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『可部の歴史と文化』
2021/03/18(Thu)
 広島文教女子大学地域文化研究所 平成8年発行の 『可部の歴史と文化』の、横山邦治著「わたしにとっての“可部”」と角重始著「源平争乱期の可部」両方で40ページを読みました。

 横山先生は亡くなられて4・5年になります。
「わたしにとっての“可部”」では、先生が子供のころ生まれ育った鈴張から3里先にある可部への道行と、そこで出会うちょっとした町の風景が述べられています。先生のお宅へ夫婦で訪ねたこともあったので、なるほどとの思いで往古をしのぶことができます。

 角重先生の「源平争乱期の可部」は、読み終わったあとでところどころ読み返して、平安時代の地方について少しわかってきます。
ここでは、「厳島文書」の「厳島野坂文書」のなかでも10通に満たない平安時代の文書のなかで見つけられた、可部源三郎こと源頼綱の追而書(治承四年1180年)を中心に平安時代の可部を思いめぐらすことができます。

もともと、藤原守仲から7代目の藤原成孝は、破産状態になり、1151年可部荘を本拠とする源頼信を養子に迎え高田郡の三田郷と三次の粟屋郷の所領を譲渡します。二つの所領に関する証拠文書などの譲渡です。源頼信はその付託に応えて現世の養育をし、官物の未払い分や私的な債務の弁済に当たります。そして、1167年には自らの安定的な領主権を確保したいがために、平清盛の威光を頼みに彼の信任厚い厳島神主佐伯景弘にその証拠文書を譲渡しました。それから30年後、それを引き継いだ息子の源頼綱も二つの郷の所領の経営に心を砕いて彼なりに尽力してきました。
ところが、1180年9月になって突然あっさりと景弘に三田・粟屋両郷を奪い取られてしまいます。そのとき、景弘に送られたのが可部源三郎こと源頼綱の追而書です。
治承四年1180年段階における“高圧的な景弘”と“卑屈な頼綱” の二人のコントラストのなかに、安芸国の平安末期の政治史を解くカギは潜んでいるというのです。

1167年には従五位下に叙せられた景弘は「平」を名乗るようになり、民部太夫寿永元年(1182年)在地の人間としてはきわめて異例な安芸守に就任するのです。

どんな時代もその時代の制度が年数がたつにつれて中央にも地方にもとんでもない弊害がでてくるその道筋が見えてきます。取り上げられた郷は、国司の権力が増し、納税不可能な土地を私有化したことで、私有地になってしまっていたためにおこることがらでした。正式な領有権は急速に権力を増していった平家に取られても仕方がないの一例です。

平安時代には一揆などはなかったのかというと、やはり地方の一揆が中央の制度に破綻をきたさせる様子もわかってきました。
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