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『道草』 (2)
2020/02/27(Thu)
  夏目漱石著 『道草』 を読みました。
  大正四年六月三日から九月十四日まで百二回にわたって朝日新聞に連載されたものです。
 漱石は子供のころから漢学が好きでしたから、漢字の使い方が気になります。気が付いただけでも三和土(たたき)や、例え(たとえ)の文字も3通りくらい使っています。また、もちろん旧字体で単簡とあるのは、簡単のことで、明治にはそういったと広辞苑にありました。最近、古文書では幕末のものが多いせいで、こんなこともすこし気にしながら読みました。
 これは漱石の自叙伝ともいえる作品ですのでまた違った興味でも読み進みます。
 読むまえの私のこだわりはそんなところでした。のんびり読んでいる途中で、しっかり傍線が引いてあるページに出会いました。
≪「己が悪いのぢゃない。己の悪くない事は、假令(たとひ)彼の男に解ってゐなくっても、己には能く解ってゐる。無信心な彼は何うしても、「神には能く解ってゐる」と云う事が出来なかった。もし左右いひ得たならばどんなに仕合せだらうといふ気さえ起らなかった。彼の道徳は何時でも自己に始まった。さうして自己に終わるぎりであった。
 読んだのはおそらく30歳過ぎだとおもえます。そのころ何を考えて読んでいたのかと思いますが、何も思い当たりません。
 この度、印象的だったのは
 ≪四五日前少し強い地震のあった時、臆病な彼はすぐ縁側から庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へ上ってが来た時、細君は思ひも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。「貴方は不人情ね。自分一人が好ければ構はない気なんだから」≫
 という部分が象徴するように、生まれて間もない幼児をはじめ3人の子供を抱えながら、自分のことしか考えない漱石が描かれていることでした。
 このことは近年出版された漱石が岡山を訪ねた時の単行本に、水害が起こって、とっさに自分の荷物だけを抱えて逃げて、岡山での関係者を心配させたエピソードを読んでいたので理解できます。

 それにしても、里子に出された漱石が味わった苦労は一生を通じて並大抵ではなかったと改めて思いました。

 私の母も養女でした。母の実家も裕福ではなかったようで、生まれた時から養女になることが決まっていて、名前は養父母が長生きするようにと「意貴子」と名づけ、年老いていて育てられないので実家に預け、4年生のころ150メートルくらい先のお店をやっている養父母のもとに来たと言っていました。   私が夜遅くまで本を読んでいた時、母は羨ましそうに、自分はこの家に貰われてからは、ページを開く音で年寄りから、体を悪くするから寝るように言われていたといったことを思い出します。

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『道草』
2020/02/26(Wed)
 夏目漱石著 『道草』 を読んでいます。

 ≪娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙しがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断ったが、彼は心のうちで、人には何うしてそんな暇があるのだろうと驚いた。さうして自分の時間に対する態度が、恰も守銭奴のそれに似通っている事には丸で気がつかなかった。≫

 ここまで読んで、実際私にもそんなところがあると思いあたって、「火曜日10時からやっているから時間が取れたら来てちょうだいね。」といわれていた児童館へ行ってきました。
 児童館では、母親クラブが地域の幼児を育てている方たちへのボランティアで、保健婦さんなどの講師を招いたり、子育てでいらいらすることの多いいお母さんたちの話し相手となれればの活動をされています。
 これは指導なので広島市のポイント事業では4点なのだそうです。4点分活動します。ゆづちゃんという子と遊びました。ゆずちゃんは、まだしゃべれませんが大人の言うことは理解するようです。でも長い間小さな子と遊んでいなかったのでじっと観察していただけでした。別れる時、ゆずちゃんさよならといったときはすこし淋しそうな顔をしていました。
 活動する人が少なくなる一方ですが、86歳になる後藤先生が折り紙を教えられていました。「石ノ森章太郎の日本の歴史すごいですね」というと、「水野先生が寄贈されたのよ。ここの漫画も全部。」と指示された広い本棚に、全く傷んでいないきれいな漫画がずらーと三段並んでいました。
最近この石ノ森章太郎の「日本の歴史」と、「ダンテの神曲」の漫画を読みたいと思っていた矢先でした。

漱石全集16巻 「京に着ける夕」、「文鳥」、「夢十夜」、「永日小品」元日・蛇・泥棒・柿・火鉢・下宿・過去の匂ひ・猫の墓・暖かい夢・印象・人間・山鳥・モナリザ・火事・霧・懸物・紀元節・儲口・行列・昔・声・金・心・変化・クレイグ先生、「長谷川君と余」、「満韓ところどころ」
漱石全集17巻 「思い出す事など」、「子規の書」、「ケーベル先生」、「変な音」、「手紙」、「三山居士」、「初秋の一日」、「ケーベル先生の告別、「戦争から来行き違い」、「硝子戸の中」
漱石全集20巻 「作物の批評」、「写生文」、と読んできて、次の「文芸の哲学的基礎」これは読みかけ、あとはとびとびに5つくらい読んでいます。

ようするに、「文芸の哲学的基礎」を読みかけて、くたびれてきたということでしょうか、すこし、小説の方をということで、『道草』 を読みかけ、これは楽しく読めています。

