である。これに少しつけ加えるとするならば、門倉と水田の妻のたみとのプラトニック・ラブということがある。・・・・≫
 と山口瞳が適切な説明をしています。水田仙吉一家が東京に転勤になって帰って来るのを門倉が貸家を探してすべて準備して待っていてくれるところから始まるのですが、そのとき水田夫婦の娘のさと子は18歳ですが、彼女が19歳になって恋人が召集令状が来たことのあいさつに来たところぐらいで終わります。
 直前読んだ『父の詫び状』に、澤地久恵とペルーで正月を迎える話があり、第二次世界大戦への思いについてどのように描いていたのだろうかと思っていましたが、たしかに昭和50年ころの茶の間のドラマはこのような反戦文学的スタンスでの表現が一般的だったことを思い出します。さと子が最初恋愛関係になる東大生の辻村は厨川白村や美濃部達吉の話題が多かったといいますが、現在の恋愛観が根付いていく頃だったようにも思えます。また、門倉の友人の妻への想いにつながるプラトニックラブというありようについても思い出します。やはり辻村がさと子に、「北村透北が言い出したことばです。肉欲を排した精神的恋愛という意味です。」などと云って聞かせます。
 当時のドラマの感覚をなつかしく思い出しました。
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『父の詫び状』
2020/01/12(Sun)
 向田邦子著 『父の詫び状』を読みました。
 「銀座百点」に昭和51年2月号より総和53年16月号まで連載されたものが、53年11月に文庫本として出版され、さらに1981年12月2日に文庫本として出版されたものです。
 向田邦子は航空機事故で1981年に亡くなります。それは、沢木耕太郎が、この文庫本の解説を頼まれて書いている途中のことだったのだそうです。

 直前に読んだ『向田邦子の恋文』は、8歳下の妹向田和子さんが姉の邦子さんについて書かれているものでした。末っ子から見た長女の頼りがいのある姿が描かれており、それに感動して、もう一冊と思いこの本を読みました。
 じつは私も末っ子で、40歳で亡くなった姉の年に達してから、姉の親を思っての心遣いや、あの働きぶりは年齢ではなく、小さい時から、親を助け、下の兄弟の機嫌を取りしての苦労の賜物とわかるようになってきました。そして姉と同じ18年生まれだという長女の石田さんや、私より2歳年下で、夫の弟の連れ合いのやはり長女の和子さん、二人とも今では未亡人ですが、一緒に作業をしているとその手際の良さにいつも感動させられ、自分の無能力さにいつもがっかりしています。おなじように計り知れない能力の持ち主である彼女が、戦時中や戦後をどのように過ごしてきたのかを知る手掛かりになればと、ひきつづきこの本を読んだのでした。

 子供のころ、よく昔は10銭だったなどと聞き、戦後お金の価値が変わった時のことを何というのかと思っていたころがありましたが、それを「新円切り替え」ということが分かりました。

 彼女は父親の転勤のたびごとに転校して、小学校だけでも宇都宮、東京、鹿児島、四国の高松と4回転向したといいます。小学校の4年生頃から、夏目漱石全集、明治大正文学全集、世界文学全集を読んだといいます。これにはいささかびっくりしました。漱石では「倫敦塔」を繰り返し読んだといいます。私もよく読む方でしたが、おそらく少年少女向けの文学全集が関の山だったのではないかと思います。ただ、戦国武将の作品は多く読んでいたように思います。
 
 
また、最初に覚えた三十一文字では、親鸞聖人の
 明日ありと思う心のあだ桜
  夜半二に嵐の吹かぬものかは
という部分では、わたしもこれは小学生のころから知っていたと思ったことでした。それにしても、子供のころからよく家事のお手伝いをしていたのには感心させられました。

 また、一回だけ国外で正月を迎えた話では、澤地久恵と南米のペルーでのことが書かれていて、澤地久恵については内容は覚えていませんが、『自決 心の法廷』という本を読んだ記憶があり、けっこう左寄りの人とも交流されていたということが意外でした。

