『漱石を書く』
2008/03/25(Tue)
島田雅彦著『漱石を書く』を読む。

『漱石を書く』いかにも斬新な題名だ。

こんなに難しい本に出会ったことがあるかしらと思えるほどの著書だ。
語彙の少ない私は辞書と首っ丈の部分もある。読んでも読んでも分からない。
しかしところどころにびっくりするような分析がされていると感じられるところがあるのでそれにつられて
読み終えた。
分かりやすく語ってくださればと思うのだが、それでは意を尽くせないのだろうか。

島田雅彦氏の表現や説明は私にとってはあまり分からないので内容と感想を私なりに綴ってみる。

漱石の生きた明治時代の日本語というものがまず現代とは距離がある。
漱石の作品を読むにあたってはさほどそのことは気にならないのだが、当時の日本語の中から漱石がどのようにしてこんな日本語を使って表現していったのかの説明になるとその比較対象として本居宣長にまでさかのぼる。本居宣長の日本語といえば『日本書紀』の中国語からどのように日本語を作って行ったかにまでさかのぼる。
それは、中国語のひとつの言葉からイメージされたもの、その情緒に見合った音をあてて相当の日本語を作っていくというようなところまで。
要するに、漱石は情緒的な日本語の中に理論的な日本語へのベクトルを加えていったということだろうか。
当時、西周などによって、「権利」とか「自由」とかそういった西洋の思想・概念などを現す言葉が大量に日本語訳されていった。
漱石は、漢語と日本語と英語、その三つ巴の概念・言葉・既製の文学を分析し要約しあの膨大な『文学論』を書いた。
しかし、漱石自身『文学論』に掲げる小説を作ることに成功したかというと矛盾がある。


また、島田雅彦氏は小説を「起承転結」という言葉で表現しているところが随所に見られる。小説を「起承転結」というひとつの言葉で表現することによって、その内容が、完結したかどうかの物差しにしている。
この物差しは分かりやすい。
職業作家になってからの作品はこの物差しに当てると宙吊りになっているという。その解説は注意深くなされているので理解できた。

本を閉じてしばし考えてみる。
漱石の作品自体はこの何十年か読んでいない。研究書ばかりを読んでいる。
この漱石の『文学論』や、その他の小説などが思い出せないような状況でこの本を理解するには無理がある。
そんな状況ではあるが、その漱石の宙吊りの状況こそが漱石がある種の読者に好んで読まれた所以ではないかと思える。
世の中は、あるいは人生はすべて宙吊り状態だ。

それにしても、私には漱石自身のつくった物差しで世の中を測ってきた長い年月がある。

たとえば、「文芸も教育もロマン主義と自然主義の間をふれる。どちらも振れすぎると元に戻ろうとする力も大きい」 ある講演で漱石が述べた言葉である。国会中継などを聞いているときは、この物差しを当てている自分が居る。
また、知に働けば角が立つから始まる一連のカントも言うところの「知・情・意」の分析。問題が起きたとき、理屈で考えたらどうか、または、法に当てたらどうか。情の部分ではどうか。意地として許せるかといったように常に三つの視点から考えていくという漱石的思考をする。
仕事場ではこの物差しが働く。
そして、『門』のなかで「○○は、門をくぐる人ではなかった、門の前にたたずんで夕日が沈むのをじっと待つ人だった」といったような表現があったと思う。自分の宗教とか信仰とかそういったことを考えるときこれでいいんだと妙に納得するのである。

それが私の中で働きかけてくる漱石だ。
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