「文芸の哲学的基礎」については、小宮豊隆が解説で、徳富蘇峰が漱石の講演を聞いていて、あとで漱石に、お話は大変面白かった、ただ枝葉をもう少しおすかしになった方がよくはないかと思ったと、言ったのだそうである。漱石の話し方の密度は細かく、殊に用語の精確を期するため、一々それをはっきり説明した上で次に移っていくところがあった為、蘇峰には或いはそれがくどく感じられたのかもしれない。とも言っていますが、そのあと、さらにその講演記録を書き直して詳しくしたものですから、それをこうして読んでる私は、神経衰弱になりそうです。
 16巻の「満韓ところどころ」では、連載のとちゅうで、読者が、あれは「漱石ところどころ」だという不満が多かったというのですが、今の私が読んでも、そのころの満州や朝鮮がどのようであったのかには興味津々です。 当時の日本国内の人びとはさらに知りたかっただろうと思われます。でも、それはそれで、旅する人の御都合が一番なこともありおもしろかったのですが、とちゅうで漱石の方が止めてしまいました。
 しかし、文芸に就いて扱っている「文芸の哲学的基礎」は、漱石にとって何をおいても誤解のない理解を与えることが使命との感があります。

 近くのお寺でも折り紙を教えておられる後藤先生は、教えてもらった人が後で折り紙の復習をしていたら頭が痛くなったというのを聞いて、頭が痛くなられては困るのでもうお寺の方は断ったと言っておられました。その方は、後藤先生に何度聞いても親切に教えて下さることをご存じなかったのかもしれないなと思いました。

 私も頭の調子が良くなるまで、「文芸の哲学的基礎」はおいて、先ずは、『道草』を読むことにします。



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 『思い出す事など』
2020/02/20(Thu)
 夏目漱石著 『思い出す事など』 を読んでいます。
岩波書店刊、漱石全集第17巻小品下の最初の作品『思い出す事など』は、33まであるなか、いま19まで読んでいます。この17に、先日15日に「広島ハーンの会」で貝嶋先生の解説を聞き、それを彷彿とさせる文章があったので、引用しておきたいと思ったものです。
 少し長くなりますが、日本人一般の捉え方も書き表されているとも思ったので、引用します。
 これは、修善寺での喀血以後意識不明に陥って、もう余命を気にする記事が新聞にでたあと一命をとりとめた感慨について書かれたものの一節です。
 ≪自白すれば八九年前アンドリユ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだときは、鼻の先の燈火を一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」という表題に引かされてフランマリオンという人の書物を、わざわざ外国から取り寄せたことがあった。先頃は又オリバー・ロッジの「死後の生」を読んだ。
 死後の生!名からしてが既に妙である。我々の個性が我々の死んだ後迄も残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉を換す。スピリチズムの研究を以て有名であったマイエルは慥かに斯う信じて居たらしい。其マイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思はれる。つい此間出たポドモアの遺著も恐らくは同系統のものだろう。
 ドイツのフェヒナーは十九世紀の中頃既に地球其の物に意識の存すべき所以を説いた。石と土と鉱(アラガネ)に霊があると云うならば、有るとするを妨げる自分ではない。然し責めて此假定から出立して、地球の意識とは如何なる性質のものであろう位の想像はあって然るべきだと思う。
 吾々の意識には敷居の様な境界線があって、其線の下は暗く、其線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論の様に見えるし、又わが経験に照らしても至極と思われるが、肉体と共に活動する心的現象に斯様の作用があったにした所で、わが暗中の意識即ち是死後の意識とは受け取れない。
 大いなるものは小さいものを含んで、其小さいものに気が付いているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己等の寄り集まって拵えている全部に対しては風馬牛の如く無頓着であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、又結び合わせたりして得た結論と同じである。それと同じく、個人全体の意識も亦大いなる意識の中に含まれながら、しかも其存在を自覚せずに、孤立する如くに考えているのだろうとは、彼が此類推より下し来るスピリチズムに都合よき假定である。
 假定は人々の随意であり、又時にとって研究上必要の活力でもある。然しただ假定だけでは、如何に臆病の結果幽霊を見ようとする、又迷信の極不可思議を夢見んとする余も、信力を以て彼らの説を奉ずることができない。
 物理学者は分子の容積を計算して蠶(カイコ)の卵にも及ばぬ(長さ高さともに1ミリメートルの)立方体に一千万を三乗した数が入ると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に零を二十一付けた莫大のものである。想像を恣まにするの権利を有する吾々も此一の下に二十一の零をつけた数を思い浮かべるのは容易でない。
形而下の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続きを経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみ尤もと首肯くだけである。数量のあらましさへ応用の利かぬ心の現象に関しては云う迄もない。よし物理学者の分子に対する如き明瞭な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにしてた所で、余の心は遂に余の心である。自分に経験の出来ない限り、如何な綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。果たして時間と空間を超越した。然し、其超越した事が何の能力をも意味さなかった。・・・・・≫
 書きうつすことで、さらによく理解できたように思いますし、ドイツのフエヒナーの説では、仏教の理論がより身近に感じられたようにも思えました。



