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『吾妻鏡』
2020/03/31(Tue)
 竹宮恵子著 『吾妻鏡』 を読みました。
 中央公論新社より、2000年に出版された中公文庫です。マンガ日本の古典全32巻の14・15・16巻『吾妻鏡』で、上中下になっています。

 正直言ってこれは面白くありませんでした。読んでいると、アッ、庭のそうじをしよう、など思いついて、別にその時やらなくてもいいことをやっているうちどうしてもやらなければいけないことも当然あるので結局なかなか読み終わらないのでした。
 
 しかし、すこし興味があったのは、松井さんがプリントを下さっていて、それには鎌倉幕府の始まりは、「いい箱造ろう鎌倉幕府」1185年だと書かれていて、私の記憶していた、「いい国造ろう鎌倉幕府」1192年と覚えたのとちがう。ということがつい先日あったことです。松井さんに電話を頂いたとき、このことについて聞いてみますと、たぶんもう1185年ころから頼朝が号令で政治が動いていたからという意味のことを、プリントを作られた先生が説明されていたと教えてくださいました。
 我が家の隣の御主人は朝、いつも前の道路のそうじをきれいにされるのですが社会科の先生でした。それで、朝、いまの教科書では何年と教えているのですかと聞いてみましたら、征夷大将軍に任命された1192年だと言われました。それでは坂上田村麻呂が征夷大将軍になった時はどうなんだろうと家の掃除はしない夫に聞いてみますと、征夷大将軍になったからと言っても、幕府を開かなければ時代名は変えないよと言います。

 この本を読むことを思いついたとき、その7年の違いのあいだの様子が知りたいと思いました。平家を撲滅させるとき、頼朝は鎌倉にいて、命令を下す役割でした。じっさい戦って平家を亡ぼしたのは義経などでした。しかも、義経の鮮やかな戦いぶりはみなを驚かせます。

 義経への朝廷の思いもめでたく、後白河法皇と源行家は、義経に頼朝追討の院宣を下します。しかし、だんだん鎌倉の恐怖を感じるようになり、反対に鎌倉の要求する義経追討の院宣を受け入れてだします。義経は、院が行動を起こす前に、兄への忠誠心を理解してもらえない悲しみをいだいて姿をくらましています。
 頼朝は、諸国の守護・地頭の任命権を獲得。兵粮米徴収権を認められるのです。まさにこの年が1185年です。1192年までに、後白河法皇との対面などあり、権大納言に任じられますが辞退、大納言家右大将に任じるとの院宣もありますがこれは仕方なく受け、ただ一つ征夷大将軍の院宣を待つのですが、結局後白河の崩御を待っての院宣となったのでした。

 誰も人から領土をもらうのではなく、自分が分け与える立場になりたいと思うのはわかりますが、あまりにもすきを狙ってクーデターを起こす人がおおいいので、気持ちの休まる暇がないというのがうかがわれる作品です。

 この作品がおもしろくなかったという原因については、著者が最後の解説で述べているので、すっかりわかりました。
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『理由』
2020/03/28(Sat)
 宮部みゆき著 『理由』 を読みました。
 新潮社より、平成16年に出版された文庫本ですが、平成27年で46刷となっています。同じものが朝日新聞社よりやはり文庫版で刊行されているのに、こんなに版を重ねているのでびっくりです。直木賞受賞作品だそうです。

 ほとんど800ページにおよぶ作品です。
 現代ミステリーの分野の作品は久しぶりです。なにしろ800ページですから開きにくい部分もありましたが、よく丁寧にここまで書かれたものだと感心しながら読みました。

 これは地上25階建ての780戸もあるマンションで起こる殺人事件です。

 この作品を読んでいると、殺人事件を扱っていながら、登場人物への著者の温かい気持ちを感じます。
 人には、いろいろな感情がありますが、どんな感情を抱いている人に対しても、その感情への理解を示しながら寄り添えるということを感じさせます。
 いいかえれば、しあわせな時代をリアルに描いていると言えるかもしれません。そんな中でも4人の殺人事件が起きてしまう世の中だと感じさせます。

  さいごに池上冬樹という人の解説を読んで気が付いたのですが、はじめにある序曲で
 ≪彼女の言葉に嘘や思い違いはなかった。やがて石川巡査が保護するの男は間違いなく石田直澄であり、彼が姿を現したことによって、「荒川の一家四人殺し」の謎と闇の部分に、やっと光が当たることになるのだった。≫
ということを頭に於いて読むべきだったと思いました。300ページくらいまでの本なら、これを頭に於いて読むことで物語のおもしろみがどう違うか読み返して楽しむのですが、800ページでは無理。



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『聖徳太子』
2020/03/25(Wed)
 池田理代子著 『聖徳太子』全5巻 を読みました。
 中央公論社より、1999年に出版された中公文庫コミック版です。
 この本があることをすっかり忘れていましたが、娘の置いていった本です。
 ドラえもん人物日本の歴史『聖徳太子』では、サブタイトルとして「理想の国をめざした政治家」とありましたが、この本でもそのことが強調されていました。

 ドラえもん人物日本の歴史とおおきく違うところは、秦河勝との関係です。
 この作品では、1巻にだいたい6章ずつありますが、1巻の2章で秦河勝が登場します。聖徳太子が厩戸皇子と言われたころ、父親の橘豊日大兄皇子(後の用命天皇)が聖徳太子に秦河勝を紹介します。彼を橘の宮であずかり、皇子の側近として勤めに着いてもらうことにしたからです。そして秦河勝は聖徳太子の亡くなるまで傍で仕えるのです。その間、彼が秦氏の居住地である太秦に帰るところは描かれていなかったと思います。
 皇子に長男が生まれたとき、その皇子の後見人を秦氏が買って出るところが、実家と関係するところかなと思うばかりです。

