「舞姫」
2017/10/22(Sun)
 森鴎外著、集英社の日本文学全集4森鴎外集から「舞姫」を読みました。
 太田豊太郎と名乗る自分は、旧藩の学館、東京での大学でも抜群の成績で、学士の称を受け、某省に出仕し、故郷から母親を呼び寄せ3年の後、「洋行して、一課の事務を取り調べよ」と命を受けて洋行します。
 ヨーロッパでは、目を見張るものばかりでしたが、自分は、このようなものには目もくれずの決心です。
 ドイツ語・フランス語とも十分な実力を備えていたため、事務方も進み、仕事の合間に赦しを受けて、大学での勉強もはじめるほどです。
 その間、自由な大学の風に当たり、自分の本当にやりたいことに気づかされてもいきます。その頃、まじめ一辺倒の自分に、嫉妬もあってか、周りの人間からつらく当たられるようになり、孤独と苦悩に身を置くようになります。
 そんな夕暮れに、父を亡くして葬式をあげる金が家にないため苦しみ泣いているエリスという女性に出合います。自分の大胆さに呆れながらも、家に送っていき、資金にと腕時計をおいて帰ります。その後、訪ねてきた女優の彼女とは他愛のない付き合いでしたが、彼女を思うことで、気持ちが明るくなっていきます。
 この交際が、同郷の者から長官の耳に入り、彼は職を解かれてします。そんなとき、母親の死を告げた手紙も届きます。
焦っているとき、相沢謙吉という友人が東京にいて官報を読んで事情を知り、ある新聞社にベルリンでの仕事の斡旋をしてくれました。
 彼はエリスと部屋を借りてつつましく暮らします。しかし、この新聞社の仕事は彼に、学問では到底得られなかった見識をもたらします。その内、エリスは妊娠して寝込んでしまいます。
 そんなとき、またもや相沢謙吉から天方大臣が彼に会いたがっているので、ベルリン一のホテルにくるようにとの連絡を受けます。
 大臣から急を要するドイツ語の翻訳の文書を受領します。帰りに、相沢と昼餉を共にし、彼は一切の事情を話します。相沢は自分を責めることはしませんでしたが、最後にエリスとの関係を解消するようにと断言します。
 相沢と大臣の仕事を手伝い彼の語学力は大臣の信頼を得るところとなり、大臣は、帰国時彼を日本に一緒に帰るよう促します。
 彼は、断ることができず、従うことにします。
 この機を逃すことは自国を失い、栄達の道を閉ざしてしまうことも怖かったのです。
 しかしそのあと、エリスへの赦されない罪を思い、彼女の待つ家に帰る足の運びがはかどらず、ベルリンの1月、雪のある寒空をさまよい体調を崩しついに寝込んでしまいます。
 熱が激しく、譫言ばかり言っていた数週の後、相沢が訪ねてきます。
 相沢から豊太郎がエリスと別れると言ったことと、大臣と日本に帰ると答えたことを聞いて妊娠中のエリスは怒りのためその場に倒れ、精神を病み治癒の見込みがないという診断で癲狂院(精神病院)に入院させられます。
 相沢は豊太郎と話し合ってエリスの母親に資金を与えて子どものことを頼んで帰国の途に就きます。

 この作品は10月17日に記録した「妄想」より先に読んでいたのですが、この全集本では作品が読み辛く、しっかり理解できないでいました。
 「舞姫」は、鴎外のなかでも有名な作品ですから一度は読んでいるとは思うのですが、このたび読んでこんなに読みづらいのに、若い頃は、どのような本で読んで理解したのか不思議な気がします。
この難解さは、今頃毎日解読している古文書以上とも思えました。思い直して今夜もう一度読み返しながら、記録した次第です。

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コメント
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 懐かしい小説です。
此の「舞姫」についてですが、数年前に神奈川近代文学館で森鴎外展を見た時に改めて背景を知りました。小説のモデルであるエリスは実際に存在した女性があり、愛した鴎外を追って日本まで来たそうですが、時の政府に軍医として仕事を与えられた鴎外は、愛に殉じなかったとか。当時の記憶がおぼろになってしまいましたが、物語の運びには身勝手な男の世界を思ったものでした。
こうした物語も最近は古典に準じた扱いで、文語体を訳した本が多くなりましたね。
なお古文書の解読に挑戦し、知人に援助も頂ける深山あかね様には羨望を感じます。強い意思で努力を重ね、少しずつでも前に進んで行ける楽しさが此方にも充分伝わってきました。
 寒気が次第に強まる中、風邪に気をつけながらお元気で過して下さいね。
2017/10/26 20:16  | URL | みどり #-[ 編集]
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 志村さんの10月1日のブログに「がつがかわる」という記事がありました。
 その中に、日本語の成り立ちとその問題点については、大学で大野晋先生の授業を聴講して以来、ずっと関心を持ち続けてきた。漢字の母国の中国でも、時代による変遷は別として、一つの字の読み方は、原則として一つに決まっている。日本のように意味をとって自由自在に読み方を増やして行くなどは、中国の人には理解不能だろう。とありました。
 このことについては、志村さんに詳しく教えていただけたらと願っています。

 このことに関連して、このたび、この鴎外全集の解説を読んでいて、びっくりしました。
 明治41年ではないかと思われますが、教科書が1年だけそれまで、『恋すてふ』と書いていたものを『コイスチョー』、と書くようになったことがあったのだそうです。このことは会議で全員一致で決定したものだったそうですが、それが第4回の臨時仮名遣調査委員会で鴎外が『仮名遣意見』を提言して、元に戻させたのだそうです。鴎外は孤立無援だったので、陸軍大臣の寺内正毅を訪ねて、事の始終を話し、演説中に自分の説に圧を加えるために陸軍の名を用いてよいかとただし、賛同を得て、急所急所に要領よく陸軍の要望をほのめかして変えさせたことが記されていました。
 ほんとにいろんなことがあったのだと思わされました。

 古文書は志村さんが言われるように大変です。今ひとつ例を挙げれば、「決める」というとき、「究」や「極」という文字も使います。これらの文字の崩しで書かれているのですが、まさかこんな文字を使っているとは思いませんので、予想も経ちかねます。さらにほとんど送り仮名もありませんので、「可極」は「決めるべき」と読みますし、「極候」は「決めそうろう」と読みます。「候」も「そうろう」と読んだり、「そろ」と読んだりします。「宜候」も「よろしくそうろう」と読んだり、「よーそろ」と読んだりします。船での合図に「よーそろ」というのは、この「それでいい」という意味のようです。「宜」も「よろしく」と読んだり「うべ」とよんだり「むべ」と読んだりします。
 ほんとにもうお手上げです。
 ですが、今読んでいる「理勢志」は、ネットにて国立国会図書館で読みくだしたしたものを見つけましたが、資料がないという理由で途中でやめていますし、もし誤りがあれば正してほしいと述べられている通り少し間違いがあるように思います。
 日本人が江戸時代の終わりころどのような漢字を使いそれをどう読んでいたのか、知る手だてがなくなりつつありますので、若いころ一度手がけたのが縁で、一生懸命習っています。
 

2017/10/26 23:35  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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