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第234回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2020/02/19(Wed)
 2月15日土曜日、第234回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 参加者は14名でした。
1、 歌 「Believe Me」
2、 新しく参加された金乗典子さん紹介とみんなの自己紹介
3、 資料提供者からの報告
  横山さん 旧被服支廠の保全を願う懇談会講演会に出席された報告です。13日に風呂先生の奥様が、あ
 の旧被服支廠はどうなるんでしょうかねと、尋ねられたばかりでした。みんな何とか残してほしいとの願いです。
  古川さん 風呂先生の研究紀要第12号(1995年3月)「小泉八雲と昆虫の文学」の論文の目次を資料提出
 してくださいました。実物の紀要も当日回覧されました。
  末国さん マクドナルドの経営していたグランド・ホテル横浜とその近隣地のガイド・ブックに深い関心を持た
 れ、ついに4万円するというそのガイド・ブックを入手したとの報告をしてくださいました。もちろんそれも回覧してくださり、私も手
 を拭いて見聞させていただきました。雨森信成の経営していた茶屋の紹介のある資料配布もありました。
  鉄森さん ウェルドン宛のハーンの書簡などの資料が丹沢先生から送られたとの報告でした。丹沢先生は、
 風呂先生と最も友情を温めあわれていた人ではないかと想え、風呂先生亡きあと丹沢先生と聞けばウっとくる私でした。
  三島さん 1. へるん23号「正宗白鳥のもうひとつのハーン論(Ⅰ)」(錢本健二)    2. ハーンが教鞭を取った
  『島根県尋常中学校々舎(へるん校舎)』実測、図面記録本士会のご厚意で八雲会に寄贈されました。回覧します。 3. 『八雲会
 報』(第65号、2020・1・17発行)   4. 観光パンフレット(出雲路、城と食、松江城天守、グッとくる山陰) を紹介、あるは配布し
 てくださいました。

4、 会誌の意見交換では、此度は、柴田さんが担当でした。柴田さんは事前に資料を作って配布されました。

5、 貝嶋先生の英語翻訳は、見るからにさっぱりわからない “THE VALUE OF THE SUPERNATURAL IN FICTION“でした。翻訳のプリントを貝嶋先生が示してくださったのですが、ありませんでしたので、仕方がありません。
 しかし、貝嶋先生が英文から、内容に対する解説を丁寧にしてくださり、本文の趣旨が分かるようになりました。知らないことだけに、西洋にけるスーパーナチュラルとかゴーストとか、ソールとかなどに対する意識について、あるいは、文学での取り扱い、あるいは、哲学、宗教での取り扱いについての説明がとても興味深く感じることができました。
 一昨年頃でしたが、幕末の「ジョン・万次郎」に関する本を2・3読んでいるとき、最後に彼の子孫の方の本で万次郎がフリーメイソンだということが分かりました。それでもともと興味のあった「フリーメイソン」に関する本を読みかえしたりするうち、かなり西欧のさまが立体的に感じ取れた気がしました。もちろんそんなことはすっかり忘れていました。まったくそれとは別の事柄なのに、先生の解説をうかがっているうちに、そのときの感覚が甦ってくるような気がしました。また、聖書や、教会での「父と子と聖霊との御名によりてアーメン」というなにげなく聞いていたお祈りの言葉なども思い起こしながら、興味深く学ばせていただき、楽しい時間を過ごすことができました。
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「日本海軍 美保関沖遭難事件と五十嵐家のその後」
2020/02/16(Sun)
 五十嵐 邁(スグル)講演 「日本海軍 美保関沖遭難事件と五十嵐家のその後」 を読みました。
 これは、昨年11月の「広島ララフカディオ・ハーンの会」で、三島さんが届けてくださった、「湖都松江」に収録されている講演記録です。
 平成18(2006)年3月20日 ホテル一畑 での催しだったようです。
 ≪事件の記録を新たに、また今日の平和を考える「負の遺産」の継承のために、この講演を掲載する。 協力・美保関新聞社≫とあります。
 夏目漱石の「文芸とヒロイック」で、1910年4月15日、佐久間勉艇長の第六潜水艇が訓練中に事故を起こし乗組員14名が殉死したことについて読んだばかりだったので、関心を持って読むことができました。

 昭和2(1927)年8月24日夜、戦艦「長門」以下の連合艦隊60余隻は、美保関の沖で2軍に分かれて戦闘訓練をしていて、駆逐艦「蕨」850トンの艦腹に軽巡洋艦「神通」5500トンが衝突、「蕨」は沈没。艦長五十嵐恵以下92名は艦と運命を共にした。その1分後には駆逐艦「葦」の艦尾に軽巡洋艦「那珂」が衝突し「葦」の乗組員27名が海に消えた。

 この事故は日本海軍によって黙秘されていたのです。当時2歳だった息子の五十嵐邁氏が半世紀すぎて、父君の死の真相を調査して、翌年の昭和53(1978)年、『黒き日本海に消ゆ』として著わされ、事件の全容が明らかになったといいます。さらに、平成17(2005)年に『美保関のかなたへ 日本海軍特秘遭難事件』と改題されて文庫出版されたのだそうです。その翌年の松江での講演記録です。

 追突してきた「神通」の艦長の水城大佐は、砲撃の物凄く大きな音で難聴になり、副官の声がすると「あゝ」とつねに言っていたのだそうです。このときも「前方に駆逐艦が見えます」というのを聞き逃していたことがこの事故につながったということでした。裁判の判決が出る前日、皇居の方を向いてカミソリでのどを切って自害されたのだそうです。

 五十嵐 邁(スグル)氏は、調査をするとき、作家の阿川弘之を介して、この水城さんの息子さんと、「蕨」の副官であった岩崎さんとに会われたということでした。岩崎さんはまだお元気で、当時のことをはっきり覚えておられたそうです。そして、お話を伺った2年後に亡くなられたということでした。
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「文芸とヒロイック」
2020/02/15(Sat)
 夏目漱石著 「文芸とヒロイック」を読みました。
 岩波の漱石全集20巻 『評論』 29篇のなかの1作品です。
 明治43年7月19日に『東京朝日新聞』に連載されたものです。短い作品です。
 「ヒロイック」という言葉の意味を調べてみると、[形動]勇ましいさま。雄々しいさま。英雄的。とあります。ついでに、欺かざるの記(1908‐09)〈国木田独歩〉明治二八年九月二一日「されどヒロイックなれ」という作品があることも紹介されていました。