 ドラえもん人物日本の歴史を読んでいると、関裕二の『神社が語る12氏族の正体』で歴史のなかに聖徳太子は架空の人物であったといわれているのですが、あるいはそうかもしれないとおもえます。ところが池田理代子の『聖徳太子』では、聖徳太子がつねに中国の隋や、朝鮮の新羅や高句麗や百済などに目を向けて、その中で日本を守りながらそれらに引けを取らない国力をつけて対等に付き合い文化・文明を学ぼうとする姿勢は、まるで江戸時代幕末の日本を見ているような気もしてきて、聖徳太子がいなかったなどとは考えにくいと思わせる本でした。
 池田理代子が協力を得たのは、
  和宗総本山四天王寺
  池坊華道会
  東方学院
  京都国立博物館
  奈良国立博物館
  奈良国立文化財研究所飛鳥資料館
  奈良国立考古博物館
 です。
 漫画となると、時代を絵でも現わさなければならない分、時代考証も大変と思えました。
 この本で、知り得たことで印象的だったのは、小野妹子のことでした。小野妹子は、聖徳太子の意向で遣隋使として何度か隋に行くこととなり、隋滞在中に精力的に他国の文化の粋に触れ、多くのことを吸収しますが、とりわけ彼の興味を引いたのは仏前の供花の美しさだったといいます。外交官の役割を果たし終えた妹子はやがて出家し、京都頂法寺六角堂の北の池坊に庵を結び池坊専務と名乗ったといいます。わたしが小学生のとき習いに行かされた華道は池坊でした。いまもお花の絵を墨で書かれた和綴じのテキストを持っていて、ときどき気まぐれにやりかけるのですが、以前は、1間の広さの床の間で、天井まで吹き抜けの空間を、正座したとの目線でみるときのバランスを学ぶのだと思っていましたが、この漫画で描かれている絵から考えると、花器と花とのバランスについて思いを込めるテキストと思えます。
               

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『古代出雲への旅』
2020/03/24(Tue)
 関和彦著 『古代出雲への旅』を読みました。
中央公論新社より、2005年に出版された新書です。
出雲国平田町在住の小村和四郎重義という人が『出雲国風土記』の御社へ詣でようと思い立ち、 慶應2年(1866)2月25日から6月までに4度にわたって旅にでました。55歳のときでした。
著者の関 和彦が、そのときの旅日記を島根県立図書館の春日家文書のなかからみいだし、図書館で全文コピーをしてもらい、仮称『風土記社参詣記』と名づけ、写真家の久田博幸と歌人の千家統子とともにその旅のあとをたどっての作品です。著者59歳です。
『出雲風土記』とは、
≪奈良時代の元明天皇の和銅6年(713)に太政官から全国の国司に官命が出された。その官命の全文と思われるものは、『続日本紀』に遺されている。
 畿内七道諸国の郡郷の名には好字を著けよ。その郡内に生ずる所の銀銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は具に色目を録せ。及び土地の沃堉、山川・野原の名号の所由、また古老の相伝ふる旧聞・異事は史蹟に載せて言上せよ。≫
というもので、のちにそれが「風土記」と名づけられたとあります。
出雲ではこの執筆に20年を要したとあります。奥書は
≪天平5年2月卅日 勘へ造る
                    秋鹿郡の人 神家臣全太理
国造にして意宇の郡の大領を帯びたる正六位上 勲十二等 出雲臣広嶋≫
 となっています。
 現在「風土記」として残っているのは出雲のほかには常陸・播磨・豊後・肥前国で、ほぼ完全な形で残されているのは『出雲風土記』のみだとあります。

 小村和四郎重義は、旅立ちの朝、平田の産土神社である熊野神社(現・宇美神社)に詣でて旅への挨拶をして出かけます。熊野神社については、『出雲国風土記』では、宇美社となっています。和四郎は、自分は平田地区の住民のご先祖が近江の熊野神社から分霊して勧進したものと思っていたのですが、そうではなかったことから、出雲の風土記に記名されている神社を廻ってみようと思ったとも書かれています。明治5年には改めて宇美神社に改名されたのだそうです。最初は、南に下がって、風土記にある神社に参詣しながら、神社の代宮家(よこや)によって、自作の「冊子」に記帳してもらい神社参拝の証として宍道湖の南側を東にすすんで松江の白潟天満宮に行きます。松江を東北に向かい途中から嵩山方面に南下そして中海の北側を進みます。途中船の都合でもう一度引き返し、大根島に行きます。大根島から北東にある江島に行き江島から、北の半島に船で行き、美保大明神まで行きます。それからは、日本海側を西に進みます。加賀の潜戸に参拝し、佐太神社までいき、佐太神社から松江市の北西部の神社を訪れます。最後に出雲大社日御碕神社など多くの神社を訪れます。

 「風土記」の執筆当時、1150年のちの幕末、それから140年のちの2005年、三者は『出雲国風土記』によって不思議な出会いをしたように思われます。「風土記」のなかでも、神社なの?、と思いましたが、文献が残っていて、一番変わらないのは神社かなと思えこの本を携えて私も出雲を訪ねられたらと思いました。

 先日、伊藤さんが雨森という名前についてメールに書かれていたことがあったとき、雨森という名字について少し調べました。そのとき、滋賀県と松江にその名前があったのですが、平田を近江の人が鎌倉時代に入植して開いたことを思うと、意外と入植者のなかに雨森という人がいたのかなとの思いがしました。出雲での平田の人の活躍もすごいなとの思いです。

