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「ラフカディオ・ハーン」 會祖父が愛した「妖精」のような女性
2020/05/29(Fri)
 小泉凡著「ラフカディオ・ハーン」 會祖父が愛した「妖精」のような女性を読みました。
 2011年3月号の『文芸春秋』の大型企画「秘めたる恋35」というなかの一つとしての作品です。2ページくらいです。

 相手はエリザベス・ビスランドです。彼女との出会いは1882年、ビスランド20歳、ハーン32歳のときです。それから日本に来るまでの8年間の仕事上の付き合いです。「ハーンは彼女の写真1葉をもって日本へ旅立った」と凡氏は述べます。そして
≪ビスランドは美しい容姿に加えて、十六歳のときにはすでに、投稿した詩で原稿料をえていたといいますから、文才も早熟していた。才気煥発なビスランドに、生真面目なハーンもいつしか惹かれていきました。驚くことに、遠い日本の地に落ち着き、松江の士族の娘、小泉セツと所帯を持った後もなお、最晩年まで二人の文通は続きました。セツとはこの時代には珍しい「新婚旅行」までしており、まったく仲睦まじい夫婦だったにもかかわらず、です。≫
 「秘めたる恋」というタイトルですからそれなりの話です。
 もちろんビスランドとの仲についてはよく知るところですが、私はこの度これを読んで、少し違ったことを考えました。

 5月の初め頃、18歳から21歳まで勤めていた職場の人にばったり出会った経験からです。彼女は、同じ建物のなかの隣の部屋で働いておられる人で、いつも親しくにこやかに挨拶してくださっていました。彼女が、やっと子どもが出来、それが子宮外妊娠で子供もダメで、彼女も子供の産めない体になって入院されているということで、同室で先輩の田原さんに連れられて見舞いに行ったことを覚えています。

 出会った日には運転していた車を降りられているのを見かけ、もしやと思って声をかけたのでしたが、名乗り合うと同時に、足が悪いのでといって、私の体にもたれて料亭に注文していた昼食を取りに行かれました。 現在は、夫に先立たれ、きっと家にきてくれと家の場所を説明して別れました。それから何度かお寿司などもって彼女を尋ねました。そんな私と彼女は、当時、毎日職場で会っていたのですからお互いがどんな職場生活をしているのかもちろん知っていると思っていました。ところが、彼女の仕事の内容を聞いてびっくりしました。また私の仕事内容を聞いて彼女もびっくりしました。

 彼女は、建設業労働災害防止協会というところのデスクでしたから労働省から天下った同室の加藤さんと県下の建設業を廻って災害防止の講演会をされて、しょっちゅうより帰りに流川の高級クラブに行って酒を飲んでタクシーで送ってもらって帰っていたなどと言います。わたしが、夜学で和裁を習ったり、料理を習ったり、広大の夜間部で物理の聴講したりしているときにです。

 私は、彼女が昼食を食べていると思える時間に、毎日、早めに迎えに来てくれる丸三タクシーに乗って中国地方建設局へ出かけ、そしてたまに県庁にも廻って、新聞の記者クラブの人たちと工事の発注の発表を聞き取って帰り、清書して上司に挙げる仕事をしていたことを聞いて、彼女は驚きます。結局、建物の中にいる人より、外にいる人の方が私たちの仕事を理解していたということのようです。わたしは翌朝送られてくる新聞を広げて、自分が上司に挙げた情報が間違ってなかったかどうかチェックします。でも実際は現場でチェックしあうことがほとんどでした。
 ハーンとビスランドも意外とこういった形で、情報屋としてお互いを必要としていた仲だったのではないのかということです。本当の意味での仕事仲間だったのではないのでしょうか。その絆で結ばれた仲だったのではないかと思うのです。


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『苦役列車』
2020/05/29(Fri)
 西村賢太著『夢幻花』を読みました。
 2011年3月号の『文芸春秋』の芥川賞発表で、掲載されていた作品です。
 著者へのインタビュー、10人の選評も載っています。

 その年は2作受賞作があって『きことわ』という意味のわからない朝吹真理子の作品とです。最初に掲載されている『きことわ』から読み始めたのですが、退屈で面白くないので、途中でやめてこの『苦役列車』を読みました。
 正直、この作品もあまりにも退屈で、おかげで合間に家事がすすんだと言えます。最後まで退屈な作品でした。しかし、内容が今まで読んだことのないタイ宇の作品でした。なんでこのような作品が受賞したのかとの思いで、著者へのインタビューや選評を読みました。

 インタビューのタイトルは、「中卒・逮捕歴あり」こそわが財産 です。「自分の恥をさらけ出して書く」。私小説家としての覚悟 とサブタイトルがあります。読んだ作品も、父親までも逮捕歴があり、そのために母親は子供を連れて家を出て、名前も変えてアパートを転々とする。といった生育歴もそのままです。
 ≪――ところで、西村さんの作品は性欲、食欲、嫉妬・・・・といった人間の本能を正面から描いています。
 西村 これは藤澤清造から学んだことの一つでもあるんですが、小説に中途半端なモラルを持ち込むと、途端につまらなくなる。自分の恥も含めてすべてさらけ出して書く、というのが僕の唯一の生命線ですから。逆に言えばそれしかできない。≫とのべられ、この内容については、いまのような自粛要請の社会のなかで、こういった人はどうやって生きていくだろうと思え、≪日本人は元来・・・・≫と日本人のよいところについて思わされているのですが、ある意味それは、鴨長明の『方丈記』の解説で書かれてあったリアルな社会の一部でもあることを思わされます。

 それでもやはり、わたしには、村上龍の
 ≪・・・・ただし、作家は「現在の日本」という状況内で小説を書く以上、現実と向き合い、そのテーマには現実に対する態度・対応が織り込まれる。つまり、小説と言う表現は、現実にコミットメントする装置を自動的に内包している。・・・・作品は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。・・・・≫
などという選評に同意し、じつは著者の西村賢太もそれを密かに自分の人生のなかで決行しているのではと勘ぐっています。


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『夢幻花』
2020/05/27(Wed)
 東野圭吾著『夢幻花』を読みました。
 2016年発行のPHP文芸文庫です。500ページ足らずの厚さです。

 気分転換にミステリー小説を手にし、「こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない」という帯を読みました。さらに、最後のエエピローグをのぞいて、福島での原発事故以来、原子力エネルギーの研究をしている大学院生の主人公らしき蒼太が、この方面へ向けての就職に悩んでいたのに、「2020年には原発をゼロにする、というてるやつらがおるで」という発言に対して、「原発依存を、だろ。2030年に稼働している原発がゼロだったとしても、原発自体が消えてなくなっているわけじゃない。おそらく廃炉はほとんど進んでいない。さらに五十基以上の原発で、大量の使用済み燃料が保管されている状態だろう」・・・普通の家なら、放置しておけば自然と廃屋になる。だけど原発は違う。放置しておけば勝手に廃炉になるというわけじゃない。たとえ発電していなくとも、厳重に管理し、慎重に廃炉への手順を踏んでいく必要がある。・・・・」と、研究の継続を決意する文面を読みました。

 たまたま、5月の初めころ、河野太郎著『原発と日本はこうなる』を読んでいたのを思い出し、そういう、私たち世代の負の遺産を請け負ってくれる若者が必要なことを改めて思いました。

 ちょっとした帯の言葉や、たまたま開いたところの文章によって本を選ぶこともあることを感じました。

 読み終わってみると、これは、ミステリー作品としても、ある意味で普遍的な人類の課題についての作品としても読みごたえのあるものでした。(もちろんそれらのことが、最後に解ってくるという仕掛けです。)