 文芸とヒロイックという文字はかけ離れたものであると前置きをしています。このかけ離れの幅を知るために仙台平の袴と唐桟のも前掛けを例に挙げています。漱石の文芸術を楽しむためにそれについても調べました。
 自然主義が現実と主観とが折り合わない苦悶を描くとき、≪広義における理想を抱かざるものが、自己又は他人の経過した現実を顧みて、これを悲しむの必要もなければ之に悶ゆるの理由もない筈である。≫とさらに説明されます。
 そして、どちらかといえば、一方のイギリス艦隊沈没の船員の最後を語る光景のようなものの方が自然主義派の材料ともなるとも述べています。
 しかし、緊急の事故によって沈没してゆく艦艇において死の直前まで、今後の艦艇建造などの重要な資料となることを肝に銘じながら、あるいは天皇に任せられている艦艇を沈めてしまうことになる、その不忠の慚愧を思い、運命を共にする部下たちの遺族に対する悲しみや今後を考えての最後を思う遺言について、その思いを述べてそういう一方のあることの意味を知るべきとものべます。

 これは、漱石が胃潰瘍のため、長与病院に入院中に書かれたものです。森田草平が、採用してはいけないといった生田長江の原稿を、他に原稿がないからと言って、漱石に無断で掲載したため漱石がひどく怒って、そんな勝手な真似をするのなら、一週間でも十日でも毎日ぶっ通しに俺が書いて見せると言って書いたものの一つだと解説にありました。

 私は若いころ2度胃潰瘍で三次と広島で入院したことがありました。どちらも40日間でした。漱石もこのときは、6月18日~7月31日でだいたい40日であったことがわかります。その入院では治らなかったのもおなじでした。


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『こころ』
2020/02/14(Fri)
 滝沢克己著 『こころ』 を読みました。
 これは 河出書房新社発行 文芸読本 夏目漱石Ⅱ 昭和54年五版に収録されている、漱石の『こころ』について書かれたものです。この本の巻末に漱石の『こころ』の本文が収録されていることもあってか、深い論考でした。
 このたび、この本全体を最初から順に読んでいました。そして巻末に収録されている『こころ』の本文を読みました。そして、あらためてこの評を理解できないところは何度か読み返しながら読みました。納得するほど理解できてはいません。『こころ』そのものが私のように理解できない人のために書かれたのではない作品だとつくづく思い知ったところです。
 漱石は『こころ』を連載するにあたって、「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む」という広告文を出したと書かれています。

 ≪『こころ』を書いた漱石にとっては、最初如何なる意味に於いても、善人と悪人と、二種類の人間があることはできなかった。のみならず、人がそこに何らか価値的意義を盛ろうとする限り、都会人と田舎者、昔の人と今の人、その他如何なる対立にせよ、人間の特別な種類があるかの如く考えるのは、人間の単なる外見に囚われた全くのナンセンスに過ぎなかった。事実はただ、そのときその処に於いて、右の如き誘いに躓くか、それとも逸夙くその誘いを看破して、美しい自然の生命を自然の儘に伸ばすかという、際どい岐れ目があるだけである。善とか悪とか正とか邪とか、その他凡そ世に人間の「性格」といわれるものは、その実はただ常に新たに始まるかくの如き決断の、習熟の結果に過ぎないものとなったのである。≫

と、漱石の意図を、この著者は私たちに解説してくれるのです。
相手が自殺までしなければ、このことに気づかない私であってみれば、もしかして知らない間に日常的に多少ずつでも人を追い詰めるようなことをしているかもしれないと改めて思わされる一文です。

 また、『こころ』の先生が、明治天皇の崩御に対しての乃木希典の殉死に触発された部分への論考があります。
一臣民が死を決するについて、明治天皇の崩御がそのきっかけになります。そして、その崩御に殉死するについて、先生の書き残した一人の青年への遺言には、佐久間艦長の遺言にまで触れられてあります。

 ≪唯彼が「もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だ」といった限りに於いて、天皇の御肉身が、そこでは幾分か遠く事件の背景に退いているという点だけである。しかし、丁度一つの円の周辺が何処までも遠くその中心から隔たって行くということは、その中心の権威が失われるということではなくて寧ろその逆であるように、明治天皇の崩御と先生の死との関わりが乃木大将の殉死の場合に比べて、一面遥かに間接的となったということは、決してただ単に天皇の御稜威(ミイツ)が忘れ去られたということではなくて、他面却ってその恵みが今迄よりも一層深く且広く人々の心の底にとどめられたということであった。・・・・・・≫

から始まる丁寧な論考となっています。
このことは、連載当時の読者に与えた影響についても考えさせられました。


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「心」
2020/02/12(Wed)
 夏目漱石著 「心」 を読みました。
 岩波の漱石全集16巻 『永日小品』 25篇のなかの22番目の作品です。
 明治42年1月14日から東西両『朝日新聞』に連載されたものです。短い作品です。

 河出書房新社発行 文芸読本 夏目漱石Ⅱ 昭和54年五版に収録されている、宮井一郎著 「小品『心』の恋」 を読んで、その対象として扱われている作品として読みました。
 この評論を読んで、初めてこの作品の意味がわかったというところです。なんと、≪この作品は漱石の唯一の直截な恋愛告白であると信じている≫と述べています。そして、この時期も帝大寄宿舎に住んでいる、明治27年漱石28歳の春から、翌年春頃までとしています。