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『聖徳太子』
2020/03/22(Sun)
 1995年に発行された小学館より、小学館版 学習まんが ドラえもん人物日本の歴史 『聖徳太子』を読みました。

 マンガなので楽しんであっという間に読めるなと思っていたのですが、思ったより時間がかかりました。学習という目的のためなのかとも思い、私もすぐに忘れるとは思いながら子供に帰ったような気持ちで学習しました。
 なんといっても『聖徳太子』というタイトルですから、聖徳太子はいたという前提です。読んでいくと、思い出します。物部氏との戦いになったとき、蘇我軍がだんだん追い詰められていく場面で、聖徳太子が四天王の仏像を作ってそれを守護に戦うことを宣言して指揮を高めそれで物部氏を亡ぼすことができたのでした。そんな場面もありながら、聖徳太子が亡くなって、蘇我氏が反旗を翻したとき、聖徳太子の息子である山背大兄王は、一族もろともみずから命を絶つのです。
 そのころは、何の疑問も持ちませんでしたが、やはりこれは不自然と言えば不自然にも思えます。
 そして、読み終わって巻末に聖徳太子が生まれてから亡くなるまでの詳しい年表があります。ここまで、しっかりした年表があると、じつは架空の人物だったなどとは思えそうもないのでした。

 ところで、秦河勝との関係について興味のあるところでしたが、秦河勝はこの本では、2度でてきます。一度は、物部氏を撃取ったあと、引き上げる軍のなかにいたことでした。ここでは、欄外の注に≪秦・・・秦氏は山城国葛野を本拠地にした渡来人の大きな一族。秦河勝は秦氏の一番上に立つ人で、聖徳太子から仏像をいただいて、蜂岡寺を建てた。≫とあります。そして、いま一度は、602年(推古10)聖徳太子が、任那を取り返すべく新羅をせめるために出兵を決意するときに、秦河勝が新羅は自分の故郷だから胸が痛むという話をするのですがそれだけです。

 高校生のころ、わたしを秦河勝の大フアンにさせた読物とはいったいどんな本だったのかとまたしても思ったことでした。

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パンデミック時の読書
2020/03/21(Sat)
 昨夜、関 裕二著 『神社が語る古代12氏族の正体』を読んだ記録をブログに書いていて、変な気分になりました。
この本で読んだことを書こうとして、たしかここらに書いてあったような・・・・。と思ってページをめくっても思っていることが書かれていない??? あとで、もしや?と思って枕もとの本をあれ開いてみていて気が付きました。この本で分かったことだと思っていたことは、直前に読んだ永井路子の作品の内容も含まれていたのです。

 そのせいで、きょうは永井路子の『歴史をさわがせた女たち』日本篇と、『歴史をさわがせた女たち』庶民篇の弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平城京時代などの女性を書いた部分を読み返しました。この本での予備知識が間に合っての読書になっていたのでした。
 永井路子の作品は、資料があっての話ですので、その時代の状況認識ができやすいのです。これらをよむまえに彼女の『万葉恋歌』もところどころ読んでいました。万葉集は過去100年間くらいから選ばれていて、歌への理解のためにその時代への説明がありました。

 もっとこの時代のことが知りたいときょうはさらに『週刊 日本の神社 出雲大社』をも読みました。これは、やはり121号まであるなかの1冊ですが、「聖地のミステリー 解き明かされる出雲王国の実像・・・」は、なんと『神社が語る古代12氏族の正体』を書いた関 裕二の文でした。

パンデミック時の読書は、複数の本が一日中でも読めるというものでした。

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『神社が語る古代12氏族の正体』
2020/03/20(Fri)
 関 裕二著 『神社が語る古代12氏族の正体』 を読みました。
 祥伝社より2,014年7月10日発行の新書版で、夫が買っていたものです。
 夫は広島ハーンの会にときどき出席させていただくようになって以後、『古事記』、『日本書紀』などに関する本をおおく買っているようです。

 50ページに及ぶ序篇で、「神道」と日本人 と題して、わたしたちに、「神道」をどのように受け止めるべきかの飼料を提供して学ばせてくれます。
 12氏は、第一編 ヤマト建国の立役者となった氏族たち
       第二編 ヤマト建国の秘密を知る氏族たち
       第三編 暗躍し、勝ち残った氏族たち
       第四編 切り捨てられた氏族たち
 にそれぞれ三氏族ずつあてています。
 
 わたしは、第四編の最後にあてられている、第12章 秦氏 伏見稲荷大社 に目がいきました。そしてそこから読み始め、そのあと最初から読みました。じつはわたしは高校生のころ、秦河勝の大フアンでした。机の上にA4判の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の写真を飾っていました。裏にはドイツの哲学者カール・ヤスパースの評が書かれてあったと思います。ときどきその写真を見ては秦河勝に思いをはせていました。私がこの秦河勝への思いを、そのまま書かれていることに、ああこのように思っていたのだ!!と思う部分が本文のなかにありました。
 ≪秦氏は殖産興業の氏族だ。先進の土木技術を駆使して未開の地を開墾し、農地を広げた。また、養蚕を得意とした。日本黎明期の発展に必要な技術を持ち込んだのが、秦氏の大きな貢献である。彼らは、天皇家と強く結ばれ、国を豊かにしてくれた氏族だった。ヤマトに政権があった時代から、先んじて京都を開拓し、この地に都を呼び寄せる原動力となったのも、秦氏の働きがあってのものだろう。≫何の本を読んで、当時わたしが秦河勝に熱をあげていたのかはわかりませんが、この本では触れられていない、聖徳太子のスポンサー的な役割を果たしていたことも思っていました。

