『戦雲の夢』
2008/11/30(Sun)
司馬遼太郎の『戦雲の夢』を文庫本で読む。

 長曾我部盛親の話である。
 時は、慶長3年(1598年)8月に太閤秀吉が亡くなるがその2・3年前から、慶長20年(1615年)6月の大阪夏の陳で長曾我部盛親が敗れるまでのこと。
 
 長曾我部盛親は、京都の屋敷にいて、秀吉の死を伝えられる。やはり京都にいる父親の元親も病気でその後慶長5年5月に亡くなる。その間徳川家康より徳川方につくよう勧められるが返事を延ばしている。
 そのうち父親の葬儀のために土佐に帰るが土佐の家臣にはなじみがあまりなく自己紹介をしなければならないほどであった。そのころ、いずれ関が原の戦いとなる騒ぎが起こり、盛親は徳川方につくことを決心する。しかし、その使者が江戸へ向かう途中近江の国水口で西軍の長束正家に進路を阻まれ使者がそのことをつげに土佐に帰ってくる。仕方なく西軍に組するのである。そこが長曾我部運命の分かれ目となる。
 半分負けるとわかりながら、土佐の領国奪還を目指して戦わなければならない戦国大名の気分の移り変わりを司馬遼太郎はえがいている。
 また、この時代夏の陣を最後に戦はほとんどなくなるのであるが、その最後の武運に命をかけたい、または武力に自信があり存分の働きをして名を残したいという武士としての気分を描いている。

 長曾我部は渡来系だということで、いつのころどのように渡ってきたのか以前から興味があったし、昔から、現代の若い人たちの間までも大変な人気である。その人気のもとを探りたいとの思いもあった。
 その長曾我部元親の先祖については、
 ≪もともと長曾我部家というのは、天智帝の世、百済から帰化した韓人の子孫であるという説がある。代々信州に住み、秦氏を姓とした。秦氏というのは、通常、応神帝14年に中国の山東から帰化した弓月王の子孫に与えられた姓をさすのだが、盛親の先祖の韓人は、帰化人の名族秦氏にあやかろうとして、その姓を冒したのかもしれない。・・・・・≫としている。

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