 直截な恋愛告白であるということでは、文中
 ≪自分は其の時丸味のある頭を上から眺めて、此の鳥は……と思った。然し此の鳥は……の後はどうしても思ひ出せなかった。たゞ心の底の方に其の後が潜んでいて、総体を薄く暈す陽に見えた。この心の底一面ににじんだものを、ある不思議の力で、一所に集めて判然と熟視したら、其の形は――やっぱり此の時、此の場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であったろうと思ふ。≫
とあるところと、
 ≪女は二尺ほど前に居た。と思ふと、急に自分の方を振り返った。さうして急に右へ曲がった。その時自分の頭は突然先刻の鳥の心持に変化した。さうして女に尾いて、すぐ右へ曲がった。≫
の部分がそのことを現わしていると丁寧に説明されています。

 その時期の設定推論については、
 明治27年3月9日の菊池謙二へあてた書簡と、おなじく3月12日に正岡子規にあてた書簡とで説明しています。

  ≪ 閑却紅紅柳緑春  閑却(カンキャク)す花紅柳緑の春
   江楼何暇酔芳醇  江楼何ぞ芳醇に酔うに暇(イトマ)あらん
   猶憐病子多情意  猶お憐れむ病子多情の意   
   独倚禅床夢美人  独り禅床に倚(ヨ)りて美人を夢む≫

あるいは、

 ≪春雨や柳の中を濡れて行く≫

などを書いて事情を書き送っていると・・・・。

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『こゝろ』
2020/02/11(Tue)
 夏目漱石著 『こゝろ』 を読みました。
 河出書房新社発行 文芸読本 夏目漱石Ⅱ 昭和54年五版に収録されているものです。
 この本は、むかし岩崎文人先生に頂いたものです。このまえ、伊藤さんにいただいた「通信」で、岩崎先生の名前を見て懐かしくなって取り出したものです。

 この度の記録は、読んでいる時に、メモしているところを記録します。

 265p 「記念」という文字を「かたみ」と読ませている。武一騒動で有名な武一の和歌
「書きおくも片身になれや筆のあと幾年すぎても墨やくちせじ」は形見ではないかと思っていた矢先だったので、漱石では何でもありかと思わされるものの一つ。

 293p 「彼は我慢と忍耐の区別を了解してゐないやうに思はれたのです。」これは私ももちろん区別がつかない。調べてみると、
   忍耐というのは物事を主体的、能動的に捉える形
   我慢というのは物事を受け身、受動的に捉える形
   とあった。

 298p 「其頃私の周囲のゐた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。」これは、先ごろ読んでいた昭和文学論評でも、思春期の男女間のことを書いた作品に対して、書かれていたので、やはりそうかの思い。

 302p 「非道かった」は「ひどかった」とルビが打たれている。道路だけのことかもしれないが・・・・。

 310p Kは真宗寺に生まれた男でした。然し彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。漱石も宗派の区別はきちんとしていたの感。

 312p 「其頃は覚醒とか新しい生活とかいふ文字のまだない時分でした。」そうだったのかとの思いです。
 
 この小説を読んでいて、だんだん暗ーい気持ちになってきました。こんなに暗ーい気持ちにさせることができる文面を根気よく作ることに感心しました。
 Kはどうして自殺までしたのか?やはり考えてしまいます。

 追伸 真面目な修行化のKは、我慢と忍耐のすべてを失ったのだと思えてきました。
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『サライ』
2020/02/10(Mon)
 小学館発行の2005年6月2日の 『サライ』を読みました。
 小学館毎月第一、第三木曜日に発売されているようです。夫が買っていたものですが、大判の冊子なので、漱石読物の部類には収納できず、つい読まれないで忘れられていたものです。

 土曜日に、通史会で松井さんに会ったとき、昨年新しく漱石の会の事務局長になられた伊藤さんの「通信」と松井さんの『ん』のコピーと、『ペン』をいただき、読んでいて、にわかに私のなかにも漱石のブームがやってきてしまいました。
 漱石関連の本を、もう一冊読みかけていたのですが、それはどうも一回は読んでいることが書き込みで分かってきていたので、とりあえず並行して読みながらも、こっちが先に終わりました。

 この冊子では、【56ページ立体特集】「天命に従う、無私の文豪 夏目漱石・則天去私」と銘打って

目次
寄稿 全作品をよむ作家 加賀乙彦(作家76歳)
第一部 2500通の書簡で浮かび上がる文豪の「こころ」手紙から読み解く漱石の自画像
 親友への書簡 正岡子規・高浜虚子
 弟子への書簡 寺田虎彦・野上豊一郎
 家族への書簡 夏目鏡子・筆子・恒子・栄子
 官への書簡 文部省専門学務局長
 遺る者への書簡 芥川龍之介・久米正雄・野上弥生子 
 実践編 漱石流手紙の書き方 
 私の漱石その⓵ 出久根達郎(作家・61歳)
第二部 下戸で甘党、体操と絵画が趣味「吾輩、団子と落語を愛す」
 夏目漱石が贔屓にした“味”の老舗を巡る
 ビフテキと鮭フライ 日比谷松本楼 東京・日比谷公園
・・・・・・
漱石の趣味・嗜好
私の漱石その② 半藤一利(作家・74歳)
第三部 『坊っちゃん』『草枕』『倫敦塔』『三四郎』・・・漱石「名所を巡る旅」
  松山『坊っちゃん』
  熊本『草枕』
  ロンドン『倫敦塔』
  東京『三四郎』
  修善寺『思い出す事など』
私の漱石その③加藤丈夫(富士電機ホ-ルディングス相談役・66歳)
岩波文庫で読む「漱石」作品≫