 その当時は云われていませんでしたが、この著者は、聖徳太子はいなかったという想定で話を勧めています。『日本書紀』の著者藤原不比等が、蘇我氏を悪者にするために聖徳太子なるものを作り上げたとの前提です。
 著者が研究したほどの本を読んだり遺跡を廻ってみるという元気もありませんので、その考えを受け入れながら読み進めていきますから、わたしの夢は半分壊れます。しかし、自分の論を入れながら説得力ある説明です。この前提をおもいついたことにも驚きを感じながらの読書でした。

 それにしても広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像には、いまでも真実を超えた美しさに心清められる思いがします。

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『歴史をさわがせた女たち』庶民篇
2020/03/19(Thu)
 永井路子著 『歴史をさわがせた女たち』庶民篇 を読みました。
 文芸春秋より、昭和54年5月第1刷、昭和67年10月8刷の文庫本です。
 
 『歴史をさわがせた女たち』庶民篇は、『歴史をさわがせた女たち』日本篇にくらべるとさほどおもしろくはおもえませんでした。しらない人ばかりの話だったからかもしれません。しかし、なかに特別印象に残ったのがありました。

 「女体解剖第一号」という話です。
≪宝暦9年(1759)6月、炎暑のさなかに、長州萩の郊外の刑場で、おみのという女が斬首された。年はまだうら若い身で、むざんな刑死をとげたのは、不義密通、殺人未遂の罪に問われたからである。・・・・密通がばれ、夫になじられたとき、彼女は斧をふるって夫に切りつけている。≫
これは元来磔になる罪状でした。しかし、彼女は一段軽い斬首に処せられています。
この情状酌量の理由は、栗山考庵という藩医が、おみのを解剖したいと申し出たからです。彼は前年同様にして、死刑になった男の遺体をもらい受けて解剖していたのですが、女性の解剖は見る機会がないということで、今回是非ということでした。その申し出の文書が現在も残っていて抜き書きがしてあります。

 宝暦4年(1754)山崎東洋という都の住む有名な医者が刑死した男性の遺体を日本でははじめて解剖しました。衝撃的なことで多くの医者が見物。栗山考庵もその一人だったのです。しかし、女性の解剖は本邦初めてだったのでした。これは、萩市郷土博物館で、田中助一著「防長医学史」と、この時の解剖図らしきものをも発見されていて、それらを見ての作品です。
 これは、杉田玄白の小塚原での腑分けより、15年早いと書かれていました。

 著者である永井路子の郷里の古川藩の藩医河口信任も解剖を行い、「解体新書」に先立つ3年前に「解屍編」を出しているとも述べています。

 私の住んでいる可部にも解剖記録の小さな碑があります。
 辻村清則著 『石に刻まれた可部の歴史』明治から昭和まで に、「明治16年(1883)頃 建立 高宮郡最初の人体解剖記念碑」のなかに、
≪大毛寺(当時は高宮郡大毛寺村)にある法恩寺の墓地の少し奥まった所に高さ1メートルくらいの石碑がある。これが高宮郡最初と言われる人体解剖がおこなわれた記念碑である。明治16年頃、高宮郡可部町に「順和社」と呼ばれる開業医の研究グループがあった。会員の斎豊次の次女八重子が死去したとき、これからの医学の向上に役立つならとの母親の理解が示され、解剖がなされたのである。これを記念して会員の手により建立されたのがこの石碑である。≫
 とあります。これを執刀したのは三木達(あきら)という医師で、藩医員となっていた人で、明治22年9月~11月には初代の広島市長をつとめています。記録は桑原繭作が担当したとあります。もしかしたら桑原というのは八木小学校の校医をしておられたお医者様のご先祖かも知れないと思いました。この石碑のあるお寺は、私の住んでいるすぐ下のみどり保育園を経営されているお寺です。

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『歴史をさわがせた女たち』日本篇
2020/03/18(Wed)
 永井路子著 『歴史をさわがせた女たち』 を読みました。
 文芸春秋より、昭和53年6月第1刷、平成元年1月33刷の文庫本です。
 
 永井路子は、私たちが書名は聞いたことはあるがもちろん読んだことがない古典を読み解いて、そのなかから、いままでの思い込み間違いといったような部分をも掘り起こしてわかりやすく語ってくれます。
ここで描かれている女性は33人にも及びます。卑弥呼から、明治維新のまっただなかを生きた、若江薫子という尊王攘夷の余流政治評論家までいろんな時代の女性です。

 大笑いしたのは、「焼け太り」ではじまる、「秀吉夫人・お江 戦国の世のツヨイツヨイ女性」でのお江でした。淀殿との対比を考えなくてもこの表現にはまんまとおもいました。

 「北政所 日本一の“オカミサン”」でも、納得でした。彼女のことを、日本一のオカミサンと呼んだその感覚がぴったりです。やはり、忘れているとはいえ、わたしも若いころから一番読んでいる人のことだからでしょうか。人に誤解されないタイプの人なのかなとも思えます。ここでも、彼女の青春時代は決して幸福ではなく、播磨竜野出身の杉原定利という武士の娘だったが、妹のややといっしょに叔母の嫁ぎ先である浅野家に養われて大きくなったので、大した婿も来るわけがないとあります。質素な結婚式のことなども、みな彼女が後になって語ったことだといいます。彼女の人柄のよさについても言及されています。関ヶ原の合戦のとき、ねねは、その直前大坂城の西の丸を家康にあけわたし、さっさと京都へ移ってしまい依然として静観を続けたことについて、子どものころから彼女にかわいがられた秀吉の武将たち加藤清正や福島正則らはそろって家康に味方したことをあげています。家康に感謝されたねねは家康の作ってくれた京都の高台寺で76歳まで大名格のくらしを続けたと重ねてその仁徳をあげています。

