『古典がもっと好きになる』
2008/12/29(Mon)
岩波ジュニア新書 田中貴子著 『古典がもっと好きになる』を読む。
 
  ≪ 目次 ≫

序章 古文が嫌いになる前に

第一章 「古典」が生まれた背景

第二章 古文に慣れよう

第三章 『徒然草』を遊ぼう

第四章 百人一首うらばなし

第五章 『堤中納言物語』より「花桜折る中将」を読む

第六章 女もすなる『土佐日記』

第七章 「しんとく丸」の死と再生

第八章 能・狂言に描かれた女性たち

あとがきにかえて 私が古文を好きになるまで

 古文を学ぶというとき、習っているときは著者も言っているように何もわからず、ついていけてなかったけどついていくのが精一杯だった。ただ、人よりほんの少し丸暗記するのがいやでなかったことが、のち、いろんな本を読んでいて、なじみが持てたかなという程度だった。
 20代、私の住んでいる地方の古文書の解読を公民館に習いに行くようになって、大学入試などで文法などを問うてくる古文とはいったいいつ頃のどの地域の文章を言うのだろうかと思っていた。今の時代のようにマスコミが発達していない時代、ライシャワー大使はあの分厚い日本についての著書の中で、谷谷によって言葉も違い「郷に入れば郷に従え」というほど習慣も違っていると述べていた。
 第一章ではこういう疑問にしっかり答えてくれている。「はなしことば」「かきことば」について明記することによって答えている。高校などで学ぶ古文が通用するのは、700年間くらいの「かきことば」だとしている。その間の乱れを修正するということに尽力したのが藤原定家であったということのようだ。私も、変体仮名による「源氏物語」の一部を持っているが、それが定家本であるといわれるのはそのことだったのだと今頃その本の位置づけがわかってきた。しかし、その「源氏物語」は近世の古文書を先に習っていた私から見れば近世の古文書よりはよほど読みやすいのだ。読んで意味がわかるわからないは別として変体仮名を学んでいるのでかなりすらすら読めていく。その謎もわかってきた。
 『徒然草』はいつふれても現代の消費生活がなじめない私には気持ちが落ち着く。
おもしろかったのは、第五章 『堤中納言物語』より「花桜折る中将」を読む である。
 たまたま昨日、牛蒡の千切りを作っていたとき、主人筋の80代後半のおばさんから電話があった。話は「ヨン様が来日してなんとかというホールでの催し物のDVDを注文していたのが届いたのでコピーを作って送ってあげましょう。その他ヨン様に関する本を送って差し上げましょうというものだった。私はヨン様は相当好きだが、おばさんの熱狂振りには引いてしまう。大方30歳も年の違う女性同士が、なぜ共通してヨン様に惹かれるのだろうとさらに牛蒡をきりながら考えていた。すると、この、「花桜折る中将」のなかで、
 
 ≪中将は父君のもとに参上し、たそがれの景色を眺めたり、琵琶を弾いたりしています。その様子を見た人は、「絶世の美女もこんなに美しく優雅ではあるまい」と褒め称えます。男性に対して「女みたいにきれい」というのは最大の賛辞のようです。しかも、中将の姿は光り輝いて美しい花さえ寄せ付けないというのでした。・・・・・・平安時代ではマッチョな男性であるよりも、女と見間違えるような男性がよいとされていたのです。・・・・≫
 
 飛躍するようだが、国宝で最初に選ばれた広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像も重なってくる。
 
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