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『文学の淵を渡る』 ⑷
2020/07/29(Wed)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 の 「言葉の宙に迷いカオスを渡る」、「文学の伝承」 を読みました。2015年に新潮社から出版された単行本です。これが最後の章です。

 「詩を読む、時を眺める」の対談から、5年たっての対談のようです。
 翻訳家でもある、古井氏が、「外国語を読むというのは、言語と言語の宙に迷うということで、小説を書くときもそうじゃありませんか?言語の狭間に舞い、一度宙に浮いてしまい、そのまま浮きっぱなしでは、作品が終えられませんし、気もふれかねないので、どうにか着地するまでぎりぎり辛抱しなきゃいけないでしょう」・・・「「翻訳家はそのつどカオスを渡るしかない。小説家もそうじゃありませんか?」と述べているのが、「言葉の宙に迷いカオスを渡る」というこの章の、そしてこの本のタイトルと言えそうです。

 前の章の対談からの5年のあいだに、大江健三郎は『晩年様式集』を書きあげます。これは私も読んで間がないので多少覚えているのですが、古井氏のいう、「一度つかんだものは放さないと、展開できませんから、話すと心細いですけどね」という感覚とは真逆の作品とも取れます。以後、彼のほかの本も続けて読んだことからもそのように思えます。
 彼もそれを認識してか、「・・・・そして僕も八十五歳まで生きてしまったら、『最晩年様式論』の舞台をそれこそ新しく作りたくなるかもしれないと、むしろ不安になりました(笑)。」と述べています。

 「文学の伝承」では、古井氏は仕事の合間にラテン語のおさらいを始め、『ラテン語入門』の練習問題を最後までやり終え、くたびれて、もう一度日本の連歌に戻って、宗祇の歌を一句ずつ丁寧に復習していると話されました。
 そんな古井氏が、この頃の文科省の文学部の縮小について批判的な感想をこの作品のどこ何処かの部分で述べられていました。おもいおこせば、私のお世話になった同じ町の大学も文学部がなくなり、一瞬、あっけにとらわれました。
 やるなら資源化しろ!的な方針に従っての世策について、『文学の淵を渡る』 ⑶で紹介した、わたしの小泉八雲の『ある保守主義者』のレポートでは、さっそく田中先生の八雲文学を主婦などにも広げるべく資源化するとの意見に、さっそく主婦であるわたしが、はばかりなく持論を繰り広げたちしていたのですが、この対談を読むと、他の国々の言語よりも極端に複雑な国語をもつ日本でそれをやることの危険性をあらためて感じる読書でもありました。



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『文学の淵を渡る』 ⑶
2020/07/27(Mon)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 の 「詩を読む、時を眺める」 を読みました。2015年に新潮社から出版された単行本です。

 「明快にして難解な言葉」・「百年の短編小説を読む」につづく章で、126ページ~169ページです。

 大江健三郎は、古井由吉は小説家になる前に、ドイツ文学者として、大学で教鞭をとり研究されていたこともあり、本の読み方が玄人であると述べ、自分は外国語の本は毎日のように読んではいるが結局本の読み方の玄人にはなれず、散文しかわからないといいます。そのうえで、古井由吉さんの著書『詩への小道』を手掛かりに外国詩を読むことについて話を伺いたいということで始まる対談です。

 これは専門家の会話でましてや外国語、基本的にはとてもついていけないのですが、妙に感動してしまいました。
 昨日、本箱の写真のファイルをのんびり整理していたとき、写真を張り付けるための不用の用紙に何か印刷してありました。何が印刷してあるのかとみると、ラフカディオ・ハーンの会で、「ある保守主義者」についてのレポートによる冊子を作ることを風呂先生が提案された直後に、決められた2ページに収まるように詰め込んで書いた感想文でした。結局冊子ができたのは風呂先生が亡くなられてずっと後になってからでした。その間、状況が変わったためにそれは没にして書き直したのでした。冊子が出来てずいぶん経ったために、直後に書いたもののことは書いたことすら忘れていました。読み返してみると、風呂先生が亡くなられて悲しみと虚脱感のなかで書いたものとは、文章の勢いが違います。拙いながらも、どんなものからでも学び取って考察していこうとする気力にあふれて、2ページになんとか約めるための苦心の跡が見えます。
 そんな自分の中にある表現の違いというようなことにわれながら驚いたのでした。

 「詩を読む、時を眺める」という対談は、いまから10年前、自分たちが何をどう読み、あるいはどのように書いたか、そこにはどんな迷いや苦しみや屈折があったか、そんな思いが伏線として感じ取れます。

