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『出雲国風土記と古代遺跡』
2020/06/26(Fri)
 勝部 昭著『出雲国風土記と古代遺跡』について。
 2002年、山川出版社から、日本史リブレット13として出版されたものです。

 目次の最初に、唯一完本として伝わる『出雲国風土記』として、『風土記』についての説明。そして、『出雲国風土記』の存在の意味と内容の説明があります。
≪風土記(奈良時代には、中央政府に報告する解という文書であった。平安時代になってから風土記と呼ばれるようになった)は奈良時代の地誌である。今日、現存する風土記はわずかに出雲国・常陸国・播磨国・肥前国・豊後国の五風土記である。
 713年(和銅六)五月、元明天皇は、①郡や郷の地名によい字をつけるとともに、②郡内の産物・草木や生息する魚鳥獣、③土地の肥沃具合、④山川原野や地名の由来、⑤故老の言い伝え、の五項目について報告するように命じている。全国六十数か国からそれぞれ提出されたはずであるが、五風土記以外は逸文としてごく断片的にしか残っていない。
 五風土記のうちで早くできたのは播磨国と常陸国、その後739年(天平十一)までには豊後国や肥前国の風土記ができた。『出雲国風土記』は733年に勘造されている。命令があってから実に20年後にできたことになる。
 『出雲国風土記』」の原本は伝わっていないが、風土記のなかで、初めから終わりまでほぼ完全な形で全体が残っている唯一のものである。最古の写本は永青文庫(細川護貞所蔵)の1597年(慶長二)10月13日と奥書された、細川幽斎(藤孝)が書写させたことが明記された写本である。この細川家本や1634年(寛永十一)に尾張藩主徳川義直が寄進した島根県・日御碕神社本、京都・上加茂神社に伝わる万葉緯本などは誤写の少ない写本として知られる。
 皇學館大学名誉教授田中卓によれば、それ以前に『出雲国風土記』が引用されたことがわかる最古の例は1273年(文永十)成立の卜部兼文「古事記裏書」に「ある書にいう出雲国意宇郡野山」であり、その子、卜部兼方が著わした『釈日本紀』(鎌倉末期に成立した『日本書紀』の注釈書)にも「出雲国風土記に曰く」と、出雲郡宇賀郡、意宇郡楯縫郷などが引用されている、という。鎌倉時代に『出雲国風土記』が読まれていたことは確かである。・・・・≫

 我が家に、この日本史リブレットシリーズの本が4冊あります。4の『古墳とその時代』、
5の『大王と地方豪族』、7の『古代都市平城京の世界』、とこの13の『出雲国風土記と古代遺跡』です。この13の『出雲国風土記と古代遺跡』は上記のように、初めから、確実に知りたかった情報が、ていねいに記されており、要約したりあるいは印象に残る部分を引いて書き記すという種類の本ではないことを記しておきます。




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『あしながおじさん』
2020/06/24(Wed)
 ウエブスター原作 岡本浜江訳・文『あしながおじさん』 を読みました。
1982年、ぎょうせいから、少年少女世界名作全集19としての出版です。
この本で読んだかどうかわかりませんが、最後の部分になって、以前読んだことがあると思いました。とてもいい作品でした。

 すこし読書から離れて、本箱を前にすると、子ども向けの本を読みます。なんだか心が洗われるような気がするからかもしれません。この作品はこの目的にしっかり応えてくれる作品でした。

 名前を名乗らない支援者によって、孤児院にいた女の子が大学に進学でき、支援者からの約束に従って、毎月1回支援者に手紙を書く。その手紙の内容で出来上がっている作品です。

 報告では、ときどき、そのとき読んでいる本について紹介して、その中の名文と思うところも紹介しています。私も同じ年代のころ読んだ本がほとんどだったので、そのころを思い出します。高校を卒業して、タイプを学びながらアルバイトをして、50巻以上ある中古の世界文学全集を本通りのアカデミー書店にて5000円で買いました。のんびり構えて読み、読み終わった後再びアカデミーが偶然5000円で買い取ってくれました。

