「永徳翔天」
2018/01/05(Fri)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 狩野永徳の話です。

 1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛15代して将軍に据え、それまでの京での権力者、三好・松永に代わって、信長が猛威をふるい始め、狩野源四朗がそれまで関係の深かった五摂家で先の関白だった近衛前久の屋敷を焼き払うといったところから話が始まります。
 狩野永徳は、そのころ狩野源四朗と名乗っており、26歳です。
 幕府御用絵師の父親の松栄のもとで、水墨画の技法に大和絵を取り入れた技法で、工房は、扇面工房が主流だったようです。

 織田信長の乱暴な屋敷の焼き払いの現場で、遊郭の遊女で源四朗の馴染みの夕霧が、非難めいたことを大声で言ってしまった源四朗の袖を引いて遊郭に連れていき、そこで待っていた近衛前久に会います。前久は石山本願寺の顕如を頼って大阪に行くと告げ、朝廷に復帰するのはそれから7年後でした。そのとき、前久に以前納めた、屏風絵や、襖絵をまとめて運び出した小姓がいて、それが織田家中の美しい万見仙千代だとほかの遊女から聞かされます。
 その現場では、狩野家の敵対の絵師である朝廷絵所預の土佐光元にも出合いますが彼は織田信長の家臣羽柴秀吉に仕える武士になっていました。土佐家は、泉州上神谷に千石の知行を持っていたため織田信長に安堵してもらうためでもありました。そうなると、幕府からの絵の注文も来なくなる不安もありました。
 父親の松栄は、源四朗に家督を譲って、豊後の大友宗麟を頼って九州に下ります。1570年に戻ってきて、翌年、今度は源四朗が大友氏の居城に行きます。
 1573年4月には信長は将軍足利義昭を京都から追放し、万見仙千代の推薦があってのことか、12月にはその信長に源四朗は拝謁します。、源四朗は、10歳の時、絵師としては名高かった祖父の元信に連れられて13代将軍義輝に引き合わせられたこともあり度胸は据わっていました。信長からは「これからはわしのために励め」との言葉をもらえます。
 そして、安土城を飾る絵をすべて描くことになります。絵への注文は空を飛翔するような絵ということです。安土城が出来上がったときの≪壁一面の金箔、魚子の飾り金具による唐草模様、組み入れ合天井が豪華を極め、高麗べり、繧繝べりの備後畳が青々と続くことが家臣たちの目を驚かせた≫のなか、備後畳では、先ごろ読み終えた『理勢志』に語られる備後畳、やはり日本一だったのかと思わされます。
 信長亡き後、ひきつづき秀吉に用いられます。また諸大名からの依頼も多く、疲労から1590年、このところ、千利休に気に入られてのし上がってきた長谷川等伯にとってかわられることを憂えながら、48歳で亡くなります。
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