 たとえば、このたびのコロナウイルスでも、ワクチンの研究者が研究のために密かに研究していたものを子孫が受け継ぎ、研究していて、何かのきっかけでそのことが悪意ある人間に知られて悪用されるということだってあるかも知れません。
 狂牛病も、ある国で飼料によって狂牛病になることが分かり、その飼料の処分に困って、そのことがばれないように海外に輸出して世界中に狂牛病を蔓延させたということを何かの本で読んだばかりです。原発でも、処理の技術も確立されないままに、世界中で売り買いされています。
 生きるために必要なものは四里四方内にあるもので調達するのが安全だと小さいころ母が言っていたことも思い出すのですが、世界中から見えない災害が及んでくる時代を生きる私たちは、そんなことを聞かされていた時代が懐かしくもあります。
 
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『成尋阿闍梨母集』(抄)
2020/05/26(Tue)
 緑の表紙の薄っぺらな『成尋阿闍梨母集』(抄)を読みました。
 これも、奥付もない冊子です。

 この『成尋阿闍梨母集』というのは、いままで見たことのないタイトルでしたので、三分の一くらい読んだとき、ネットで検索してみました。
 (じょうじんあじゃりのははのしゅう)と読むのだそうです。
成尋阿闍梨の母は、永延2年(988年)? - 没年不詳)は、平安 時代中期の女流歌人。源俊賢の娘とされるが、京都大雲寺の縁起によれば、堤大納言 の娘とされる。陸奥守藤原実方の子貞叙に嫁し、僧成尋・成尊ら2子を生む。
そして、『成尋阿闍梨母集』は、平安時代中期の日記的私歌集。『成尋母日記』ともいう。2巻。作者は成尋阿闍梨の母で,80歳をこえた延久4 (1072) 年に入宋した子との生別を悲しむ老母の心情が和歌に託されて記してある。内容は治暦3 (67) 年 10月から延久5 (73) 年5月に及び,短歌 174首と長歌1首とが含まれている、とあり、最後の方に174首めがありますので全文が載せてあるのかと思って読み始めると、ところどころ―中略―とあります。

 正直、この冊子をよむまえの作品は姨捨山がテーマで、
 ≪昔おはしましける帝の、ただわかき人をのみおぼしめして、四十になりぬるをばうしなわせたまひければ、人の国の遠きに行きかくれなどして、さらに都のうちにさる者のなかりけるに、・・・・≫
 というような文章をおおく読んでいましたので、いきなり平安中期に八十歳の年寄りが和歌を詠むほどに頭がしっかりしているのでまず驚きました。

 母親の和歌は息子に会えない悲しみばかりの歌のように思えます。掛詞がおおくそういった意味では技巧的な歌が多いいように思います。
 わたしは、成尋はどのように宋に行って、帰って来た時に母親がまだ生きていて会えるのかということに関心があり、時系列ばかりを目当てに読み解けたらとメモを取りながら読みます。
 延久三年(1071)正月三十日から始まり、三行目には最初の和歌が載せられています。ます。さきの後冷泉天皇の体調が悪くなって崩御される三年前の思い出に話が戻ったりもしますが、二月十六日に成尋は京都を後に淀川を下り、備前の児島から文が届きます。そして、八月二十日に筑紫から唐に出発したと書かれてあるかと思えば、十月十三日には入宋の宣下の交付を請うためにいったん帰洛し、それから備中の久米郡の本山寺に翌年まで逗留するようです。そして、翌年になり十月十一日に「筑紫より」都とて、文持たる僧来たりなどありますが、成尋からの文ではなく、と、時系列を追うのが例の―中略―があるので、時系列に沿って書かれているのかどうかさえ分かりにくい内容でした。
 ただ、成尋は、長くても三年家には帰ってきますが、それより早いかもしれません。生きておられたら会えるし、失せていれば極楽で必ずお会いできますという言葉にすがっての歌がおおくあります。
 最後の歌は
   朝日待つ露の罪なく消え果てば夕べの月は誘はざらめや
  (西に入る月が自分を再訪億楽浄土へさそってくれるであろう)
 とこそは頼み侍れ。
で、結局は息子の成尋とは会えないままで作品は終わります。
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 『日本の説話』―親棄山の世界―
2020/05/24(Sun)
 赤い表紙の薄っぺらな『日本の説話』―親棄山の世界―を読みました。
 これは、奥付もないどころか、裏表紙の裏にまで本文が印刷してあるという冊子です。
 これを読んだあと、いままた緑の薄っぺらい冊子を読んでいて、これはもしかして、娘が大学時代の先生がテキストとして学生に与えられたものではないかという気がしてきました。奥付がないのがもったいないような面白い冊子でした。しかも、こういった教材のありかたが、学生が古典になじむのにいい方法だとつくづく思わされました。

 目次は一応あって、いろんな作品の抜粋の目録の様でもあります。
 一、大和物語 一五六段
 二、枕草子 二二五段
   〇参考 貫之集 第八
   〇参考 枕草子 (二四三、二四四段)
 三、俊頼髄脳
 四、今昔物語集 巻第五 七十余人流遺他国国語第三十二
   〇参考 打聞集 第七 老者移他国事
    今昔物語集 巻第九 震旦厚谷謀父止不孝語第四十五
   〇沙石集 巻三
    私聚百因縁集 巻六
    今昔物語集 巻第三十 信濃国姨棄山語第九
 五、謡曲 姨捨・・・・・・・・世阿弥元清
 六、更科紀行・・・・・・・・・芭蕉
   〇参考 更科姨捨月之弁
 七、親棄山・・・・・・・・・・柳田国男

  説話の中でも、姨捨山を題材にしたあらゆると言っていいほどの説話が紹介されています。しかし、これらの説話のなかには日本古来のものと、外国から入ってきたものと、それまでに会った説話が合体した者、あるいは時代によって、地方によって少しづつ違いはあるが大筋では何通りしかないこともわかってきます。孝行を勧めるためのものがほとんどですが、最近ではその教訓より面白がる説話になってしまっていることを最後に柳田国男が述べています。

 自分が学生だと気づかないとは思いますが、この年になってみると、学生が、趣旨が同じようなものを、いろいろな古典で読むことは、古典になじむには、いっそうよい方法だと思えました。


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『黄塵』
2020/05/24(Sun)
 堀田善衛著『黄塵』を読みました。
 これも集英社の日本文学全集『埴谷雄高・堀田善衛』のなかの作品です。
 昭和35年42歳のとき、8月「黄塵」を『声』に発表。と年表にあります。エッセイというのでしょうかといった作品です。

 前の日の夜遅くまで夜須高子という女性と話し込んでいて岡山玉野市の宇野駅近くで目覚めます。四国の高松から多度津へ、と行く行程では、港の歴史について遠く思いが及びます。これについては、著者が富山県高岡市伏木港の廻漕問屋を営む旧家に生まれ、幼少のころ家業が歴史の波でかたむきはじたことを調べていたので、彼のその思いには感じるものがあろうかと深読みします。

