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『霧氷の花』 囚われの女たち 第一部
2020/08/30(Sun)
 山代巴著 『霧氷の花』 囚われの女たち 第一部  を読みました。1981年第4刷 株式会社 径(こみち)書房発行の単行本です。

 以前、山代巴を読みかけたことがありました。そのときは、共感できずにやめてしまったのでした。ところが、『この世界の片隅に』を買って読んだり、映画に私まで連れて行ったりしていたことのある夫が、『この世界の片隅で』の著者山代巴について調べていて、ウィキペディアでの
 ≪日本近代文学研究者・広島大学名誉教授である岩崎文人は、没後の山代巴の資料整理にあたり「戦前から戦後の時流を確かな目で見る事ができた人」と評価した。≫
 の文面を読み、岩崎先生に学んだことのある私にこのことを知らせてくれたのでした。その時はいい加減に聞いていたのですが、たまたま我が家にあった山代巴の『霧氷の花』 囚われの女たち 第一部にであい読み始めたのでした。
 戦前から戦後の時流のなかを、どのように生きたのか、なにを思ったのかの作品は意外に多くあるように思うのですが、山代巴の作品を読むと、とにかく戦前前後の時流を見さされているといった感じがするのです。
 とにかく戦前戦後の時流に身を置いて眺めてみたいという願いに確実に応えてくれるといった作品のように思えるのです。
この作品の舞台は三次の女性の刑務所です。土地の気風といったものが刑務所にも影響するという部分では驚きました。女性のための刑務所が西日本では宮津、三次、佐賀、にありました。和歌山に男性用の大型の刑務所が新しく建っていたのですが、戦争が厳しくなって男性は全員兵役に取られたため空になっていました。そこに三つ女性の刑務所の囚人を移送することが知らされてきました。受刑者には全国をまたにかけた前科を重ねた囚人も多く、また刑務所の職員も転勤経験者が多く、三次刑務所内の人たちは、三つの刑務所の特徴をよく知っていることによる、そのときの三次刑務所の様子が描かれています。
≪29番は『鶏でも違う鶏小屋で育ったものを一つの鶏小屋へ入れたら必ず喧嘩ぁする。それと同じで、宮津から行った者は宮津どうし役人も懲役も一つにかたまって守り合う。佐賀から行った者もそうなる。三次から行った者もそうなる。そうなったら一番人数が多ゆうてこす辛い宮津が羽振りをきかすにきまっとる。佐賀は気が荒いけえ腕力でかたまるじゃろう。間へ挟まった三次は人数は少ないし気がやおうてのろいけえ、踏みつけられてしまう。部長さん、あんたのような官服狐になり切れん者が、連れて行った懲役をかばよったら、宮津や佐賀の懲役らの罠にひかかって、濡れ衣うきせられて、免職になるんが落ちじゃ。我が身を守ろう思うたら、ここで懲役らと一緒になって和歌山行に反対してつかい』言うた。わたしはこの頃、29番の言うた通りになるような気がしてならんのよ。あれはああ見えても千里眼じゃ。もしも親がおったら大した者になれたに違いない頭の冴えた女ごじゃけえね」≫
 これは、頭のいい29番の懲役囚が、部長面会で述べたのです。三次刑務所では、この時職員も29番の意見に納得させられて移送反対の立場をとることにするのです。光子こと山代巴はほかの人からこのいきさつを聞いて、看守と懲役の立場を超えた心の微妙さに感動する風景の一例です。
 刑務所では、懲役は一番人に知られたくないことが知られている状況での人間関係です。塀に囲まれた生活の中での人生勉強には胸を打つものが多々ありました。
 8月のはじめころ、夫と三次を通るとき、三次市文化会館の跡地に建てられた、日本初の妖怪博物館「湯本豪一記念 日本妖怪博物館」(愛称:三次もののけミュージアム)に立ち寄りました。このあたりに女子受刑者収容監獄があったところと思いながら歩いたのでしたが、読書中は、この女子受刑者収容監獄の内部の風景を見ているようでした。


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『死のごとく強し』
2020/08/26(Wed)
 モーパッサン著 鈴木力衛訳 『死のごとく強し』 を読みました。昭和31年、河出書房の文庫本で、初版本です。
 亡くなられた、古文書を教わっていた加川さんの資料や書物の整理をしている(余計さばけてもいる)あいだに見つけた本の一冊です。モーパッサンは日本の自然主義文学に多大な影響を与えた、との拙い思い込みから読み始めたものでした。

 社交界でもてはやされる流行画家オリヴィエ・ベルタンの伯爵夫人アンヌ・ド・ギルロワにたいする第一の恋。そして中年に達した同じ画家が、伯爵夫人の分身である娘アネットのうちに突如として覚えた死よりも強い第二の恋のために、オリヴィエはみずからを車輪の下に投げ込んで死んでゆくという内容です。(解説の抜粋に手を加えた)