 となっています。
 この冊子と、今読みかけている『夏目漱石Ⅱ』を読みながら、私は漱石がいままでとはずっと好感をもって理解できるようになりました。
 以前はというと、今年になって我が家で見つけて読んだ正宗白鳥の漱石評論を読んだとき、これまでの私の漱石への感覚と似ていることを確認し、私だけが、『吾輩は猫である』とほとんど理解できなかった『漢詩』や『俳句』、『文学論』『講演集』などといったものだけが好きだったのじゃないのだと確認したところでした。そんな一個人の感想もあって正宗白鳥のものを、松井さんに参考までにとお貸ししてしまいました。

 全集をすべて読んだことのある作家はおそらく漱石だけです。
 二、三度読んだものも多くあると思います。でも芥川龍之介と久米正雄に送った手紙、
≪あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づよくおいでなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手をこしらえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後から出てきます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押してゆくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。≫
この有名な文面も、恥ずかしながら、やっとこの年になってこの度読んでいて味わうことができるようになったと思えます。
 このところ、戦後といっても昭和の初めころ生まれた作家の数々を読んでいて、だんだんと嫌になってきていました。どうして若いころこんなものをありがたがって読んでいたのだろうかとおもえて、ブログにも書かないまま読み過ごすこともたびたびになっていました。あまりにも作家どうしの評論が多すぎて、それを気にして、焦って書いているともおもえるほどです。評論家の誰かが、作家の誰かのことを、いろいろ批判されてそれに耐えてきたのです。という文面を読んで間がなかっただけに、なるほど、この漱石の助言には、個人主義ということも考えあわせて、彼の作品への思いとしても、胸にしみます。

 先ずは謙虚に作品に向かうことから始めなければと反省しきりです。

 私の漱石その③加藤丈夫(富士電機ホ-ルディングス相談役・66歳)では、三四郎日和 ~“実年”の間で流行る漱石~と題して、退職を機にビジネス関係の本を整理した本棚に残った漱石全集を読んで“漱石三昧”の暮らしを楽しんでいるといったような人たちの会ができ、「悠遊」という創創刊号までできた。とうに還暦を過ぎた三四郎たちが再び青春に戻っていくというはなしでした。
 密かにエールを送る気持ちになったのですが、あれから16年を過ぎてどうなっているでしょうか。

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『白きたおやかな峰』
2020/02/08(Sat)
 北杜夫著 『白きたおやかな峰』 を読みました。
 夫が結婚前に買っていた、純文学書下ろし特別作品という昭和37年ころに出版されたものの一冊です。若いころのわたしにも、北杜夫ブームがあって、これらも失敬しながらかなり読みました。全く内容は忘れていますが、この本のタイトルだけはしっかり覚えています。

 ヒマラヤの未踏峰ディランへの登頂へ、ドクターとして参加した著者の体験をもとにした作品です。タイトルも素晴らしいのですが、
 ≪ついに現れてきた。今まで夢と写真でしか見たことのない、目くるめく巨大な山塊が。地球の尾根といわれる大地むきだしの骨格、カラコルムの重畳たる高峰の群れが。≫
ではじまる、内容にも終始魅せられます。

 カラチからラワルピンディにベニヤ板の木箱に針金でくくったワイヤバンドボックス105個、総量5トンを運び込むトラックでの道は、
≪平坦の極みで、行けども行けども空虚に殺風景で、かっと陽光を反射する砂、砂、砂の連続である。・・・こんなところに人間が住めるものかと思った。しかし、広大な砂漠の中に、とにもかくにも一本の道があり、ときに砂糖きびを満載したトラックと行きちがい、ごく稀に小さな部落があった。・・・・パキスタン人の子どもは大半がいやに整った顔立ちをしている。高い鼻梁、澄んだ黒目をしている。それが整いすぎていて、五歳の子供のくせに早くも痛ましく成熟しきってしまったかのように見える。≫
 まず、ここで見た子供を観察した文章にくぎ付けになります。昨年秋ころから読んでいた哲学的な本などから、宗教について、私なりの思いが固まっていきつつあったからでした。まず三大宗教が世界を席巻する以前から、なぜに人間はどんなところに生息していてもその地域に根差した信仰や宗教を持っていたのか。その原因として、ほかの生き物は、生まれた時から完成されているが、人間はそのままでほっておかれると死んでしまう。しかも繁殖力が弱い。育てられる過程でどのように完成させるかその見本として、宗教が生まれるのではないか。というようなたわいのないことではあるのですが。裏返すと、何をもって完成とみなすかわかっていない、死ぬるまで私のように幼児然としている人間もいることが人間としての完成のむつかしさを物語っています。このように、「人間が住めるものかといったようなところでは、5歳ですでに成熟しているのか」、との感です。さもありなんと感服するばかりです。
 数行読んだだけでこのように感服していては大変です。登頂計画にはずいぶんの予算がいります。スポンサーを見つけることや、物資への寄付を募り集めることや、登山者がそれぞれの職場で休暇を取る算段や、メンバーを決めることや、インドとの関係が悪化しているパキスタン政府に許可を得ることや、登頂前からやるべきことは山積しています。地元での医療ボランティア、シェフや多数のポーター・郵便配達人などとの人間関係、言葉のちがい、ベースキャンプ、第一キャンプ、第二キャンプ・・・・アタックキャンプまで、肩に力を入れながら読みつづけ、私も酸欠状態になりますが、小説のさいごが、ちょっと物足りない気がしたのは私だけでしょうか。そこまで書くにはドクターの体力が・・・とでもいった感じでしょうか。
 しかし、読みながら、時々目を閉じて、自分が富士山に登った時のことを思い出したり、今こうしているときでも、ヒマラヤの山々は紺碧の空にむかって白い雄姿のままでたっている。などとおもう時間をもてることができました。