 古井 経験して感じたのは、小説を書く人間が外国の詩を読んだり、まして翻訳したりするのは危険だということです。そんなことをすれば自分の日本語を失うかもしれない。ようやく束(つか)ね束ね小説を書いてきた自分の日本語が崩れて、指のあいだからこぼれ落ちる恐れがある。

 この十数年前の対談での言葉を、いまその年齢になったわたしが、さきの数年前に書いたレポートへの驚きと突き合わせて考えてみると、風呂先生が亡くなった。読んでくれる人がいなくなった。とそれによって、束ね束ねして書いたレポートが、指のあいだからすっかりこぼれ落ちてしまっていたということと重なってくるのでした。

 大江 ・・・・先に引用したアンドレアス・グリュウフィウスの詩の言葉に誘われてでした。≪時の奪い去った年々は わたしのものではない。/これから来るだろう年々も わたしのものではない。/瞬間はわたしのものだ。瞬間を深く想うならば、≫瞬間を深く想うということは即ち、作家にとっては表現するということです。で、うまく表現できた際には、≪年と永遠とを創られた御方は わたしのものだ。≫と思えるときもある。

 わたしは小説家ではないので、≪年と永遠とを創られた御方は わたしのものだ。≫と心底想えるとしたら、おいしいお寿司ができたときかな。
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『文学の淵を渡る』 ⑵
2020/07/26(Sun)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 の 「百年の短編小説を読む」 を読みました。2015年に新潮社から出版された単行本です。

 「明快にして難解な言葉」につづく章で、57ページ~123ページです。

 これは、≪創刊以来「新潮」に掲載された短編のなかから、森鴎外の「身上話」から始まって、中上健次の「重力の都」まで35篇を読んでいただいた感想を伺い、日本の近・現代文学において短編小説が持っている意味合いを話してほしいという設定によってなされた対談です。≫というものです。

 角川書店と集英社の昭和文学全集の正宗白鳥しかないので、ここで取り上げられている「口入宿」は収録されておらず、読むことができませんでしたが、直前読んでいた、正宗白鳥への感想に大きな関心がありました。

 大江 白鳥は中編小説の名手です。「口入宿」は、初期のころいろいろ書いた、観察に基づいて書く客観的な小説ですね。この人の人間の真理に対する興味は特殊なもので、僕は面白かった。
 古井 これは、三十五篇の中で流儀としては一番古いんじゃないですか。あたかも芝居の舞台を念頭に思い浮かべて、そこに細かい所作をつくっていくという形で、かっちり収まっている。形としてはこの選集の中で一番しっかりしている小説ではないかしら。ところが、正宗白鳥のことになると、「入江のほとり」などでも、また文章が変わるんですね。こういう完成度を無視し始める。

 という評から始まっていますが、古井からの、キリスト教やダンテを論じた珍しい日本小説家ではないか?というのに対して、大江もダンテをよく研究している人なので、白鳥のダンテへの語りの特徴を述べ、白鳥の特徴に、内村鑑三などの影響があることを述べています。そこのところを読んでいて、思い出したのですが、白鳥がどこかで、他の小説家のことなども例にあげて、子どものころ、年寄りが自分たちを育てるなかで、悪いことをするとどんな恐ろしい地獄が待っていることかと、怖い話ばかり聞かされて育ち、それがキリスト教への改宗の動機になった部分があると書いていたことです。このことは、小泉八雲が子供のころカソリックからの怖い話の影響でカソリックを拒絶する話を読むようでした。
 私は核家族で生まれ、母親が育児に手がかけられないので女の子の子守が来ていたようでしたが、子だくさんの長男である白鳥などは子守はいるにしても、おおかた年寄りの方針によってしつけられたと思えます。少しわかるようになっての私にたいしての仏教の母の教えは、多くの命をもらって生きていることを謙虚に受け止めて、生かされていることへの感謝の気持ち持って生活することというようなことでした。
 大江健三郎の子供のころに聞いた森の話などからの道徳観の醸成とも大きな違いを感じるところでした。

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『文学の淵を渡る』
2020/07/24(Fri)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 を読みました。
 2015年に新潮社から出版された単行本です。