 以外なのが「一豊の妻 超大型のスタンドワイフ?」で語られる一豊の妻です。一豊がお金がなくて買えない馬を使わずにいた持参金で買ってやった話や、大阪城内から味方に着くようにとの手紙をいち早く徳川方へ送った関ヶ原の一件に疑問を抱いています。彼女の実父は浅井長政の家臣で、彼女が幼いころ戦死していて、そんな大金を持たせられない事、そして、一豊はそのときはすでに2千石取りの武将であったから買えなくはないというのです。一豊がなかなかの要領居士で、「あれは女房のおかげでござって」などといったことなどをあげています。

 「卑弥呼 女王は目下の成長株」では、卑弥呼については、戦前は彼女について語ることはタブーとされていたので、この作品が書かれた当時は、ナウな人気をかちえていたといいます。戦前の歴史教育では日本は開闢以来天皇が治めていたということになっていたからだといいます。私もひと時、邪馬台国の九州説を支持して本を読んでいた時のことを思い出します。

 そのほか、あまりよく知らなかった人のことや、生まれた家だというのは見たことがあっても、全く知らなかった出雲お国なども楽しく読みました。
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『もう一つの出会い』
2020/03/12(Thu)
 宮尾登美子著 『もう一つの出会い』 を読みました。
 昭和57年2月海竜社より刊行されたエッセイ集ですが、読んだのは昭和60年発行の新潮文庫です。

 とつぜん冒頭から、「三十八歳、0からの出発」二十年間の妻の座に訣別した雪の朝 という題目で始まります。ほんとにこれはお聞ききしたいですね、と思う部分から始まるので、また引きずられてずんずんと読みました。離婚したということについては他の作品から徐々にわかっていましたが、そのとき子どもは何人いてその子どもはどうなったのかということが気になっていました。
 子どもは、高三の長女、中一の次女の二人がいて、自分が連れて出ていったことがわかります。再婚して夫となった人は彼女の仕事上関係の深い高知新聞社の学芸部副部長を務めていた人だったそうで、同じ小学校の二年下にいた人です。その後家をたんで上京するという大きな変動に見舞われたが、それからはずっと順調に暮らしているといいます。
 このことを述べた後、いろんなテレビの番組に出演などする中で、夫婦のありかたについていろいろ述べるなか、悪妻として名をはせた漱石とソクラテスの妻クサンチッペについて、悪妻と言えるのかの疑問を呈する彼女の考察も面白いと感じます。

 ある出会いでは高知市から土讃線で西に30分いったところの佐川という町があり、そこにある今現在なら410年ほどの歴史を持つ山内家の菩提寺青源寺があり、そこの住職との出会いについて書かれてあります。彼女が高知で7年か8年保母をしているとき、やはりお寺の下で保育所を経営しておられることで先輩に誘われて仕事を兼ねて訪問したのがきっかけだといいます。後年倉橋由美子さんを案内して訪ねたとも述べていました。
 土佐を訪ねる機会があればここは訪ねてみたいと思えました。

 林芙美子の『放浪記』『清貧の書』、『風琴と魚の町』、谷崎潤一郎の『細雪』に励まされた話もありました。
 
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 『朱夏』
2020/03/11(Wed)
 宮尾登美子著 『朱夏』 を読みました。
 昭和60年6月集英社より刊行された作品ですが、読んだのは平成10年発行の新潮文庫です。
 文庫とはいえ700ページ近くあります。あいだに他の本を読んだとはいえ、外は雨ですし、内容への興味に惹かれるままに一挙に読みました。

 この作品は、『櫂』の登場人物がそのまま登場します。
『櫂』がぷつんと切れてそれがラストシーンになったときは、続きはどうなるのか気になりました。この『朱夏』は、それから5年くらい後、『櫂』で主人公だった人が育てた娘が主人公の綾子となって登場する作品です。宮尾登美子を綾子として登場させる自叙伝です。
 『櫂』は綾子が、12歳のころで終わるので、それから5年くらい後あとの1年半の経験が『朱夏』では語られます。
 
 綾子は17歳で女学校を卒業して、結婚、子供が生まれて50日後の昭和20年3月夫とともに満州にわたります。大土佐開拓団の募集の延長線くらいの気持ちで、その子弟の教育をすることでお国のためにとつくすことを決意しての親子3人の渡満です。しかし、終戦の年の逼迫した戦況のなかでの渡満着任地で何かと不自由なことが多く、内地では想像もできない暮らしです。まもなく得体のしれない風土病にかかり、生死の境をさまよって併発した余病のために新京に入院、そこでソ連参戦のニュースを聞き、そしてとりあえず退院して帰って来たとき、追いかけるように日本敗戦の知らせを受けます。
 このときからおよそ1年、無一文で着の身着のままの難民として収容所を転々として、不衛生と飢餓と寒さと病気の恐怖、それに原住民からの憎しみに震えながら、引き上げの日を待つそのようすが語られていきます。
 こんななかで、親子三人が生きのびて日本に帰れたのが奇跡と思うのでした。
 佐世保で下船して、広島の大型爆弾での焼け野が原を見て、岡山まで帰って来たのは昭和21年9月21日です。ここでこの小説は終わります。