  金毘羅山への石段を登りながら、
 ≪細い杖を突いて、喘ぎながら石段を上って行った。けれども探し求めていたものは、どこにも見当たらなかった。社務所で調べてもらっても、どこにも鶴屋善右衛門氏寄進になる銅の灯篭も石垣も、そんなものはありはしなかった。明治維新以前のものは、諸大名寄進になるものを除いたほかは、ほとんどない、と言う。石が欠けていたり、彫り込まれた名が不明になったものは、どしどし、遠慮会釈なく、新規に寄進されたものと取り換えられていく、と言う。銅の灯篭にいたっては、由緒あるものを除いては、戦争中に政府の召しに応じて金属としてさしだしてしまった、と言う。灯篭は戦争に召しだされ、召しだされた船の第二射水丸はガダルカナル沖で戦死していた・・・・・。荒涼たるものであった。かくて歴史は、どしどし、遠慮会釈なく新規に寄進されてくるものによって取って代られてしまうのである。残された、由緒ある銅の灯篭のなかには、百人近い寄進同志の名をつらねたそのなかに、文化文政のころの歌舞伎役者たちの名があった。ぶんかぶんせいのころには、なるほど役者たちも大金持ちであったのであろう。細い杖を突いて、ふたたび石段を下りはじめて、妙なものを見つけた。
    夜須屋吉右衛門
 という名の彫られた、相当に古いらしい石垣の一つ。名の上に、泉州と所書がしてあった。
 夜須屋とは、この吉右衛門氏は、高子の先祖ではないのか。京都の大学でフランスの学問をして、東京へ出てきて働き、その学問と働きによってかえって身をもてあましている。石垣を寄進して祈るに足る仕事をもっていた祖先の子どもたちである。≫

この作品は、みじかい作品でもありますので、記録しないでいたのですが、この部分が印象に残っていて、堀田善衛を読んだ記念に、我が家にあると思って,作品全部を記録しました。
堀田善衛の作品は、この抜粋からもわかるように、わかりやすい言葉を使って、意味の深いことを述べている教養人として、本屋に気楽に行けるようになったらまた出会いたい作家でした。



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 『風景異色』
2020/05/22(Fri)
 堀田善衛著『風景異色』を読みました。
 これも集英社の日本文学全集『埴谷雄高・堀田善衛』のなかの作品です。
 この作品については、解説にも年譜にもコメントされていません。「男は」と説明される男が主人公です。男がもともと休む日に決めていた日にぶらりと大学のM先生を訪ねていく途中に見るものについて昔のことなどを思い出す話がずいぶん続きます。この記述がタイトルにマッチしているのかもしれませんが、私には終わりに行くほど面白いやら興味がわいてくるやらでした。

 男はいよいよ大学に着き、Mさんに古文書を出して見せます。
その古文書は「明治二年己巳五月決議録 第一」とのタイトルで、奥付は、「・・・・」と説明され、内閣所蔵らしき朱の角印が押されている。
 Mさんは「へえ、珍しいものを手に入れましたね」と「こりゃ要するに官報の第一号ですナ。えーと、あのお、明治二年五月といえば、ご存じでしょうけれど、五月の十八日に箱館戦争がおわって、六月に版籍奉還になったときですナ。・・・・」と、ずっとこの古文書を読んでいく内容が書かれてあるので、私も読みながら官報の内容を逐一知ることができます。第一号議案からずっと読んで第九号議案になったとき、「これりゃ凄い。天主教ヲ敺ノ議、ですナ。この敺という字こりゃ、たしかタタク、ですよ。きっと。ちょと待ってくださいよ、辞引を見てきますから。」といって立った途端にベルが鳴るのです。Mさんは大切な用があるのですが、この古文書の内容が気になってずっと古文書から離れられません。この内容は、私も読みながら、小泉八雲の『ある保守主義者』を思い出し、ぐっと興味のわくところです。この件についての当時のキリシタン事件についてMさんは詳しく話してくれます。この内容は私も初めて知ることなので興味津々で読みました。この第九号の議案の提案者の名前は記入されているのですが、男は言います「あの・・・・、この九号の議決なんですが、可トスル者、二百十六人、で、否トスル者、一人、なんですよ」「へぇ・・・・」。男がMさんに会いに来たのは、このただ一人の反対者の名前を教えてもらいたかったからでした。会話は続くのですが、Mさんにもわからず、今度までに調べておきましょうということで小説は終わります。

 私はこの小説について別の興味もわいてきました。この官報第一ということについてです。私は広島の国泰寺にある建設会館というところに高校を卒業して結婚するまで勤務していました。そこでの仕事の一つに、新しく変更された部分の官報が郵送されてくると、本棚にある官報を取出して、新しく届いた官報と古い部分を差し替えるという仕事がありました。内容についてほとんど読んだことはないように思います。事務所の中の職員も誰一人として読んでおられるのを見たこともなく、ずらーっと重い黒い背表紙が並んできれいなものでした。私の興味というのは、その官報は明治のこの第一官報からずっと続いてきたものかどうかということでした。


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きれいになった朝!
2020/05/22(Fri)
 昨日の朝早く、夫が4区の区長さんが来られて、春の掃除はどうするのですかと聞かれたという。「できないでしょう」といったという。

 私の区は3の1区だ。3の1区はいつも私の家の前の道を4軒下がった所で交差する、左から降りてくる道の西にむかっての道端からのり面への草刈が担当です。こののり面の草がガードレールの下から長く道に伸びてきているのが、ごみを出しに行くとき気になっていました。

 そうだ、今日からひとりで、少しずつ草刈りをしよう。と思い立ち、用具をもっていって始めました。すると、3人の人が出てきてくださって、それぞれ十分な距離を保って草刈りをし、こぐちじまいのやり方で一挙に掃除が全部できていつもの掃除の朝よりもきれいになりました。

 少しずつ草刈りをしよう、と思いたったには、いきさつがあります。左から降りてくる道に向かっている家は、3の2区では4軒ありますが、いまは一軒が空き家になっていて3軒です。そのなかの佐伯さんが先日自家製のおしゃれなマスクを作って、丁寧な型紙や説明を書いて届けてくださいました。お礼をしようとちょっと待ってというと、ちょっと待ってはいいからと帰ってしまわれました。その佐伯さんは自分の家の前とはいえ、掃除の日は早くから出て、最後まで草の伸びるのを気にして一生懸命掃除をされます。そうだ!佐伯さんの家の前だけでも草刈りをしよう!できれば、今日から毎日少しづつひとりで草刈りをしよう。と思い立ち夫の許可を得たのです。

 最初2,3メートル刈ったとき、Hさんが身支度をして出てきて距離をとって始められました。すると、Hさんの鎌がガードレールに当たったらしく大きな音がして、驚いて佐伯さんだ飛び出してきて、彼女もすぐに身支度してきて距離をとって始められました。Sさんは、犬の散歩に出てこられたのに、犬の散歩はお預けで手伝ってくださいました。土嚢袋を数枚持って行っていたので、こぐちじまいでできたことで仕上がりが早くきれいにできました。3人ともこののり面に面しておられるかたがたなので、「きっかけを作ってくれてありがとう」と言って喜んでくださりうれしいことでした。

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『歯車』
2020/05/21(Thu)
 堀田善衛著『歯車』を読みました。
 集英社の日本文学全集『埴谷雄高・堀田善衛』のなかの作品です。

  ≪終戦のあくる年、伊能は上海で中国側のある機関に徴用された。それは表むきは××文化運動委員会ということになっていたが、つとめて少し時間がたってみると、文化機関どころか、内実は学生や文化人の思想や動向を調査する査察機関で、おどろいたことには人を尋問し拉致拘禁する権能までもっているらしかった。そういう秘密警察的文化機関であった。そんなこととは知らずに、伊能がむしろ進んで徴用をうけたのは、ひとつには日本に対し、徹底的な信念をもって抗戦に挺身した、いわば激しい精神の持ち主に会ってみたい、政治というものが全体どのくらい人間の純粋な情熱になりうるものか、そしてそういう人たちがどの程度まで自覚的でありうるか、とそういったことを知りたいという気持ちがつよく動いたからであった。しかし、機関の内実がうすうす分かってくるにつれて、伊能はしだいにそんな気持ちをいだいてもしょせんはむだごとに近いということを知らされた。≫
 で始まるこの小説。伊能が徴用されたところは実際にはどういうところであったのか、一週に二三度、短時間事務所に姿を現す主任委員の何大金(ホー-ターチン)、彼にいつもつきそう秘書兼護身役張愛玲(チャンアイリン)、伊能の直属の上司陳秋瑾(チンシウチン)などがいます。