 古井由吉については、初めて知る名前なので、ネットで調べてみました。1937年生まれで、大江健三郎より2歳若く、2020年2月18日、今年亡くなられています。

 1日かけて、5ページから55ページまでしかない 「明快にして難解な言葉」 の章を読むのが精一杯でした。しかも、理解ができているとも思えません。日本のみならず外国の作家の作品や宗教書などについて論じらている部分では、ほとんどが読んだことのないものだけれど、家にある作家についてだけでもと本箱をあさるが、こんどはその作品が収録されていない。そんなとき一編の詩ができた。生まれて初めてといっていいくらいの詩。


   明快にして難解な言葉

 冷ややかな 冷房を効かせたような部屋
 毎日つづく 雨のあいまの7月の曇り空
 ブラインドからさしこむ 薄いあかり
 古井由吉と大江健三郎の対談を読む
 読めども 読めども
 明快な言葉のやり取りが難解
 こんな日に私は死んだ
 身体のなかから 魂がぬけて
 ふたりの対談を 魂だけが聞いている
 話題の「I am dead」という言葉を
 いまだ知らぬ 梅崎春生の『幻化』を

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『二百年の子供』
2020/07/22(Wed)
 大江健三郎著 『二百年の子供』 を読みました。
 2003年に中央公論新社から出版された単行本です。初出は「読売新聞2003年1月~10月土曜朝刊連載です。

 ≪永い間、それもかってなく楽しみに準備しての、私の唯一のファンタジーです。≫とカバーの見返しに書かれています。
 読むあいだじゅう自分自身も子供といっしょに昔の時代への旅を楽しんでいるようなファンタスティックな気持ちを楽しみました。

 父が生まれた村の言い伝えを話してくれた。「童子」という特別な子供がよその世界に行きたくなると、「千年スダジイ」の根元のうろに入って、会いたい人、見たいものを願いながら眠る。心から願えば、会いたい人、見たいもののところへ行くことができる。と。

 3人兄弟の末の朔は、「夢を見る人の」のタイムマシンだと喜んだが、脳に障害を持って生まれた一番上の長男の真木は、養護学校の先生から、真木君には夢ということがわからない、と家庭訪問で言われて、この言葉が嫌いだったので横を向いた。

 そんな年の夏、父親と母親がアメリカへ行った間、父の生まれた四国のアサおばさんに世話になることになった。そして昨年亡くなったおばあちゃんが、真木と二人で住みたいと建ていた「森の家」でそこの管理人をしているムー伯父さんにもお世話になることになった。

 それまでにお父さんときたことのある真木がその時知り合った犬に会いたいと「千年スダジイ」のうろに寝ると言って餌になるベーコンをもってそこで寝たのを皮切りに、3人がどんな時代のだれと会いたいかなどを話し合って決めてともにうろで手を握り合って寝て、いろいろな時代に、そして村の伝説となっている人のところへ会いに行く物語です。伝説となった時代はたいてい困難な時代です。そのなかでその時代への参加者となっての話は、私たちが歴史の本を読んで、しかも読み込んだとき。かいまみる、またはかいまみたいと瞬間ではないかとも思えます。私が住んでいる団地の裏山をずっと登って、最後の石材でできたりっぱな鳥居のある広い駐車場に、大きく仰ぎ見るスダジイがあります。太古の昔から人々はその実を食べてきたことに思いをつなげてもいます。

 「百三年前のアメリカへ行く」では、おばあちゃんの持っていた、日本から最初の女子留学生となり、ではじめてアメリカへ渡ったむめさんからの日本語の手紙と、英語での手紙を読む場面があります。パパが、東京の家で寝そべって本を読んでいるとき、「面白いなあ!」と大声で言うとき、どんな内容か聞いてみたら、書かれている内容より、書き方が面白い・・・・・つまり「言葉」が新しいんだと、「新しい人」は「新しい言葉」から作られると格言みたいなことを言った。と異様な部分では、外国語を読むということについて考えさせられるのでした。
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『恢復する家族』
2020/07/19(Sun)
 大江健三郎著 大江ゆかり画 『恢復する家族』 を読みました。
 1998年に講談社から出版された文庫本です。初出は「SAWARABI」(早蕨)1990年第2号~1995年第21号で、1995年2月には講談社より単行本が刊行されたようです。

