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『高瀬川』
2020/04/28(Tue)
 水上勉著 『高瀬川』 を読みました。
 集英社文庫で、初版は昭和52年9月ですが、これは同年11月2刷です。

 水上勉では、『雁の寺』を読んだことはよく覚えていますが、他はわからず、2冊目といった気持ちで読みました。
 京都の木屋町通りに表をもち細長くのびた裏側の鴨川になる家に住んでいる、女性ばかり4人で住んでいる家族が中心の話です。
 母親に、24歳の娘、21歳の娘、24歳の娘の4歳の孫です。
 家の大きさ、場所柄からいっても割烹店でもバアでもひらいてやっていこうということで、最低200万円はかかるだろう改造費を準備するために、短期大学を卒業したばかりの21歳の娘も24歳の姉とおなじようにバアに勤め始めます。
 美術大学教授につき添って博士が出版することになっている『美術の京都と奈良』という本の、アート頁に載せる建物や風景、仏像などの写真を撮りに来ている来宮(きのみや)市次が、 この二人の娘のバアに客としてなじみになります。
 来宮(きのみや)市次は、それまでに、婦人科と言われていたヌード写真などをとる仕事もせねばならない時もあったこともあり、女性を見ることに馴れていて、ふたりに娘の観察にはたけていて、それぞれに好感を抱いて接しています。
 24歳の娘由枝は同以前、同じ大学の年下の男性と同棲をして娘のみどりが生まれます。相手の男性は全く働かず、由枝のひもになります。そのうち結核になって長期入院します。由枝は離婚して緑を連れて帰ってきて母親に子守をしてもらってバアに勤めていたのです。
 その彼が、退院して、大火にあってバラックに住んでいるという郷里にも帰れず、由枝のところに何度か無心に来ます。母親や妹の強い反対もあるのに、みどりの父親ということもあって無碍にもできずお金を渡してしまいます。
 そんななか、勤めているバアのマダムに勧められ、そこの勤務している真面目で経営に力量もあるバーテンとの結婚話がおこり、バーテンからも離婚歴と娘もいることを承知で求婚されていることもあって、ひさしぶりに京都に来た来宮(きのみや)市次に相談します。もちろん、もとの彼ときれいに手を切ってバーテンとの結婚を勧めます。

 しばらくして、来宮(きのみや)市次は由枝が強姦に襲われおなかと顔を切られたという新聞記事を見ます。もとの彼がやったことは感じるものの、由枝は緑の父親でもあるので、警察にも犯人を云わないで、捕まらないまま小説は終わります。

 なんとなく、いまこういった作品に興味がないことを感じながら読み終わってしまいました。


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『夜と霧の隅で』
2020/04/27(Mon)
 北杜夫著 『夜と霧の隅で』 を読みました。
 新潮文庫で、初版は38年7月ですが、これは昭和50年11月22版です。

 もしかしたらフランクルの『夜と霧』を読んだことはよく覚えているので、そのあと頃読んだことがあるのかもしれませんが、全く覚えていませんでした。
 何冊かの文庫本を本箱から取り出して、どれを読もうかと思って選んでいるとき、最後の埴谷雄高の解説を読んで、今のパンデミックでの非常事態に、あるいは、同じ非常事態時に起こったヒットラーのような政変が起きる可能性の報道を耳にするので、読むことにしました。
 「岩尾根にて」、「羽蟻のいる丘」、「霊媒のいる町」、「谿間にて」、「夜と霧の隅で」が収録されていて、最初に「夜と霧の隅で」を読んでまた最初から順に読み、最後にもう一度解説を読みました。どの作品もむづかしく、彼が精神科医であることを思わせる作品でした。おもしろく、興味のあったのは、「谿谷にて」でした。台湾の話が舞台です。昆虫採集の好きな人にはたまらない作品で、最後の落ちが作品の構成をおもしろくさせるのですが、その執着に狂気といったものをも感じさせます。

  「夜と霧の隅で」は埴谷雄高の解説の引用の記録とします。
 ≪・・・この作品中で作者が述べているごとく、1933年にナチスが制定した「遺伝病子孫防止法」に発端し、1935年のユダヤ人排斥を主眼とする「国民血統保護法」「婚姻保護法」を経て、そしてついに、1941年、国家による精神病者の安死術の施工にまで達してしまった事実を骨子としている。
 安楽死――これはドイツが置かれたごとき戦争の極限状況のなかだけではなく、人生の平穏な日々においても提出され得べきところの謂わばいまなお去りやらぬ人類の夢魔である。けれども「民族と戦闘に関係のない人間」を国家から一方的に下されるところの、戦争と結合し、国家と直結した安楽死は、この第二次世界大戦において、ナチスが初めて実行したものにほかならい。・・・・「民族と戦闘に益のない人間」――この基準は時と所に応じて、何処までも果てしなく拡大解釈できるところの者なのである。・・・・ナチスが制定した基準そのもののなかで考え得るかぎりの抵抗を試みる精神科医たちの姿を描いたのが、さて、この作品『夜と霧の隅で』の主題である。・・・・電気ショック、インシュリン、ロボトミーの療法などを次々に試みては苦悶する医師たちの姿は「夜と霧」の片隅における一つの目立たぬ、しかも、記念碑的な人間性の証明となっているのであるが、また、そこに日本人の一患者が設定されていることは、個体の病気と社会の病気の接点にあるこの地的な物語を私達に関わりのない他国の遠い話という無縁さを感ぜしめないための一つの有力な梃子ともなっている。≫