ずいぶん昔、藤原ていの『流れる星は生きている』を読んだことがあります。やはり新京の気象台に赴任する夫とともに満州にありました。終戦後夫と離れて一人で愛児を連れてかろうじて帰国できたときのことが書かれてありました。そのときの凄惨な状況の具体的なことは忘れましたが、新京からの日本への帰国経路は同じと思われます。藤原ていは宮尾登美子より8歳年上でした。そして、新京にいての情報と山間部に居た登美子夫婦とののちがいなどもあったろうとも思いながらの読書にもなりました。藤原ていは1949年には『流れる星は生きている』を書いています。宮尾登美子はこの作品を書いたのは30年後です。彼女は離婚しなければ書けなかったかもしれないとも思えば、やはり彼女の離婚は彼女にとって必要不可欠のものであったとも思えてきます。

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『五日市憲法』
2020/03/09(Mon)
 新井勝紘著 『五日市憲法』 を読みました。
 岩波新書から、2018年4月第1刷発行、同6月第2刷発行です。
 ブログでおなじみのみどりさんは、
 ≪五日市憲法の存在を知り現憲法との歴史的つながり等、詳しく知りたいと関りのある土地、あきる野市まで出かけたのは2月24日(天皇誕生日)でした。≫
 と、わたしがこの本のことを知るきっかけになる記事を書かれていました。
 『五日市憲法』ってなに?と夫に本を取りよせてもらいました。
 届くとさっそく読み始めました。
 約200ページの作品ですが、著者の新井勝紘と、彼らが「開かずの蔵」から掘り出して命名した「五日市憲法」の草案者である千葉卓三郎の生きざまがいきいきと描かれています。
 著者の新井勝紘は、1944年の東京生まれで、大学生のとき、『明治の精神史』を執筆された色川先生のゼミで、卒論の研究として地域の歴史調査をやりたいと皆で申し出ます。本気でやるのなら交渉してみてもいい候補があるとのこと。それまで教授もふくめだれも調査の承諾を得られなかった深沢家の「開かずの蔵」です。代替わりした御当主によってご当主立ち合いでの許可が下り、させていただくことになりました。
 その「開かずの蔵」でみつけた「日本帝国憲法」が、のち色川教授、副手の江井秀雄、新井勝紘とで命名した「五日市憲法」でした。
 発見された千葉卓三郎草案の「日本国憲法」は、明治22年2月の「大日本帝国憲法」発布に先立って明治16年ころまでに草案されたものです。参考にしたと思える「嚶鳴社憲法草案」も発見されました。まずはこの二つの草案を比較検討して草案者である千葉卓三郎の特徴を探ります。事前にわかっている多くの私擬憲法や、西欧の国々の憲法との比較もしてゆきます。この調査は、卒論提出期間限定のなかで、長い間に鼠や虫食いの被害にあい紙も紙魚がつきボロボロになり、文字の欠損もあり、文書のもつ意味を判明するのというたいへんな作業から始まったことが想像できます。比較検討の作表づくりもしていく中でこの「五日市憲法」の特徴を捉えてゆきます。
 「五日市憲法」の特徴は、国民の権利、国会の規定を主とする立法権、司法権に表れているといいます。作品の最後に、文字の欠損部分をあきらかにしながら「五日市憲法」全文が掲載されています。
 さいしょ、著者の新井勝紘は、大学で色川先生から著書の『明治の精神史』の講義を受け、丁度その年に最終学年を迎えていたため、 
 ≪「百年うちの、1945年までの四分の三の歴史を振り返ってみろ、日本はどれだけ戦争を繰り返してきたか。小さな事変なども入れれば、六、七年に一度は戦争してきた国ではないか。そんな国の百年の歴史が、国を挙げて祝うような歴史であるとはとても思えない」≫
 という先生の言葉に自分たちの研究を始めたことを述べています。あれからさらに半世紀がすぎ、この本の出版をされたことになります。ペリーがやってきたように、いまグローバル化された国外から、あらたなウイルスを迎えて、混乱に陥っています。ふたたび国家総動員ワンチームで対処することが求められています。
 これがある程度の終息を見せると、この内向きの経験によって日本人は何を考え始めるでしょうか。

 千葉卓三郎は、明治元年3月より9月に至るまで、戊辰戦争にて軍卒として戦います。その敗北者である千葉卓三郎を、山口昌男の「日本近代の知」の「維新後、旧幕臣、及び佐幕藩士の子弟たちの移動が起こり、成功した例、失敗した例を含めて、近代日本の血の海替え運動につながってゆく」を参照にしながら、明治一六年に亡くなるまで結核の苦しみにムチ打て書きあげた千葉卓三郎の「五日市憲法」意味について考えます。
 千葉卓三郎が照合するほかの結社の草案のなかに、植木枝盛の私擬憲法『東洋大日本国国憲按』があります。植木枝盛は高知市の人で佐幕藩士の子弟ですが、彼の高知での事業について、先の宮尾登美子の『櫂』のなかで、それの一部分が語られていました。