 「あとがき」は、絵を書かれた著者のご婦人であり、伊丹十三の妹である、大江ゆかりさんが担当されています。このエッセイが書かれている5年の間の様々な出来事と、ご自分の絵がこうして作品にさしはさまれたことのよろこびを、手短に書き記されています。
 また、「あとがき」が大江ゆかりさんということでは、彼女の柔らかなタッチと色合いの絵とともに、この作品のタイトル「恢復する家族」の雰囲気が伝わってきます。
 また初出である「SAWARABI」(早蕨)は、日中、日仏の医学と文化の交流のために財団を作っていられる日本臓器製薬の季刊誌で、医者をはじめ医療関係者を対象としたもので、大江健三郎は患者の立場から書かせていただくことは特に大切なことだと喜んで引き受けたと述べられてもいました。

 この患者の立場からということでは、「受容する」という項目のところで、障害ということについて論理的に述べられていることに驚きました。
 この「受容する」ということについては、主語が3とおりあるように思われます。ひとつは、障害を持つことになったときの障害者自身、もう一つは、障害を持って生まれた子どもを育てることになったその家族、そして障害者を受け入れる社会ということです。

 「受容する」という行為について、東京大学医学部リハビリテイション部の上田敏教授が、みずからが障害者となってからの心の移り行きの的確な分析をされての著書から引用されています。
 ≪ひとりの障害者が事故によって障害を受ける。「ショック期」の無関心や離人症的な状態。「否認期」の心理的な防衛反応として起こって来る、病院・障害の否認。ついで障害が完治することの不可能性を否定できなくなっての「混乱期」における、怒り・うらみ、また悲嘆と抑鬱。しかし障害者は、自己の責任を自覚し、依存から脱出して、価値の転換を目指す。この「解決への努力期」をへて、障害を自分の個性の一部分として受け入れ、社会・家族のなかに役割をえて活動する「受容期」。≫
これは、障害者自身が「受容する」という例です。

 つぎに障害を持って生まれた子どもの家族について、1987年に東京で開かれたリハビリテイション世界会議で大江勘三郎の講演の草稿が引用されています。
 ≪二十五年前、僕の最初の息子が生まれた時、かれは脳に障害を持っていました。これは事故でした。ところがいま僕は、小説家である自分のもっとも本質的な主題が、生涯にわたって、障害児である息子と、家族ぐるみどのように共生するか、ということであるのを認めねばなりません。また自分が、この社会・世界にたいしていだいている考え、さらに現実を超越したものにたいしていだいている考えは、その根本において、この障害を持った息子と共生することを通じて見出し、確かめた考えだといわねばならないのです。≫
 ≪小説という言葉のモデルで、自分の障害児である息子をとらえる時、それも右の五段階をへています。知能に障害のある息子の場合、かれがこの過程をへるよりも、さらにあきらかに僕ら家族が、やはり「ショック期」から「受容器」への道を歩んだのです。小説の完成は、いかに障害者とその家族が、「ショック期」、「否認期」、「混乱期」を、苦しみをともにしながら共生するか。その上でいかに「解決への努力期」にいたり、ついに「受容期」に入ってゆくか、その過程が歩みおえられた時におとずれます。いかに障害者であること、その家族であることを積極的に受容するか、ひきうけるか? その答えが具体的にあらわれる時、それがすなわち小説の完成なのです。≫
 ≪小説という言葉のモデルをつうじて考える時、「ショック期、「否認期」、「混乱期」の、障害者とその家族が苦しみをともにして生きる過程の重要さということも、あらためて自覚されます。これらの大きい苦しみの過程がなければ、確実な「受容器」もない、それがすなわち人間であるということだ、といいたい思いもいだくのです。≫

 わたしはこれらを読んだとき、すべてを了解できました。
 わたしが8年前、県病院で名医の福島先生によって左の耳の手術をした後、まさにその手術のためにひどい難聴になったという障害を「受容する」ことができるまでにたどった道のりでした。この状況の現れ方はほんとに小説になりそうにさえ思えてきます。

 余談ですが、7月11日の土曜日、可部公民館での通史会に参加しました。参加者はいつもの7人でした。マスクは必ず着装すること。2メートル以上間隔をあけること。このことは難聴のわたしにとっては、学べる条件ではありません。それで、前回6月27日の会合の反省をもとに、冒頭「参加者として他の人たちと同じ扱いではなく、置物だと思ってください。」と、私の取り扱いについて新たに皆さんにお願いをしました。このことを「受容する」ことのできるメンバーでなければ、コロナ時代はひとりで大江健三郎顕彰会をしてそれなりに充実した時間をすごすことになります。

 大江健三郎を、私は読んだことはなかったのですが、かれはこの障害を持った長男が生まれる前から一級の小説家として名を成していました。それらの小説も含めて、時系列で彼の著書を読んで検証してみないとわかりませんが、彼の作品にも、このことが大きく影響しているのではないかと思えます。