 主題を読むと改めてそうだったんだと思えるほどむつかしく、患者と医師の関係はつらいものになるのが精神病というものだということを感じさせる内容で、精神医学での留学生だった日本人患者は、病気が改善すると自殺してしまうという結末です。


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『街道を行く』30 愛蘭土紀行 Ⅰ
2020/04/24(Fri)
 司馬遼太郎著 『街道を行く』30 愛蘭土紀行 Ⅰ を読みました。
 2009年3月新装版第1刷発行、2,013年月第刷発行の朝日文庫です。

4月11日に『街道を行く』30 愛蘭土紀行 Ⅱを読んでブログに記録しています。夫がネットで同じ日に、違う販売店に発送のお願いをしてくれたのですが、Ⅱのほうが先にきて、Ⅰはずいぶん遅れました。でも、この本は、Ⅱを先に読んでいた方がよかったと思いました。なぜなら、Ⅱで、アイルランドのことがよくわかったからです。そのために、Ⅰは、落ち着いて旅行を楽しめるような気持ちで読めたからです。

まず、表紙カバーの写真に圧倒されます。ダブリン・トリニティカレッジオールド・ライブラリーだそうです。私の学んだ学校も重要な図書が集められてあり、わたしが卒業してから、レジタル化をも兼ねて建て直されたので、みたい図書があったとき立ち寄りましたが、比べるべくもありません。

「ケルト」という小題から始まるのですが、まず、
 ≪ヨーロッパは、その人文を一枚の岩盤で見ることができる。しかし、同時に多様でもある。その多様さを、気質郡で見てもよい。≫とあります。
まさに、読み終わってしばらく考えていると、それぞれの国の歴史の特徴は、この気質の違いによって色とりどりに出来上がった感がしないでもありません。

そして、そのことがことあるごとに繰り返し書かれているので、年を取った私にもよく呑み込めます。朝日新聞に連載された作品なので、1回分だけ読んだ人にも、アイルランドはもちろん、イギリス人のことや、遠くアメリカ人のことまでわかるのではないでしょうか。それくらいくり返し書かれています。

そしてこの本はアイルランド紀行とありますが、277ページまでの作品なのに、166ページに、≪いよいよ今夜アイルランドにむかう。英本土(ブリテン島)での最後の地がリヴァプールだったことは、かえすがえすよき選択だった。≫と、アイルランドにはなかなかいかないのです。これは、やはり長い間、アイルランドを属国にして、アイルランド人を長い間奴隷として支配したイギリスを知らなければ、アイルランドへの理解に行き着かないことを思うと、仕方のないことです。
この、アイルランド人に対してのイギリス人の姿勢は、産業革命をやりおおせることのできる気質と共に、イギリス人の他の一面の気質ももよく表し、多感な夏目漱石にも悲壮な悲しみと共に大きな影響を与えたとおもえます。夏目漱石の文学論が、池田菊苗の影響も大きいでしょうが、理科系の人の論文のようになっている理由もよくわかります。しかし、イギリス人の気質から、日本人を見たということについては、今にして思うと漱石が日本に帰国して果たすべき役割として、新聞社に職を変えたのは、彼にとっても日本全体にとっても大変意味があったのではないかと思えてきます。


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2020年4月23日の記録
2020/04/23(Thu)
 夫も私も珍しく起床はいつもより3時間くらい遅かった。さらに朝食の片付け後、10時過ぎまでボーッとしていた。これはいつものことで、日常的かもしれない。
 気を取り直してマスクの縫製をする。11時にはノルマだった10枚は縫いあがる。上奥さんがいつ来られてもいいようにナイロン袋に入れて玄関に出しておく。
 1枚の布で1個のマスクを作るようになっているのだが、わたしは、1個半作ることにした。ノルマはLサイズ10枚なのに、プラスMサイズ5枚を作ることにした。よって、残りのMサイズ5枚をそのあと裁断と、しつけ縫い、次に縫製をする。12時に終了。やはりナイロンに入れて玄関に出しておく。

 昼食は夫が昨日造った親子どんぶりにさらに卵を加えて作ってくれる。1日寝かせたぶんだけ味に深みが出てうんと美味しかった。

 昼食の片づけのあと上奥さんの在宅を確かめる電話を入れる。上奥さんは在宅だった。早くできたねと驚く。15枚作ったことにも驚く。花谷さんに届けることと、まだ材料が残っていたら裁断まででもやってあげてほしいとのこと。それで、花谷さんに届けに行く。「Mサイズ5枚多く作ったことについては、横田さんが喜ばれるよ!」と言ってくださる。みんなが協力してくれて、全員10枚みんなが作ってくれているとのことで、残っている材料はなかった。

 家に帰って我が家にあてられたマスクの裁断をし、縫製をする。コツが少しつかめて一番きれい仕上がる。届けた中にもう少しきれいにできたらよかったと思えるのがあったので、できたばかりの4枚とを取り換えに花谷さんの家にいったが留守だった。