 まず、最後の翻訳者による5ページ足らずの解説を読みました。この解説は短いながらも、そのとき事前に知っておきたい情報であったために、すぐ作品を読んでみることにしたのですが、読み始めてみるとまったく退屈な作品でした。それに、私自身は、老齢になって年を重ねるごといろんなことをいままでより深く味わうことができることに日々感動しているのですが、老いることを、負にばかり感じて苦しむひとがいることに意外性を感じて、退屈だったとも言えます。

 また解説での知ってよかった情報としては、それまでに3人の人がこの作品を翻訳していて、そのなかの二人の翻訳者と、モーパッサンの作品への西洋での評を訳している河盛好蔵氏とに懇切な教示をいただきながら訳したことの説明があったことです。この翻訳ということについて、外国語の苦手な私が考えても仕方のないことなのですが、大江健三郎の作品を読んでいくうちにだんだん考えさせられるようになったのでした。
 モーパッサンの作品は20歳前後に『女の一生』を読んだことは覚えています。その時は、まったく違った社会の中の出来事として楽しく読んだように思いますが、この作品は爵位や秘密結社などの社会のことについてよくしっていれば、民族の違いについて心情的な差を感じにくく訳されていると感じられるのでした。

 モーパッサ(1850年~1893年)は、この作品(1889年)の執筆中麻酔薬を乱用していて、1891年には発狂し、1892年には自殺未遂を起こし、精神病院に収容され、1893年には病院で亡くなったというのです。この2部はそんな状況をそのまま思わせる作品だとも解説されているため、退屈だとは思いながらも最後まで丁寧に読んだのでした。

 こんな読書中、兄嫁が亡くなりました。コロナパンデミック中での葬式だったために、葬儀のあと家に帰って半月家にとじこもって人に会わないようにしました。

 この暑さ。経済の急速な衰退の報道。隣の民族とはいえ気性の激しさや衣装の極度のきらびやかさに唖然としながらの韓国ドラマを3本視聴。が今年の8月でした。
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『憂い顔の童子』
2020/08/11(Tue)
 大江健三郎著 『憂い顔の童子』 を約半分読みました。
 2002年9月、講談社から出版された書下ろしの単行本です。

 一冊が結構分厚い本です。半分でやめたのは、読むことがだんだん辛くなってくる本だからです。

 この作品は、大江健三郎自身、他の本でも言い換えていた長江古義人が主人公で、奥さん(ここでは千樫)が、吾良(伊丹十三のことか)の若い女友達だった娘がベルリンで子供を産みひとりで育てる決意をしたことでドイツへ行くことになったのがきっかけの一つとなって古義人の故郷へアカリをつれて行くことになり、そこでの出来事が内容になっています。
 最後の章は、奥さん(ここでは千樫)が帰国して、四国に会いに来たところで終わります。

 大江健三郎8冊目ともなれば、登場人物の気心も知れていて、そういった面では読みやすい筈なのですが、ここまで、自分が郷里の人の物笑いの種にされていることを書き続けていることで、読むことが辛くなって途中で中断することにしました。全体がそうですが、とくに231ページからの真木彦の古義人のことについて述べたことが書かれている部分では、真木彦の話の内容に同調できるだけに、気がめいってしまいます。

 これまで、10冊図書館でお借りして、6冊読んで、2冊は途中まで読んできました。
 またいつか読む機会があるかも知れませんが、数ある作品で、読みたいと思う最初頃の作品には出会えないままでした。
 


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『「新しい人」の方へ』
2020/08/07(Fri)
 大江健三郎著・大江ゆかり画 『「新しい人」の方へ』 を読みました。2003年1月10日~2003年4月18日号の朝日新聞に連載されたもので、朝日新聞から出版された単行本です。
 目次
 「黒柳さんのチンドン屋」、「頭をぶつける」、「子供のためのカラマーゾフ」、「数十尾のウグイ」、「電池ぐれで!」、「賞をもらわない九十九人」、「意地悪のエネルギー」、「ウソをつかない力」、「「知識人」になる夢」、「人の言葉をつたえる」、「もし若者が知っていたら!もし老人が行えたら!」、「忍耐と希望」、「生きる練習」、「本をゆっくり読む法」、「「新しい人」になるほかない」

「黒柳さんのチンドン屋」では、
 ≪自分の家庭のこととして、私が水泳に行っているクラブで一緒になる心理学の先生に、
――お宅で、光さんを中心に置くやり方の生活をなさっているのは、ほかのお子さんの心理に問題なのじゃないでしょうか?といわれたことがあります。
 私は特にお答えをしませんでしたが、胸のうちには確信があったのです。私と家内は、生活の大きい部分を光のためだけに使ってきました。しかしそれが必要にせまられてのことで、光のためにそれをやることが、家族みんなにとってなにより大切だということが、光の妹と弟にもつうじている、と信じていたのです。
そして私は、それが正しかった、と考えています。・・・・≫
とあり、つづいて妹と弟のそれからについて語られています。

