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『宿敵』上下
2018/08/17(Fri)
 遠藤周作著 『宿敵』上下 を読みました。
 昭和六二年九月初版発行の角川文庫上下二巻です。
 ≪――天正十年六月二日の早朝―≫ から始まる歴史小説です。
 天正十年とは1582年で、宮本武蔵の生まれた年です。しかしこのお話は、宮本武蔵と、佐々木小次郎の話ではなくて、本能寺の変からはじまる、小西行長と加藤清正の話です。関ヶ原の戦いで宮本武蔵も一行ほど出てきますが。
 わたしにとって、歴史小説でも一番よく読んでいる戦国時代の話なので、この本を読んでいる間中楽しくて、読み終わったいまでは、まるで、同窓会に行ってきたような気分を味わっています。
 「まあ、小西行長君はキリシタン大名で、加藤清正君は城作りの名人であの強固な城を作ったことはよく覚えていたけど、二人は宿敵だったの?」といった感じです。
 「遠藤周作君は、キリスト教だったから、『沈黙』で、キリスト教でいうところの神の存在や、信仰のあり方を問い続ける作品を書いたけど、それは、よく考えてみればもちろん戦国時代の話だったのだけれども、戦国時代の、いわゆる国が統一されていく流れを描いていたのではなかったから、あまり戦国時代の歴史小説という気がしなかったのに、このたびは、本能寺の変の日の早朝から始まり、1600年の関ヶ原の戦いで敗走した、石田光成君と小西行長君と安国寺恵瓊君が捕えられて、家康君に京都六条河原で斬首され三条大橋に首をさらされ、その6年後加藤清正君が病死するところで終わるという話だったため、戦国時代の皆にあえて、同窓会のような気分になったのよね。」という具合です。

 今まで読んだ本との読み合わせで思い出して、より確認できた部分を、2・3書き記してみたいと思います。
 少し前、南方熊楠が品川弥次郎が商業組合は西欧化によってできたもののように思っていることを非難して書いた書簡を読んだのですが、ここに、小西行長の生まれた堺の会合衆だった小西家について書かれた部分で、堺は戦国時代には一種の自由都市だったため、ある学者は堺をルネッサンスのヴェニスにたとえていて、切支丹宣教師ヴィレラが故国に書き送った手紙に「堺はヴェニスの如く執政官たちによって治められている」とかかれており、執政官というのが会合衆であったと説明されています。これは、加藤清正の出自と比較して、もともと、小西行長には同じ九州大名でも、加藤清正のように武人としての実戦的な能力はなかったが、頼る大きな経済的バックボーンがあり、培われた交渉能力があったり、面従腹背的な生き方ができる部分では、ある意味加藤清正は、そういった商業自治については全く知識がなく、言い換えれば明治の品川弥次郎のような性格だったともいえます。

 また、ずっと以前三浦綾子の『利休とその妻たち』で、利休は「狭き門より入れ」という言葉から、躙り口(にじりぐち)を考えたとか、茶の湯の作法をキリスト教からヒントを得た部分について書かれていましたが、ここでは、カリス(杯)と布から、茶器と袱紗のヒントを得たことが書かれてあります。

 やはりずっと以前、井伏鱒二の『神屋宗湛の残した日記』では、本能寺の変の日に、神屋宗湛は織田信長に招かれて、本能寺に宿泊していて、事が起こるや、床の間にかかっていた信長自慢の掛け軸をまいて腰に差してさっさと逃げたと書かれてあったことが印象に残っていましたが、ここでは、5年後の天正15年、秀吉に北野での茶会に招かれて九州から駆け付けたとあり、やはり、博多の豪商も権力とうまく付き合っていたことがあげられ、いつの時代も貿易と政治は切っても切り離せない重大なことのようです。

 この作品では、豊臣秀吉の老後の変様について、その原因がわからないとしていますが、つい最近読んだ、 童門冬二著 『信長・秀吉・家康の研究』 では、秀吉の弟秀長の死によって、秀吉が変様したことが述べられていました。そのことを思いながらこの本を読んでいくと、一人一人の人間には誰でも限界があり、体の弱かった秀長の死は日本の歴史を変えたかもしれないとの思いも致します。

 歴史小説と言えば、まずは司馬遼太郎ですが、関ヶ原の陣形について、遠藤周作が、司馬遼太郎に聞いた話を書き添えているところは、遠藤周作の人となりについて考えさせられました。

 最後の泉秀樹という人の解説に、小西行長のものであったとして伝えられる「千羽鴉の鞍」と呼ばれている鞍がいまにのこされてあり、行長が鴉に何か心情や思想を象徴させているのではないかと考えたとして、ポーの『大鴉』(THE RAVEN)の「心訝り 衆生悉皆の夢せぬ夢を夢みつつ」(日夏耿之介訳)を思い出したことを述べています。
 なるほど、関ヶ原の後、小西行長が逃亡して、谷に一軒の農家を見てたちより、「ただ、一椀、湯づけなど所望できぬか」とたのみ、馳走になり、落ち延びるよう説得されても、「あとは役人に引き渡すがよい、そして小西摂津守を捕えたと申せ」という場面を連想 させます。
 また、いつだったかラフカディオ・ハーンの会で風呂先生が、このポーの『大鴉』の話をしてくださり、夫婦でこの日夏耿之介訳の本を購入して読んだことも思い出しました。

 この読書で、加藤清正と石田光成の確執が、じつは、小西行長との確執の方が大きかったと思えるようになり、小西行長と小西家について少し詳しくなった気がしています。(何時まで記憶に残るか自信はありませんが・・・)
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コメント
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今回の読後感を楽しく面白く拝読致しました。
同窓会気分になり、登城人物を見わたすなどとは、思いもよらない読み方でしたが、それが実に面白く解かりやすかったのです。
読書も毎日毎日続けていると、見地が深くなるようですね。私は午後から寝てばかりいて此の夏、殆ど本を読めずにおります。怠けているのか弱っているのか判別し難く、どうにも頭がスッキリしません。
秋風にあたるようになれば少しはヤル気が戻るような気もしますが。
2018/08/17 23:34  | URL | みどり #-[ 編集]
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この作品では、キリシタン大名についての記述も多いのですが、朝鮮、明までも領地を拡大したいとの秀吉の野望による、朝鮮での戦況の記述に紙面を裂いています。
 それによる 日本国内の窮乏は、ちょうど第二次世界大戦の時と同じような状況を呈していきはじめなす。そして制海権を握られた戦場では現地での食料略奪や、破壊工作は著しく、その苦しみを朝鮮人は、永遠に忘れないだろうと遠藤周作は述べています。
 この作品では、小西行長の妻の糸が秀吉の命を縮めるのに貢献した経緯が述べられています。
 
 朝鮮はそれほど広くはありませんが、奥が深く第二次世界大戦ではロシアまで出てきたことでも・・・。
 同じようなことをまた安部さんが・・・。自分の立ち位置もわからずに・・・。

 読み終わって、考えていくうち、日本の武将と、キリスト教の宣教師や海外貿易で富を築いていた堺や博多の商人とのもつ海外の情報量の差は、現代とは比べものにならなかったことを思います。

 甲子園にもトンボの姿が見え始めました。
 過ごしやすくなるのももうすぐです。

 みどりさんもお体大切にしてください。
2018/08/18 10:24  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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