 帰って2時間読書。
 読了したばかりだった司馬遼太郎著 『街道を行く』 31 愛蘭土紀行の1を再度あちこち読み返す。
 
 パンデミックで世界は変わる。変えるのはパンデミックではなく政治家である。どう変えるのか監視する必要がある。とテレビで呼びかけている欧州の歴史学者がいた。もはや、永続的な独裁者が出た国の例を挙げて、映像が映し出されていてびっくりした。
 

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2020年4月22日の記録
2020/04/22(Wed)
 朝食を片付けて、1時間、NHKで磯田さんの「英雄たちの選択」で聖徳太子を見る。
 最初、聖徳太子が存在していたかどうかについてわめきたてていたが、最後は結局そのことには触れなかった。ただ、今日まで、時代によって、聖徳太子に対していろいろの見方をされてきたが、その見方によって後の世のその時その時の価値観の特徴を探ることができるという視点での解説があった。

 見終わると、大慌てで昨日配布したマスクについてどなたか相談に来られるかもしれないので、そのための3種類のサイズから、あと2種類のサイズの型紙作成。

 つぎにまず、我が家のマスクを作る前に、玄関周りの掃除。

 昨日留守で届けられなかった斜め向かいの家は、昨晩夜中の2時ころ帰られた。そろそろ訪ねてもいいかなと思って訪ねると、丁度目覚められたところ。マスク材料などの入った茶封筒を渡し、昨夜は遅くまでお仕事ご苦労様でしたとのべると、昨夜で仕事を辞めさせられたので、今日から仕事を探さなくてはいけないとのこと。どんなお仕事でした?と聞くと介護ではなく、飲食業だと答えられた。「それじゃマスクを作るどころじゃないね。何時でも作ってあげます」と述べると、「やりかけてどうにもならなければお願い」とのこと。

 10時半。上奥さんが手にマスクの材料を数枚そのまま持って訪ねて来られる。、「イキイキサロンに横田さんがたくさんマスクの布を持ってこられた。作れない人のためにすべてLサイズで縫ってくれと頼まれた。今イキイキサロンのメンバーの家をお願いして歩いているので、あなたも10枚だけ裁断して、しつけ縫いまでしてほしい」とのこと。「えっ!横田さんはイキイキサロンに頼んでこられたの?」とびっくりして答える。「私は横田さんが大変と思って私の区の人のだけでも手伝おうと思って、うちの区はそう伝えたよ」というと、そのことはもう他人から聞いていたとのこと。上奥さんは、自分はリュウマチで、縫えるけど、型を引いたり、裁断することができないのでこうして・・・。できたらあなたには縫うのもやって欲しい。」と言われる。上奥さんは縫製工場に勤めていて縫製は素晴らしく上手。だけど、私は彼女がリュウマチで病院に通っていることを忘れていた。丁寧には縫えないというと「大丈夫よ」と一言。
 上奥さんに、「縫うとき、糸が引きつって下糸と絡んで突っ張るのは、ミシンのせいか、私の腕が悪いせいか、布が滑らないせいか」と質問すると、布にゴムが混じっていて滑らないので、布のせいで仕方ないとのこと。

 上奥さんが帰られた後、夫に、布に型紙通りに書くか、裁断するか手伝ってくれないかと言うと、目がよく見えないのでそれはできない。その代わり食事は自分が作ると言ってくれる。そういえば、目の手術の日程が安佐市民病院で組んであって待っているのだったと思って、自分だけで頑張ることにする。
 昼食迄、布に型を書き込む作業をする。家のマスクはマジックで書いたが、人様のは4Bの鉛筆で少し丁寧に書く。
 お昼は、夫は昨日からとっておいたお寿司を上機嫌で食べ、私には親子どんぶりと葉ワサビのおしたしを作ってくれる。

 昼食を片付けて、結局4時45分まで作業。ムカムカともどしそうになる。思ったよりは作業はすすんだが、限界を感じ、片付けて2時間横になる。

 いつもよりずっと遅い7時からの夕食になる。夫はお昼にお寿司を食べ過ぎたのでとあまり食べない。

 夕食を片付けて、プライムニュースを途中から見る。本庶佑氏が、収束の見通しについての道筋を語られ、今のようなことをしていると、経済が破綻すると苦言を述べられる。初めて私にも正解だと思える収束の見通しのつくり方の解説を聞く。自民党の何とかいう政治家は、専門家会議に臨床現場のわかる人が一人しかいないことで、本庶佑氏のような収束のありかたを語られるような意見を言ってくれる人がいないことを明かす。
 最近プライムニュースは見逃せない。

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2020年4月21日の記録
2020/04/22(Wed)
 午前中は朝食後、掃除をして2時間くらい読書。
 そのあと気合を入れてお寿司を作る。お皿に盛り付け、うえに紅ショウガ、錦糸卵、桜デンブ、山椒の柔らかいはっぱを載せて、満足な出来上がり。シシャモを焼いておかず1品のみ。
 11時半頃昼食後の片づけ終了。2時間くらい読書。それから、寝てしまっていて、夫に起こされる。

 町内会役員の横田さんが来られて、マスクを区の人全員に一人2枚ずつ配って欲しいと言われたので、配布して歩いてくれという。見ると、それぞれの家庭の数だけの大きな茶封筒がある。我が家宛の封筒を開封して、中を見ると、「マスクにする布4枚」、「配布についての挨拶文3枚」、「男女2枚の型紙」、「作れない人への横田さんの連絡先を書いた紙」。それで、女性のあんたが配ってくれる方が説明しやすいのではないかと夫の言。