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『向田邦子の恋文』
2020/01/10(Fri)


 向田和子著 『向田邦子の恋文』 を読みました。
 平成14年に新潮社より刊行、平成17年に文庫で新たに刊行されたものです。
 174ページのうすい文庫本です。
 
 どうしたことか、正月から本が読めなくなっていました。
 読みかけて、途中でやめたのは、清水幾太郎の『社会的人間論』と、三渡幸雄編著『哲学入門』です。
 本箱の整理というか掃除をしていて、気分直しに、うすそうな文庫本を手にして読みました。
 それがこの『向田邦子の恋文』 です。すいので幸いすぐに読めました。
 向田邦子の生前、恋人との間でやり取りされた手紙などの記録でした。向田邦子が亡くなって20年くらいたって妹さんの和子さんが出版社にすすめられてできた作品でした。
 読みながら、向田邦子とその恋人との経歴になりそうなところをメモしておきました。
 いま、ウキペディアで引いてみると、向田邦子のそれは丁寧に整理して公開されています。
1929年(昭和4年)から、1981年(昭和56年)8月22日、亡くなるまでの向田邦子の経歴はそのまま昭和時代まっただなかです。
 時代設定ができないと、内容が頭に入ってきません。
 タイトルにある『向田邦子の恋文』は、昭和38年11月27日の恋人N氏への手紙からはじまります。そして、日を追って、そのN氏の日記、N氏への電報、N氏からの手紙がつづきます。
 そして39年2月19日、N氏が自死する前日、39年2月18日のN氏の日記で「第一部」が終わります。
 N氏はカメラマンでした。病気で働けなくなり、自分の母親の家のはなれに暮らしていましたが、日記には必ずその日の買い物の値段と食したものがすべて丁寧に記録されています。
 亡くなる2日前に、《邦子より¥10000円》と記入されています。
 昭和39年といえばオリンピックの年です。このころ、私の郷里では、農協に長年勤めて、村人に親しまれておられた働き盛りの女性の方の給料が5000円だったというのが、唯一いまわたしの掌握できる当時の金銭感覚です。
 1981年(昭和56年)8月22日航空機事故で突然無くなった向田邦子の遺族、主に妹で著者の和子と母親とで邦子の遺品の整理をします。その中に、「第一部」の資料となる“姉の秘めごと”というべきものの入った茶封筒があったのですが、誰もそれに長年手を触れないでいました。それを20年たってやっと開けたのでした。
 父親が亡くなった時の姉邦子のようすから、同じように悲壮な様子をしていた時の姉のようすを思い浮かべ、それが20年たってこの茶封筒を見て、N氏が亡くなった時だったのだと気づきます。向田邦子は、N氏とのことについて、一切誰にもしゃべったことがなかったのだそうです。ですから、この茶封筒によってはじめて彼女の30歳前後の妻のある恋人とのことがわかったというのです。
 著者の和子は、姉邦子はこのN氏によって業界の人間として育てられたのだとの思いで、N氏のことをとらえています。
 N氏のような、報道関係者などのカメラマンということでは、私がこの可部に暮らすようになって、お互い子育てをしながら、秘めごとを打ち明けあい親しくしていた津野さんのご主人が広島テレビのカメラマンでした。津野さんの奥さんとはお互い独身の頃、料理教室で一緒に役員をさせられてからの知り合いでした。私が短大に行く決心をしたことをこっそり話したとき、彼女のご主人も彼女に行くように勧め、一緒に受験勉強をしました。彼女の斜め前に修道の国語の木元先生のお宅があり、その奥様とも親交があり、彼女から受験の参考書を借り受けたこともありました。その後何年かして、津野さんのご主人は、若くして亡くなりました。彼の過労死認定を要求して、同じ共産党系の労働組合広島市職労の労働組合員として、そのデモに駆り出されたことも思い出しました。