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『花祭』
2020/02/05(Wed)
安岡章太郎著 『花祭』 を読みました。
 本箱に、夫が買っていた本で、純文学書下ろし特別作品という昭和37年ころに出版されたものの一部があることが分かり、その中の本から選んだものです。

 つい最後まで読んでしまったのですが、いまの私にはほとんどおもしろくないテーマでした。
 後で気が付いたのですが、本の箱に
 ≪荒野をさ迷って巨象におそわれた旅人は追いつめられて古井戸の中に逃げ込んだ。しかるに井戸の底には数匹の毒蛇が口をひらいて待っていた。蜜蜂にすがって、ようやく命をささえた旅人の口に藤蔦の巣から甘い蜜が滴り落ちたという。このたとえ話は私の小説にはもったいなさすぎる。しかし、私なりにここに一人の成長期にある少年の姿をかりて、何かこれに近いものが現わせたらと思った。≫とあります。

 このことを意識して読めば何か特別な感慨があったかもしれませんが、ただ、終わりの方でもう一度このことについて書かれてあったように思います。しかし、このことが一読者の私に特別の思いを描かせなかったというのは私に読解力がないのかもしれません。
 もひとつ箱に平野謙の書評があります。書評というより、この本の推薦なのでしょうか。
 ≪「性に目覚める頃」という主題は、作家たるもの、一度は書いておきたい題目らしい。・・・・≫
 とありますが、いまになってみると、どのような読者を想定して書かれたものなのかなどと考えてしまいます。



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節分のトマト
2020/02/05(Wed)
 我が家では朝食のとき、食パンにケチャップをぬり、その上にトマトを適当に小さく切ってのせ、さらにその上にチーズをのせてトースターで焼いて食べています。どんな料理もおいしいとなればとことん食べるので、意外と飽きてしまってやめることがおおいのですが、このやり方はもう半年以上続いているように思います。
 この間に挟めるトマトは、最近お店で買うと真っ赤です。このトマトよりおいしいのが、じつは我が家の庭のトマトです。
 昨年、秋の終わりごろ、もうトマトの植え込みをそろそろかたづけようと思っていたころ、ふと2年くらい前の12月のメモが出てきて、それによると、庭のトマトを食べたと書いています。えっ! 12月まで食べられたのだ。とおもって少し肥料をやって、そのままにしておいたのが、今朝も食べたトマトです。
 そのあとすこし赤みがかっただけのトマトを大小あわせて6個ほど収穫し、きれいに洗って小さく刻んでタッパーにおさめました。3日分はありそうです。よく青いのも落ちていることがあるのですが、それはサンルームにおいておき、いろづいたら食べることにしています。ときどき収穫できない時もあって、その時はお店で買ってきますがやっぱり家のがおいしいねといって食べます。
 それで大切に思っていたのですが、1月半ば近所の奥さんが、会合の帰りに、我が家のトマトを見て、ちょうだい!といわれ、あれも、これもといって持って帰られました。そのあとまた、いつも野菜をたくさん持ってきてくださる上駄さんが、庭のトマトをちょうだいといわれます。いやいや、クリスマスの青いトマトはおいしいという評判だからと喜んで持って帰られました。
 みなさんは冬のトマトがおいしいということをすでにご存じなのだと思ったことでした。

 最近、農協の市で野菜を買ってきてくれることもある夫が言うには、農家の人もそのことを知っていて、どうも品種が違うらしいなどと聞いてきました。
 もしかして来年も偶然この品種の苗をかったらとおもうと、トマトは連作を嫌うらしいので今度はほかの場所でしっかり柵をして見栄えよく伸ばしてやれたらと思う昨今です。

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『鑑賞現代日本文学24野間宏・開高健』
2020/02/03(Mon)
 角川書店発行 『鑑賞現代日本文学24野間宏・開高健』 を読みました。
 これを読むにあたって、とくべつ野間宏や開高健に関心があったのではありませんでした。この角川書店の『鑑賞現代日本文学(全35巻別巻1)』に関心がありました。

 『鑑賞現代日本文学(全35巻別巻1)』のなかの『鑑賞現代日本文学25 安岡章太郎・吉行淳之介』と、『鑑賞現代日本文学17  梶井基次郎・中島敦』を、伊藤眞一郎先生にお借りして読ませていただいていたのですが、その全集のなかの一冊が我が家にもあったことが気になっていました。それがこの『鑑賞現代日本文学24野間宏・開高健』だったのです。

 我が家の歴史を考えてみると、これは大昔、娘が卒論に開高健を選んでいましたので、その時に買ったものだと思えます。それにしても、卒論でやったにしては、これ以外、開高健の本は夫が購入した本しか本箱には見当たらないようです。娘が自分の本はすべて持ち出したのかもしれませんが、この娘のやりそうなことを考えてみますと、彼女は勉強に対してとても節約家だったことが思い浮かびます。たとえば、高校生の夏休み、感想文を書くという宿題で、決められた本のなかで、どれが一番短い作品かと私に聞きます。尾崎一雄の「のんき眼鏡」。これだねというと即決、古い本で難しい旧仮名遣いであるために、私に朗読を頼んできます。朗読してやっているうちにわたしとのあいだで親子げんかになり、もういいわと言って、聞いたところだけで感想文を書いて角川文化振興財団の校内の部で最優秀賞の盾を頂いてかえったこともありました。卒論も、ぎりぎりに提出。「内容はよく書かれていたけど、これで出席不足は補えないから」といわれて卒業証書獲得のため最後必死で通学していました。