 それはそうだと思う。それにしても、横田さんが町内会全員のケアをするのはどう考えても大変です。私の区だけでもなんとかしようと佐伯さんのお宅へ行きました。佐伯さんに助けていただきたかったからです。しかし、2度行きましたがお留守です。仕方がないので、まず自分で型を複写して型紙を作り、裁断し、仮縫いをしてミシン縫い。意外と簡単。夫に見せて、OKをもらったので、配布開始。

 縫ったマスクを顔につけて、透明なナイロン袋に「裁断した余りの布(裁ちきりにできる布)」、「方眼の工作用紙で作った型紙」、「横田さんの連絡先が書いてある用紙」も持って、各家を廻る。そのとき、横田さんでもいいのですが、私も協力できます。型紙を作るのがめんどうという人は我が家においでください、私でよければ私がお手伝いできます。ミシンを出すのがめんどうという人は我が家においでください。玄関横の部屋に準備していますからすぐに縫えます。とにかく自分では作れないという人は、私でよければ私がお手伝いできますと話す。我が家の斜め向かいの家庭だけ留守のために残して全家庭配布。配布できなかったその1家庭は介護施設への夜の勤務。明日配布。いつもと違って平日なのに留守が1軒だけとはとの思い。
 途中佐伯さんのところでやっと帰ってきておられたので、困ったときは助けてほしいというと大丈夫よ、上奥さんも助けてくれるよと言ってくださり安心。

 ほとんどの方が当座のマスクには困っていない様子。じっさい我が家も常にたくさんの備蓄があり。これだとお手伝いもゆとりでできそうな実感。

 ただ、H家では娘さんが洗濯物を取り込んでおられた。マスク材料が夫婦の二人分しか入っていなかったので、あわてて、娘さんも同居でしたか?と聞くと、カンボジアにいたとのこと。帰国して2週間ホテルで待機していて戻ってまいりましたとのこと。宗教の布教にいかれていたとのこと。いま、アイルランドの宗教について書かれている本を読んでいるが、身近にこのような娘さんがおられたことに驚く。再びこの娘さんがカンボジアにいかれることがあるだろうかとの思い。


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『歴史と視点』―私の雑記帳―
2020/04/20(Mon)
 司馬遼太郎著『歴史と視点』―私の雑記帳― を読みました。
 昭和49年新潮社より刊行されて、平成9年41刷の文庫本です。

 「大正生れの『故老』」、「戦車・この憂鬱な乗物」、「戦車の壁の中で」、「石鳥居の垢」、「豊後の尼御前」、「見廻組のこと」、「黒鍬者」、「長州人の山の神」、「権力の神聖装飾」、「人間が神になる話」の、10作が収録されています。

 「大正生れの『故老』」は、グアム島の密林から旧日本陸軍下士官の横井正一氏が出てきたときに多くの報道陣から感想をとの話があったことに端を発した随筆です。
 東条英機を集団的政治発狂組合の事務局長のような人とのべ、
 ≪イヤダイヤダと言いながら集団ヒステリーをおこしつつ戦争ごっこをしている反戦騒ぎをみると、そのアジビラの文体と言い、アジ演説の口調と言い、なにやら東条という人がつい思い出されてならないのは、共同幻想の持ちかたや政治的幻想によって戦慄する体質が、同じ民族ということもあって辺に似てしまう≫
と危惧する感想を述べて、反省として、
 ≪「日本は地理的に対外戦争などできる国ではありませんね」≫
と言ってもらう方がいいと述べます。

 「戦車・この憂鬱な乗物」、「戦車の壁の中で」、は、昭和18年に
 ≪兵庫県の加古川の北の青野ヶ原にあった戦車代9連隊に初年兵として入隊したとき、スパナという工具も知らなかった。≫
 ということから、機械のことを書いています。この話題は次の「石鳥居の垢」にも引き続いて書かれています。結果、理論的兵器は理論的戦術があるときだけ機能するはずなんだけど。という体験についての内容だったのかなとの思いです。

 「豊後の尼御前」は、尼御前とは天正年間の人です。大友宗麟を主君とする大分県臼杵あたりの鶴崎という海浜の城館にいた人です。城主の夫はなく幼少の者しかいない、こんなとき、九州全土を以て秀吉に対抗しようとするしまずが攻めてくるのです。そのとき女の身で采配をとった女性の話です。 

 「見廻組のこと」、「黒鍬者」、「長州人の山の神」、などは、歴史の恥部を書いたもので、いやな気持になる話でしたが、「権力の神聖装飾」という話は、意外な話題でした。たとえば、最高権力者をどうふるまわせて、どう装飾することで神聖化の演出をすることができるか。そういうプロデュースができる家臣がいるかどうかについて述べています。

 「人間が神になる話」は、その前の「権力の神聖装飾」と似ています。江戸時代の徳川将軍は、神にならなかったが、東西の本願寺門跡さまは神様になったという話でした。

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『今 蘇る合志義塾の教育』
2020/04/18(Sat)
 向井ゆき子編修 『今 蘇る合志義塾の教育』を読みました。
 熊本の向井ゆき子さんから送られてきた本です。