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『プラトンのアトランティヌス』
2020/01/01(Wed)
 ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ著 小泉源太郎訳 出口治明著 『プラトンのアトランティヌス』を読みました。
 この作品は、プラトンが考えて書きかけたアトランティヌスがどのようなものであったのか、そして、この作品について、後世の人たちがそのことをどのように考えて今に至っているのかということについて書かれてあります。
 プラトンといえば『国家』という作品を書いた、ということは知っていましたが、このアトランティヌスということをどのように考えたらいいのか見当もたちません。本箱を整理していて見つけた文庫本ですが、夫が何処かで見つけて買ったのでしょう。読んでみました。
 この作品には、ボーダーランド・ファイルと称して関連の写真が13枚あり、そのあと、目次が4ページ、第九章まであり、それぞれの中に小見出しが6つくらいずつで、最後に南山宏という人の解説があります。
 その解説では、著者のライアン・スプレイグ・ディ・キャンプという人について、彼は、アメリカSF界では非常に著名なSF・ファンタジー作家兼アンソロジストで、長編だけでも40本近く書いているのだといいます。この原書では、参考文献が330点も挙げられていると述べます。
 そして、著者のライアン・スプレイグ・ディ・キャンプは、このアトランティヌスという超古代文明大陸はユートピアに憧れる人類の幻想の中だけの存在だった、という結論に落ち着く否定論陣営側の代表的文献だったということで、やはりおなじ否定者として共感したといいます。
 そして訳者の小泉源太郎はこの作品を、3分の2くらいにまとめたといいます。プラトンの時代、時は紀元前421年ころ、ソクラテスは50歳前で、プラトンは小さな子供だったころに、ソクラテス、クリティアス・ティマイオスといった顔ぶれの者が集まって理想国家とはどういうものかについて語り合うことで、その対話篇という感じが、のちにプラトンの『共和国』、『クリティアス』・『ティマイオス』という作品になっていったようです。しかし、この『アトランティヌス』は最後まで書けていないということでした。
問題の『アトランティヌス』は、対話篇だとありますが、なんとこれについては323ぺーじ中、23ページの「ポセイドンの帝国」で、約6ページで説明されているだけです。しかも、ジブラルタル海峡の近くにあったということで、そのおおよその地図と、アトランティスの首都の略図があってその説明もあります。核心は、
 ≪同盟を結ぶ各王たちは、5年と6年の交互の間隔を、国事について会議するために集まった。彼らはポセイドンの聖域に集合し、輪縄でとらえた牡牛をいけにえに捧げさまざまな祭魏をとりおこなったのち、饗宴もよおした。そのあと、王たちは紺青の長衣を身にまとい、いけにえの火を消し、円座を組んで、その夜一晩中、裁判をする。翌朝、この裁判で決定した判決は、後世の者の役にたてるため、黄金の碑文板に記録された。
 長い時代の間、アトランティス人は、アテネ人のごとく、徳高く暮らしていた。しかし、ポセイドンから受け継いだその血脈が次第に薄くなってゆくにつれ、だんだん堕落していった。神々の王たるゼウスは、彼等のよこしまな野望や貪欲ぶりを目にして、将来のためにこらしめておこうと考えた(しかし、矯正するために水没させるとは奇妙な方法をとったものだ)。ゼウスは宇宙の中心にある自分の宮殿に神々を招集して、このことについて会議することにした。「……かくしてゼウスは神々をば集め、かく語れり……」ここで対話円尾文章は途切れてしまっている。≫
 そして、そのあとには、世界中で海底に沈んだ島らしきものが発見されるごと、マヤ文明のようなものが発見されるたび、このプラトンの『アトランティス』についてのことが人類の脳裏に思い上がって、なにしろ参考資料文献だけでも、330人の人たちが、いろんな『アトランティス』構想について二千年以上にわたって考えたわけですから、そのなかから主だったものが次々語られていくだけでも大変なものです。
 意外と、コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)、マゼランの世界周航の達成(1522年)、以降の『アトランティス』をそれにあてはめたおおくの説の作品が生まれたといいます。

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