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『櫂』
2020/03/06(Fri)
 宮尾登美子著 『櫂』 を読みました。
 小説の舞台は高知市です。
 下町で生まれた喜和は、相撲を取っている岩伍に惹かれ15歳で結婚をします。
 賭け事の勝負師だった岩伍は、女衒という監察を得て芸妓娼妓紹介業の仕事を始めます。岩伍は自分の仕事に対して「貧乏が人を腐らせているから、人を買って人助けしている」という気持ちを抱いていて、実際身売りしなければいけない家族の側に立っての仕事をこなし、貧乏長屋の人びとの心をつかみ、また町内の人びとの気持ちをつかみ町内会長なども引き受けさせられ、信用をつけていき富みを得ていきます。
 岩伍は、女義太夫との間に子どもができますが、女義太夫とは別れ、子どもが生れ落ちるとすぐ連れ帰り喜和が養育します。その綾子は喜和以外にはなつかず、勉強のよくできる気の強い子に育ちます。
 喜和は岩伍の仕事に納得することができず、結婚して33年後、岩伍との関係が破綻し、生活に不自由しないほどの金品を出して離縁されてしまいます。そして懐いていて、生きがいにもしていた綾子は進学の為、岩伍に引き取られていくという内容です。

 読むのにずいぶん時間がかかる作品に思えました。途中で宇野千代の解説を読みました。
 宇野千代の解説は、
 ≪この、一千枚越す長編小説「櫂」を、私は二日一晩で一気に読了した。この作品を書くためであるのは勿論であるが、どうしてもこれだけの枚数の長編を一気に読むことが出来たのか自分でもわからない。寝食を忘れて、と言うが、眠る時間も食事をする時間も惜しいほど、「この先きはどうなるのか、」と言う思いに駆られて、まるで憑かれたもののようになって読んだ。この読み方を、文学作品を読む態度だと言えようか、と思いながら、ぐいぐいと読ませて行く宮尾さんの表現力に、抵抗することが出来なかった≫ が冒頭で、
 ≪ともあれ、これほどに面白い小説と言うものが、どこの世界にあるだろうか。まず、古雅を装ったこの文体に馴れ、この文体しか、この物語を表現する術はないことを、読者は納得させられる。凡て、宮尾さんの計算である。≫で終わっています。
 私にとっては読みにくかったこの「古雅を装った文体」は、この解説からみるとこの作品だけだったのかとも思えますが、他を読んでみないとわかりません。
 この作品のルビは方言であったりするのですが、この高知市の方言と思える言葉が意外と私の郷里の比婆郡の私の父と似ていることに驚きもします。高校生のとき、古典の先生が、言葉は京都から始まり遠くなるほど時間がかかって伝わっていくので、遠い山間などでの地方では古語が残っていると言われましたが、全くその通りかなと思えてきます。方言だと思っていた言葉にそれ相応な漢字があてられているとそういう意味だったと思い出しながら読んでいます。

 ともあれ、この作品は私が育った実家を思い起こします。
 私の実家も、小さなお店に養子に来た父が、戦争から帰った後は店を閉め、時代とともに仕事を変えながら少しずつ所帯を大きくしていく生活でした。
 我が家も、いつものようになにかしら他人が家にいるような生活で、馬車を曳く仕事のために、村の若いお兄さんたちが、朝来て馬をそれぞれ連れて仕事に出かけられます。この馬たちが家を大きくしてくれたと母が言ったことがありました。蔵では細工物の注文を受けた時は職人さんが泊まりこみで仕事をされていました。そんなわけで、子どものころから店番を手伝っていた母は、当たり前のように田畑や山に行くぐらいしか家を空けたことがありませんでした。田畑の仕事は、近所で田んぼが少ない家の人や、非農家の人も手伝ってくださっていました。天候が悪く農作業などできないときは、表の二部屋は碁の好きな人たちの碁会所になったりしました。台所での食事も他人がいても特別ではありませんでした。小さなお店に養子に来た父が農家にしたのは、農地解放で人に取られた先祖の田を買いもどすことと、自分が婿養子に来るときもらってきた田んぼと畑と竹藪と山を管理するためと、いち早く車の免許を四国でとって来たため、道路を早く広くしてほしいためでした。もともと農家の人は、道路にするために田んぼが欠けることを嫌いましたから。年老いた養父母に大切に育てられた母でしたが、そんな父のための、人の出入りに引き回されての日常でした。私は末っ子だったため、「櫂」の中に出てくる綾子と同じで、邪魔をしなければいい子ということで、さらに役に立たない子に仕上がってしまいました。
 それでも、家事は下手なのに、掃除洗濯が行き届いた家で育てられたために、夫の汚いほうが落ち着くらしいのには辛抱しきれない時もあるので、そのうち離縁されるかもしれないと反省しきりの小説でした。


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『成城のとんかつやさん』 
2020/03/03(Tue)
 宮尾登美子著 『成城のとんかつやさん』 を読みました。
 宮尾登美子のエッセイ55篇と「あとがき」と、梅原綾子「人生の豊穣」が付記されています。
 もしかして、宮尾登美子は初めてかもしれません。しかし、数ある彼女の作品から、この作品を偶然選んだというのは、よかったと思っています。彼女のプロフィール満載で、読み終わるころには昭和2年生まれの彼女の平成8年、69歳までのことがよくわかるのでした。
 まず、彼女は高知県高知市の出身だということがわかります。女性作家ということで、お料理についても季節の素材から、その調理方法、盛り付けに至るまでの話がおおくあります。そして、料亭の話もあり、「情勢のとんかつやさん」もその一つです。
 食べ物の好みもありますが、我が家も夫が広島市の己斐の旧道沿いで育っているせいか、貧乏自慢はするくせに、調理方法についてはこだわりがひどく、お互い仕事を辞めたいまは3食の食事の、買い物から調理に至るまで一日の全エネルギィーをつぎ込む毎日でもありますから楽しく読みました。
 しかし、私の母親より4歳若い彼女の初産が17歳というのには驚きました。代用教員をしていて同僚と結婚しました。
 ≪渡満したのは二十年、四月の初めで、数カ月の後には終戦を迎え、以後一年余りのあいだ、暴動にあって身ひとつになり、飢餓と病気への恐怖と戦いながら命からがら、二歳の長女をおぶって帰って来た私は、自分の目で見たこの世の地獄と人間の極限状態を、内地の人たちに伝える義務があると、と思っていたのである。≫
 との、経験と決意とが、作家宮尾登美子誕生自伝昭和で、57年月27日『読売新聞』掲載の、「中国残留孤児を迎えて」 にあります。
 私も20年生まれの友人から、看護婦をしていた母親が中国人から子どもを貰いたいという言葉を幾度もかけられたが、別れ別れになった夫とあった時、純子はと聞かれた時のことを思って必死で日本に連れ帰ってくれたと聞いたことがありました。宮尾登美子も、自分の身が牛馬の飼料にするコーリャンの粥一杯がせいぜいの身で、「おなか一杯食べさせるから子どもをくれ」と言われれば、その誘いに乗る方が親の慈悲とも考えられたとの思いもありながら、この残留孤児のことを述べています。なんといってもあれから37年という長い歳月を考えます。