 科学の授業では「真の学徒であるかないかは、細部にわたって、こつこつと探求する情熱があるかないかにかかっている。」、歴史の授業は「細部にばかりこだわらず、一歩はなれて、ぜんたいを見通すことがだいじ」、わたしは歴史的方法の方が好きです。と述べられているところでは、私も30歳で近くの短期大学部に志願し、面接で何の目的で受験を?といわれたとき、「読書が好きで、何もわからず乱読してきました。それが体系づけられたらいいと思います。」と答えると、試験官の奥におられた年寄りの先生がいきなり「そうだ!」と大きな声で言われ、あとでその方が畠山親房の『神皇正統記』を校注された岩佐先生だと知れました。とはいうものの重箱の隅をつつくような読書もよくやっています。

 資産家であろうと思われる支援者のあしながおじさんに、「わたし、思うんですけど、わたしも社会主義者になろうと思います。いいでしょう、おじさま?社会主義者って無政府主義者とはちがうから、人をそげきしたりなんかはしません。わたしはもともと無産階級の一員なのだから、その資格はあるとおもいますわ。」というところでは、そういう、主義などということに自分を重ねて考えることがなかった若いころの自分を思っていました。そういえば、そのころ70年安保の盛んなころで、広大の給与課に就職したタイピストの友人は千田町から医学部の事務所に給与課ごと引越しをしたというそんな時代でしたのに。

 彼女の大学の寄宿舎は、むかしは400人用の伝染病棟だったとか、好意を寄せていた人に求婚され、孤児院出身の自分では相手に迷惑と断った相手があしながおじさんだとわかったあと、おじさんの無事を祈る思いのなかに、≪おそろしい病菌が、あなたの口にはいりこみはしないか、心配してしまう≫という部分に目がとまりました。

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『古代都市平城京の世界』
2020/06/13(Sat)
 舘野和己著 『古代都市平城京の世界』 を読みました。
2001年、川出版社出版から、日本史リブレット7としての出版です。

「おわりに」において、
≪紙面の都合で、あるいは筆者の準備状況・力量から、触れるべくして触れることができなかった論点も多い。ここでみたのはあくまで平城京のみである。平城京を対象にすれば、またおのずと異なった都市像が浮かび上がってくるはずである。≫
とありますが、この「日本史リブレット」シリーズのなかでは、いちばんおもしろく読めました。

694年から710年までの城都である藤原京から北の平城京に遷都するところから書きはじめられています。藤原京ですでに条坊制をひいた京を確実なものとしていたというので、さらにそれを進化させた都市であったと思えます。ここで「京」というのは、「宮」に対してつかわれる言葉で、「宮」は、王族の宿営地といったもので平城宮のことです。その前に広がる縦横の何筋かの通路で出来上がった街を「京」と呼んだというふうに理解しました。これを作るにあたっての土地選びということですが、藤原京は地形的に「京」がたかく、「宮」が低かったのではないかと思われます。平城京を選ぶにあたっては「宮」を高くし、しかもそれが北にあたり、南に低く「京」が伸びている地形が選ばれました。「条坊制」とは、横の通路が「条」縦の通路が「坊」の碁盤の目のようにすることです。「宮」は、一条と二条の間、西一条と東二条の間です。まんなかの大路は朱雀門から始まる朱雀大路です。
「平城宮への遷都」、「平城京の都市計画と住人」、「平城宮の実相と官人」、の次「商業者の世界」も興味ある話題でした。商業者と納税者と為政者の関係が資料採掘の研究によってわかってくることで、社会の仕組みが分かってくる楽しさがあります。
 「平城京と地方とのつなが」では、何のことやらと漠然と読んだ『万葉集』の衛士などの単語がでてきます。中央が地方に要請した人材とそれへの地方からの食糧などの支援要請などがでてきて、つながりを少しづつ見えやすくしてくれます。
 「都市の苦悩と祈り」は、これまた、現代の新型コロナウイルス時代につうじる課題です。
 ≪現代都市は、交通渋滞・大気汚染・廃棄物処理・人口過密・貧困・失業などなど、多くの問題を抱え、解決に苦しんでいる。≫
と前置きし、10万人を擁していた平城京の苦悩も、この人口過密による問題は同じとして、ことに、『続日本紀』には「飢疫」の語が頻出しているといいます。最悪の事態として、737年に発生した疫瘡について「是の年の春、疫瘡大きにおこる。はじめ筑紫より来たりて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の百姓相継ぎて没死ぬること、あげて数ふべからず。近き代より以来、これ有らず。」と語られているというのです。疫瘡は天然痘のことだろうといいます。≪夭死する人が多かった。翌年一旦収まったかのようであるが、737年になると、再び流行し、4月には参議民部卿藤原房前が死去し、太宰府管内でも多くの死者を出した。そのあと政府要人の死者の名前が続きます。
 専門家による提言の如く、第二波のほうがひどかった前例の一つと思えます。

