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『野火』
2017/08/23(Wed)
 大岡昇平著 『野火』を読みました。
 この作品については、島田雅彦著『100分de名著 野火』につづいて、新たに夫が寝ていても読みやすいようにと文庫本を買ったものです。
 読みかけて、ずいぶん長い間放っておいたのを昨日想いだして始めの方から読みました。
 田村一等兵のモノローグとして語られるこの作品はフィリピンの戦場で、彼は病気になり、自分が属していた部隊からも病院からも見捨てられ、それから先は味方の軍隊が形を成さなくなるほどに敵に叩きのめされ、自分は一人で行動するほかなくなっていくことが保証され、自由のなかに身を置かされます。
 戦場で自由になるということは飢えと危険を伴うものですが、命令通り手りゅう弾で自決してもいいし、生き延びてもいいし、米軍に投降してもいいのです。
 もう誰かの為に生きたり死んだりしなくていいのです。
 友軍のそばにいてもいいし、一人でいてもいいのです。
 そうしていると、今まで気づかなかった道端の花や、そこに遊ぶ蝶など、今まで目に留まらなかったものがとても美しく輝いて見えてくるのです。
 また、現地人の営みが違ったものに見えてくるのです。さらに自分を見放した病院が爆撃を受け、放火され、軍医や衛生兵が逃げ惑う姿が、滑稽に見えてしまう自分に気づくのです。
 このあたりの彷徨の部分をずっと読んでいると、思ってもみなかったことですが、これは戦争中だけの異常な出来事の中での心境ではなくて、仕事を辞めたとりとめのない今の私の究極の心境も分析してみれば実はこのように集約されるのではないかと気づかされ私も彷徨しているような心持でもありました。しかし、仕事を続けていたならこれら田中一等兵の心の風景など、異常な心境を身近に感じることはなかったでしょう。
 さらに状況は悪化し、極限状態に達してきてからの田村一等兵の心の行方は、まず丘の上から見渡せる森の中の十字架から教会があることに気づいた後に見た夢に象徴されます。教会では葬式が行われていて、棺のところに進み出て蓋を開けてみるとそれは自分だったというのです。食べるものもなく過ごしていると自分が生きているのかすでに死んでいるのか・・・。彷徨していて出合う友軍も似たりよったりです。そのうちお互い先に死んだ人を食べていることに気づいたりします。
 このカニバリズムについては、もう考えも及びませんが、立花隆の「臨死体験」で語られるところの話の反対で「臨生体験」のように思えるのでした。私たちは仏教的な慈愛の中で生かされていると思っていますが、一歩間違えばこの世は食うか食われるかのまさしくカニバリズムの世界です。当然分裂症になってしまいました。
 この図式は森友学園問題の森友夫婦逮捕の報道を聞くと、安倍夫婦と森友夫婦の関係を想起させます。
 ブログ記事も分裂症的になりました。
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