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「等伯慕影」
2018/01/06(Sat)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 長谷川等伯の話です。
 等伯の絵についてのテレビ番組を見てまだ日が浅く、ワクワクしての読書となりました。

 小説では、長谷川等伯は、「永徳翔天」で、狩野永徳が豊臣秀吉に用いられるようになってから、登場してきたので、そのつづきのような気持ちで読め、さらに、絵の特徴が両者と、さらに時代はもっと下がりますが「乾山晩秋」の尾形光琳とも比較でき、その違いを知ることで、それらの特徴をより鮮明に感じることができました。

 長谷川等伯が帯刀信春と名乗っていたころ、竹田信玄の肖像を描いて、褒美に多くの碁石金を絵を頂戴します。
 織田に戦いを挑み続けられている朝倉家から密使として、前波伝九郎・長新左衛門らとともに反織田同盟への武田の参加を求めて雪深の中を越前から甲斐までやってきて描いたのです。
 ≪「義景殿は、父上の肖像に朝夕、香を炷き、武運長久を祈願いたしたいとのことでございます」≫とのべ、ここで書き、それは献上して、帰ってからも書くということでした。しかし、信春だけが飛びぬけてもらったので、他のものが帰る途中で取り上げて信春は遭難ことにしようとしたことから、一人で逃げます。逃げる途中も狙われて散々な思いをして妻と息子の松家に帰ります。それでも狙われるので京に家族で逃げます。

 京に出て16・7年目、長谷川等伯と名乗るようになって、大徳寺三玄院の襖に無断で絵をかいて、なかなかの出来栄えに評判がよくそのことを聞きつけた利休に見初められ、大徳寺山門の彩色を頼んだのです。それも気に入って、新内裏の対屋の造営に際して、その彩色をすでに狩野永徳に決まっているのに、前田玄以に推挙したのでした。ここの部分が「永徳翔天」の内容と重なる部分です。

 結局、狩野の方が人脈が強く、仕事は狩野に取られてしまいます。しかし、直後狩野永徳は亡くなり、以後は等伯に仕事が来るようになっていきました。
 自分よりは才能があると認めた長男の久蔵が若死にして、無念の気持ちは深かったのですが、画業はさかえ、豊臣が徳川に変わり、等伯71歳で江戸幕府に招かれて江戸に下って二日目で亡くなりました。

 そのあと一年半後二男の宗宅も亡くなり、宗也、左近が次ぐことになるが江戸時代、狩野派ほど振るわなかったのです。

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