 これも余談の話になってしまいそうですが、こういった障害を社会が「容認する」第一歩ともなった、1981年国際障害者年のとき、夫が記念のイベント企画をたてたことを思い出してもいます。
 大学の美術学生、公民館や青少年センターで活動をする青年ボランティアなどが県民文化センターのむかいのサンモールの協力で、そのエスカレーターの両面の壁面に、脳性小児麻痺でおかあさんの背中で育った、昭和3年生まれの、はらみちおさんの絵を描くという企画です。はらみちおさんに実際の壁面をみていただき、そこを測量し、縮小版の紙に壁画を描いていただき、それを写真で写して実際の壁面に拡大映写し、はらさんの絵を見ながら、はらさんの指導で色付けするという方法です。夫は自身の仕事の合間にそれらの人びとと話し合いをしたり、テレビなどの取材を受けたりという忙しさでした。こんななかで、当時、はらさんを訪ねて行く夫に伴って当時住まわれていた牛田に一緒に行ってはらさんと親しくお話をさせていただくという機会が何度かありあした。そのうちはらさんのお人柄にも親しく触れることができました。思い出すのは、テレビではらさんが皇太子殿下ご夫婦とお話をされている映像を見たあと、あのときの服装ははらさんらしくない服装に見えましたというと、そうなんです〇〇さんが殿下とおあいになるのですからと、無理やりあの服を着せられたのです。といわれふたりで大笑いをしました。〇〇さんとは、はらさんのお住まい兼アトリエの大家さんです。はらさんのすべての介護をされていて、私たちも大変親切にしていただいていた人です。サンモールの食品を扱う店々からボランティアの青年たちにも連日いろいろ差し入れをしていただきました。特にミスタードーナツからは本当によく差し入れをしていただいたことも思い出しました。

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『晩年様式集(In Late Style)』
2020/07/17(Fri)
 大江健三郎著 『晩年様式集(In Late Style)』 を読みました。
 2013年に講談社から出版された単行本です。初出は「群像」2012年1月号~2013年8月号から少し削ったものです。

 この作品は大江健三郎が78歳で、最晩年の作品とも思えます。
 ≪「――パパはすぐ八十歳です。私は五十歳で、自立できません。真木ちゃんはうつです。」≫(真木ちゃんとは長男のすぐ下の妹で、結婚せず長男の世話をする人です)とここではアカリという名前でかたられる知的障害のある息子の発言があります。
 この作品に先立って『静かな生活』を読んで、つづいてこの作品をつきっきりで3日かけて読んだ私としては、象徴される著者の家族に入り込んでしまい、いろんな意味でこのアカリのことばには感無量の思いがあります。

 大江健三郎の文章には癖があり、この文章は誰の発言を書いているのか?と思うことが度々あり、しばらく読んで、だいたいこうだろうという感じで読みすごします。難儀しながらの読書なのですが、ほとんどが会話で成り立っている文章です。場面では、二人だけということはほとんどなく、複数いることがほとんどで、それでも、そこにいる一人一人が意味のある存在なので、誰の発言でもまわりの一人一人がその発言をどのように受け止めたかということが抜け目なく書かれているように思えます。そして、それ(その場にいる一人一人の気持ちを見逃さないこと)が家族であり、親族であり、友人であり、仕事の関係者だということを感じずにはいられないアリティーそのものです。

 著者は、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による災害に伴う福島第一原子力発電所事故から、原子力緊急事態宣言発令に至った状況を契機に脱原発の社会運動に立ち上がり、それらについての講演や行動をしている時期でもありました。

 アカリと真木が、パパからの抑圧から自立を目指して、パパの実家である四国の愛媛のテン窪大池に住むことを決断して、パパの妹であるアサさんや音楽の教師リッチャンの世話になりながら住み始めます。ぎー兄さんの息子であるテレビのプロデュサーのギー・ジュニアが取材のため来日して真木も一緒に仕事をします。取材のため東京へも帰りますが、そんな中でママが足を痛め、真木はその世話のため帰れなくなり、今度はパパとアカリとが四国で住み始めます。
 パパとアカリトは誤解などのためなかなかうまくコミニケーションできなかったのですが、アカリが短い詩については作曲できることをギー・ジュニアの仲立ちで確認し合い、その詩が最後に掲げられてこの作品の締めくくりとなります。
 その詩の文言に「私は活き直すことがことができない。しかし、私らは活き直すことができる。」という部分の私と私らの以外についてのアサによる解説が心に響きます。