 それが最後、陳秋瑾は何大金を殺し、張愛玲に殺されそうになります。伊能はどうなるのか、揚子江の本流の手前で転覆するジャンクで一緒に遭難するのかどうなるのかわからないまま終わります。

 中国では、すでに対日抗戦最中から勝利など問題ではなく彼らの全力が対共産党の内戦に注がれていた。そういう政治のもっとも残酷な機関に徴用されたからには、政治が人間そのものよりもあきらかに巨大なものとして映る現代の生き方を見出そうといえばいえる気持ちを抱きはじめていたものの、生き方というより殺され方ばかりだということに気づくのです。気づけば誰かに尾行されている、誰が誰のオルグかわからない世界です。

 ≪委員会の職員の中には伊能にむかって「日本は幸福だ、アメリカの寛大な管理のもとにしだいに復興して思想も何も自由な民主国、いや文化国家というものになるというではないか。あなたも徴用がとけしだいお帰りになるのだろうが、うらやましいしだいだ」などというものがあった≫
 が、伊能は徴用のおのが身にひき比べて占領軍に仕えているであろう多数の日本人がどういう気持ちでいるかしばしば考えもします。

 1949年生まれの私などが、生まれて以来、三度の食事に不自由したこともなく、読みたい本を読みながら暮らしていることが不思議に思える小説でした。


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『広場の孤独』
2020/05/20(Wed)
 堀田善衛著『広場の孤独』を読みました。1951年の芥川賞を受賞作品です。
 集英社の日本文学全集『埴谷雄高・堀田善衛』のなかの作品です。

 朝鮮戦乱の勃発によって、にわかに忙しくなった新聞社の渉外部に、探偵小説などの翻訳で食いつないでいた木垣は、元勤務していたS新聞社の上司の紹介で臨時職員として勤務しています。その間の木垣の思いがこの小説の内容です。

 この作品は、家事もそっちのけで読むほど私をとらえました。しかし、作品のテーマとも言うべき部分について、木垣の苦悩がきっちり伝わってこないのでした。もちろん、木垣自身にもわからないのです。

 ふと雑誌で見かけた外国の新聞に、フランスのモオリャック氏の言葉が木垣の目に留まります。進歩的作家と言われるサルトルやアンドレ・ジードに食って掛かるのです。サルトルやアンドレ・ジードのような進歩的作家は、日本でもそうだったのかもしれませんが、中共に好意的な感情を持ち、早急なフランスの独立を唱えていたのでした。しかし、モオリャック氏は
 ≪サルトルやジードに、いまなお自由人として生き自由人として死に、みずから真実と信じるところを考えかつ書く機会と自由があり、みずから独立フランス人と称することができるとすれば、それはアメリカの武力を背景とする国際連合が、彼らの書斎を守っているからだ。仕事ができるということが、そもそもアメリカのおかげなのだ。≫
 というのでした。このフランスを日本に置き換えれば、そっくりそのままではないか。との思いもあります。

 そんな彼が、ニューヨークのタイムス・スクェアらしい交差点のど真ん中にぼんやり立ちすくんだ男。男は四方から押し寄せてくる、色さまざまな自動車に今にも曳き倒れそうになっているアメリカ製の『巷の異邦人』という本の表紙に眼をひかれて、『広場の孤独』と題して小説に書こうとしたのでした。

 終戦から6年間は、マッカーサー元帥の統治の時代がつづきます。日本は独立できるのか、独立できるとすればどのような姿で独立できるのか。
 このような思いが、自分のリアルな生活とも重複しての小説です。この小説が芥川賞を受けたということについては、選考委員に至っても共通の思いがあったことを思わずにはいられないのですが・・・。

 木垣が、3年前の冬、S新聞社にいて、追放資本云々でS社が動揺していたころ、日本で初めてのゼネストが決行されるか否か連絡を待っていると、ゼネストが禁止された。そのときある青年社員が立ち上がって詩の朗読をしたが、その詩をメモします。
≪雨ニモ負ケテ  風ニモ負ケテ  
 アチラニ気兼ネシ  コチラニ気兼ネシ 
 ペロペロベンガコウ云エバハイト云イ  ペロペロべンガアア云エバハイト云イ 
 アッチヘウロウロコッチヘウロウロ  ソノウチ進退キワマッテ  
 窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ  オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ  
 ソウイウモノニワタシハナリソウダ  ソウイウモノニニホンハナリソウダ≫
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『断面』
2020/05/19(Tue)
 堀田善衛著『断面』を読みました。
 集英社の日本文学全集『埴谷雄高・堀田善衛集』のなかの作品です。
 堀田善衛の『方丈記私記』を読み、堀田善衛についての関心から、叢書のなかから、一番短い『断面』を選びました。

 この作品は、安野というヒロインが、1945年3月に中国を足掛かりとしてヨーロッパに行きたいという希望をもっていて、そのために中国語を学ぼうと何度か挑戦する過程を軸にして、実際に中国の上海にいき、中国の知識階級の人たちと出会い、質問を受ける過程で、日本の知識階級との大きな認識の違いを感じ取り、これを大きな断層として受け止めるという筋書きです。

 安野は、あえて自分が日本の知識階級などと思っているのではないのですが、中国の知識階級のひとは、日本の知識階級について十分掌握しており、ペンネームのみならず本名までも認識しているのにまずびっくりします。ですから、この中国の知識階級にびっくり仰天するところから、断層を感じるのですが、このびっくり仰天は詳細確実な知識に支えられていない自分であるからだとの自覚も述べます。

 上海では、家の主人が、中国現代文学を専門に研究している大島健吉でした。ここでは、内地で天皇が、関東大震災あと小磯総理大臣以下の者を連れ、深川あたりの焼跡を廻って行幸される様子を見たことを話します。その様子を見てぼんやり立ち尽くしていた天皇の様子です。その話を聞いて大島は、日本はどうなるか、在華日本軍はどうなるかについて、最終的には同胞相殺戮しあう内戦がおこるのではないかともいいます。安野は、爆撃時の恐ろしさや不安について語ったつもりが、それより怖いことをいう大島に、中国文学の影響からそんなことを思うのではないかと中国文学に怖さを感じます。しかし、大島の予言のような戦争の終わり方は日本には来ないで中国に来たといいます。

 1945年の暮ごろ、突然安野は国民政府軍からの徴用令を受けます。中国各地の主要新聞雑誌に表れた対日世論調査の仕事でした。さらに数カ月たって安野は日本問題討論会とか様々な会合にも引っ張り出されるようになります。
⑴ 日本で全国いっせいに行われた治安維持法にもとづく共産党の検挙のあと、日本の進歩的文化人は結局どうなったろうか。
⑵ 戦争を起こしたものを中国人は中国人の手で断罪したが、日本人はどんな手法で断罪したか。
⑶ 平和憲法の草案をしたが一時的なものではないのか。もしそれに応じられない世界情勢になったとき、この作成をしたものは身をとしてこれを守右覚悟はあるのか。

 若い安野を信頼して聞いてくる彼らのそんな質問に答えられるだけの知識や認識のない自分に戸惑いを感じると同時に、気分の不安定からセンチメンタルになる子供を監視する目の存在さえも感じます。