 「はじめてのパリ」には、唐突に遠い昔20代のころ、満州から帰ってきてのち、フランス語を習った話が出てきます。
 ≪しかしながら、もともと師のほうは退屈しのぎ、弟子はまた頭脳は凡庸というにも達せず、語学力の劣悪なるがため、学習すこしもすすまなかった。≫
 というところを読んで、私の昔を思い出します。
 私の家から500メートルくらいの道のりのところの県道筋に、英語の先生で元校長先生をされていたおうちがありました。その先生も宮尾登美子の元京都大学の先生だったフランス語の先生とおなじく、定年退職後に元音楽の先生と再婚されていました。
 ある日、母親が私に英語を教えてやってほしいと頼んだので行くように言いました。一対一の勉強はお琴を習った時以来です。その勉強の成果が、宮尾登美子と同じであったのもおなじでした。ただ、一つの単語のことだけ覚えています。先生のうちの田んぼと私のうちの田んぼが隣り合わせになっていて、先生が農作業をしておられるのを見たことがありました。「タースク」という単語を教える時、田を鋤くことを「たーすく」というでしょう。だから働くことは「たーすく」と覚えるといいと説明された事だけ覚えています。いまだ英語で働くことをタースクというのに出会ったことがないのが残念です。
 私の興味は、その再婚生活や如何にの思いがあったこともたしかです。訪問すると二人が正座してテレビを見られておいでなのが印象的でした。私の勉強に使われた部屋には四面鴨居の上に軍服姿の男性の写真の額がかけられてあり、日清日露第二次世界大戦とこれだけおおくの人が戦死されたのかと、我が家の、母の養父母と、乗馬姿の天皇陛下の額縁写真しかないのとくらべて、子だくさんにも、戦死ということが多かったことを感じたことでした。

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『歌よみに与ふる書』 ほか全10作品
2020/03/01(Sun)
 正岡子規著 『歌よみに与ふる書』 ほか全10作品 を読みました。
 大創出版の文学シリーズから2014年11月出版です。今は絶版になっているようです。
 収録作品は、「かけはしの記」、「旅の旅の旅」、「高尾紀行」、「鎌倉一見の記」、「歌よみに与ふる書」、「人々に答ふ」、「くだもの」、「病状瑣事」、「死後」、「九月十四日の朝」、「年譜」です。

 最初、「歌よみに与ふる書」をなにげなくのぞいてみました。
 新聞 『日本』 に明治31年2月12日から3月4日まで発表されたものです。
 読み進んでいて、なんだか涙が出てきそうです。候文ではありますが、漱石の『文芸の哲学的基礎』と同じ内容のことを述べているのです。漱石と子規は、文芸に於ける感性、感覚、技法、趣味がほとんど同じだということが読むにしたがってわかってきます。
「歌よみに与ふる書」に対して、新聞読者から、多くの反発があったようです。子規はめげずに、「人々に答ふ」でそれに応えています。わたしは、事前に漱石の『文芸の哲学的基礎』を半ば過ぎまで読んでおりましたし、その他漱石全集の22巻も眺めておりましたので、子規が言わんとすることがよくわかりました。
 子規が、明治31年に新聞『日本』で述べて、なかなか理解を得られなかったことは漱石も読んで知っていたでしょう。その子規が漱石の留学中、明治5年に死んでしまいます。

 明治28年、漱石は松山で、東京から帰郷した子規と一緒に住んでいた時がありました。子規の弟子が大勢やってきてワイワイ俳句などを教わるのでやかましくて勉強できなくなり、仕方なく俳句をやり始めます。子規は漱石の資質を認め、よいところをほめて漱石は腕を上げていったといいます。別に暮らすようになってからも、漱石の子規への書簡は俳句の添削を求めるものが多くあります。そして子規は明治25年大学を中退して日本新聞社に入社します。

 この本を読んでいるうち、だんだんこの子規なくして、文豪漱石は生まれなかったのではないかとさえ思えてきます。漱石留学中にその子規が亡くなったことは、仕方ないとはいえ、どんなに落胆した事かと思えて 私は涙しました。

 漱石の評論はほとんどすべてといってよいほど、この子規の「歌よみに与ふる書」を、誤解のないよう、かみくだいて述べているように思えます。
 ただ双方とも理論的に説明しようとして苦心しています。
 伝わりにくい部分は、歌や句に対して、最近の「プレパト」とかいうテレビ番組のように、実際その句を作り直して関心させれたらと思いますが、ここまで歌や俳句が国民親しまれ、発展するまでの文学の流、番組が成り立っているとも思えてきます。
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