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『静かな生活』
2020/07/14(Tue)
 大江健三郎著 『静かな生活』 を読みました。
 1990年に講談社から出版された単行本です。

 K氏はカルフォルニアの大学に居住作家として招かれたため、三人の子供だけを残して夫婦でカルフォルニアに行くことになりました。残されたのは、障害を持った25歳のイーヨー、卒論にむかう女子大生のマーちゃん、浪人男性のオーちゃんです。その三人の「家としての日記」をマーちゃんが記録し、7カ月ぶりに帰ってきた母親がそれにタイトルをつけて、父親に送ることを提案をし、イーヨーがタイトルを考えたという設定の小説です。

 初出誌がそれぞれちがう、「静かな生活」、「この惑星の棄て子」、「案内人」、「自動人形の悪夢」、「小説の悲しみ」、「家としての日記」が、ひとつの時間列で小説になっています。

 まず最初の「静かな生活」ではおおきな衝撃を受けました。
 精神障害のあるイーヨー君をかかえる家族の思ってもみなかった手間と苦悩についてです。
 ≪知恵遅れの青年が林間学校の女生徒を襲った、性的な動機のと――みなされている――≫という傷害事件の新聞記事を見て、スポーツをやらせてみようなどと、対策を考えるところを読んでの衝撃です。どんな子どもでも、子どもへの心配にはキリがありませんが、精神障害を持ったこの気持ちの深さは想像外でした。

 子どもだけを残してカルフォルニアにいった両親の状況は理解して、自分より大きな体の精神障害の兄の介護をするマーちゃんの、なにくそ!なにくそ!という攻撃的な気持ち!!!

 私事で、年取るごと、30年以上勤務した、直前の仕事についてはほとんど思い出せないでいたのですが、わたくしの勤務内容のなかにも、軽度の精神障害、身体障害の子どもをずかることもありました。しかし、そのような子供を預かっても、ほとんど私たちが手を煩わせたという記憶がありません。まわりの子どもたちが、お人形遊びをするように世話をやき、気持ちを汲み取って上手に対応しているのです。保護者が迎えに来られると、子どもたちは仕方なく引き渡すといった感じです。保護者の方は、「ご苦労様です。」という私たちとの挨拶かわして、半分嬉しそうに、半分名残惜しそうにする障害のある子どもを連れて帰られるのです。そんな生活の一部分を、新聞社の方に頼まれて、記事に書いたこともありました。しかし、保護者の、この障害を持った子供への手間への忙殺や、行く末を案じる深い苦しみに向き合ったことがないことに気づかされるのでした。

 なんでもないイーヨーの行動にも、あらぬことを連想して心配のあまり恐怖を感じるのですが、それがイーヨーの豊かな感性から起こる行動であったことにほっとする瞬間だったりするときには読みながらも本当にほっとするところです。こういった緊張を強いられる生活から生まれるところの文学といったものは、自分に与えられた天命への深い洞察をくぐりぬけた、あるいは潜り抜けようとする、なにかしら尊いものを感じずには読み通せない作品でした。
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 『リー兄さん』
2020/07/11(Sat)
 正宗白鳥の『リー兄さん』を読みました。
 昭和44年発行の『日本文学全集11 正宗白鳥集』のなかの最後に収録されている短い作品です。

 ≪「リー兄さん死す」という電報に接したときには、真木村家の長男で相続者になっている鉄造は、月並みのあわれを感ずるとともに、軽い安心を覚えた。リー兄さんといっても、真木村家十人きょうだいのうち四男に当たるのだが、この男一人が妻子もなく定職もなく、孤独貧苦の生活を続けてきたので、東京で戦災に罹った後は、瀬戸内海のほとりの故郷の生家に帰って、とにかくそこで生きていたのであった。・・・・≫から始まる作品です。
 とにかく、鉄造は予定を変更して、故郷へ行って死者を弔うことにしました。故郷の家の一階には真木村家の血族の一人として管理人夫婦が住んでいます。リー兄さんは二階に住んでいて、終戦後十余年間一緒に住んでいたので、帰る前に管理人夫婦がすべて済ませてくれていました。十余年の間風呂に入らない不潔な生活をしたりー兄さんの追悼話を三人でします。
 リー兄さんは、東京で戦災に罹るまでの数十年間は、人間らしい身なりをして美術修行をしていたのですが、故郷に帰ってからは、絵を売って生活していたようでした。
 残っていたリー兄さんの三枚くらいの絵を、鑑賞力のない三人が見て、懐かしむのでした。

