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『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』
2018/03/18(Sun)
 これは、私が今読んでいる古文書のタイトルです。
 ≪学頭智洞 邪義相顕安心致惑乱吟味記 
    享和三年癸亥七月京都二条御公儀
    西奉行所において御尋奉答上筆記≫ ※享和三年癸亥とは1803年
という三行の説明があってから、
 ≪一九日御奉行様直御尋と云う
「問」藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮とは其方欤 「答」左様で御座います≫
というように続いていきます。
 読み下したと思う文字が、実はおおいに間違っているかもしれないと思いつつこのように、原稿用紙に書き込んでいます。
 この三業惑乱について、ウィキペディアで検索してみますと、1762年に功存という人が自立的な三業帰命説という立場を唱え、さらに1797年智洞も唱えたことから在野の安芸の大瀛(ダイエイ)らがこれを批判しました。この論争が各地に広まり、美濃国大垣藩の門徒の百姓たちが一揆のいでたちで本山に詰めかけようと河原に集結するというような事件がたびたび起こり、藩主の戸田氏が事件を江戸幕府に届けたことから、江戸の築地御坊の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行・脇坂安董の役宅へ呼び出され事情聴取されたのです。幕府は従来寺社に対して教義や宗門の紛争は黙認する方針でしたが、事態が一向一揆に似た不穏な状況になったため介入せざるを得なくなったとあります。
 脇坂安董が、1802年本願寺派本山に対して警告書を突き付けたため、本山は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになり、1803年三業安心派の僧侶や門徒が、安心にかかわる権限を学林に一任するよう槍を持って門主の室近くへ侵入する事件が起きたといいます。
 本山のなかに教化部門があってその長が学林能化あるいは学頭というのかと思っていたのですがどうもこの辺がよくわかりません。とりあえず、三つ巴になった様相です。そこで本山がこの措置に窮して京都所司代に訴えたというのです。本山が訴えたのに、尋問を受けるのが藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮の大瀛(ダイエイ)であるということも不思議です。ようするに、本山が、宗旨の論理がしっかりしていなかったために、学頭が自分流の教義を布教してもそれを糺せなかったというのが見えてきます。
 古文書を読み解いていくうち、この問答の中で、おもわずこの尋問を受けている廊亮(カクロウ)こと大瀛(ダイエイ)が、すごいなと思われて、あるいは浄土真宗の真髄を言い当てていると感動して涙が出そうになるところとか、説明をするにあたって、いまの私たちでさえも分かるように理路整然と答えているというところに深くその学識に驚嘆させられる部分について書き記してみたいと夜中に目覚めて思いついたのですが、事件の概要の概要で終わってしまいました。

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