 偶然、この本と並行して読んでいた、内田祐治著『天保八年 伊勢西国道中記覚』の209ページに
 ≪やがて床の中へ入った儀右衛門、灯明の消えた闇の中で、在所に伝えられるあることを想い出している。それ、
 障碍をもちて生まれ来た子をもつ家には、福が来る
というもの。・・・・・≫
 と、目の見えない人に出くわしたことから、脳に障碍のある人のことに至るまでかなりの紙面を費やして書かれていました。

 障碍を持って生まれた子どもを持つ家庭の必要に迫られてのことのために、ナニクソ、ナニクソ! と頑張った大江光さんの妹さんのことは、大江健三郎の作品には何度か出てきたのですが、その彼女のことを、
 ≪その、おとなしさのなかに、記念のメダルのように、遠くでかすかに光っている、ナニクソ、ナニクソ!が、普通の市民として生活している今も、彼女をまっすぐ立たせる力になっているはず、と思います。≫と述べていうところでは、実感のこもった言葉としてふかく受け止めることができました。

 「「知識人」になる夢」のなかでは、東京大学の文科二類を目指して一浪している自分のことを、村出身の中学校の先生が、お兄さんに言ったという言葉について、
≪――もうひとり、「教育バカ」を、作る気か?
 それを聞いた私はつい笑ってしまいました。これを俳句だとは言いませんが、川柳としては通用するかもしれません。私の生まれ育った地方は、正岡子規の出た所で、誰もが俳句を作るばかりか、日々の暮らしで、こうした五、七、五の言い方をする人のいる土地柄です。≫
この文章には、私もつい笑ってしまいました。

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『定義集』 
2020/08/01(Sat)
 大江健三郎著 『定義集』 を読んでいます。2006年4月18日~2012年3月21日まで、月に1回朝日新聞の文化面に連載されたものに加筆したものだということで、朝日新聞から出版された単行本です。

 ひとつの記事がだいたい4ページです。目次だけでも5ページはあろうかというエッセ-が満載で、それぞれの記事に脈絡はありませんが、その時々の話題は在ろうかと思える作品集です。
 最初の「注意深いまなざしと好奇心」では、障害を持つ家族を抱える著者、また著者の家族への世間のまなざしについて書かれている衝撃的な記事でした。
 障害への受容ということについては、7月19日の『恢復する家族』で述べましたが、本人も、家族も障害を受容するまでに、ずいぶん様々な葛藤を経過しますが、当然世間の人びとにはその障害への理解も、何もありません。逆周りの人がかかわってくれることで事態が悪くなるとおもえるとき、断ることによって、気まずい状況になる悲しさと、まず注意深く見守ってくれる人について述べられていました。大いに教えられることでした。

 つぎつぎ読んでいくうちに、「人間をおとしめることについて」という記事を読んで、読書じたいが止まりました。それなのに、夜寝ると、なぜか大江健三郎の文体についての夢を見ました。次の夜は何か思い出しませんがやはり大江健三郎の夢を見ました。こんなに気になるのですから、作品の途中ではありますが記録することにしました。
 彼の著書『沖縄ノート』の記述について、著者大江健三郎と岩波書店を、曽野綾子の著書『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の内容をもとに、赤松秀一・梅沢裕慶良間列島の守備隊長が訴えたことについてでした。夫に言わせるとこのことは有名な出来事だったのだそうですが、わたくしには意識にありませんでした。
 ノーベル賞作家とはいえ、障害児を抱えて「注意深いまなざしと好奇心」に述べられているような日常を送っておられることを実感した矢先のことでしたので、このことがらについて、ネットで詳しく調査しました。

 2005年8月5日、梅沢裕(元陸軍海上挺進隊第一戦隊長、少佐)と赤松秀一(同第三戦隊長、大尉、赤松嘉次の実弟)が大阪地裁に提訴(損害賠償と出版停止などを求める)、被告は、大江健三郎と岩波書店、訴えられたのは「沖縄ノート」(1970年出版、岩波新書) 
 家永三郎「太平洋戦争」(1968年初版、2002年岩波現代文庫として改訂出版)
 中野好夫・新崎盛暉「沖縄問題20年」(1965年初版、74年出庫停止、岩波新書)

 2011年4月21日最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)が「上告棄却、上告不受理」の決定、大阪高裁判決が確定

 あいだをすべて省略して、大まかにいうとこういうことでした。
 曽野綾子については、若いころはよく読んでいました。また以前、郵便貯金ホールでの講演を聞きに行ったことがありました。すでに亡くなったカソリック信者の友人に誘われて行ったのではないかと思うのですが、曽野綾子氏の講演内容についても残念ながら覚えていませんが、胸のブローチの高価な光がキラキラキラキラ光っていてあまりいい印象でなかったことは覚えています。もしかすると、彼女に味わいのある美しさを求めていたのかもしれません。そしていま曽野綾子が物議をかもしたことがらの数々の資料を読んでびっくりもしています。

 この4ページにわたる記事は何度も読み返し、いろいろ考えさせられました。

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