 これについては、『方丈記私記』で述べられる平安京での朝廷一家と地下人との乖離を思い起こさせます。1945年ころの巨大な学園のなかで学問研究に没頭する知識人と、為政者にほんろうされて命を投げ出さされる国民の乖離でした。ついでに日本文学者の民衆に対する背信についても語る人民の中にある中国知識人と、日本の知識人との断層でした。


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『方丈記私記』 ⑵
2020/05/18(Mon)


 『方丈記』の舞台となる、平安時代末期から鎌倉時代のはじめにかけて、数えきれない多くの人が栖を失い、餓えて死んでいくのですが、実はこの当時、『千載集』や『古今和歌集』などの歌集も多く編まれているのです。
 和歌や管弦の会などもおおく営まれます。和歌では定家などが歌作りについての指導をします。内容は、それより300年前の言葉を使っての本歌取り主義の伝統を守り、現実のことを歌うのではなく、都の雅や、花鳥風月や恋の歌を歌います。
私は、このたび『方丈記』を読むまえは、どちらかというと、その方面からこの時代を空想していたのです。ですから『方丈記』の二 を読んでびっくりしたのでした。和歌詩歌は、世界の文学史にも稀なほどにもっとも高度な美的世界を闇の架空に築いていたというのですが、こんな歌を優雅に歌っていられる時代ではないではないかと。

768年後の堀田善衛は東京大空襲の翌日、K君の疎開先から都心の。疎開して空き家になっているお父さんの会社もあるK君の実家のようすを見に行きます。何もなくなった焼け野原にK君のおうちの鉄骨と金庫だけが残っていたのを見ます。ぶすぶすけぶる焼け跡に多くの死体もみます。そのあとの思いが延々と描かれています。それは、天皇陛下をはじめ身分の上下を問わずすべての人が難民になったとの思いからくるものでした。

しかしそのことが、じつは全く違う様相を見せるショッキングな場面に出会います。
3月18日、堀田善衛は早朝、全滅したと聞いていた深川の富岡八幡宮境内の近くに、知り合いの女性の住んでいたあたりに行ってみます。凡てがやきつくされて、跡形もなくなっているところへ唖然となって佇立していると、警官や憲兵がへんに多くなっていき、石畳の上に散乱していたものをかたずけ始めました。しばらくそこを離れ、9時近くにもう一度行ってみると、焼け跡はすっかり整理されて憲兵が四隅に立ち高位の警官のようなもの、立派な服を着た役人らしい人が増え人だかりがしてきました。9時過ぎと思われる頃、なんと外車の乗用車が数台サイドカーなども伴い砂埃をあげてやってきて、大きな勲章をつけた軍服姿の天皇陛下が降りてきたのです。周りの人たちは焼け跡に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申し訳ない次第でございます。生命をささげまして、といったことを口々に小声で呟いていたのでした。彼は、驚いてしまいます。こういうことになった責任を天皇陛下はどうとるつもりかと考えていたのに、責任は原因を作った方ではなくて、焼かれて身内をおおく失った方にあるとは、と。こういう逆転がどうして起こり得るのか。さらに、あとからわかることですが、すでに1944年2月に侯爵近衛文麿の書いき秘密に附されていた天皇に対する上奏文。この内容が、多くの紙面を使って引用され彼の思いが語られていきます。

このことは、鴨長明が書いた当時の国民の嘆きと、朝廷一家の閉鎖文化、現実遮断文化の対比。この対比は、全く変わっていないということを思い知るのでした。

『方丈記私記』はこれが結論というわけではないのですが、今新型コロナパンデミックの時にあってその指示への責任は、専門家委員会にまかせて、誰それの定年延長など審議している国政について、あるいは、多くの経営者が倒産に追い込まれたり、多くの人が職を失っているなかで、違法な選挙活動をしておきながら国会議員として籍を置いて辞職もしないでいるひとをほおっておける国政に対して、似たようなものを感じるので、私の読後感だけが、このことが結論っぽくなってしまいました。

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『方丈記私記』 ⑴
2020/05/17(Sun)
 堀田善衛著 『方丈記私記』 を読みました。
 1971年初版、1972年第8刷発行で筑摩書房よりの単行本です。

 170ページまで読み進んでいくと、『方丈記』の書き出しである
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし。」
 というのは、長明の気持ちとしては、実は、水のことでも泡のことでもなくて、
 「世中にある人と栖と、またかくのごとし。」
 というところへかかっていくものであって、人の住む住居の話なのです、と強調します。この『方丈記』というのは、住居についてのエッセイなのです、ともいいます。
 そこまで読み進んでいたせいで、このことはある意味十分理解できます。

 2、3日前、子どものころ、古文の授業で勉強して以後、何十年ぶりかに『方丈記』を読んで、私は『方丈記』って、こんな大変な時代のお話だったのか。大火、大風、地震、疫病、飢饉、洪水、旱魃、遷都、戦、政変、強盗などが10年くらいの間に凝縮されたそんな時代の話だったのかと、びっくりしました。これらの大火、大風、遷都地、地震などの天災人災のすべてが、人間の住む住居というものとの関連で語られています。そのことを、同じ時期の記録である、『吾妻鏡』、右大臣であった藤原兼実の日記『玉葉』、定家の『明月記』、源家長の日記、資料総覧などたくさんの文献からうかがい知ることができ、検証されていきます。

 ただ、他の文献と比べ、鴨長明は、自分でその現場に足を運んで、実際に見たことをルポルタージュしているのだといます。他の本での記録は、「とか云う」などと、屋敷にいて聞いた話として記録されていきます。鴨長明はおなじ聞いた話でも、現場に行って聞いたものなのでリアリティがあります。
 そこに『方丈記』の大きな特徴を見ることができるといいます。

 著者の堀田善衛の『方丈記』への考察には深く感心させられます。あるとき、安元3年(1177)4月28日の大火について、
 ≪火元は樋口富の小路とかや、舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん・・・≫と読んでびっくりしたといいます。彼がその前、戦前のことのようですが、読んだときには、「病人を宿せる」と書いてあったといいます。研究者の成果などによって、徐々に変わってきた部分もあることを伝えます。それほど、彼の研究はほとんど全文暗唱しているのではと思えるくらいです。堀田善衛は、『方丈記』の内容から災害の実情を十分シュミレーションしていました。
 そんな彼が、それから768年後の、1945年3月10日、東京目黒区洗足のk君の疎開先に厄介になっていて、警戒警報の発令を聞きます。爆音のもと、もしかのことも考え避難方法を決めておいてk君と文学の話をしていたといいます。これがかの東京大空襲でした。
 それによって、『方丈記』から感じていた歴史的事柄から学んだことの普遍的ともいえるものを感じるところが、この度初めて知るところのことでもあることを思うと、新型コロナパンデミック終息以後のことも予想できそうできそうな気もしてきます。


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『方丈記』
2020/05/15(Fri)
 鴨長明著、三木紀人校注 『方丈記』 を読みました。
 新潮日本古典集成の1冊で、昭和51年10月発行、平成3年5月10刷です。