 2016年4月16日の熊本の大地震によって、明治39年に筆記されていたノートが、ぐうぜん現代の人たちの目に触れることになりました。その「合志義塾の受講生のノート」によって私は向井ゆき子さんと知り合うことができました。
 この「合志義塾の受講生のノート」は、渡邊辰蔵氏の手になるものです。その娘さんである向井ゆき子さんが、そのノートをもとに『合志義塾 明治39年塾生のノート抄』を出版されたのは、2017年11月です。
 父親のそのノートに学問的、歴史的、文化的意味を深く感じ取ることができた向井ゆき子さんの編集によって出来上がった本でした。すこし前から、合志市では合志義塾の記憶がブームになっていたところでした。そんなところに発見されたそれまでにはなかった受講生のノートということで市をあげての遺産になりました。
 このたびの本は、このようにしてめぐりあったそのノートと向き合うことで、お父さんと語り合いながら、合志義塾の教育を学びとってゆかれるという、とてもユニークな発想により構成され、しかも興味深く読ませられてしまう作品でした。

 この作品が届く直前、司馬遼太郎の『人間というもの』という文庫本の163ページで
≪さっき東北からスチュワーデスを採用しにくいという話が出ていましたが・・・・
スチュワーデスに九州人が一番いいのはわかりますよ。九州人は封建時代をきちんと経ていますからね。江戸封建制というのは敬語の熟達制度です。この人にはこの敬語を使うというのが封建制度でしょう。それは九州人は心得ています。≫
というところを読んでいた矢先、ガサツ者の私のところへ九州からお手紙と本が届いたのですから緊張して、一礼をして受け取り、丁寧に開封をして読み始めました。

 ところが、序に
 ≪私は四人兄弟の末子です。或時母が「貴女は危なかった」と言いました。どうやら三人で止めたつもりが出来てしまった子どもという意味のようでした。私は父60歳、母32歳の時の子です。危ないところでこの世に出会ったのです。≫
とありました。このことは、とても印象に残りました。私も3人兄弟の末っ子です。私も母が子どものころのあるとき、「優生保護法で生まないところだった」といいました。ずっとあと、大きくなって優生保護法と自分の生年月日について調べたことがありましたが、どうも関係ないように思いました。夫は「お母さんが冗談に言われたんだよ」と笑いましたが、やはりじぶんの出生についてなんだか運命的なものを感じて育ったことは確かです。向井ゆき子さんとお父様との「合志義塾の受講生のノート」ほどの運命的なかかわりではありませんが、私も両親とも亡くなり、しばらくして夫が「結局あんたが一番親孝行をしたよ」と言ってくれたことを思い出し、肩がほぐれ、あとは本の魅力にひかれて読みすすみました。

  「修身科」・「国語科」・「算術科」・「地理科」・「歴史家」・「農業科」と勉強させていただきました。地理に台湾があり、そのころ台湾の基隆(キールン)に、日本人の学校があり、現地人はよほど成績がいい人でなければ入学できない状況の小説か何かを読んだことを思い出します。そういえば李登輝は台北帝国大学には入れず、京都帝国大学に進学しました。台湾では現地人の入学は許されなかったようでした。そんなことを思い出す「地理科」でした。

 「避暑日記」は、2日坊主の私が言うのもおかしなことですが、だんだん前日と同じというふうになるのは愛嬌があって面白く読みました。
 「夜学会」雑記帳 では、叺=かます から始まって辞書を引かなければ読めない字も多くありました。小皿=てしを は、私の子どものころお皿のことを「てしょう」と大人が言っていたのを思い出します。荏苒=じんぜん=何もしないまま日が過ぎること などという言葉も今では見たことのない言葉です。「夜学会」は一番難しいところでしたが、実用的な勉強がなされていた様子がうかがえます。
 最後に、
 ≪ねつ志んに夜学するのも行くすゑは共に栄へん身の誉れをば≫
 という歌というか、夜学のキャッチコピーのような文は、本文中の向井さんの歌を思うにつけ、つくづく、この親にしてこの子ありとの思いです。
 私が高校生の夏休みに、百人一首で、「秋の田のかり庵の苫をあらみ・・・・」などと覚えているのを聞いて、母が、「秋の田の刈干す稲はみな不作女房子供に何を食わせう」ではなかった? などと言って大笑いしていたので、私のような娘ができたのは、返す返すも残念だとおもわされました。

 本文末の合志義塾への一本の道の写真があり、向井ゆき子さんの
 ≪塾生の弾む声聞ゆ黒松の一筋の道たどりゆくとき≫
 という歌が添えられています。
 私にも塾生の弾む声が聞こえてくるような読書となり、しあわせな時間を過ごすことができました。


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『ケネディ』
2020/04/16(Thu)
 中屋健一著 『ケネディ』 を読みました。
 昭和41年8月初版で、旺文社文庫です。
 本文は、
 ≪ケネディ・池田会談によって、日米会談は新しい時代に入った。しかし、日本時間の。1963年11月23日の朝、日米間の初めてのテレビ放送は、ケネディの日本国民に対するメッセージの代わりに、悲しい彼の死というニュースを伝えて来たのであった。彼が準備した日本国民への挨拶は次のようなものである。
 「最初の通信リレー衛星を通じて、日本の皆さんにご挨拶できますことを、非常にうれしく思います。・・・・」≫
 というあいさつの全文213~214ページで終わります。
 次に「名言集」・「文献」・「年表」・「「元海軍中佐・駆逐艦「天霧」艦長 元福島県耶蘇郡塩川長町長」・「平和の戦略」(1963年6月10日アメリカン大学卒業式におけるケネディ大統領の演説)・「ケネディ大統領の就任演説」が収録されています。