 私が、あえてこの作品に目が留まったのは、大江健三郎の作品にリー兄さんの話があったような気がしたからでしたが、大江健三郎のほうは、ぎー兄さんでした。

 この作品は、短いものでしたが、リー兄さんによって思い出した『燃えあがる緑の木』に登場するぎー兄さんのことを、夜中に眼が覚めるごと考えていました。
 突飛な話ですが、正宗白鳥は、83歳で亡くなるのですが、その前年にこの作品を書いています。亡くなったその時は、キリスト教を棄教していたのですが、かれが洗礼を受けた植村正久の娘の植村環牧師の司式で葬儀が行われたのです。

 国木田独歩や、この正宗白鳥、小泉八雲が『ある保守主義者』で語った雨森信成も、のちにあらわれた大江健三郎のぎー兄さんにみる宗教感を抱いていたのではないかと思える目覚めごとの感想でした。


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 「十五・六世紀の日本の情勢」
2020/07/07(Tue)
 昭和29年発行の昭和文学全集50『和辻哲郎集』のなかの、「十五・六世紀の日本の情勢」を読みました。

 これは、日本の鎖国への世界的視圏の成立過程についての立場から書かれたものです。世界的視圏というからには、おなじ時代、西欧や中東などではどうであったのかの説明が先にあって、それとの比較において説明されているのですが、けっこう私のなかで、この十五・六世紀の日本の情勢が、吟味されていないことがわかったのです。
 そこで、世界的視圏いぜんに、この時代の空気といったようなものについて確認する必要から、「十五・六世紀の日本の情勢」を記録します。

 この「十五・六世紀の日本の情勢」では、1、倭寇と、2、土一揆の二つが掲げられています。
 1、 倭寇  倭寇?とあらためて自分にといただすと、倭寇についてとりたてて考えたこともなかったというのが正直な感想でし た。ひとつには、当然といえば当然ですが、倭寇側からの記録が全くないということです。そして、相手の方でも、時代が少し下がってくると、それが本当に倭寇かそれに乗じた、もしくは結託した、蒙古人や中国人、朝鮮人のほうが断然多かったのではないかということがわかってきます。
 倭寇は、高麗史によると、1350年から急激に盛んになったといいます。蒙古人の襲来によって、鎌倉時代の武士階級は急激に貧困を味わうようになり、鎌倉幕府の崩壊まで招くに至ります。そのあとも武士の秩序は回復されず、内戦がつづき、ますます困窮を極めたことによって倭寇をつくり出したといいます。まずは、朝鮮に向かい米と沿岸農民の捕虜を連れてくるというのがおもだったようです。この所業はたんなる「あぶれ者」であって、政治的な意義を見出せなかったところがノルマン人と違うと、世界的視圏としてこの論の趣旨として押さえられています。
 これら倭寇に対して、明からの、たびたびの要請により1403年やっと勘合貿易協定が結ばれて公認の貿易体制が敷かれたかに見える中で倭寇と勘合貿易は表裏一体となっていた。ヨーロッパでインドに植民地が形成されるまでの時期は、海賊の日本では根拠地であった博多の貿易商を配下に置く大内氏、堺の貿易商を配下に置く細川氏との間の、シナ貿易争奪戦の時期とかさなってここらまでくると、やっと私の認識できそうな時代になってくるのでした。
 本能寺の変のとき、本能寺で翌朝には織田信長が自慢の掛け軸を見せると伝えていた博多の商人であり茶人の神屋宗湛が、火のなかを掛け軸のかかった部屋に忍び込み掛け軸を巻いて腰に差して逃げ切ります。この6代目神屋宗湛の祖父は、石見銀山で稼いで博多の町割りをした人であることの小説は井伏鱒二の作品で興味深く読んだことを思い出します。
 また、三浦綾子の『千利休とその妻たち』で、堺商人である利休は妻のいきつけの教会でその聖体拝領儀式を見たことによって茶の湯のお点前へのヒントを得たとこの作品では述べているが、じつは商人であり茶人であった利休はそれ以前にも東南アジアのマカオの教会などで、まじかに聖体拝領儀式を見ていて、現代、裏千家の人たちの感じるものとは違った意味合いを商人としての利休はおもっていたのではないかとさえ考えられてきます。

