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『日本の城の謎』 (上) 築城編
2020/11/28(Sat)
 井上宗和著 『日本の城の謎』 (上) 築城編 を読みました。
 昭和61年初版第1刷発行の祥伝社文庫本です。隣のご主人に頂いた本です。

  なぜ秀吉は城攻めの天才と呼ばれるのか
  なぜ名城には人柱伝説があるのか
  本当に信玄は城を造らなかったのか
  なぜ信長は安土城天守閣を築いたのか
  なぜ抜け穴伝説が生まれたのか
  なぜ大阪城の土塁は石垣に変わったのか
  なぜ難攻不落の小田原城は落ちたのか
  なぜ城の絵図は正確無比だったのか

 の謎について考えてあります。

 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵也」 という信玄の言葉を知らなくても、戦国時代での天下取りというのはこうであったと思えるのですが、中国の兵法で 『孫子』 という本では、 「城を攻めるには、城を守る兵の十倍以上の兵を必要とする」 と言っているのを見ると、やはり城づくりにも精魂を傾けなければならないようです。 じっさいに城をみると、その感性と技術と労力については、いまのように建設機械のないあの時代に一体どのようにしてあれだけのものを造ることができたのかと思わされます。大坂城の石垣づくりでは大きな石が支えきれず一時に120人が下敷きになって死んだということもあったといいます。まずはこの堀づくりや石垣づくりに関心が寄せられます。

 土塁から石垣になったのは、1543年の鉄砲伝来からだといいます。初めて石垣にしたのは安土城・二条城(1569年室町通のときのもの)を築いた信長だといいます。ちなみに安土城築城に当たってはルイス・フロイスから諸外国の城・宮殿・大寺院の建築についての話を聞いたともあります。この石垣づくりには石造りの技能者には大津市坂本穴太町の石工の集団である 「穴太者(あのうもの)」 ・ 近江八幡に近い「馬淵」 が当たったと言われています。これらの石工については司馬遼太郎の作品でもずいぶん興味を持って読んだことを思い出しました。熊本上益城郡の通潤橋では種山石工の技術を堪能しました。こういった石工集団の入るところでの古い石垣には目が留まります。

 天守閣について、古文書によって、その表記が天守であったり、天守であったり、殿主であったりの論議も面白く読めました。

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