『こころの天気図』
2008/03/08(Sat)
五木寛之の『こころの天気図』を読む。

短い短い文章を集めた本である。
1ページ半くらいの文章が、目次7ページにわたるほどある。

肩から力がスーッと抜ける書だ。
ご大層な五木寛之ではなく、隣のおじさんのぼやきを聞いている感じがする。
今日は肩がこっているんだなとか、今日は仕事に身が入らないんだなとか、なんだかんだいいながら今日は良く食べているじゃん、といった感じ。

五木寛之自身、紙面が少ないので、何を話したとしても、誤解を招きそうなので、読んだ本への思いがないではないが、紙面の長さから行ったらこの本との出会いくらいにしておこうとか、旅行の話も、その歴史の重みとか、人々の暮らし向きとか、いっぱいあるけど、そこの店先の話くらいにしておこうといった具合である。
紙面に限りがある文章というものは、深みにかける気がするのだが、これだけ沢山の文章を読んでいると、書く内容が制限されるぶん違った味が出てくるんだなと気づかされる。
もしかして、文章は短いほうが体温を伝えられるのかもしれないとさえ感じる。
しかし、ここが短い文章なりのツボを心得ている五木寛之の筆の力かもしれない。

倉田百三の『出家とその弟子』を読んだ話がある。
読んでも読んでもこの世の中には世評を風靡した本でもまだ読んでなかったものが沢山あるというところから話が始まる。
私などは当然日々感じていることであるが五木寛之でもそうなのかと胸をなでおろす。
その一冊に『出家とその弟子』をあげ、昔の本で入手できるかしらなどと危惧していたけれど、実は初版以来、版に版を重ねしっかり大勢の人に読み継がれていることにびっくりするくだりがある。
これも私などはいつも体験することだ。
図書館で本を借りて「目からうろこ」の思いをして、あらためて本をよくよく見ると、本の痛み具合などからすでに多くの人に読まれた痕跡が察せられる。
こんな小さな街でも、私が今「目からうろこ」の思いをして読んだ本をすでに多くの人が読み知っていて、この街では常識になっていたのかもしれないとショック受ける。
世間様恐れ入りましたである。

少し気分がいいことには、私は『出家とその弟子』は高校生の頃読んだ。
アンドレジイドの『狭き門』なども読んでいて、信仰者の悩みというものは、世の東西を問わず同じものかなと思ったことを覚えている。
五木寛之はしかし、二度おいしいというコマーシャルがあるように、おそらく、現在の読者は若者達よりも、むしろ改めて自分の人生や死を考え始める中年以降の人々ではあるまいかと述べている。

えっ!中高年には中高年の味わいがあるんですって。とは思うが・・・・今はなぜか読む気がしない。
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