 蜂須賀家は山賊の子孫といわれますが、結局は、その他の祖先は海賊でないものは、力不足のため存続できず、この海賊活動を一切差し止めた江戸時代だけが政権が安定したものとなったことがわかってくるのです。そして密貿易を続けていた藩のみが明治維新をやってのけるというのもわかってくるのです。明治維新後はじめて、ノルマン人のような海賊活動に発展していくのです。

 倭寇だけのびっくり仰天のような記録で終わりそうですが、じつは一揆については、この倭寇への無関心とは違って、おおきな思い違いをしていたことに気づかされました。これも、十五・六世紀の日本の情勢の波動に、「武士の秩序は回復されず内戦がつづく」部分に大きくかかわっていることを知ったのでした。
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作家論「夏目漱石」
2020/07/02(Thu)
 昭和29年発行の昭和文学全集34『正宗白鳥』のなかの作家論「夏目漱石」を読みました。
 この本は字が小さく印刷も悪く紙も悪く、旧字体がほとんどで画数が多いため、虫眼鏡で読むところも多々あります。

 まずは、『虞美人草』について書かれています。この作品への、森田草平の一糸乱れぬプロット、絢爛と聖地を極めた文章であるという批評をあげ、それには賛成していますが、あと、この作品はちっとも面白くなかったと、その理由をあげています。文才が豊かな分、才に任せてつまらない警句や洒落を喋り散らしているように思え、近代化した馬琴といったような物知りぶりと、どのページにも頑張っている理屈にうんざりしたとのべます。そして、今日の時世では朝日のような新聞でも、こういう長編小説を安んじて掲載してはいられないであろうとまで述べています。
 つぎに『三四郎』について、
 ≪それは『虞美人草』ほどに随筆的美文的でなかったにかかわらず、一編の筋立てさえ心に残っていない。読者を感激させる魅力のない長編小説を読み過ごすることのいかに困難なるかを、その時感じたことだけ、今思い出している。≫
 とのべ、、さらに森田草平の『煤煙』をもちだして、誰かがそれを避難していたが、それについて、田山花袋に岩野泡鳴が「しかし、漱石の比じゃない」と言っていたのに自分も同じ気持であったとまで述べています。
 さらに、漱石の作品に、自分にはまったく読むに堪えないと思える泉鏡花に似た一種のくさみをもった気取りがあるとまでのべます。

 そんななかで、『虞美人草』以前の、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『俳体詩』、などについては、運筆が自由自在で、千言立ちどころに成るといった文才を不思議に思ったと述べ、『カーライル博物館』とか『倫敦塔』とかを読んで、鴎外とも比較して名文章として感心していたと述べています。そして、『文学論』、『文学評論』については、彼の学殖と批判力とを十分に現したもので、文学研究者を裨益する良書で、自分も学ぶところが多かったと述べます。さらに、、『英国十八世紀の文学評論』は、日本人の観察した西洋文学観として、これほど委曲を尽くした他にるいがなく、とくにスヰフトへの客観的解剖研究成果に重きを置いています。

 私は、新型コロナになる直前に、「通史会」で知り合って「漱石の会」にも入会しておられる松井さんに、この本をお貸しいていました。それを、13日の「通史会」の会合のとき返してくださり、コピーをして「漱石の会」の人に見せたら好評だったとのことだったので、改めて読み返しました。
 たかだか15ページだけなのですが、2回読み返したとはいえ3日かかってしまいました。
 この評論をいつ読んだのか思い返してみました。きっと、若いころ、漱石の作品を相当読んで、評論としては、ほかの評論を読む前に、この全集で滝口先生に頂いた30歳のとき読んだのではないかと思えます。私が漱石について感じる思いに強い影響を及ぼしたのかもしれません。その年、岩崎先生の研究室で漱石全集を購入してもらってから、『文学論』や『文学批評』、そして「講演記録」などを一生懸命読んだことを思い出します。そして、吉川幸次郎の『漱石の詩注』も買って読みました。
 これらについては、かなり印象的に覚えています。

 このたびこの評論を読んで、漱石に最初読売新聞から招聘があり、にもかかわらず、朝日新聞に入社したいきさつについて最近、他の冊子で露骨に読んでいたからか、正宗白鳥も読売新聞社員として、漱石への勧誘に竹越三叉主筆の命で行っていたことを知り、そのことがこの批評に影響しているのかもしれないとも思えたことでした。やはり欧州留学から帰ってきた島村抱月も読売ではかねて関係もあることだからと、彼の助力を待ち受けていたのに日日新聞の招きに応じたと、その後のことに言及しています。
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