『ある運命について』 ①
2008/11/15(Sat)
司馬遼太郎著 『ある運命について』を読む。

随筆集である。最初の一作目、ー「文学」としての登場ーが、とても素晴しいのでメモしておいて次に進もうと思ったが、何でも忘れやすくなっている。この随筆集は、思いのあるうちに少しずつ書き記していくことにする。

ー「文学」としての登場ー

 これは、広瀬武夫の話であるし、その研究家島田謹二教授の話であるし、東京大学教養学部創立の話でもある。

 広瀬武夫に関する書物は何冊かあると記されているが、私はやはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』に登場する広瀬武夫しか知らない。

 司馬遼太郎がていねいに心をこめて、多少の小説の演出として描いているのかもしれないと思いながら読んでいるが、この随筆を読むと決してそうではなく、『坂の上の雲』の広瀬武夫以上にこの随筆は彼の人となりを描いて多く余りある。
 
 広瀬武夫は兄広瀬勝比古の友人でもある8歳年上の八代六郎(1860~1930)を敬愛していた。この2人の関係を通して、広瀬武夫を語らしめている。この語り方には、非常に興味がある。本当に心から信頼している人にしか自分を語れないし、感じあえないのが世の常である。
 八代は海軍の命を受けてロシア語とロシア海軍の研究をする。そして、八代は明治28年12月発令されてペテルブルグに公使館付武官として赴任する。広瀬も後を追って、明治30年8月26日ペテルブルグに到着し大尉として公使館に勤務する。初めて、大使館に挨拶に行くときの道すがらの会話ではないかといわれている会話についてである。

 ≪八代は突然「万里の長城不(返り点)禦(返り点)胡」と吟じた。この詩句を30歩の間に17字につくってみろと命じた。5,6歩出したかと思うと、広瀬はもう「盗人を吾が子と知らで垣つくり」とたかだかと吟じた。その日一日八代は機嫌がよかった。≫

 「盗人を吾が子と知らで垣つくり」の詩句のなかに司馬遼太郎は広瀬のロシアに対する思いが十分に出ていると感じている。
 広瀬は、ロシアの民衆の皇帝に対する不満を熟知していて、国内で革命が起こったら日本と戦争などしている場合ではない。海軍を強化するより革命のひだねをなくするよう心がけるべき。との思いでこの詩句を読んだとしている。

 また、その時知り合ったアリアズナとの恋愛関係にも目をむけ

 ≪アリアズナと広瀬の間はその背景の国家と文化を異にし、しかも互いに仮想の敵国といってよく、さらにひとりは海軍の高級官僚の娘であり、他はやがては娘の国にむかって開戦せざるを得ない国の現役軍人であることを思うと遂げがたい恋という意味で、最も劇的な条件を持っている。≫

 彼の、志躁(ここにはじめてみる熟語であるが彼の志と操という意味でなんとも的確な熟語だと思う)を伝えるこれらの生き方が、多くの人に感動を与え、それの研究に努める島田謹二教授にもそういったことこそが人としての教養であると多くの人に思わしめる。それが、当時新設された東京大学の教養学部の内容の検討がなされるとき、広瀬武夫といったような人につ
学んでいくことこそが教養課程の内容にふさわしいとされるのである。

ぜんぜん内容の意をメモしきれないが、こういった彼の考え方を持った人のことを侠者(この熟語も初めてだがよく分からない)と言っている。

この話に「文学」として登場という題をつけたことに対して『広瀬武夫全集』の編纂にあたった関係者が彼を軍人としてではなく文学の徒としようとしたこともメモしておきたい。
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