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『大王と地方豪族』
2020/06/11(Thu)
 篠川賢著『大王と地方豪族』を読みました。
 2001年、川出版社出版から、日本史リブレット5としての出版です。

 タイトルの「大王」(おおきみ)について、ここでいう「大王」は、天皇号が成立する以前の日本列島の君主を指しているとあります。わざわざこう提起しているのは、日本の国号が成立するのも、天皇号とほぼ同時期と考えられており、それ以前の国号は「倭」であり、したがって大王は倭国の王を指す呼称ということになるといいます。
 しかし、そのあと、天皇(大王)ではない皇族(王族)を指して「大王」と呼んだ例もある。たとえば、天寿国繍帳銘(聖徳太子の死後妃の橘大郎女が太子の天寿国での姿をしのんで作らせたという繍帳にある銘文)には、敏達天皇(在位572~585)の子の尾張皇子を指して「尾治大王」と記しているとも書かれてあります。敏達天皇といえば、皇統譜からみると、第30代の天皇で聖徳太子の伯父さんです。
 そしてそのすぐあと、
 ≪倭国の王、すなわち倭国全体を代表する王(大王)が登場してから、天皇号が成立するまでというと、おそらく三世紀後半から七世紀末頃までの年代が与えられるであろう。考古学でいう古墳時代にほぼ相当する時代である。天皇号の成立年代については、かっては、推古朝(7世紀初頭)とする説が有力であったが、近年では天武朝(7世紀末)とするのが一般的である。天武朝は律令制度の整備が進んだ時期であり、右の大王の時代は、律令国家が形成される以前の「大和政権の時代」ということもできる。≫ とあります。

 とはいえ、この作品では、この時代のすべてを対象にするのではなく、そのうちの五、六世紀を中心に述べるといいます。

 五世紀では、倭の五王の時代の倭王(大王)と地方豪族の関係について述べられます。五王とは讃・珍・済・興・武の五人の王で、『宋書』によれば、この五人からあいついで使いが送られ、これにたいして、宋の皇帝は倭王に官爵を授け、倭国の王に封じるというわけで、こういった国際関係を冊封体制(さくほう)と読んでいたというのです。しかしこれが安定しているかというと冊封関係を結ばない王もいたし、とちゅうで自主的に破棄することがあったり。宋そのものがあっけなく滅んだりと複雑で流動的であったといいます。たとえば高句麗などの隣国から攻め込まれることに対しての安心を得るための方策であったのかもしれません。このような記録は、『晋書』、『南斉書』、『梁書』などにもあるとのことです。それら宋などの国は、高句麗などとも冊封関係を結んでいたのだとあります。

 この本の内容について記録するには、あまりにも新たに知ることが多く、本と同じ紙面が必要なので、このへんで止めて、本の内容の雰囲気だけを残します。

 50年前頃買った集英社の『日本の歴史』13巻くらいだったかは、古田武彦でこの時代を扱ってあり、よく読んでいました。それ以後発掘された古墳などの資料によってか、それへの反対論者ともまた違った内容がほとんどでした。この『日本の歴史』は、孫に与えたのですが、いまとなっては、与えたことが良かったか悪かったかと思っています。

