『ドレの旧約聖書』
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2019/12/23(Mon)
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谷口絵里也訳構成 ギュスターブ・ドレ挿絵 『ドレの宝島』を読みました。
宝島社から、2010年11月26日に第一刷発行されたものです。 『旧約聖書』のことが多く引用されている、パスカルの 『パンセ』を読んだことによる思い付きでもありますが、夫が数カ月前購入していてもっと早く読みたいと思っていましたが、この度、やっとどうにか読むことができました。 新約聖書は高校生の時、世界で一番読まれた本だからということで、教会で頂いて読んだきりですが、旧約聖書を読むのは初めてです。 夫がこれは旧約聖書といっても大幅に抜粋してある本だからと言って、自分は新たに岩波文庫の『文語訳 旧約聖書』Ⅰ~Ⅳを買って読んでいると見せてくれました。 確かにこの宝島社のものは、文字も少し大きく、半分はギュスターブ・ドレの絵が入っていて430ページですが、『文語訳 旧約聖書』Ⅰ~Ⅳは文庫本ですが4冊で2000ページ近くあります。夫はドレの絵を楽しんだようですが、私が絵を見いるようになったのは中ごろからです。 ほしいのは地図です。もしかしてと思って、文庫本には地図があるのではないかと夫にきいてみるとと、思った通り、最初はイスラエルだけの地図があり、読むにしたがって話の範囲が広がっていき、地図の範囲も広くなり、結局4冊で4つの地図があり、書かれている場所が多少分かるようになってきます。 中島敦から『パンセ』、『パンセ』から『旧約聖書』となったのですが、『パンセ』も『旧約聖書』も読物としては特殊で読みが深まらないせいか、なかなか関連づけて納得というのができないのが残念なところです。 いったいこの『旧約聖書』の記録をどう書く? もしかして紀元前17世紀頃からのとびとびの歴史を!!とも思えます。この『旧約聖書』はいろいろの宗教、中でもユダヤ教、イスラム教、キリスト教といった世界的な宗教の共通の経典です。 旧約聖書の戦いの歴史を垣間見ると、これらの契約による宗教がいがみ合っている歴史が紀元前17世紀からずっとあるという思いがしないでもありません。ただ、パンセが感じている、人間が過去を考え、未来を予想する動物であることを自覚したときから、今この瞬間を生きることに、心を定められないみじめさから逃れるために、お祭り騒ぎをするという人間の不幸を理性によって直感的に認識するために常に神に祈る。とでも解釈すべきでしょうか。 こういった宗教が起こる前提としては、中島敦が描く李陵のことを思い浮かべます。 李陵は徒歩の兵を引き連れて、騎馬兵を擁する北狄を撃つことになり敗戦の将として捕虜になります。そうしてその地方で暮らしてみて初めて、彼等の生活が野蛮なものではなく、その気候風土に適したものであることを悟ります、このように契約による宗教が起こるという風土的な前提があるのかもしれないと思えもします。 スポンサーサイト
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