『サムライとヤクザ』
2008/12/06(Sat)
新書本 氏家幹人著『サムライとヤクザ』を読む。

 この著書を十分理解したか、また自分なりの感想がもてるほどに読み込めたか自信がないが、この本ほど読み進んでいくうちにカルチャーショックを受けた本は最近希である。

 江戸300年のあとにくる維新について、私は、ずいぶんな本を読んだような気がするが教科書どおりの解釈が抜けきっていなかったのだと今さらながら感じる。

 教科書どおりというのは、アメリカの黒船が日本沿岸に姿を見せるようになってから日本国中が右往左往するようになっての維新という感覚である。しかし、江戸幕府の崩壊は、士農工商で成り立っている幕藩体制の中心をなす武士。その役割も経済力も武士としての精神もなくなったことが維新へとつながったというのである。

 ≪戦国の世から徳川の泰平の世への転換と軌を一にして、戦士の作法だった「男道」は色あせ、役人の心得である「武士道」へと様変わりする。江戸前期に鳴らした「かぶき者」が幕府から弾圧されると、「男」を継承したのは江戸の藩邸が雇い入れた駕篭かきなど町の男たちだった。武士が武威を彼ら荒くれ男に肩代わりさせてた帰結が、幕府のあっけない倒壊・・・・・・。≫

この書のカバーにこの一文を見たときに「まさか!」と思ったのが「なるほど」に変わってくるのである。

 この著者は私のように内容がいまひとつ理解できにくい読者に最後のエピローグに内容をまとめてくれている。それを、ここにすべて転用する。

 ≪・・・くどいようだが整理してみよう。   
 戦争を家業に人殺しを本領にしてきた荒々しい男たちの一部が、戦国の世の終焉によって武将や大名に上昇転化し、徳川の体制に組み込まれていった。その過程で戦士(戦場)の作法だった「男道」は色あせ、治者あるいは役人(奉公人)の心得である「武士道」へと様変わりしていく。仕掛け人は徳川家康。『郡書治要』『貞観政要』などの心得を説いた中国の古典を活字出版によって普及させようとした家康は、戦国の血なまぐさい「男道」を儒教的倫理で彩られた「武士道」に転化させた最初にして最大の貢献者だったと言える。
 爾来、江戸時代の武士は、将軍大名以下幕臣藩士に至るまで、総じて非武装化の道をたどり、戦士の本分を弱めていくのである(武士の刀狩)。江戸初期のかぶき者やその後相次いで登場した旗本奴や町奴などいわゆる”男の余熱”が幕府の度重なる禁令によって弾圧されたのも、時代の趨勢がもたらしたものだった。家康が基礎を築いた”徳川の平和”は、無法な暴力や喧嘩口論など私情による紛争をなにより嫌った。かぶき者や男だては、戦国の習俗から抜け切れない古いタイプの武士(男)と共に、社会の表舞台から摘み取られていったのである。
 とはいえ、将軍を頂点とする武士階級は、社会を支配し日常や非常時の秩序と治安を維持するために、それなりの武威を必要としていた。もちろん幕府も藩も相当の軍事力を擁していたが、その軍団は、平和ボケとそれにもまして武力のあからさまな行使を極力さけようとする事なかれ主義によって形骸化し、個々の武士もまた、形どおりの訓練を繰り返しただけで、戦士としての資質は失われつつあった。
 ならば誰が武士たちの武威を支えたのか。たとえば旗本や全国の大名屋敷が集中する江戸では、武家屋敷側は庶民の屈強な男を雇って、さながら傭兵のように主人の供廻りや駕篭かきを勤めさせる方法を選択した。自前ではなく、町の荒くれ男たちに武士の本領であるはずの武威を外部委託(アウトソーシング)したのである。委託された町の男たちはしだいに武家を軽視し、武家もまた彼らの命知らずの行動に危機感を持つと同時にある種賞嘆の感情を抱くようになる。「自分たちは武士とはいえ形だけの戦士だが、この男たちは根っから勇猛だ。実は彼らのほうが自分たちより」武士らしいのかもしれぬ」。
 階級の壁を越えたこの奇妙な感情は、江戸末期から幕末にかけて、博徒俠客の活動が過激になり、武士が再び実践を経験せざるを得なくなることでさらに増幅していく。そして近代以降、庶民の荒くれ男たちの側にも、俺たちこそ本物の武士の末裔だという自信が芽生えてくる。弱者を救い国を憂う高貴な俠客というキャラクターの登場である。

 自分たちはまぎれもない武士なのに、町や村の荒くれ男たちに比べると男(武士)として明らかに劣っている。身体的な頑丈さにおいて、それにも増して命知らずな闘争精神においてーーー・
 武威の外部委託と、武士における”男としての引け目”が、明治以降たぶん現代に至るまで、サムライを自負する政治家や企業戦士が、アンダーワールドの男たちを毅然と排除できないばかりか、ややもすれば彼らと”共存”し、その力を”活用”する習慣を生んだ歴史的素地だったのではないか。私はそう推理するのである。・・・・・≫

 読み進む中で、思わず苦笑したのは、この現象のある部分が、今に通じていると思えたことである。 江戸時代の落ち着きと共に、各藩が家中の武士たちが武士としての体面を保ちつつ役回りを実践するためのマニュアルを必要としそれも間に合わなくなり、大名の警護など粗相があっても幕府からお咎めを受けない町民に外部委託ていたということである。
 そのことは、現在、憲法の精神と行政サービスの間に矛盾がある。その矛盾を切り抜けるためにいろいろ市民との交渉についてのマニュアル作りをしてきた。しかしそれも間に合わなくなり現政権を存続させるために第三セクターへの行政委託を推し進めているという現象である。
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