 ※この本は難しかっただけに、わからないまま何度かところどころ読み返しました。そのなかに、江田船山古墳の大刀銘の長大な棟の部分に刻まれた銀象嵌の銘の文字が、台天下獲(フルドリの上に草冠のない文字)・・・・・で始まっていて最初の台の文字は治であり、読みは天下治ろしめす(あめのしたしろしめす)と書かれています。もしかしたら邪馬台国の台国は、邪馬壹国ではなく国しろすめすと読めるのではないかと一人思いました。

 では邪馬台国の馬は、当時大陸からの渡来人が馬や牛をおおくつれてきたとあり、先に読んだ『古墳とその時代』では、日本国地図にどこにどれくらい牧場などができたかといった図が載っていました。邪は、邪心のよこしまとか二心というようですが・・・・と調べていくうち「筑紫古代文化研究会」 永井正範の
 ≪以上の分析から、魏・晋から南朝にかけての時代の中国の元々の漢民族は、「倭」字を「委」字と同 じ(wei、ゐ)と発音し、「倭人」は(ゐ人)、「倭国」は(ゐ国)と発音したと考えられます。この≪音韻判断≫に立つならば、卑弥呼の国は「邪馬‐倭‐国」(やま‐ゐ‐国)であり、卑弥呼の 宗女は「倭‐與」(ゐ‐よ)であったと考えられます。≫
 という思ってもみない研究レポートに出会いました。


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『消えた娘』
2020/06/09(Tue)
 クレイ・レイノルズ著 土屋正雄訳『消えた娘』を読みました。
 新潮社より、1989年出版の文庫本です。

 ≪1940年代のある日、イモジンは18歳の娘コーラを連れ、アガタイトの町にたどりついた。夫に愛想が尽き、家を出てきたのだ。車が故障し、役所前広場のベンチで修理を待つ間、娘は5セント持って向かいの店にアイスクリームを買いに行った。そしてそのまま、30分、1時間、1週間・・・・・・。
 イモジンはひたすら娘の帰りを待ち続ける。今までに例のないまったくユニークな心理サスペンス。≫
 と、カバーにあります。
 まったく、最後まで、このベンチに座り続けるイモジンが描かれていきます。
 彼女は、娘のコーラがアイスクリームを買いに行った向かいの店の店主が、彼女はここに来なかった。自分は見ていない。と答えるのがどうしても信じられず、怒り心頭の状態で、いつ帰って来るかわからない娘を、彼の薬局をじっと見つめながら待ちます。薬局の店主の人の好さを知っている町の誰をも信じられない気持ちから、通りすがりのアガタイトの町では狂人と呼ばれるようになります。それは、おなじく役所前広場の南北戦争の記念銅像とおなじように、町の風景にまでなっていく彼女の姿にまでなってゆきます。

 役所には保安官も勤務していて、当然、職務として18歳の少女がいなくなったのですから、気持ちの逆上するイモジンの捜索願に近い要求にこたえる必要があり、関わりを持たないわけにはいきません。然し何の手掛かりもつかめません。ここでは、普通のミステリー小説と違って、愛する妻を亡くして、一人暮らしになり、おいしいコーヒーさえ入れられない保安官の生活が語られます。町の人から信頼されて、それに応えたい保安官として思いからくるイモジンへのかかわりが、心理的にはだんだん質が変化していく状況をミステリアスに語るので、もしかして、彼がこの小説の主人公とも思えてきます。しかし実際、田舎町の保安官の心情としては、半分それが普通ではないかとも思えてきます。
ハロウィンが近づいた頃、保安官は、イモジンを不良仲間がからかっていじめようとしているとの通報を受け、なにげなくイモジンをベンチから引き離しておく必要にせまられ、彼女を食事に誘います。しかしこのとき、日ごろの思いが募り、愚かにもイモジンに求婚してしまいます。彼女から好色な男性だと、ひどい言葉で罵られ拒否されるところから、彼女との接点はほとんどなくなります。
そして、保安官にある日ニューオリンズ市警察からいなくなった娘コーラについての報告書が届きます。保安官は捜査の初期段階でコーラの指紋を何かからとっておかなかったことを悔いていました。結局決定的に報告書の自殺死体がコーラであることの確証が正式にえられず、報告内容は保安官の胸の内におさめたまま終わります。