 とりあえず彼女の勉学の形跡はたしょうの古典ものとこの本だけです。いまにして思えば、夫は開高健が好きで彼女が生まれる以前から話題にしていたので父親から聞いていたことだけを書いたのかもしれません。
 まあ、そんな娘の貴重な一冊の開高健です。
 本文及び作品鑑賞では、『パニック』、『日本三文オペラ』、『青い日曜日』、『輝ける闇』、『ヴェトコン少年暁に死す』が、とりあげられています。

 開高健は昭和5年生まれです。昭和5年生まれといえば向かいの団地に住んでいる夫の姉の連れ合いと同じです。かれは、昨年もグランドゴルフで優勝したと言って新聞を見せてくれるほど元気です。開高健がもし生きていればまだ作品を書いているかもしれませんが、平成元年に58歳で亡くなっています。
 娘が卒論にした『パニック』以外ほとんど覚えていませんが、なんといっても興味があるのは、彼がベトナムに行ったことです。
 ≪昭和39年から翌40年にかけての当時、ベトナムはチャン・ヴァン・ファン政権下で、ベトコンの抵抗が執拗に続けられ、サイゴンの街では日本で考えられない仏教徒の焼身自殺が行われたりなどしていた。国際情勢も慌ただしかった。昭和38年(1963)11月22日にケネディ大統領が暗殺され、代わって副大統領から昇格したジョンソンが昭和39年11月の大統領選挙で勝ち、その年の8月にはトンキン湾事件を契機に米軍のベトナム介入が既に開始されていた。昭和40年の年初にはジョンソン構想におけるアメリカのベトナムへの政策積極化が十分に予想されていたのである。・・・・そういう激動するベトナムへ出かけてみないかと話を持ち掛けたのは、当時「週刊朝日」編集長であった足田揮一である。ルポ・ライターとしての開高健の優れた才能についてはそれ以前から十分に高く評価されていた。純文学の旗手としての開高健の評価とは別に、週刊誌記者も適わない好奇心と消化力を具備したルポルタージュの妙手を他の雑誌に渡したくなかったと足田揮一は当時を回想している。≫
とあります。
 ここでは、彼の作品については、全く数えきれないほどの文芸時評が取り上げられていますが、いがいとこれが開高健の特徴を一番表していると思えます。
 『日本三文オペラ』も、もちろん全文では有りませんが、昭和40数年に、広島に出た頃の、商工センターの裏の方のようすを思いうかべたりして、それなりに面白く読めました。
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今日の読書
2020/02/01(Sat)
 我が家のお松ドンもお梅ドンも、里に帰ってしまったので、居間兼女中部屋の大掃除をしました。

お松ドンとお梅どんは、ふたりとも長い間よく働いてくれました。私たち夫婦は年取って、食も細くなり、なにかに追われる生活でもなくなったことを実感できましたので、ふたりに暇を出しました。

お松ドンとお梅どんとは、私のことですが、暇を出された私は、1月の終わりから2階にゆっくりと寝てくらすことにしました。この部屋には、もともと私のベットが置きっぱなしになってもいました。

 これほど集中して本が読めると、高校生の時の下宿時代を思い出します。あの頃はほかの部屋の子が遊びに来なければ、好きなだけ本が読めたのでした。こうしてみると、本を読めないことの原因には、テレビも思えます。高校を卒業して広島に出てのタイプ学院では、姉がテレビをくれました。共同生活のところへテレビを持ち込んでどうぞみなさん自由に見てください。といった手前、自分でかってにテレビを消すことができなくなり、2号線を挟んで向かいにあった浅野図書館と、本通りの本屋だけが読書のできる場所になってしまっていました。

 ところで、今日の読書ですが、ふと片づけ中に見つけた角川書店の『昭和文学全集 正宗白鳥』です。この本があることをすっかり忘れていて、伊藤先生に 『文芸春秋発行の現代日本文学館12正宗白鳥』をお借りしていたのです。しかし伊藤先生の本をお借りして、すべて読んでいたために、ふと片づけ中に見つけた角川書店の『昭和文学全集 正宗白鳥』への理解が深まっていきました。なんと、この全集は、大学に入学したときに滝口先生が自分の蔵書の中から寄贈してくださったもので、卒論に漱石をやった時に、この中の夏目漱石への作家論を読んでいたのでした。それは、傍線など引いていたから気づけたのでした。どうもこの漱石への作家論を読んだために漱石の漢詩についてのへたな未熟極まりない卒論を書いたようです。そして漱石の作品もさることながら、彼の『文学論』などを熱心に集中して読んだのではないかとも思えました。そして、あまり良いイメージを持っていなかった正宗白鳥が伊藤先生にお借りした本を読んで、だんだん親しみを覚えてきていたところに、この漱石への作家論が、この年齢になっての思いと重なるところがあるのも楽しく読めました。そして最後の杉森久英という人の解説もとても良いものでした。朝から、この全集が見つかるまで、安岡章太郎や、吉行淳之介など軽く読んでいたことも含めて、女中部屋から逃れた部屋で集中して読書が堪能できました。
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