 鴨長明が58歳のとき書きあげられた『方丈記』は、晩年一丈約3メートル4方の広さの家に住んでいたときに書かれたものです。
 おわりに鴨長明の詳しい年譜があります。小さな文字で3段組み8ページもの年譜です。そのときの高貴な人の生死や、歴史的な事象もありますので、これを先に読んでおく方が、作品の理解に役立つと思い先に読みました。
 鴨長明は1155年に生まれます。下賀茂神社の正禰宜惣官である父親が17歳のときの子どもでした。しかも次男です。母親は未詳ですが、長明生誕後まもなく早世したか、とあります。そして、長明は1216年に62歳で亡くなります。
 3月に読んだ源頼朝挙兵からはじまる『吾妻鏡』は、鴨長明が26歳のときからの物語です。源頼朝が亡くなるのが1199年で、鴨長明が45歳のときのことです。 ときをへづして同じ時代を読むので、興味も深まります。
 長明は19歳のとき父親が亡くなり、それを契機につぎつぎと頼りにする人が亡くなり、不運に見舞われていったようです。
≪五 ・・・・いま、日野山の奥に跡をかくして後、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。・・・・≫
という境遇になったひとです。

 『吾妻鏡』と同じ時代とはいえ、視点が全く違っているので、この時代をかなり立体的に感じ取ることができます。
とくに、
≪二 予、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。・・・・、≫
では、1177年の「安元の大火」の、大火事発生、都のうち三分の一が焼け、死者数十人という大惨事が描かれます。また、1180年4月「治承の辻風」では、京極あたりから六条へ辻風が起こり、ものいう声も聞こえず、三、四町を吹きまくる間に其の圏内の家は一つとして破れない家はなかったといいます。
 さらに、同じ年の6月「福原遷都」。京に都が移って400年近くなるというのに、おおよそ都人にとって理由がわからない遷都に唖然とし、それから都がみるみるさびれ、ついでがあって福原に行ってみたが、内裏は山の中で、あれだけの大臣や公卿が位に思いをかけて家財を船に積んで、淀川を下って行ったが、それらの家らしきものも見えないとのべます。
 ひきつづく、1181~1182年「養和の飢饉」、1185年7月の「元暦の大地震」。
それらの事象による人々の苦しみや、行政の不備について都の住民としての視点から述べているのが、読み応えのある描写といえます。

 そして山中での方丈の暮らしになってみると、何事もすべて自分一人でやらなければいけないが、できる時にやり、身の貧しさを気にかけることもなく気楽で、都で他人を気にして暮らしている人が気の毒にさえ思われてくるというくだりは、はい!私も新型コロナのパンデミックで読書三昧で楽しいです!お昼はウナギ丼を作って食べ、夕方には酢サバ入のお寿司を作って近所に少しおすそ分けしただけで、夫と美味しいねと言って食べ、山の中の団地暮らしで、鴨長明の気分で最高です。


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『新書365冊』
2020/05/13(Wed)
 宮崎哲弥著 『新書365冊』 を読みました。というより、眺めています。
 2006年10月出版の朝日新書です。

 斎藤次郎著 『「私探し」の綱渡り』を読んでいる途中にも、眺めていて、
 ≪簡単に言えば「後に残らない」新書が多くなってきたのだ。≫
 の文面に会い、その根拠を長々と読んでいて新書ってそういうものかと思いつつ、『新書365冊』 も新書だからとの思いもしつつ読んでいたのですが、やめられないまま読んでいます。
 コロナウイルスに侵されている時世、「狂牛病」に目が留まります。86ページの中村靖彦著『牛肉と政治 不安の構図』文春新書』では、
 ≪ 牛肉は「政治財」である。単なる商品ではなく、政治によって左右されやすい特殊な財である。その政治財が狂牛病によって汚染された。著者は、日米両国の牛肉産業の驚くべき実態を取材し、狂牛病が齎した衝撃を追う。≫
 208ページまで行くと、福岡伸一著『もう牛を食べても安心か』文春新書で、
 ≪・・・・・国内で使用禁止にした肉骨粉を密かに輸出し、狂牛病を世界中に拡散させたイギリスの犯罪的政策や、人間の変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の原因が、狂牛病の食肉にあると突き止められる過程などが、ジャーナリストはだしの熱を帯びた筆致で描き出されている。・・・・≫
 これは、各章での問題提起とそれについての考察が端的にまとめられており、一時福岡伸一の作品ばかりを読んでいたときにつねに基盤に置かれていた「動的平衡」という言葉と共に、人体が説明されています。そして、日本の狂牛病への対応について、
 ≪七章では、これまでの全考察を踏まえて、日本が実施した世界でも稀な狂牛病対策である前頭検査がいかに理に適った方策であるかが論じられる。安易な前頭検査見直し論こそが科学的根拠に基づかない、政治の所産なのだ。≫
 さらに、宮崎哲弥は、
 ≪世紀の名著、と評すれば過賞だろうか。だが科学者としても、書き手としても、底知れぬ力量を感じさせる。≫
 と評価しています。

 余談ですが、私は広島県立病院で耳の後ろを切っての手術を受けました。執刀は日本でも指折りの名医である福岡先生でした。終わったあと、先生は「手術で欠損したものはすべてあなたの体の中にあるもので作ったり、代用したりしたので拒絶反応が出ないからね。」とおしゃいました。「はあ」ととぼけた返事をして、術後同じ耳の手術をされた同室の人たちの要望に応えて毛糸で数個のベレー帽など編みながら10日余りの楽しい入院生活をさせていただきました。

 ≪・・・・しかるに、他の生き物のタンパク質情報はそのままでは脅威なのだ。それは、生体にとってノイズであり、干渉を引き起こす。文脈の異なるタンパク質情報を不用意に体内に取り込めば、しばしば有害な結果を招く・・・・。≫
 とさらに、この文章を読んで改めて福岡先生の手術のテクニックに敬意と感謝を感じています。

 それはさておきコロナウイルスについては、韓国でパンデミックが再発したとはいえ、初期段階にとにかくできうる限り多くの人のの検査を追行するやり方についてはよかったのではないでしょうか。日本でも山中教授が早くからそのことを言われ、終息への道筋についても話されていたのは、まさにこのことだったのかと思わされる内容でした。

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『「私探し」の綱渡り』
2020/05/11(Mon)
 斎藤次郎著 『「私探し」の綱渡り』 を読みました。
 1988年1月出版の有斐閣新書です。

 著者は、日本エディタースクールというところで講師をしているとのことです。高校を卒業して編集者を志望する人たちに、専門技術を教える専門学校のようなところだとのことです。「児童文化論」という講座を受け持っておられるとのことです。

 副タイトルに、「現代の若者を解読する」とあります。2020年の今となっては、30年前の若者を解読することに意味を見出せませんし、時代と共に若者が変容しているのを随所で読ませていただくと、なおさらです。

 それにしても、30年たってご縁があったことを思って読んでみると、学校なり教育委員会なりの、若者たちの人権への縛りについての苦言が多く、それに尽きるのかなと思える部分もありました。
 縛らなければいいのかなというと、結論は、それも綱渡りの様相ではあるが、致し方ない。ということに理解できるのかなと思える本でした。

 この次に、これは読んだことがあると覚えている、宮崎哲弥著 『新書365冊』 を眺めていて、新書本について、
≪ところが、『諸君!』連載中から、風向きが変わってきたことを強く感じるようになった。簡単に言えば「後に残らない」新書が多くなってきたのだ。・・・・≫
という部分があるところを読んで、この斎藤次郎著 『「私探し」の綱渡り』 もそのたぐいかなとも思えてきました。



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『消えたイングランド王国』
2020/05/09(Sat)
 桜井俊彰著 『消えたイングランド王国』 を読みました。
 2015年12月出版の集英社文庫です。

 目次の次に、イングランド王の系図があります。
 それは865年~1087年のものですが、そのなかの、924年~1066年までの142年間がイングランド王国でした。
 それ以前は(七王国時代)でもウェセックス王国で、以後はウイリアム征服王になっています。
 しかし、924年~1066年のイングランド王国というあいだにも、1013年から1014年の約1年間と、1016年~1042年の26年間は、デーン朝です。