今朝のテレビで、自宅待機していた人たちが、職場に行きたくなくなったというおおくの相談について、精神科医のメッセージなどと報道されていました。この小説で、ずっとベンチに座っていた女性が、もう娘のこともほとんど思い出さなくなってもベンチに座ることがやめられないというのと似ていると思えます。


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『古墳とその時代』
2020/06/02(Tue)
 白石太一郎著 『墳とその時代』を読みました。
 2001年、山川出版社から、日本史リブレット4としての出版です。
 読み終わって、しばらく手が取れなくて、ブログの記録が書けずにいました。
 
  古墳時代について、単独でそれだけを扱ったのを読むのは初めてです。古墳時代というその時代への線引きも斜めのものがほとんどで、この斜めということを、あいまいだというくらいで、具体的に考えてみたことはありませんでした。このたびは、考えるいい機会となりました。

 弥生時代に、日本列島に農耕社会が成立した。そうして3世紀後半になると、西日本各地に古墳が現れ始めます
私は日本の事柄が文献として書き表されたものは、『三国志』の「魏志倭人伝」(魏は220~265年)のものが最初だと思っていましたが、ここでは、その前の『後漢書』(後漢は45~220年)の記述が二つ紹介されています。光武帝の中元2(57)年に倭の奴国王が朝貢して印綬をうけた。安帝の永初元(107)年に倭面土国王帥升が生口160人を献じたということです。

 古墳時代は、前期 (3世紀後半~4世紀後半)
          中期 (4世紀後半~5世紀末葉)
          後期 (6世紀)
          終末期 (7世紀)前方後円墳の造営が停止されて以降、まだ古墳の造営がつづく時代をいい、政治史で言う飛鳥時代に相当する
 と最初に説明されていますので、すでに弥生時代にどの程度の範囲を領していたのか、そのような人が何人いたのかはわかりませんが、王を名乗る人がいたということになります。

 そして、これらの王と称する人たちが、近畿のヤマトの勢力を中心に相互に結びつきを強め、次第に国家形成への歩みを進める時代が古墳時代だとのべます。古墳時代の後半6世紀には朝鮮半島から騎馬文化、鉄器生産・金属加工・製陶・土木建築などの新しい技術、さらに先進的な学問・思想・宗教・芸術など積極的に受け入れ、結果として、日本列島の本格的な文明化が進展し、8世紀に開花する古典文化の基盤も形成されたとあります。
 本文は、上記にまとめたような、「古墳の作られた時代」、をはじめとし、「日本の古墳の特異性」、「古墳とヤマト政権」、「古墳時代の人々の生活」、「日本列島の文明化の始まり」と説明されていきます。

 日本の古墳が、他国のそれと比べて巨大であることについては、各地の勢力が結びつきながら、協力して古墳をつくっていった過程をみのがさずにつたえます。

 文字が大陸からもたらされたように、ほとんどの文明文化が大陸の影響を受けた状況については、後半、高句麗の南下という国際情勢よって、大陸の影響を受けざるをえなくなったことがわかります。
 高句麗の南下によって日本に逃れてきた人がいかに多かったかについて、『新撰姓氏録』の存在ついて述べられていたのが印象的でした。
 『新撰姓氏録』とは、弘仁6(815)年に万多親王らが、編纂した氏族系譜の書で、平安京および畿内の諸氏族を皇別、神別、諸藩に分類し、それぞれの系譜を筆録している。とあり、平安京と五畿内の1059の氏のうち、渡来系譜をもつ氏は、324ででほぼ三割を占めている。これはあくまでも支配者集団に属する氏の数であり、古代における渡来人の精確な割合は不明であるとしながらも、それが倭人社会を構成する重要な一部であったことは疑いないと述べられていました。
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