 コロナウイルスが世間で騒がれるようになって、掃除洗濯食事の準備など以外は本が読めます。ふっと、いつまでこんなことが続くのだろうか、日本の経済は持つのだろうかなどと考えることもありますが、まず本を読んでいます。しかし、読み方を少し変えました。本箱から、がさっと本をもってきて、それとなく選んで、眠くなると、本を変えます。ある一定読んで、他の本にします。
 読み終わった本は、このようにブログにむかって書いていきます。すると、ふと数年前にすでに読んだことがあり、ブログに記録していたことに気づき、このたびは記事は掲載しませんでした。2冊それが続き、読み比べてみたりしたのですが、なんといっても読んで記録した事さえ忘れているにはびっくりです。

 この『ケネディ』はブログなどない時代、20歳のころ読んでいます。艦長だったケネディが衝突された『天霧』の写真を開いてよく眺めていたのをよく覚えています。内容は覚えていません。
 この度はアイルランド移民の子孫で、カソリック信者の初めての大統領ということに注目して読みました。
 司馬遼太郎著 『街道を行く』 31 愛蘭土紀行Ⅱでは、ケネディ暗殺がこのことに関係しているのではとのことが書かれてあったからです。
 しかし、そう言い切れるかどうかについては何とも言えないという思いにさせられるほど、ここではさまざまな国内事情がうずまいていることが丁寧に述べられていています。移民によって新しく建国された国で、統一民族の通念といったようなものがない複雑さももちろん大変な問題でもありました。

 ケネディが、民主主義の国では、即決しなければ国民に大きな不利益を被らせることに気づいたとき、国民感情を考慮して決定が遅れることについて真剣に述べていることが印象的でした。最近そんなことが気になることがおおいだけに、情報のいち早く集まる政府に、自分の政治生命をかけての決断の重要性は大切だと感じることもあり、この考えと決断とについて深く考えさせられました。
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『街道を行く』 31 愛蘭土紀行Ⅱ
2020/04/11(Sat)
 司馬遼太郎著 『街道を行く』 31 愛蘭土紀行Ⅱ を読みました。
 1993年に7月発行の朝日文庫です。
 ハーンの会の人たちから紹介を受けた本の1冊です。『街道を行く』 31 愛蘭土紀行Ⅰが届かないので、さきにⅡを読みました。
 久しぶりの司馬遼太郎です。

 愛蘭土の風土、歴史が、東海岸のダブリンから西海岸のゴールウェイへ、ゴールウェイからリメリックキラーニィー、キャッシールからダブリンへの5日間の紀行で説明されていきます。

 この本は、広島ハーンの会で、わたしが入会する前に読まれていたようです。そのことは今まで聞いていなかったように思います。パンデミック中のメールで紹介を受けて、注文して出会って読むことができました。感謝です。ハーンの会に入会して、来月で6年になります。その間、ハーンについて学んできたのですが、どうしてハーンは?、というような部分が、すべてこの本のなかでその背景が語られているようにも思えます。6年間の復習には十分すぎるといっていい紀行文でした。6年間で持てた疑問、そして先生方から伺った話が具体的によりいっそう深められた読書になりました。

 こう思える原因として、歴史的な人名が出てくると、必ず生年と没年が添えられています。活躍の期間がだいたいわかります。また、歴史的な出来事には必ず年号が記入されていてこれが私にとっては必須の資料となります。わたしがよかったと思う本は年号がきっちり提示されていて時代背景を彷彿と浮かばせながら、さらにそれ以前と以後を思い合わせることができるものです。偶然ですが直前読んだ、黒鉄ヒロシ著『千思万考』もそうでした。黒鉄ヒロシも、歴史書の年号を細かく読み込んでいくことで理解が確実に深まるタイプの様です。

 1649年の出来事として
 ≪この肥沃な東部の農地をごっそり奪ったのは、すでにふれたように、アイルランド史にとって“悪魔”以上の存在である17世紀の正教徒のクロムウェル(1599~1653)だった。   
 クロムウェルは英国王チャールズ1世の首を斧でおとしたあと、司令官としてアイルランドに攻めこみ、異教徒(カソリック)であるアイルランド人を大虐殺し、さらに彼らから農地を奪い取って、英国プロテスト達に分配した。・・・・なぜならアイルランドの奴隷化が、この時以後、決定的になったのである。≫

 このイギリスとアイルランドの関係からくる傷痕はいま現在にまでつながり、朝鮮半島と日本の関係を思い起こさせます。司馬遼太郎は、帝国主義は、長い年月では結局高くつくと断言します。