 読み終わってみると、以上の説明がどういうことなのかということが、この内容を読むとわかるということです。そしてそれは、イギリスという国の成り立ちの一部分が見えてくるということなのです。

 このイングランド王国時代には、ブリテン島の中でも、ウェールズとスコットランドは含まれていないようです。ですから、そのかんのウェールズとスコットランドのことはほとんど描かれていません。
 イングランド王国以前、ウェールズとスコットランドを除いた地域内にウェセックス、サセックス、ケント、エセックス、イーストアングリア、マーシア、ノーサンブリアという七つの国がありそれを七王時代と後にいっています。ところが、787年を皮切りにイングランドをデーン人の船団が襲ってくるようになります。ついに七国のうち三国近くをデーン朝が支配しはじめます。それを七国の中のウェセックス国王が大部分を奪還しイングラン王国誕生の足掛かりとなり、孫の代でこのウェセックスの国王がイングランド王を称するようになります。
 この間のデーン人の襲撃のとき、デーン人は、スコットランドやウェールズと組んで七国を襲撃することがありました。

 この時代は、大陸ユトランドを中心とする地から海を渡って移住してきたアングル人、サクソン人、ジュート人たち、すなわちアングロサクソン人といわれていた人たちの時代でした。もちろんデーン朝時代のデーン人も多くそのまま居座ってのイングランド王国時代の到来です。その中には、スエーデンやノルウェーのバイキングもいたのですがイングランド王国ではまとめてデーンと呼んでいたようです。
 そのバイキングへの対応策として、これらの船団が補給地としていたドーバーの対岸のノルマンディー公国に、港を開放しないよう求めます。そうはならなかったのですが、それをきっかけにイングランド王国はノルマンデー公国への存在が大きく影響するようになり、結局1066年ノルマンデー公国に乗っ取られるようになるのです。
 著者は、このバイキングと勇敢に戦ったおおくのイングランド大国の勇敢な軍人などについて多くの紙面をさいています。
 しかし、イギリスの歴史に疎い私にとっては、この勇敢な兵士の物語の舞台装置がわかるための読書になってしまったことでした。
 またこれを読むことで、ネイティブな近代英語が出来ていく道筋も多少分かってくる読書でした。

 ※最後のノルマンデー公国軍との最終決戦のとき、7000人のイングランド軍が、両手で持つデーン風の戦斧(戦斧)で戦った光景が語られています。2018年の11月に「出雲かんべの里」を訪問させていただいたとき、薪割をされている場所にメードインスウェーデンの斧があり、意外に思ったことがありましたが、北欧では斧づくりはこんなころから大量に武器として作られていたことがわかり納得できたのでした。


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『伊勢物語』
2020/05/05(Tue)
 中野博雄著 『伊勢物語』 を読みました。
 日栄社より昭和三十三年初版で、これは昭和35年11版の『学習受験 伊勢物語文法詳説』 で、表紙ががっちりしています。

 ≪『伊勢物語』は平安時代最古の歌物語であり、源氏物語と並んで永く歌道の手本と仰がれてきた古典である。本書にはその全文を取り上げることができたので、一つの古典を全部通読することにより、このすぐれた古典を味読してもらいたい。≫
 とあります。

 「全文取り上げる」とあるのは、一段から一二五段までのことです。一番長いのは六五段の一で見開きで2ページです。2ページとはいえページを上段の本文と下段通釈半分に分けてあります。短いのは4行というのもあります。

 一段から聞き覚えのある

 ≪みちのくのしのぶもぢ摺り誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに≫

 が出てきます。語釈と文法の解説は完璧で、
 ≪「われならなくに」の「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形。「なく」は打消しの助動詞「ず」の古い未然形「な」(奈良時代の活用形で諸君の文法教科書にはない)に用言を体言化する接尾語「く」のついた形。例、「いふ→いはく」、「思ふ→思はく」など。「に」は逆説の接続助詞「ノニ」の意。≫
 と一言一句わからない説明のないものはないといった具合です。
 歌に関心のない私ですが、眠くなったころ聞き覚えのある歌が出てくるので、励まされながら読めます。

 たくさん心にとまる話がある中に、一つ 九段の二での、「富士山では」に、有名な「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなるりけり」につづいて
 ≪富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。

  時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪の降るらむ

 その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかりに重ねあげたらむほどして、なりは塩尻(塩田の、砂を掘り上げた塚)のやうになむありける。≫
 とのべてあり、当時の富士山への感想が伝わってきます。

 また、思わず大笑いして読むところもあったりして、最後一二五段は
≪【一二五段】 昔、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、

  つひに行く道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを≫

 です。これについては
≪はなやかな青春を謳歌する初冠の段をもって書き起こされた物語は、今その男の臨終の歌をもって終わるとする。全編を業平の一代記としてまとめようとした作者の意図がそこに見られる。この時世歌はすこしもとりつくろわず、極めて自然に、死を前にした者の落莫とした寂しさを歌っていて、しみじみと読む者の心をうつ名歌である。≫
と解説の文章も完璧です。

 読み甲斐のある楽しい本でした。

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『原発と日本はこうなる』
2020/05/04(Mon)
 河野太郎著 『原発と日本はこうなる』 を読みました。
 2011年11月、講談社より発行された単行本です。

 読み始めると、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震のとき起こった福島第一原発原子力発電所の災害のことがでてきます。
 わたくしごとですが、2011年の夏休み、放射能汚染への警戒のため、それまで戸外で遊べなかった子供たちを連れた母親数組を、数日間、加計町の有志の方々が受け入れられました。有志の方々が、広く災害について被害者の方の苦悩を知ってほしいと懇談会を開かれたとき、誘われていったことがありました。
 被災者のかたがたから、災害についての受け止め方の違いから、家族がばらばら、地域もばらばらで今後のことは考えられないという状況が伝わってきます。広島は原爆の落ちたところなので、被爆者の手当の経験があるということから、広島から多くの医師が来てくださっているとのことで、こんなことで広島が役に立ったのかと複雑な気持ちで聞きました。
 そのあと、地元に残っていたお友達にと、被災地の子どもたちは、たくさんの落ち葉を土産に持ち帰り、お友達はどんな土産よりそれを抱きしめて喜んだという話も聞きました。
また、しばらくして、私が勤務していた安佐南学区内の県営住宅に何世帯か被災家族の方が引っ越してこられていることを子どもたちから聞きました。
 そんなことを思い出しながら、身が入っての読書となりました。

 この災害は、いうなれば、放射性物質を除外するかずかずの法律によっての災害が一度に押し寄せた災害です。

 この災害、子どもたちが戸外で遊べない。その一点を見ただけでも、このたびのコロナウイルス災害とおなじですが、国によるその対応の違いがはっきりします。コロナウイルス対応の予算は国民にかなり明確に示されています。毎日学者の方々が、まだよく状況がわからないうちからいろいろ聞かれて、よくはわからないまでも予測できることを話してくださってもいます。しかし、福島の原発の場合は、「奨学寄附金」「共同研究費」「受託研究費」の三つの名目で、七人の大学の研究者に電力会社、原子炉メーカー、政府の外郭団体などから五年間に八億円ものお金が流れていたとずっとあとになって封じられたといいます。その人たちは、事故直後には安全ばかりを強調したのです。

第一章 原発事故の裏で
第二章 「原子力村」に蠢く住人
第三章 亡国の核燃料サイクル 
 「原子村」とは、原子力によって利権を得ている様々な組織の人たちのことです。と、そんな聞くに堪えない報告は165ページまで続きます。読んでくると、なんだか疲れてきます。

