『永訣かくのごとくに候』
2008/04/25(Fri)
大岡信著 『永訣かくのごとくに候』 を読む。

≪「生があり、死があるから無量の法があるのではない。無量の法があるから、生があり、死があるのだ。無量の法とは、一切の有によって測り得ぬもの、すなわち無にほかならず、無なるがゆえに一切の有のうちに宿り、これを動かしている活機にほかならない。だからこそ、生は全機現であり、死は全機現であるのだ。」
「生」をも「死」をも無量の法が包攝(ほうせつ)し、貫流しているのだと信じるなら、生死の問題を考えるに当たっても、その立場そのものがすでに単なる相対論を超えていなければならないだろう。「しかあれども生は全機現なり、死は全機現なり」とは、そういう立場に立たなければ了解できない思想だろう。
私にはそれを把握しているという自信はまったくない。いつも鬼にせせら笑われているだけである。・・・・・・この本はそういう中途半端な、しかし追求心だけは多少とも持っている人間が書いた小さな本である。・・・・・・≫
この文章は、「あとがき」の抜粋である。

ながいながい「序章」があって、十章まである。

一章読み終わるごとに、先に掲げた「あとがき」を読んだのではないかというほど気になって読んだ。
大岡信が、若い頃くりかえしくりかえし読んだ、道元の『正法眼蔵』の一節を噛み砕いて語ってくれている。

正岡子規の最後、漱石の最後、国木田独歩の最後、岡倉天心の最後、渡辺崋山の最後などいずれも比べることなど出来ない最後。このように最後を描かれた本にであって行間に打ち震えるものを感じた。

しかし、死に対しては何処までいっても無量であるということがわかった。
わかってしまえば、ある意味ではそのことを考えるのはナンセンスなことであったような気がする。

ただ、芸術家の最後というものは、それを現して打ち震えるほどの感動を覚えるものであるし、自分の最後にこれらのことを思い出すことが出来れば感動的に自分の最後を見つめられるのではないかと思える。

良書であり重い本であった。

   糸瓜咲いて たんのつまりし 仏かな
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