 この関係が、アメリカのジョン・エフ・ケネディの暗殺にも影響しているとあんに述べます。

 とりあえず、アイルランドにカソリックが入って来たのは5世紀だといいます。
 日本への仏教伝来(552)より早いのですが、その時以来土着のドルイド教はすたれていき、それらが妖精として現れるという話を、仏教が伝来した日本では神様も仏教に帰依して立派な神社に住まいしているが、妖精は行く当てが亡くなったという比較での話はとても面白く読みました。
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『千思万考』
2020/04/06(Mon)
 黒鉄ヒロシ著『千思万考』を読みました。
 幻冬舎より2011年に出版されています。
 サブタイトルに「歴史で遊ぶ39のメッセージ」となっていて、36人の歴史を彩る人物が取り上げられており、織田信長と坂本龍馬は、2つ掲げられてあって、38のメッセージとなっています。
 楽しい作品でした。

 36人中、どちらかというと歴史の大好きな私なので、知らない人はさすがにいませんでしたが、けっこう歴史に登場するそれぞれのひとへの思い込みがあります。この思い込みは、そのように思わせるような作品を読んでいるからで、その思い込みはただひとり私だけにあるのではなでしょう。黒鉄ヒロシはそれを見越して、その思い込みをなくして、もういちど冷静に見つめるようにうながします。すると、やはり一面を強調して受け止めていたことに気づかされます。大久保利通、西郷隆盛について、ふたりのなかで、印象の悪い方を一手に大久保利通が引き受けてしまって正当な評価の前に敬遠してしまう。評価対象の専らが、その業績にではなくて、西郷隆盛を死に追いやった男として感情論的に否定してしまう。確かに私も長年そう思っていました。しかし、大久保利通の偉大な業績と、彼の政治姿勢の潔癖さについての部分をいま一度確信させてくれます。私も長い間敬遠してその視点でみていなかったことに気づきます。3年くらい前に、10日間九州をゆっくり旅して、西南戦争の傷痕を至る所で見たときには、そうなった意味合いについて考えさせられました。二人の一生をよく思い合わせて、それぞれに感じとらなければ評価を誤ると思わされます。

 うれしかったのは、ジョン万次郎を取り上げていることです。「リトマス・ジョン万次郎」とタイトルをつけています。これは、日本の恩人、ジョン万次郎に関する関心度が日本の国際性を測るリトマス試験紙だといえまいか。と述べているのです。
 1年くらい前にふとしたことからジョン万次郎に関する本を読みました。この人に注目したことがなかった自分がうかつだったことを感じ、つぎつぎと4・5冊読みました。まったく、彼に深い関心を寄せようとしなかったのは私だけではなかったようです。そのことを危惧して黒鉄ヒロシはこのようなタイトルにしたのでした。

 伊能忠敬につけられたタイトルは、「たかだか、五十歩百歩忠。忠敬、四千万歩」です。伊能忠敬は、私は子ども向けの本で読んだように思います。子ども向けのせいか、数字がこれほど出ていなかったように思います。たとえば、四千万歩とは、地球一周分だそうですが、四千万歩という数字は出ていなくて、地球一周分歩いたと書かれていたように思うのです。忠敬は、測量しつつの行程で一日にだいたい二十キロ歩いたといいます。忠敬が特に測量したかったのは緯度一度の距離だったといいます。忠敬が算出した距離は二十八・二里(約百十・七十四キロメートル)で、ほぼ正確であったとありました。その正確性には世界が驚いたというのはおなじで、彼の偉業に驚かされたのは子ども向けでもおなじです。黒鉄ヒロシの視点はそのことはむろんのことですが、彼の人生設計に関する視点への評価でした。


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『一平 かの子』
2020/04/06(Mon)
 岡本太郎著 『一平 かの子』 を読みました。
 1995年に、チクマ秀版社より発行されたものです。
 『朝日ジャーナル』や、『文芸春秋』などいろいろなところで発表されたものや、改めてかかれた随筆とが34編収録されています。

 家庭の数ほどさまざまの形の家庭があることを思わされます。
 岡本かの子が公然と他人にいろいろ悪く言われたこともあっただけに、興味を持たれていることもあっての作品と思えます。ですが、文学的にも芸術的にもなんといってもエリート3人の家族についてのことですから、強く学ぶところが多くありました。

 一平は漱石の勧めによって朝日新聞社で働くようになったことは、このたび初めてしったのですが、口絵に、漱石を描いた絵の写真があります。やはりすごいなーと思ってみます。またかの子をも書いているのですが、一筆でさーっと書いていても目元など特徴をよく表していますし、いいなっと思います。戦争で家のものがみな焼けて、そのわずかの中から選んであるのではと思って眺めます。

 一平とかの子が、夫婦として破綻しかけて、それを立て直す当時のことが書かれているところで、
 ≪「・・・この時ふと心に浮かんだのは尊き者の名である。今まで理屈で呑み込めずに心であくがれていたものの名である。それはたとい迷信でもあれこうなったら救うという一言を嘘でもよい信じよう」それから二人で宗教に没入していった。当時は植村正久氏にすがって、キリスト教の信仰に入っていた。・・・・彼らはキリスト教のあまりにも狭い戒律の壁にぶつかって、救われなかった。結局、大乗仏教の、煩悩をとおしてこそ救いがあるという、より自在な精神の感動に自分たちの道をみいだし、帰依した。そして徹底的な仏教研究に打ち込んでいった。≫ 
 というぶぶんで、雨森信成といっしょにキリスト教に入信した植村正久がここでも登場したには驚きました。文壇の人はおおくが植村正久によってキリスト教に入信した人が多いことに驚くのでした。