それで、
終 章 二〇三〇年の日本
から読むことにして読みました。① 「原子力村」は解体されているか、② 国土交通省のうそがばれるとき(群馬県の矢斗島という場所の利根川上流の治水基準点の「基本高水の基本データの捏造について書かれています)、③ 「河川村」も「原子力村」と同じ、④広告宣伝費で抱き込まれたマスコミ、⑤原子力問題は日本復活のテストケース。について書かれているのですが、二〇三〇年にもう一度これらについてどれだけ善処されているかのバロメーターとしています。この本が書かれて今ちょうど、2030年まで、真ん中あたりです。個々の問題について半ばまで来たというより、私たちはさじを投げた感じもします。
第5章 日本が世界を救う新エネルギー
ここを読むと、原子力発電に代わる発電装置として、地熱発電、風力発電、太陽光発電、小水力発電、バイオマス発電、そのほか、これから開発の余地のある、海流や、海水の温度差利用の研究による発電などそれぞれについて各国がどれくらい使用しているか、のデータを駆使して説明されていて、明るい気持ちになり、元気が出てきます。

第四章 救国のエネルギー政策
ここでは、第四章で掲げられた原子力発電以外の発電方法にいかに「原子力村」が法規制をかけて、それを不可能にしようとしているかの説明があります。
 河野太郎が、これに待ったをかけようとすると「おまえは共産党か」と言われるとあります。まあそんな経産省、電力会社、自民党の原発族の横槍のことです。

 ≪自民党の長期政権は、日本に自由主義、民主主義、資本主義をもたらし、経済成長を実現しました。しかし、冷戦が終わり、中国が世界経済のプレイヤーに復帰し、日本の人口が減少しつつあるいま、日本には新しい政治モデルが必要です。政治家に任せる、お役所に従う、マスコミの報道を鵜呑みにする、そして税金でやってもらう時代から、一人ひとりが積極的に社会に関わり、情報を取捨選択し、少しの時間とお金を社会のために使っていく時代になったのです。≫
で結んであります。

 いまコロナウイルス災害に出会って、世界中が未経験の災害のさなかにいるからこそでしょうか、みんなが、困っている人、頑張っている人のことを考えながら、国家予算の有効な使い方について、国民みんなが考えていると言っていいのではないでしょうか。世界のどの国の対応が参考になるかなどもみんなが考えているのではないでしょうか。一方、非常時だからこそ起こる政変に注目も集まってるともいえます。


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『竹取物語新解』
2020/05/03(Sun)
 末政寂仙著 『竹取物語新解』 を読みました。
 昭和38年8月、学修社版の純粋に古典学習の参考書とでもいうものです。
 解題に
 ≪普通「竹取物語」と称せられているが、源氏物語絵合の巻に、「物語の出で来はじめの親なる翁」とあり、また同じく蓮生の巻に「かぐや姫の物語の絵にかきたる」、・・・恐らく原本には題名がなかったもので、巻頭に「今は昔、竹取の翁というものありけり」とあるところから、「竹取の翁の物語」から「竹取物語」となったものであろう。≫
 とあり、内容は、日本古来の民間説話を基本として、中国の古い書物漢籍や仏典の説話をも取り入れて構成したものであろうと述べられています。

 成立年代は、大体延喜(901~)前後としながらも、作者ともに、いろいろな考証はあるものの、これも結果として不明とされています。
 「竹取物語」とほぼ内容が同じとされている、(今昔物語集第卅一、卅三話) 「竹取翁篁中ニ女児ヲ見付ケテ養ヒ立ツル話。」 も、文章の書き方はこの表題の書き方とおなじ書き方で収録されています。これは、「竹取物語」の古文の文章より内容がずいぶん短く、よく理解できます。

 「竹取物語」の古文による本文はながめつつ、通釈のみを読みました。それでも長くて、一日がかりでした。自分が思っていた内容にしては、登場人物のその時その時の感情などもよく書き表されていて、たしかにこれは物語とえる感じでした。
 さいごに、時の帝から召され、さすがに姫も帝位に対しての敬意から心ひかれたものの、遂に8月15日の夜、月の都からの迎えを受けて昇天した。その昇天に際して姫は帝に文と不死の薬とを献上したが、帝は姫がいなくては不死の薬もなんの益もないとて、一番天に近いところとして、駿河の国にある山の頂で焼かしてしまった。それ以来その山を富士の山と言い、いまもなおその煙が立ち上っていると伝えられている。という部分にもあるように、五人の求婚者とのそれぞれの文末にも、「以後このことから、このように言われるようになった。」というのが「竹取物語」の特徴でした。
 例えば、最初の石造りの皇子にたいして、要求した鉢が偽物だとばれたのに、
≪あの鉢を捨ててもまだ懲りずに言い寄ったことから厚かましいことをば、鉢(はじ)――恥を捨てるとといったのだ。≫
という具合です。
文学的価値についての解説として、「物語」として新しいジャンルを作ったということ、五人の貴公子の求婚失敗談は、当時の貴族階級の好色的で無知な生態を暴露して痛快な皮肉があり洒落があって興味深いと書かれてあったことが印象に残ります。

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『江戸職人奇譚』
2020/05/02(Sat)
 佐江衆一著 『江戸職人奇譚』 を読みました。
 新潮文庫で、平成10年9月です。

 タイトルは見るからにいなせで興味を引きます。
  「解錠奇譚 錠前師・三五郎」
  「笑い凧 凧師・定吉」、
  「一会の雪 葛籠(つづら)師・伊助」、
  「雛の罪 人形師・舟月」、
  「対の鉋(かんな) 大工・常吉」、
  「江戸の化粧師 化粧(けわい)師・代之吉」、
  「水明り 桶師・浅吉」、
  「昇天の刺青 女刺青(ほりもの)師・おたえ」、
  「思案橋の二人 引札師・半兵衛」
と九つの作品が収録されています。

 けっこう時間をかけて読んだので、最初のほうは忘れてしまいそうですが、こうならべて書いていくと、やっぱり最初の「解錠奇譚 錠前師・三五郎」がいちばん印象的です。
 作品もいちばん長く主人公三五郎の職人技が楽しめました。
 考えたことがあります。銀行などの金庫破り事件があったとき、その銀行を建てた人とか、金庫を据え付けた人とかが犯人だったことがないなということです。三五郎は、錠前師のなかまうちでは「からくり錠の三五郎」といわれていて、わが国で初めて、世界にもない「からくり錠」を発明した男です。
 なるほど、この錠前師はいろいろのところで仕事をするのですが、ときは慶応2年9月13日、迎えの駕籠に目隠しをされて連れていかれるのでした。鍵を亡くしたので開けてほしいと言われて、巧妙複雑な鍵をあける仕事です。でも、自分が仕事をした場所がわからないのです。これは、彼の腕を試したある女性の仕業で、この女性はじつは大奥につとめている女中で、三五郎の腕を見込んで、江戸城御金蔵より一部の金子をよそに移すために、三五郎が以前造ったからくり錠をあけてほしいといわれたのでした。大奥に行くために長持ちの中に入って大奥に忍び込み、以前自分が作ったからくり錠をあけた。

 ≪慶応4年4月11日、江戸城は無血開城され、討幕軍は江戸に入城、上の寛永寺大慈院に謹慎していた慶喜は水戸へ退去し、徳川三百年は終わった。五月彰義隊が上野の山に立てこもったとき、寛永寺寒松院の庫裡に二万両が既に運び込まれていたが、三五郎は知らない。・・・・時代をひらく鍵は人だと、いいたかったのであろう。≫

 彼の九つのどの作品にも職人的な魅力を感じさせられたのは私だけでしょうか。。

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