 芸術論を述べた部分も多くあり一つの例で、
 ≪芸術において表現されるのは、美しい文章、すぐれた技巧、みごとな形式といったものではない。世界を欲求する、世界を自分のものにする、世界と自分を同化する、自分が世界である――言い換えれば自分が自分自身になりきるための、手段に過ぎない。それは一種の呪術である。≫

 という部分があります。このように、芸術のわからない私でも、彼の文章は深くてしかもわかりやすので、胸に落ちてくるきがするのでした。


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『母の手紙』
2020/04/04(Sat)
 岡本太郎著 『母の手紙』 を読みました。
 1993年新装版第一刷発行で、最初昭和16年に出版されたものの新装版です。

 この作品は、昭和16年に出版されたときには人々にどのように受け入れられたのでしょうかと思います。岡本太郎一家についての本は初めてではないように思うのですが、はたしてこの本を読んだのかどうか今となっては自分自身でもおもいだせません。

 岡本太郎一は、昭和4年に父母と共に、家族でヨーロッパに旅立ちます。パリに到着して、すこしすごして、両親はイギリスなど他の国々を廻って、昭和7年太郎をパリに残して帰国します。そして、昭和14年2月18日に突然母は亡くなります。

 この作品では、パリに着いて以後、約1年ヨーロッパ各地を巡る両親とのあいだで、そして、再びパリに戻ってきた両親が日本に帰って、母親が亡くなるまでのあいだでの手紙のやり取り、そして、母が亡くなってしばらくのあいだの父親との手紙のやり取りが取り上げられています。やく10年間の手紙のやり取りです。

  昭和15年8月、岡本太郎は11年ぶりに帰国します。
 昭和16年出版の『母の手紙』の初版の序で、父親の一平は述べています。
 ≪欧州最後の避難船白山丸に息子太郎は乗り込んだという報せだ。私は神戸へ迎えに行く。相見るや息子は父の肩に額を伏「おとうさん!」といえたきり、父は抱く腕に力を籠め「おかあさんと二人分だぞ」といえたきりだった。
 済むと、私は遠慮深く訊いた、「君の絵は」、「おかあさんの手紙は」と。息子は戦塵を脱出して来たのだから着のみ着のままで結構である。但し、もし携え得られるならこの二品である。すると息子はここではじめて太郎は顔を輝かして、「持って来た持って来た」といった。
 この二品を息子は確かに持って帰った。そして息子は画家のことだから自作は発表して母国に観賞を乞うべきだ。彼はこの秋個展をひらいた。だが母の手紙は、これは飽くまで母の手紙であって息子にだけ属するものかも知れない。しかし父子は熟議の未発表の需に応ずることにした。・・・・・≫

 1993年新装版での「あとがき」で、岡本太郎は、
 ≪この本は1941年の暮、太平洋戦争の始まる直前に婦女界社から刊行された。・・・・戦争中、ほとんどの資料も、これらの手紙もすべて焼失してしまったが、「母の手紙」は本になっていたおかげで、このように今も生きている。まさしく母の肉声を聞くような思いである。・・・・≫と述べています。

 なんだか、作品の額縁だけの記録になりましたが、これがいまわたしが並行して読んでいる作品の、14年にアメリカに行った日本人学生達のことが中心の、世情とおなじなので印象に残ります。

 親子の会話なので、内容は率直です。文章が素晴らしく、内容が熟成されているのに驚きの連続でした。涙なくしては読めないものでした。

 世情は今、パンデミックの真っただ中。世界中が経験したことのない状況です。グローバルを標榜して、いつでも会えると思っていた人に会えないまま・・・ということもあるかも知れないとおもったりもします。そのためかグッとくることもありました。

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『若き日の詩』
2020/04/02(Thu)
 松谷みよ子著 『若き日の詩』 を読みました。
 童心社より2003年に出版されたものです。
 高野玲子という人の、表紙の絵が心を慰めてくれます。
 パンデミックになって読書のようすが変わって来たように思います。何冊かを並行して読むことが時々あります。この『若き日の詩』は、何日か前読みました。詩情に欠けるわたしは、ほとんど詩が理解できないのがなんともつらいのですが、一つだけ私の気持ちにフィットする詩があったので、うれしくて枕元に置いて、やっぱりこの詩はわたしにも理解できると、ふと家事につかれたとき読んでみます。

     「こころは」

こころはいつも淀まない流れでありたいと
いいきかせいいきかせてきた日々
春のにおいのする湿った風に吹かれ
夜道をひとりで歩いていくとき
涙はとめどもなく頬を濡らす

まっすぐにみつめようとすることは
こんなにもつらい こんなにも苦しいことなのか
風が吹くとき 風に吹かれ
太陽の下 影と共に歩いていく
それはこんなにも きびしいことなのか

ぽつぽつと雨は頬をたたき
こころにくいこむように淋しい音をたてて
夜の風は吹きすぎていく
おまえはやっぱり甘やかされたいのか
それともひとりよがりの孤独に甘えようとしているのか

いいやわたしは
心のこけらをおとしたいのだ
大空を流れていく雲のように
その下に咲くたんぽぽのように
自然のなかに息づいている一つの点
わたしの祈りはただそれだけなのだ

 いま、城山三郎の『友情力あり』と、岡本太郎の本を読んでいます。どれも素晴らしい本なので、気合を入れられるときに読んでいます。
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